光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

屋形船の親睦会から、数日後。

屋形船の件を、わざわざこちらから持ち出すつもりはなかった。

けれど、桐谷から「少し飲むか」とだけ連絡が来ていた。

呼び出された店は、病院から少し離れた場所にあった。

個室というほどではないが、席ごとに低い仕切りがあり、通路からは奥の席が一部だけ見える造りだった。

店に入った時、奥の席が少し賑やかなのは分かった。

若い看護師らしい声と、医師たちの笑い声。

病院から少し離れているとはいえ、大学病院の職員が使う店は、どうしても限られる。

知った顔がいてもおかしくはない。

理久は一瞬だけ、そちらを見た。

低い仕切りの向こうに、10Aの若い看護師たちと、外科レジデントが数人。

その中に、見慣れた後ろ姿があった。

髪は仕事中より柔らかく下ろされている。

横顔までは、まだはっきり見えない。

美月は、こちらに気づいていなかった。

それでいい。

気づかれない方がいい。

そう思って、理久はすぐに視線を戻した。

病院の外とはいえ、職場関係者のいる場だ。

ここでは、美月は10Aの看護師で、理久は外科の藤崎先生。

少なくとも、周囲にとっては。

少し離れた席で、桐谷が軽く手を上げた。

名前は呼ばなかった。

理久も、声を返さずにそちらへ向かう。

「遅かったな」

席に着くなり、桐谷が小さく言った。

「呼んだの、そっちでしょ」

「呼んだけど、そんな顔で来いとは言ってない」

「どんな顔」

「見なかったことにした顔」

理久は返事をしなかった。

桐谷は、そういう沈黙を見逃さない。

店員が来る。

桐谷がビールを頼んだので、理久も同じものにした。

普段通り。

最初から崩れるつもりはない。

翌日の予定もある。

飲みすぎるつもりもない。

場に合わせて、適度に。

それくらいは、いつもできる。

料理をいくつか頼み、二人はしばらく仕事の話をした。

病棟の患者の状態。

外科へ相談が回っていた症例の経過。

最近、10Aとの連携で出た細かい確認事項。

桐谷は相変わらず口は悪いが、見るところは見ている。

「この前の件、外科の返事、早かったな」

桐谷が小鉢を取りながら言った。

「珍しく褒めるね」

「褒めてるわけじゃない。助かったと言ってる」

「それを褒めてるって言うんじゃないの」

「調子に乗るな」

理久は少し笑った。

ビールを一口飲む。

冷えた苦みは、いつも通りだった。

店の中は適度に騒がしく、低い仕切りの向こうの会話も、はっきり聞こうとしなければただのざわめきに紛れる。

桐谷はビールを置き、奥の席の方へ一瞬だけ視線を流した。

「今日は、あっちも若いのが多いな」

理久は見なかった。

「みたいだね」

「10Aの若い子たちと、外科のレジデントか」

「知ってるの?」

「何人かはな。病棟で顔を見る」

桐谷は淡々と言った。

「及川もいるだろ」

理久はグラスを置いた。

「見えた?」

「見えた。というか、声で分かる」

「うるさいから?」

「うるさいから」

桐谷は少し笑った。

「場を回すのはうまい。余計なことも言うがな」

「半分褒めてる?」

「半分は」

「残り半分は?」

「調子に乗る」

「だろうね」

奥の席から笑い声が聞こえた。

理久は見なかった。

見ないようにした。

けれど、声は届く。

若い看護師の声。

レジデントの笑い声。

その中に、落ち着いた美月の声が混じった。

「それは確認不足です」

少し笑いが起きる。

そこに、及川の声が重なった。

「あー、出た。綾瀬の正論」

「正論ではなく事実です」

「その言い方がもう正論なんだよ」

周囲がまた笑う。

理久はグラスを持つ手を止めた。

及川。

その名前が、胸の奥で少しだけ引っかかる。

屋形船の夜。

