翌日、美月は日勤だった。
朝、家を出る時、理久には会わなかった。
それが少しありがたくて、少しだけ気になった。
リビングの灯りは消えていて、テーブルの上には何も置かれていない。
昨夜、理久が座っていたソファも、何事もなかったように整っていた。
本当に、何もなかったみたいだった。
低い声。
近すぎる距離。
ソファの背に置かれた手。
日本酒の匂い。
好きって言ってよ。
思い出した瞬間、美月は鍵を持つ手に力を入れた。
無理。
朝から思い出す内容ではない。
今日は日勤。
仕事。
美月はそう自分に言い聞かせ、部屋を出た。
病棟に出れば、いつも通りだった。
申し送りを受け、患者の状態を確認し、点滴の時間を見て、医師の指示を確認する。
後輩に声をかけ、ナースコールに対応し、電子カルテを開く。
10Aの一日は、相変わらず慌ただしい。
考える暇がないことに、美月は少し救われていた。
病棟では、美月は綾瀬さんでいられる。
藤崎理久の恋人ではなく、10Aの看護師として立っていられる。
その方が楽だった。
少なくとも、今は。
午後、外科の医師が病棟に来た。
ナースステーションの空気が、ほんの少しだけ変わる。
誰が来たのかは、見なくても分かった。
けれど、美月は顔を上げなかった。
電子カルテの画面を見たまま、記録を続ける。
ここでは見ない。
目で追わない。
恋人になったからこそ、余計に。
病棟では、藤崎先生と綾瀬さん。
それ以上でも、それ以下でもない。
「お疲れさまです」
穏やかな声がした。
白衣の藤崎先生の声。
美月は手元の記録を一区切りつけてから、必要な分だけ顔を上げた。
「お疲れさまです」
視線は短く。
表情は変えない。
理久も、いつもの藤崎先生の顔をしていた。
誰にでも感じがよく、品があって、距離の取り方が完璧な外科医。
外科へコンサルトしている患者の処置時間の調整だった。
「午後の処置ですが、十五時半でお願いできますか。こちらが少し押していて」
「分かりました。患者さんにはこちらからお伝えしておきます」
「ありがとうございます」
たったそれだけ。
仕事の会話。
必要なことだけ。
理久はすぐに外科レジデントへ声をかけ、病棟の奥へ向かった。
美月はその背中を見なかった。
見ない。
周囲に何も残さないために。
自分の仕事を守るために。
そして、理久が守ろうとしてくれている距離を、自分も壊さないために。
美月は電子カルテの画面へ視線を戻した。
指先は、少しも止めなかった。
勤務が終わり、更衣室で着替えていると、スマートフォンが震えた。
理久からだった。
『今日、少し話せる?』
美月は画面を見つめた。
昨日のことだ。
分かっている。
避けたい。
かなり避けたい。
でも、同じ部屋に戻る以上、避け続ける方が不自然だった。
美月は少し迷ってから返信した。
『十五分以内なら』
すぐに返事が来た。
『短いな』
美月は、少しだけ口元を緩めた。
『反省は簡潔にお願いします』
少し間が空いてから、返事が来た。
『了解』
その二文字だけだった。
部屋に戻ると、リビングの灯りがついていた。
「おかえり」
理久は、昨日と同じようにそう言った。
けれど、声の温度は違った。
今日は酔っていない。
それは、玄関からでも分かった。
白いシャツに、濃い色のカーディガン。
髪も整っている。
テーブルには、空のカップが二つと、焼き菓子の皿が置かれていた。
キッチンの方から、コーヒーの香りがする。
美月は靴を脱ぎながら返した。
「……戻りました」
リビングへ入ると、理久はダイニング側に立っていた。
近すぎない。
逃げ道を塞がない。
それが分かって、美月は少しだけ肩の力を抜いた。
「コーヒー、飲む?」
「はい」
「カフェイン大丈夫?」
「今からなら、たぶん」
「じゃあ、淹れる」
理久はそう言って、キッチンへ戻った。
美月は鞄を置き、少し迷ってからダイニングの椅子に座った。
テーブルを挟む距離。
昨日よりずっと安全だった。
それでも、胸は落ち着かなかった。
