光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

美月が理久のマンションに戻ったのは、日付が変わる少し前だった。

外科レジデントたちとの飲み会は、思っていたより長引いた。

後輩たちは楽しそうだった。

それならよかったと思う。

美月は先輩として同席しただけだ。

危なそうなら話を切る。

後輩が困っていたら助ける。

必要なら、及川くんに場を押しつける。

そのつもりでいた。

実際、及川はうまく場を回していた。

軽い。

うるさい。

余計なことも言う。

けれど、屋形船の夜以降、以前のように不用意に距離を詰めることはなかった。

及川なりに線を引いている。

それが分かったから、美月もいつも通りに返した。

いつも通り。

それが一番安全だから。

玄関の鍵を開ける。

室内は静かだった。

けれど、リビングの灯りがついている。

「……先生?」

声をかけると、少し遅れて返事があった。

「おかえり」

美月は一瞬、足を止めた。

おかえり。

その言葉には、まだ少し慣れない。

ここは理久のマンションだ。

美月は避難の延長でここにいる。

恋人にはなった。

でも、ここを自分の家と言い切るには、まだ少し距離がある。

それなのに理久は、自然に言った。

おかえり、と。

美月は靴を脱ぎながら、小さく返した。

「……戻りました」

リビングへ入ると、理久はソファに座っていた。

外出してきたままのシャツ姿だった。

ジャケットは背もたれに掛けられ、首元のボタンがひとつ外れている。

髪も少し乱れていた。

テーブルには、水の入ったグラス。

その横に、スマートフォン。

帰ってから、あまり動いていないように見えた。

理久は、いつものように整っている。

でも、少しだけ違った。

目元がいつもより柔らかい。

声も低い。

近づくと、微かに日本酒の匂いがした。

美月は眉を寄せた。

「飲んできたんですか」

「少し」

「少し、ですか」

「途中で桐谷に止められた」

美月は鞄を置いた。

「桐谷先生と?」

「うん」

「珍しいですね。日本酒」

「桐谷にも言われた」

「でしょうね」

美月はキッチンへ行き、水をもう一杯入れようとした。

その背中に、理久の声が落ちる。

「同じ店にいた」

美月の手が止まった。

「……同じ店に?」

理久は、ソファに座ったまま頷いた。

顔は穏やかだ。

けれど、目が少しだけ違う。

「声をかけてくれればよかったのに」

言ってから、美月はすぐに、違う、と思った。

声をかけられても困った。

後輩もいた。

外科レジデントもいた。

及川もいた。

そこで理久が現れたら、それこそ不自然になる。

理久は小さく笑った。

「困るでしょ」

「……それは、そうですけど」

「だから、声はかけなかった」

その言い方に、少しだけ引っかかった。

穏やかな声なのに、どこか冷えている。

美月は水の入ったグラスを持って戻った。

「水、飲んでください」

「飲んでる」

「追加です」

「看護師だ」

「通常運転です」

理久は受け取って、素直に水を飲んだ。

酔っている。

ひどく酔っているわけではない。

話も通じるし、座り方も崩れていない。

でも、普段より少しだけ感情が表に近い。

美月はソファの少し離れた位置に座った。

「楽しかった?」

理久が聞いた。

「飲み会ですか?」

「うん」

「後輩たちは、楽しそうでした」

「美月は?」

「私は付き添いです」

「及川もいた」

その名前が出た瞬間、美月は理久を見た。

理久はグラスの水面を見ている。

「及川くんは、場を回していただけです」

「知ってる」

「……本当に?」

「知ってるよ」

知っている。

そう言う声が、少し低かった。

美月は、何かを間違えそうな気がした。

このまま触れない方がいい。

そう思ったのに、落ち着かなさをごまかすように、軽く言ってしまった。

「先生こそ、同じ店にいたなら、相変わらず目立っていたでしょうね」

理久が顔を上げる。

「俺が?」

「はい。酔っていても、そういう雰囲気は消えませんし」

「そういう雰囲気?」