触れるなよ。

自分が言ってしまった声。

あの場では、後輩医師の悪ノリを止めた言葉として収まった。

収めた。

桐谷も、空気を戻してくれた。

けれど、及川は気づいた。

たぶん、美月も分かっていた。

それなのに、今も奥の席では、いつもの距離で会話が続いている。

及川は美月を「綾瀬」と呼ぶ。

美月は及川を「及川くん」と呼ぶ。

病棟では、及川先生。

けれど、こういう場では、及川くん。

その切り替えがあることも、理久には分かっている。

分かっているからこそ、面白くなかった。

それは昔からの距離なのだろう。

理久が入り込む前からある距離。

美月が新人だった頃から、少しずつできた距離。

頭では分かっている。

美月は理久の恋人だ。

でも、それだけではない。

10Aの看護師で、後輩の先輩で、及川とは新人時代からの戦友で、病棟の人たちと関係を積み上げてきた人だ。

その全部が美月だ。

分かっている。

分かっているのに。

面白くない。

本当に、自分でも面倒だと思う。

桐谷が、横から理久を見る。

「見るなよ」

「見てない」

「聞いてる顔してる」

「耳は塞げない」

「面倒だな」

「自覚はある」

「あるならまだましだ」

桐谷はビールを飲んだ。

理久もグラスを傾ける。

ビールの苦みは、いつも通りだった。

それなのに、喉の奥に残るものがある。

奥の席から、また及川の声がした。

「だから、すぐ刺すなって」

「刺してません」

「刺してる。新人の時からそのまま」

新人の時。

その言葉に、理久の指が止まった。

桐谷は、その反応を見逃さなかった。

「綾瀬、あれでも丸くなった方だぞ」

理久は、ゆっくり桐谷を見た。

「知ってるの?」

「そりゃ知ってる。俺も、あいつが新人の頃から10Aには出入りしてたからな」

桐谷はグラスを置いた。

「今よりもう少し尖ってた。正しいんだけど、正しすぎる。必要な確認なんだけど、逃げ道がない」

理久は黙って聞いていた。

「及川が刺されたって言うのも、半分は本当だろうな」

「……そう」

「でも、悪い意味じゃない」

桐谷の声は淡々としていた。

「綾瀬は、最初から患者を見る目は良かった。周りに流されないし、必要なことは言う。ただ、不器用だっただけだ」

理久は奥の席を見なかった。

見なかったけれど、美月の声だけは届いている。

「今も不器用だけどな」

桐谷は少し笑った。

その言い方には、昔から知っている人間の距離があった。

理久の知らない時間を、桐谷も知っている。

その事実が、さらに面白くなかった。

料理は進んでいた。

ビールも一杯目ではない。

酔っているというほどではない。

けれど、いつもより、感情が少しだけ近いところにある。

理久はメニューを手に取った。

「日本酒、ある?」

桐谷の眉が動く。

「今から?」

「料理に合いそうだから」

「さっきからそればっかりだな。まだ刺身も来てないぞ」

「来るでしょ」

「その顔で日本酒はやめろ」

「どんな顔」

「嫉妬してる顔」

理久は返事をしなかった。

桐谷はため息をついた。

「一杯だけにしろ」

「分かってる」

「分かってる奴は、その流れで日本酒を追加しない」

それでも理久は、店員を呼んだ。

運ばれてきた日本酒は、透明な器の中で静かに光っていた。

理久はそれを一口飲む。

喉を通る熱が、思ったよりはっきり残った。

ビールのあとだからか。

それとも、今の自分がそういう状態だからか。

分からない。

ただ、熱だけが残った。

桐谷が横目で見る。

「ペース考えろよ」

「分かってる」

「その分かってるが、一番信用できない」

理久はグラスを置いた。

「診断が雑」

「雑で結構」

桐谷の声は、少しだけ低くなった。

「嫉妬するなとは言わない」

理久は顔を上げた。

「ただ、それを綾瀬の職場に持ち込むな」

