屋形船の親睦会から、数日後。
屋形船の件を、わざわざこちらから持ち出すつもりはなかった。
けれど、桐谷から「少し飲むか」とだけ連絡が来ていた。
呼び出された店は、病院から少し離れた場所にあった。
個室というほどではないが、席ごとに低い仕切りがあり、通路からは奥の席が一部だけ見える造りだった。
店に入った時、奥の席が少し賑やかなのは分かった。
若い看護師らしい声と、医師たちの笑い声。
病院から少し離れているとはいえ、大学病院の職員が使う店は、どうしても限られる。
知った顔がいてもおかしくはない。
理久は一瞬だけ、そちらを見た。
低い仕切りの向こうに、10Aの若い看護師たちと、外科レジデントが数人。
その中に、見慣れた後ろ姿があった。
髪は仕事中より柔らかく下ろされている。
横顔までは、まだはっきり見えない。
美月は、こちらに気づいていなかった。
それでいい。
気づかれない方がいい。
そう思って、理久はすぐに視線を戻した。
病院の外とはいえ、職場関係者のいる場だ。
ここでは、美月は10Aの看護師で、理久は外科の藤崎先生。
少なくとも、周囲にとっては。
少し離れた席で、桐谷が軽く手を上げた。
名前は呼ばなかった。
理久も、声を返さずにそちらへ向かう。
「遅かったな」
席に着くなり、桐谷が小さく言った。
「呼んだの、そっちでしょ」
「呼んだけど、そんな顔で来いとは言ってない」
「どんな顔」
「見なかったことにした顔」
理久は返事をしなかった。
桐谷は、そういう沈黙を見逃さない。
店員が来る。
桐谷がビールを頼んだので、理久も同じものにした。
普段通り。
最初から崩れるつもりはない。
翌日の予定もある。
飲みすぎるつもりもない。
場に合わせて、適度に。
それくらいは、いつもできる。
料理をいくつか頼み、二人はしばらく仕事の話をした。
病棟の患者の状態。
外科へ相談が回っていた症例の経過。
最近、10Aとの連携で出た細かい確認事項。
桐谷は相変わらず口は悪いが、見るところは見ている。
「この前の件、外科の返事、早かったな」
桐谷が小鉢を取りながら言った。
「珍しく褒めるね」
「褒めてるわけじゃない。助かったと言ってる」
「それを褒めてるって言うんじゃないの」
「調子に乗るな」
理久は少し笑った。
ビールを一口飲む。
冷えた苦みは、いつも通りだった。
店の中は適度に騒がしく、低い仕切りの向こうの会話も、はっきり聞こうとしなければただのざわめきに紛れる。
桐谷はビールを置き、奥の席の方へ一瞬だけ視線を流した。
「今日は、あっちも若いのが多いな」
理久は見なかった。
「みたいだね」
「10Aの若い子たちと、外科のレジデントか」
「知ってるの?」
「何人かはな。病棟で顔を見る」
桐谷は淡々と言った。
「及川もいるだろ」
理久はグラスを置いた。
「見えた?」
「見えた。というか、声で分かる」
「うるさいから?」
「うるさいから」
桐谷は少し笑った。
「場を回すのはうまい。余計なことも言うがな」
「半分褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「調子に乗る」
「だろうね」
奥の席から笑い声が聞こえた。
理久は見なかった。
見ないようにした。
けれど、声は届く。
若い看護師の声。
レジデントの笑い声。
その中に、落ち着いた美月の声が混じった。
「それは確認不足です」
少し笑いが起きる。
そこに、及川の声が重なった。
「あー、出た。綾瀬の正論」
「正論ではなく事実です」
「その言い方がもう正論なんだよ」
周囲がまた笑う。
理久はグラスを持つ手を止めた。
及川。
その名前が、胸の奥で少しだけ引っかかる。
屋形船の夜。
触れるなよ。
自分が言ってしまった声。
あの場では、後輩医師の悪ノリを止めた言葉として収まった。
収めた。
桐谷も、空気を戻してくれた。
けれど、及川は気づいた。
たぶん、美月も分かっていた。
それなのに、今も奥の席では、いつもの距離で会話が続いている。
及川は美月を「綾瀬」と呼ぶ。
美月は及川を「及川くん」と呼ぶ。
病棟では、及川先生。
けれど、こういう場では、及川くん。
その切り替えがあることも、理久には分かっている。
分かっているからこそ、面白くなかった。
それは昔からの距離なのだろう。
理久が入り込む前からある距離。
美月が新人だった頃から、少しずつできた距離。
頭では分かっている。
美月は理久の恋人だ。
でも、それだけではない。
10Aの看護師で、後輩の先輩で、及川とは新人時代からの戦友で、病棟の人たちと関係を積み上げてきた人だ。
その全部が美月だ。
分かっている。
分かっているのに。
面白くない。
本当に、自分でも面倒だと思う。
桐谷が、横から理久を見る。