しばらくして、理久がコーヒーを二つ運んできた。
美月はカップを受け取る。
温かい。
湯気が、少しだけ顔に当たる。
理久は向かいに座った。
そして、先に口を開いた。
「昨日は、ごめん」
美月はカップを持つ手を止めた。
「酔ってたから、では済ませない。嫉妬してたから、でも済ませない」
静かな声だった。
「美月を困らせた」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「……困りました」
「うん」
「驚きました」
「うん」
「でも、止まりました」
理久の目が少しだけ動く。
美月はカップを置いた。
「だから、それ以上は言いません」
「それでいいの?」
「よくはないです」
美月は正直に答えた。
「でも、先生が本当に悪いと思っているのは分かります」
理久は、少し苦笑した。
「……先生」
美月は一瞬、何のことか分からなかった。
「え?」
「いや」
理久は首を横に振った。
「今はまだいい」
「何ですか」
「あとで言う」
美月は少し眉を寄せた。
こういう言い方は、だいたい良くない。
でも今は、先に言うべきことがある。
美月は小さく息を吸った。
「私も、昨日の言い方はよくありませんでした」
理久は何も言わなかった。
「先生を、顔や雰囲気で勝手に決めつけるような言い方でした」
そこまで言って、美月は少し恥ずかしくなった。
自分で言うと、余計に最低だ。
「すみませんでした」
理久は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……少し、堪えた」
美月の胸が、きゅっと縮む。
軽く言われるより、ずっと刺さった。
「……はい」
「でも、そう感じたからって、ああいうふうに返していいわけじゃない」
理久は、まっすぐ美月を見た。
「そこは本当にごめん」
美月は頷いた。
「分かりました」
そこで、少し沈黙が落ちた。
重い沈黙ではなかった。
昨日の夜のような危うさもない。
ただ、二人とも、言葉を探している沈黙だった。
美月はコーヒーを一口飲んだ。
苦味が少し強い。
でも、香りがいい。
「おいしいです」
ぽつりと言うと、理久が少しだけ目を細めた。
「よかった」
「豆は正解です」
「豆は?」
美月は、カップで口元を隠した。
「……反省会中なので、余計なことは言いません」
理久が小さく笑った。
その笑い方に、美月は少しだけ安心した。
昨日の夜の笑い方ではない。
いつもの理久に近い。
けれど、病棟の藤崎先生よりは少し柔らかい。
理久はカップを置いた。
「じゃあ、反省会はここまで」
「十五分以内でしたか」
「たぶん」
「たぶん?」
「反省は簡潔に、って言われたから」
「守ったんですね」
「うん」
少しだけ、空気が戻った気がした。
それ以上、昨日のことを掘り返す空気ではなくなった。
けれど、なかったことにしたわけでもない。
二人の間に、少しだけ新しい距離が残った。
そのあと、二人はリビングのソファへ移動した。
テレビはついているが、音量は小さい。
内容はほとんど頭に入ってこない。
距離は近すぎない。
でも、遠くもない。
美月は膝の上にクッションを置き、何となくそれを抱えた。
理久は隣で、少しだけ頬杖をつくようにしてこちらを見る。
「ねぇ」
「はい」
「俺は、ここでも先生なの?」
美月は首を傾げた。
「ここでも、とは?」
「病院の外。家の中。二人でいる時」
理久は美月を見る。
「先生と、美月?」
美月は言葉に詰まった。
「……」
「名前で呼んでほしいんだけど」
「名前……」
「うん」
「藤崎先生、ではなく?」
「それは病院用」
理久は少し笑った。
「ここでは、理久って呼んでほしい」
美月は固まった。
来た。
いつか来るとは思っていた。
でも、来てほしくはなかった。
「……り」
「うん」
「り……」
「うん」
「……」
「惜しい」
「ハードルが高いです」
「たった二文字なのに?」
「かなり高いです」