理久は黙った。

「お前は外科の助教で、あいつは10Aの看護師だ。お前が少しでも特別な顔をすれば、周りはお前じゃなくて綾瀬を見る」

桐谷はグラスを置いた。

「藤崎先生に何かされた、じゃなくて、綾瀬さんが藤崎先生と何かあるらしい、になる」

その言葉は、静かに刺さった。

理久は奥の席を見なかった。

見なくても、美月のいる位置は分かっていた。

「屋形船の時は、まだ及川の悪ノリを止めた側で済んだ。そう見えたからな」

桐谷は続ける。

「でも、次は分からない」

「……分かってる」

「本当に?」

理久は答えなかった。

言えば言うほど、嘘みたいになる気がした。

桐谷は少しだけ息を吐いた。

「お前が本気なのは分かるよ」

理久は、そこで初めて桐谷を見た。

「だから言ってる」

桐谷の声は軽くなかった。

「本気なら、大事にしろ」

理久は、グラスに添えた指を止めた。

「大事にするって、甘やかすことでも、囲い込むことでも、嫉妬した相手から遠ざけることでもないぞ」

桐谷は、奥の席へ一瞬だけ視線を向けた。

「綾瀬には綾瀬の場所がある。先輩として、看護師として、病棟で積み上げてきた場所がある」

理久は黙って聞いていた。

「お前が隣に立つなら、その場所ごと大事にしろ」

日本酒の熱より、その言葉の方が重かった。

「触れるなよ、って言いたくなる気持ちは分かる。でも、その一言で一番困るのは、及川じゃなくて綾瀬だ」

理久は、ゆっくり息を吐いた。

分かっている。

分かっていたはずだった。

けれど、桐谷に言葉にされると、逃げ場がなかった。

及川に嫉妬している。

それだけなら、まだ分かりやすかった。

でも本当は、それだけではない。

及川が美月を「綾瀬」と呼ぶこと。

美月が及川を「及川くん」と呼ぶこと。

後輩たちが美月を頼ること。

看護師たちが、美月の新人時代を知っていること。

桐谷が、美月の尖っていた頃を知っていること。

その全部が、面白くない。

自分が知らない美月を、周囲が当然のように知っている。

そのことに嫉妬している。

本当に、面倒な男だ。

理久はグラスの中の日本酒を見た。

「綾瀬は、お前の恋人なんだろ」

桐谷が言った。

「でも、それだけじゃない。10Aの看護師で、後輩の先輩で、病棟に必要な人間だ」

その言葉は、淡々としていた。

だからこそ、刺さる。

「お前が好きになったのは、そういう綾瀬だろ」

理久は何も言えなかった。

その通りだった。

病棟で、患者の状態を見落とさない美月。

自分に対しても、必要なことは言う美月。

逃げようとしながら、それでも自分で戻ると決めた美月。

好きと言わされて怒りながらも、ちゃんと自分の言葉で向き合った美月。

理久は、そういう美月を好きになった。

誰かの後ろに隠れる人ではない。

誰かの所有物になる人でもない。

自分の足で立っている人だ。

だからこそ、隣にいてほしいと思った。

なのに。

その場所を、自分の感情で揺らしてどうする。

「……分かってる」

今度の声は、さっきより低かった。

桐谷は理久を見る。

「じゃあ、飲むのはここまで」

理久は少しだけ眉を寄せる。

「そこにつながる?」

「つながる」

桐谷は水のグラスを理久の前に押し出した。

「酔った勢いで連絡するな。呼び出すな。会いに行くな。面倒な男になるな」

理久は小さく笑った。

「もうなってる気がする」

「自覚があるなら止まれる」

桐谷は、短く言った。

「水飲め」

理久はしばらく黙っていた。

それから、日本酒ではなく、水のグラスを取った。

冷たい水が喉を通る。

酒の熱が少しだけ薄まった。

奥の席では、まだ会話が続いている。

外科レジデントの一人が何かを言い、若い看護師が笑う。

及川が場をつなぐ。

美月が、後輩に小さく声をかける。

「大丈夫?」

後輩が頷く。