「見るなよ」
「見てない」
「聞いてる顔してる」
「耳は塞げない」
「面倒だな」
「自覚はある」
「あるならまだましだ」
桐谷はビールを飲んだ。
理久もグラスを傾ける。
ビールの苦みは、いつも通りだった。
それなのに、喉の奥に残るものがある。
奥の席から、また及川の声がした。
「だから、すぐ刺すなって」
「刺してません」
「刺してる。新人の時からそのまま」
新人の時。
その言葉に、理久の指が止まった。
桐谷は、その反応を見逃さなかった。
「綾瀬、あれでも丸くなった方だぞ」
理久は、ゆっくり桐谷を見た。
「知ってるの?」
「そりゃ知ってる。俺も、あいつが新人の頃から10Aには出入りしてたからな」
桐谷はグラスを置いた。
「今よりもう少し尖ってた。正しいんだけど、正しすぎる。必要な確認なんだけど、逃げ道がない」
理久は黙って聞いていた。
「及川が刺されたって言うのも、半分は本当だろうな」
「……そう」
「でも、悪い意味じゃない」
桐谷の声は淡々としていた。
「綾瀬は、最初から患者を見る目は良かった。周りに流されないし、必要なことは言う。ただ、不器用だっただけだ」
理久は奥の席を見なかった。
見なかったけれど、美月の声だけは届いている。
「今も不器用だけどな」
桐谷は少し笑った。
その言い方には、昔から知っている人間の距離があった。
理久の知らない時間を、桐谷も知っている。
その事実が、さらに面白くなかった。
料理は進んでいた。
ビールも一杯目ではない。
酔っているというほどではない。
けれど、いつもより、感情が少しだけ近いところにある。
理久はメニューを手に取った。
「日本酒、ある?」
桐谷の眉が動く。
「今から?」
「料理に合いそうだから」
「さっきからそればっかりだな。まだ刺身も来てないぞ」
「来るでしょ」
「その顔で日本酒はやめろ」
「どんな顔」
「嫉妬してる顔」
理久は返事をしなかった。
桐谷はため息をついた。
「一杯だけにしろ」
「分かってる」
「分かってる奴は、その流れで日本酒を追加しない」
それでも理久は、店員を呼んだ。
運ばれてきた日本酒は、透明な器の中で静かに光っていた。
理久はそれを一口飲む。
喉を通る熱が、思ったよりはっきり残った。
ビールのあとだからか。
それとも、今の自分がそういう状態だからか。
分からない。
ただ、熱だけが残った。
桐谷が横目で見る。
「ペース考えろよ」
「分かってる」
「その分かってるが、一番信用できない」
理久はグラスを置いた。
「診断が雑」
「雑で結構」
桐谷の声は、少しだけ低くなった。
「嫉妬するなとは言わない」
理久は顔を上げた。
「ただ、それを綾瀬の職場に持ち込むな」
理久は黙った。
「お前は外科の助教で、あいつは10Aの看護師だ。お前が少しでも特別な顔をすれば、周りはお前じゃなくて綾瀬を見る」
桐谷はグラスを置いた。
「藤崎先生に何かされた、じゃなくて、綾瀬さんが藤崎先生と何かあるらしい、になる」
その言葉は、静かに刺さった。
理久は奥の席を見なかった。
見なくても、美月のいる位置は分かっていた。
「屋形船の時は、まだ及川の悪ノリを止めた側で済んだ。そう見えたからな」
桐谷は続ける。
「でも、次は分からない」
「……分かってる」
「本当に?」
理久は答えなかった。
言えば言うほど、嘘みたいになる気がした。
桐谷は少しだけ息を吐いた。
「お前が本気なのは分かるよ」
理久は、そこで初めて桐谷を見た。
「だから言ってる」
桐谷の声は軽くなかった。
「本気なら、大事にしろ」
理久は、グラスに添えた指を止めた。
「大事にするって、甘やかすことでも、囲い込むことでも、嫉妬した相手から遠ざけることでもないぞ」
桐谷は、奥の席へ一瞬だけ視線を向けた。
「綾瀬には綾瀬の場所がある。先輩として、看護師として、病棟で積み上げてきた場所がある」
理久は黙って聞いていた。
「お前が隣に立つなら、その場所ごと大事にしろ」
日本酒の熱より、その言葉の方が重かった。
「触れるなよ、って言いたくなる気持ちは分かる。でも、その一言で一番困るのは、及川じゃなくて綾瀬だ」
理久は、ゆっくり息を吐いた。
分かっている。
分かっていたはずだった。
けれど、桐谷に言葉にされると、逃げ場がなかった。
及川に嫉妬している。
それだけなら、まだ分かりやすかった。
でも本当は、それだけではない。
及川が美月を「綾瀬」と呼ぶこと。
美月が及川を「及川くん」と呼ぶこと。
後輩たちが美月を頼ること。
看護師たちが、美月の新人時代を知っていること。
桐谷が、美月の尖っていた頃を知っていること。
その全部が、面白くない。
自分が知らない美月を、周囲が当然のように知っている。
そのことに嫉妬している。