「……色気、というか」

言った瞬間、少し後悔した。

でも、止まらなかった。

「先生は、そういうのも慣れていそうなので」

空気が変わった。

本当に、一瞬だった。

理久の目から、いつもの柔らかさが引いた。

怒ったわけではない。

ただ、温度が消えた。

美月は、そこで初めて、自分が何かを踏んだのだと気づいた。

「……先生?」

理久は静かに言った。

「綾瀬さんも、そう見るんだ」

その呼び方に、美月は一瞬、息を止めた。

美月、ではない。

綾瀬さん。

病院で呼ばれる名前。

距離を置かれた時の名前。

理久の声は静かなのに、その静けさの方が怖かった。

「違います」

「顔とか、雰囲気とか、慣れてるとか」

理久は立ち上がらなかった。

けれど、ソファの上で身体の向きを変え、美月の方へ少しだけ距離を詰めた。

「俺も、君にはそう見えるんだ」

「今のは、そういう意味じゃ」

「同じ家にいて」

理久の声が、少し低くなる。

「俺が何もしてないの、分かってるよね」

美月は息を止めた。

その言葉の意味を、考えたくなかった。

考えたくないのに、分かってしまう。

理久は、何もしていない。

本当に、何もしていない。

その事実が、急に別の重さを持った。

理久の片手が、美月の肩の少し後ろ、ソファの背もたれに置かれる。

触れてはいない。

でも、近い。

近すぎる。

逃げられないわけではない。

立とうと思えば、立てる。

それなのに、理久の声と視線が近くて、すぐには動けなかった。

日本酒の匂いが、微かにした。

「分かっています」

「分かってて、そう言うんだ」

理久は笑った。

けれど、それは美月の知っている笑い方ではなかった。

少しだけ投げやりで、少しだけ冷たくて。

知らない男の人みたいだった。

「色気があるって言うなら」

理久の目が、少しだけ冷えた。

「慣れていそうだって、そう思うなら」

低い声が落ちる。

「俺も、君が思う通りの男みたいに振る舞えばいい?」

美月の指先が、ソファの端を掴んだ。

理久は触れていない。

触れていないのに、距離だけが近い。

「綾瀬さんも、そういう目で見てるんでしょ」

「違います」

「じゃあ、どう見てるの」

「先生」

「好きって言ってよ」

その声だけ、少し揺れた。

胸の奥が、ぎゅっと縮む。

怒っているのではない。

煽っている。

でも、それだけではない。

美月は、そこでようやく分かった。

自分は、踏んだのだ。

踏んではいけないところを、軽い言葉で踏んだ。

「先生」

理久は、答えない。

距離が近い。

近すぎる。

このまま少しでも動けば、触れてしまう。

美月は息を吸った。

心臓がうるさい。

でも、ここで流されたら駄目だと思った。

理久が酔っているからではない。

自分が、何も分からないまま、この空気だけに持っていかれそうだったから。

「……勤務」

理久の目が、わずかに動いた。

「……勤務?」

「明日、勤務です」

一瞬、空気が止まった。

理久が瞬きをする。

「……そこで勤務?」

何かおかしなことを言ったのだろうか。

美月は一拍遅れて、自分がこの状況でかなり現実的なことを口にしたのだと気づいた。

一気に恥ずかしくなる。

「……笑うところですか」

「いや、ごめん」

理久は片手で口元を押さえた。

肩が小さく揺れている。

さっきまでの危うい空気が、少しずつほどけていく。

「ごめん、ごめん」

「笑いすぎでは?」

「だって、美月が」

「私が何ですか」

「ほんとに美月だなと思って」

そう言われて、美月は急に気まずくなった。

心臓はまだ速い。

頬も熱い。

拒んだのか。

拒んでいないのか。

色気にやられたのか。

やられていないのか。

自分でも、もうよく分からなかった。

ただ、理久の顔が少しだけ戻ったことに、ほっとしていた。

理久はソファの背から手を離し、少しだけ身体を戻した。

たったそれだけで、息ができるようになる。

美月は視線を落とした。

「嫌な思いをさせたのなら、すみません」

理久の笑いが、少しだけ止まる。

美月は続けた。

「さっきの言い方は、よくありませんでした」