美月はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。

その顔を、理久は見てしまった。

病棟の先輩の顔。

後輩を見守る顔。

恋人としての美月とは、違う顔。

でも、それも美月だった。

理久の知らない時間の中で、美月が積み上げてきた顔だった。

理久は、水のグラスを置いた。

「……悔しいな」

桐谷が少しだけ目を細める。

「何が」

「俺の知らない綾瀬さんを、みんな普通に知ってる」

言ってから、理久は自分で少し笑った。

美月、と呼びたい相手のはずなのに。

今、奥の席にいるのは、病棟の中で時間を積み上げてきた綾瀬さんだった。

桐谷は笑わなかった。

「そりゃそうだろ」

「もう少し慰めるとかないの」

「ない」

桐谷はあっさり言った。

「あいつは、お前に会う前からあそこで働いてる。お前の知らない時間があるのは当たり前だ」

「分かってる」

「その当たり前に嫉妬するくらい本気なら」

桐谷は少しだけ声を落とした。

「これから知ればいい」

理久は黙った。

「ただし、綾瀬の場所を壊さない形でな」

その言葉で、結局そこに戻る。

でも、戻るべきところはそこなのだと思った。

美月を知りたい。

もっと近づきたい。

自分だけに見せる顔を増やしたい。

そう思う。

けれど、そのために美月が立っている場所を壊したら、本末転倒だ。

理久は、もう一度水を飲んだ。

「帰る」

桐谷が少しだけ眉を上げる。

「正解」

「言い方」

「褒めてる」

「褒め方が雑」

「雑でも帰れ」

理久は小さく笑い、会計を済ませるために立ち上がった。

量を飲んだわけではない。

けれど、飲み慣れない日本酒の熱が、思ったより身体に残っている。

たぶん、酒だけのせいではない。

奥の席はまだ賑やかだった。

美月には気づかれない。

その方がいい。

今日ここに来たことも、できれば知られない方がいい。

理久はそのまま店を出た。

外の空気は冷たかった。

店の中から、まだ笑い声が聞こえる。

その中に、美月の声が混じっているのかもしれない。

理久は、聞き分けようとする自分を止めた。

スマートフォンを出す。

美月の名前を表示しかけて、すぐに閉じた。

連絡しない。

呼び出さない。

気づかせない。

嫉妬したからといって、彼女を巻き込まない。

そう決める。

数分後、タクシーが止まった。

乗り込む直前、桐谷からメッセージが入った。

『水飲め。余計なことするな。
本気なら大事にしろ』

理久はしばらく画面を見ていた。

それから、短く返す。

『分かってる』

送ってから、少しだけ苦笑した。

また言っている。

本当に分かっているのか。

自分でも、少し怪しい。

タクシーが走り出す。

窓の外に、夜の街の灯りが流れていく。

理久は背もたれに身体を預けた。

余裕のある外科医でもない。

王子でもない。

何でもない。

好きな相手に嫉妬して、日本酒を飲みすぎかけた、面倒な男。

それが今夜の自分だった。

「……最悪だな」

小さく呟いた声は、夜の車内に消えた。

それでも、ひとつだけはっきりしている。

美月を大事にしたい。

ただ、好きだと言うだけではなく。

抱きしめたいとか、独占したいとか、隣に置きたいとか。

そういう自分の欲より先に。

美月が美月のまま立っていられる場所を、壊さないこと。

桐谷に言われた言葉が、何度も胸の奥で重く響く。

本気なら、大事にしろ。

理久は目を閉じた。

美月には連絡しない。

今日はこのまま帰って、水を飲んで、寝る。

余計なことはしない。

それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。

そう決めた。

けれど、嫉妬は水を飲めば消えるものではない。

その当たり前を、理久はまだ少し、軽く見ていた。