「美月は真面目だね」
「真面目というか……病院でずっと先生と呼んでいますし」
「病院では、それでいい」
理久はあっさり言った。
「そこは変えない。むしろ、変えないでほしい」
美月は少しだけ顔を上げた。
「……はい」
「でも、ここでは違う」
理久の声が少し柔らかくなる。
「ここでは、理久って呼んでほしい」
また、逃げ道を塞ぐような言い方をする。
でも昨日とは違う。
酔っていない。
傷ついた反動でもない。
ちゃんと自分の言葉で、距離を詰めてきている。
それが分かるから、余計に困る。
美月が黙っていると、理久は少し考えるように目を細めた。
「じゃあ、条件をつけようか」
美月は嫌な予感がした。
「条件?」
「二人でいる時に先生って呼んだら、キスね」
美月は完全に止まった。
「……はい?」
「二人でいる時に、先生って呼んだら、キス」
「どうしてそうなるんですか」
「名前で呼べば解決する」
「解決の仕方が強引です」
「そう?」
理久は楽しそうに笑う。
「嫌なら理久って呼べばいい」
美月は理久を見た。
この人。
また盤面を作っている。
名前で呼べば、理久は喜ぶ。
先生と呼べば、キスの理由になる。
どちらを選んでも、理久が困ることはない。
つまり、最初から理久が勝つようにできている。
本当に。
相変わらず策士だ。
美月はクッションを抱え直した。
「……どちらを選んでも、先生が得をするだけでは?」
理久の目が、少しだけ楽しそうに緩んだ。
「気づいた?」
「気づきます」
「じゃあ、どうする?」
美月は黙った。
普通に考えれば、ここは避けるところだ。
先生と呼ばないようにする。
名前で呼べるように努力する。
理久の作った盤面の中で、できるだけ安全な方を選ぶ。
でも、それでは悔しい。
また理久の手のひらの上だ。
美月は、心臓が速くなるのを感じながら、少しだけ息を吸った。
そして、理久を見た。
「……先生」
理久の表情が、一瞬止まった。
本当に、一瞬だった。
けれど美月には分かった。
予想外だったのだ。
「今、わざと?」
低い声だった。
美月はクッションを抱えたまま、視線を逸らさなかった。
「先生が、そういう条件にしたんでしょう」
理久は黙った。
その沈黙が、妙に長く感じた。
美月の心臓がうるさい。
自分で言った。
あえて言った。
分かっていて、言った。
逃げ道を塞がれたから、逆にその道を選んだ。
理久の作った盤面を、少しだけひっくり返したかった。
でも、ひっくり返した瞬間、自分がどこに立っているのか分からなくなった。
理久が、ゆっくり笑った。
その笑みは、いつもの余裕とは少し違っていた。
驚きと、楽しさと、どうしようもなく惹かれているものが混ざっているような顔。
「本当に、敵わないな」
そう言って、理久が少し近づいた。
美月の指に、力が入る。
「美月」
名前を呼ばれて、胸が跳ねた。
「どういう意味か、分かって言った?」
「……先生が決めた条件です」
「うん」
理久の声が低くなる。
「じゃあ、約束だから」
美月は息を止めた。
理久の手が、そっとクッションに触れる。
奪うのではなく、問いかけるように。
美月は一瞬だけ迷った。
それから、抱えていたクッションを、ゆっくり手放した。
理久の目が、ほんの少し揺れた。
今度は、美月が逃げ道を消した。
リビングのテレビの音が、遠くなる。
昨日とは違う。
理久は酔っていない。
美月も、勤務を理由にはしなかった。
ただ、名前を呼ぶ代わりに。
あえて、先生と呼んだ。
理久が、静かに近づく。
「……目、閉じて」
低い声が、すぐそばで聞こえた。
美月は、息を吸う。
閉じられるわけがない。
そう思ったのに、理久の顔が近づくにつれて、自然にまぶたが震えた。
ここから先をどうしていいのか、分からない。
でも、分からないまま逃げるのは、今日は少し違う気がした。
理久が、もう一度だけ囁く。
「怖かったら、止めて」
美月は小さく首を横に振った。
理久の気配が、さらに近づいた。
そして、美月は目を閉じた。