「……俺も悪い」

「はい。今の先生もよくありません」

「そこは否定しないんだ」

「しません」

理久はまた少し笑った。

今度は、さっきよりいつもの理久に近かった。

それから、ゆっくり元の位置へ座り直す。

美月はテーブルの水を理久の方へ押した。

「酔っているなら、お水を飲んで、早く寝てください」

「うん」

「スマートフォンも見ないでください」

「監視されてる」

「酔った人は信用できません」

「本日の評価?」

「はい」

「厳しいな」

「通常運転です」

理久は水を飲んだ。

美月はその姿を見て、少しだけ落ち着く。

立ち上がろうとした、その時だった。

「でも」

理久が言った。

美月は動きを止める。

「明日勤務じゃなかったら、どうなったの?」

美月は固まった。

「そ、それは」

理久の目元が、少し楽しそうに緩む。

「そこは答えないんだ」

「そこは突っ込むところじゃないです」

「うん」

「うん、じゃありません」

「じゃあ、聞かなかったことにする」

「してください」

美月は急いで立ち上がった。

理久がまた笑う。

今度は、いつもの理久にかなり近い笑い方だった。

腹立たしい。

でも、ほっとする。

「おやすみ、美月」

ニコリと笑顔を向けられた。

ずるい。

さっきまであんな空気にしておいて、最後にそんな顔をするなんて、本当にずるい。

美月は、少しだけ目を逸らした。

「……おやすみなさい」

それだけ言って、逃げるようにリビングを出た。

寝室に入ってドアを閉める。

背中をドアにつけた瞬間、心臓の音が一気に大きくなった。

危なかった。

何が危なかったのか、うまく言えない。

理久が何かをすると思ったわけではない。

でも、いつもの理久ではなかった。

美月の知らない理久が、確かにそこにいた。

綺麗で。

危うくて。

こちらの逃げ道を塞ぐことを知っている男の人。

それでも、最後の線は越えない男の人。

美月は、自分の言葉がそこに触れてしまったことを、ようやく実感した。

「……最悪」

小さく呟いて、顔を両手で覆う。

色気があるなどと言うべきではなかった。

慣れていそう、なんて言うべきではなかった。

でも。

色気がないとも、思っていない。

美月は、さらに顔を熱くした。

本当に、最悪だ。

明日が勤務でよかった。

たぶん、本当に。

* * *

リビングに残された理久は、しばらく閉じた扉を見ていた。

それから、ゆっくり息を吐く。

「……敵わないな」

小さく呟いて、額に手を当てた。

美月は、やっぱり今までの誰とも違った。

こちらが作った空気に、都合よく流されない。

酔った男を前にして、勤務を理由に線を引く。

謝るところは謝る。

止めるところは止める。

それなのに最後に、答えは置いていかない。

明日勤務じゃなかったら、どうなったのか。

きっと美月自身にも分かっていない。

そこが、美月だった。

理久は低く笑った。

自嘲もある。

拍子抜けもある。

でも、それ以上に、救われた気がした。

自分は、たぶんかなり危なかった。

美月にまで、顔や雰囲気だけで慣れている男のように見られた気がして。

酔っていた。

だから、普段なら笑って流せたはずの言葉に引っかかった。

勝手に傷ついて。

見せたくない顔で、煽った。

最低だ。

本当は、触れたかった。

もっと近づきたかった。

及川の名前に反応した自分を、美月に分からせたかった。

それでも、美月は止めた。

拒絶ではなく。

説教でもなく。

ただ、まっすぐ線を引いてくれた。

その線に、理久は救われた。

理久は水を飲み干した。

今日はもう、何もしない。

余計なことをしない。

ただ、寝る。

その前に一度だけ、寝室の扉の方を見る。

本当に、敵わない。

美月は、甘やかしてくれない。

流されてもくれない。

都合よく慰めてもくれない。

だから、欲しくなる。

だから、危ない。

だから、ちゃんと止まらないといけない。

理久は空になったグラスをテーブルに置いた。

それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。