朝、家を出る時、理久には会わなかった。
それが少しありがたくて、少しだけ気になった。
リビングの灯りは消えていて、テーブルの上には何も置かれていない。
昨夜、理久が座っていたソファも、何事もなかったように整っていた。
本当に、何もなかったみたいだった。
低い声。
近すぎる距離。
ソファの背に置かれた手。
日本酒の匂い。
好きって言ってよ。
思い出した瞬間、美月は鍵を持つ手に力を入れた。
無理。
朝から思い出す内容ではない。
今日は日勤。
仕事。
美月はそう自分に言い聞かせ、部屋を出た。
病棟に出れば、いつも通りだった。
申し送りを受け、患者の状態を確認し、点滴の時間を見て、医師の指示を確認する。
後輩に声をかけ、ナースコールに対応し、電子カルテを開く。
10Aの一日は、相変わらず慌ただしい。
考える暇がないことに、美月は少し救われていた。
病棟では、美月は綾瀬さんでいられる。
藤崎理久の恋人ではなく、10Aの看護師として立っていられる。
その方が楽だった。
少なくとも、今は。
午後、外科の医師が病棟に来た。
ナースステーションの空気が、ほんの少しだけ変わる。
誰が来たのかは、見なくても分かった。
けれど、美月は顔を上げなかった。
電子カルテの画面を見たまま、記録を続ける。
ここでは見ない。
目で追わない。
恋人になったからこそ、余計に。
病棟では、藤崎先生と綾瀬さん。
それ以上でも、それ以下でもない。
「お疲れさまです」
穏やかな声がした。
白衣の藤崎先生の声。
美月は手元の記録を一区切りつけてから、必要な分だけ顔を上げた。
「お疲れさまです」
視線は短く。
表情は変えない。
理久も、いつもの藤崎先生の顔をしていた。
誰にでも感じがよく、品があって、距離の取り方が完璧な外科医。
外科へコンサルトしている患者の処置時間の調整だった。
「午後の処置ですが、十五時半でお願いできますか。こちらが少し押していて」
「分かりました。患者さんにはこちらからお伝えしておきます」
「ありがとうございます」
たったそれだけ。
仕事の会話。
必要なことだけ。
理久はすぐに外科レジデントへ声をかけ、病棟の奥へ向かった。
美月はその背中を見なかった。
見ない。
周囲に何も残さないために。
自分の仕事を守るために。
そして、理久が守ろうとしてくれている距離を、自分も壊さないために。
美月は電子カルテの画面へ視線を戻した。
指先は、少しも止めなかった。
勤務が終わり、更衣室で着替えていると、スマートフォンが震えた。
理久からだった。
『今日、少し話せる?』
美月は画面を見つめた。
昨日のことだ。
分かっている。
避けたい。
かなり避けたい。
でも、同じ部屋に戻る以上、避け続ける方が不自然だった。
美月は少し迷ってから返信した。
『十五分以内なら』
すぐに返事が来た。
『短いな』
美月は、少しだけ口元を緩めた。
『反省は簡潔にお願いします』
少し間が空いてから、返事が来た。
『了解』
その二文字だけだった。
部屋に戻ると、リビングの灯りがついていた。
「おかえり」
理久は、昨日と同じようにそう言った。
けれど、声の温度は違った。
今日は酔っていない。
それは、玄関からでも分かった。
白いシャツに、濃い色のカーディガン。
髪も整っている。
テーブルには、空のカップが二つと、焼き菓子の皿が置かれていた。
キッチンの方から、コーヒーの香りがする。
美月は靴を脱ぎながら返した。
「……戻りました」
リビングへ入ると、理久はダイニング側に立っていた。
近すぎない。
逃げ道を塞がない。
それが分かって、美月は少しだけ肩の力を抜いた。
「コーヒー、飲む?」
「はい」
「カフェイン大丈夫?」
「今からなら、たぶん」
「じゃあ、淹れる」
理久はそう言って、キッチンへ戻った。
美月は鞄を置き、少し迷ってからダイニングの椅子に座った。
テーブルを挟む距離。
昨日よりずっと安全だった。
それでも、胸は落ち着かなかった。
しばらくして、理久がコーヒーを二つ運んできた。
美月はカップを受け取る。
温かい。
湯気が、少しだけ顔に当たる。
理久は向かいに座った。
そして、先に口を開いた。
「昨日は、ごめん」
美月はカップを持つ手を止めた。
「酔ってたから、では済ませない。嫉妬してたから、でも済ませない」
静かな声だった。
「美月を困らせた」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「……困りました」
「うん」
「驚きました」
「うん」
「でも、止まりました」
理久の目が少しだけ動く。
美月はカップを置いた。
「だから、それ以上は言いません」
「それでいいの?」
「よくはないです」
美月は正直に答えた。
「でも、先生が本当に悪いと思っているのは分かります」
理久は、少し苦笑した。
「……先生」
美月は一瞬、何のことか分からなかった。
「え?」
「いや」
理久は首を横に振った。
「今はまだいい」
「何ですか」
「あとで言う」
美月は少し眉を寄せた。
こういう言い方は、だいたい良くない。
でも今は、先に言うべきことがある。
美月は小さく息を吸った。
「私も、昨日の言い方はよくありませんでした」
理久は何も言わなかった。
「先生を、顔や雰囲気で勝手に決めつけるような言い方でした」
そこまで言って、美月は少し恥ずかしくなった。
自分で言うと、余計に最低だ。
「すみませんでした」
理久は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……少し、堪えた」
美月の胸が、きゅっと縮む。
軽く言われるより、ずっと刺さった。
「……はい」
「でも、そう感じたからって、ああいうふうに返していいわけじゃない」
理久は、まっすぐ美月を見た。
「そこは本当にごめん」
美月は頷いた。
「分かりました」
そこで、少し沈黙が落ちた。
重い沈黙ではなかった。
昨日の夜のような危うさもない。
ただ、二人とも、言葉を探している沈黙だった。
美月はコーヒーを一口飲んだ。
苦味が少し強い。
でも、香りがいい。
「おいしいです」
ぽつりと言うと、理久が少しだけ目を細めた。
「よかった」
「豆は正解です」
「豆は?」
美月は、カップで口元を隠した。
「……反省会中なので、余計なことは言いません」
理久が小さく笑った。
その笑い方に、美月は少しだけ安心した。
昨日の夜の笑い方ではない。
いつもの理久に近い。
けれど、病棟の藤崎先生よりは少し柔らかい。
理久はカップを置いた。
「じゃあ、反省会はここまで」
「十五分以内でしたか」
「たぶん」
「たぶん?」
「反省は簡潔に、って言われたから」
「守ったんですね」
「うん」
少しだけ、空気が戻った気がした。
それ以上、昨日のことを掘り返す空気ではなくなった。
けれど、なかったことにしたわけでもない。
二人の間に、少しだけ新しい距離が残った。
そのあと、二人はリビングのソファへ移動した。
テレビはついているが、音量は小さい。
内容はほとんど頭に入ってこない。
距離は近すぎない。
でも、遠くもない。
美月は膝の上にクッションを置き、何となくそれを抱えた。
理久は隣で、少しだけ頬杖をつくようにしてこちらを見る。
「ねぇ」
「はい」
「俺は、ここでも先生なの?」
美月は首を傾げた。
「ここでも、とは?」
「病院の外。家の中。二人でいる時」
理久は美月を見る。
「先生と、美月?」
美月は言葉に詰まった。
「……」
「名前で呼んでほしいんだけど」
「名前……」
「うん」
「藤崎先生、ではなく?」
「それは病院用」
理久は少し笑った。
「ここでは、理久って呼んでほしい」
美月は固まった。
来た。
いつか来るとは思っていた。
でも、来てほしくはなかった。
「……り」
「うん」
「り……」
「うん」
「……」
「惜しい」
「ハードルが高いです」
「たった二文字なのに?」
「かなり高いです」
「美月は真面目だね」
「真面目というか……病院でずっと先生と呼んでいますし」
「病院では、それでいい」
理久はあっさり言った。
「そこは変えない。むしろ、変えないでほしい」
美月は少しだけ顔を上げた。
「……はい」
「でも、ここでは違う」
理久の声が少し柔らかくなる。
「ここでは、理久って呼んでほしい」
また、逃げ道を塞ぐような言い方をする。
でも昨日とは違う。
酔っていない。
傷ついた反動でもない。
ちゃんと自分の言葉で、距離を詰めてきている。
それが分かるから、余計に困る。
美月が黙っていると、理久は少し考えるように目を細めた。
「じゃあ、条件をつけようか」
美月は嫌な予感がした。
「条件?」
「二人でいる時に先生って呼んだら、キスね」
美月は完全に止まった。
「……はい?」
「二人でいる時に、先生って呼んだら、キス」
「どうしてそうなるんですか」
「名前で呼べば解決する」
「解決の仕方が強引です」
「そう?」
理久は楽しそうに笑う。
「嫌なら理久って呼べばいい」
美月は理久を見た。
この人。
また盤面を作っている。
名前で呼べば、理久は喜ぶ。
先生と呼べば、キスの理由になる。
どちらを選んでも、理久が困ることはない。
つまり、最初から理久が勝つようにできている。
本当に。
相変わらず策士だ。
美月はクッションを抱え直した。
「……どちらを選んでも、先生が得をするだけでは?」
理久の目が、少しだけ楽しそうに緩んだ。
「気づいた?」
「気づきます」
「じゃあ、どうする?」
美月は黙った。
普通に考えれば、ここは避けるところだ。
先生と呼ばないようにする。
名前で呼べるように努力する。
理久の作った盤面の中で、できるだけ安全な方を選ぶ。
でも、それでは悔しい。
また理久の手のひらの上だ。
美月は、心臓が速くなるのを感じながら、少しだけ息を吸った。
そして、理久を見た。
「……先生」
理久の表情が、一瞬止まった。
本当に、一瞬だった。
けれど美月には分かった。
予想外だったのだ。
「今、わざと?」
低い声だった。
美月はクッションを抱えたまま、視線を逸らさなかった。
「先生が、そういう条件にしたんでしょう」
理久は黙った。
その沈黙が、妙に長く感じた。
美月の心臓がうるさい。
自分で言った。
あえて言った。
分かっていて、言った。
逃げ道を塞がれたから、逆にその道を選んだ。
理久の作った盤面を、少しだけひっくり返したかった。
でも、ひっくり返した瞬間、自分がどこに立っているのか分からなくなった。
理久が、ゆっくり笑った。
その笑みは、いつもの余裕とは少し違っていた。
驚きと、楽しさと、どうしようもなく惹かれているものが混ざっているような顔。
「本当に、敵わないな」
そう言って、理久が少し近づいた。
美月の指に、力が入る。
「美月」
名前を呼ばれて、胸が跳ねた。
「どういう意味か、分かって言った?」
「……先生が決めた条件です」
「うん」
理久の声が低くなる。
「じゃあ、約束だから」
美月は息を止めた。
理久の手が、そっとクッションに触れる。
奪うのではなく、問いかけるように。
美月は一瞬だけ迷った。
それから、抱えていたクッションを、ゆっくり手放した。
理久の目が、ほんの少し揺れた。
今度は、美月が逃げ道を消した。
リビングのテレビの音が、遠くなる。
昨日とは違う。
理久は酔っていない。
美月も、勤務を理由にはしなかった。
ただ、名前を呼ぶ代わりに。
あえて、先生と呼んだ。
理久が、静かに近づく。
「……目、閉じて」
低い声が、すぐそばで聞こえた。
美月は、息を吸う。
閉じられるわけがない。
そう思ったのに、理久の顔が近づくにつれて、自然にまぶたが震えた。
ここから先をどうしていいのか、分からない。
でも、分からないまま逃げるのは、今日は少し違う気がした。
理久が、もう一度だけ囁く。
「怖かったら、止めて」
美月は小さく首を横に振った。
理久の気配が、さらに近づいた。
そして、美月は目を閉じた。