本当に、面倒な男だ。
理久はグラスの中の日本酒を見た。
「綾瀬は、お前の恋人なんだろ」
桐谷が言った。
「でも、それだけじゃない。10Aの看護師で、後輩の先輩で、病棟に必要な人間だ」
その言葉は、淡々としていた。
だからこそ、刺さる。
「お前が好きになったのは、そういう綾瀬だろ」
理久は何も言えなかった。
その通りだった。
病棟で、患者の状態を見落とさない美月。
自分に対しても、必要なことは言う美月。
逃げようとしながら、それでも自分で戻ると決めた美月。
好きと言わされて怒りながらも、ちゃんと自分の言葉で向き合った美月。
理久は、そういう美月を好きになった。
誰かの後ろに隠れる人ではない。
誰かの所有物になる人でもない。
自分の足で立っている人だ。
だからこそ、隣にいてほしいと思った。
なのに。
その場所を、自分の感情で揺らしてどうする。
「……分かってる」
今度の声は、さっきより低かった。
桐谷は理久を見る。
「じゃあ、飲むのはここまで」
理久は少しだけ眉を寄せる。
「そこにつながる?」
「つながる」
桐谷は水のグラスを理久の前に押し出した。
「酔った勢いで連絡するな。呼び出すな。会いに行くな。面倒な男になるな」
理久は小さく笑った。
「もうなってる気がする」
「自覚があるなら止まれる」
桐谷は、短く言った。
「水飲め」
理久はしばらく黙っていた。
それから、日本酒ではなく、水のグラスを取った。
冷たい水が喉を通る。
酒の熱が少しだけ薄まった。
奥の席では、まだ会話が続いている。
外科レジデントの一人が何かを言い、若い看護師が笑う。
及川が場をつなぐ。
美月が、後輩に小さく声をかける。
「大丈夫?」
後輩が頷く。
美月はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。
その顔を、理久は見てしまった。
病棟の先輩の顔。
後輩を見守る顔。
恋人としての美月とは、違う顔。
でも、それも美月だった。
理久の知らない時間の中で、美月が積み上げてきた顔だった。
理久は、水のグラスを置いた。
「……悔しいな」
桐谷が少しだけ目を細める。
「何が」
「俺の知らない綾瀬さんを、みんな普通に知ってる」
言ってから、理久は自分で少し笑った。
美月、と呼びたい相手のはずなのに。
今、奥の席にいるのは、病棟の中で時間を積み上げてきた綾瀬さんだった。
桐谷は笑わなかった。
「そりゃそうだろ」
「もう少し慰めるとかないの」
「ない」
桐谷はあっさり言った。
「あいつは、お前に会う前からあそこで働いてる。お前の知らない時間があるのは当たり前だ」
「分かってる」
「その当たり前に嫉妬するくらい本気なら」
桐谷は少しだけ声を落とした。
「これから知ればいい」
理久は黙った。
「ただし、綾瀬の場所を壊さない形でな」
その言葉で、結局そこに戻る。
でも、戻るべきところはそこなのだと思った。
美月を知りたい。
もっと近づきたい。
自分だけに見せる顔を増やしたい。
そう思う。
けれど、そのために美月が立っている場所を壊したら、本末転倒だ。
理久は、もう一度水を飲んだ。
「帰る」
桐谷が少しだけ眉を上げる。
「正解」
「言い方」
「褒めてる」
「褒め方が雑」
「雑でも帰れ」
理久は小さく笑い、会計を済ませるために立ち上がった。
量を飲んだわけではない。
けれど、飲み慣れない日本酒の熱が、思ったより身体に残っている。
たぶん、酒だけのせいではない。
奥の席はまだ賑やかだった。
美月には気づかれない。
その方がいい。
今日ここに来たことも、できれば知られない方がいい。
理久はそのまま店を出た。
外の空気は冷たかった。
店の中から、まだ笑い声が聞こえる。
その中に、美月の声が混じっているのかもしれない。
理久は、聞き分けようとする自分を止めた。
スマートフォンを出す。
美月の名前を表示しかけて、すぐに閉じた。
連絡しない。
呼び出さない。
気づかせない。
嫉妬したからといって、彼女を巻き込まない。
そう決める。
数分後、タクシーが止まった。
乗り込む直前、桐谷からメッセージが入った。
『水飲め。余計なことするな。
本気なら大事にしろ』
理久はしばらく画面を見ていた。
それから、短く返す。
『分かってる』
送ってから、少しだけ苦笑した。
また言っている。
本当に分かっているのか。
自分でも、少し怪しい。
タクシーが走り出す。
窓の外に、夜の街の灯りが流れていく。
理久は背もたれに身体を預けた。
余裕のある外科医でもない。
王子でもない。
何でもない。
好きな相手に嫉妬して、日本酒を飲みすぎかけた、面倒な男。
それが今夜の自分だった。
「……最悪だな」
小さく呟いた声は、夜の車内に消えた。
それでも、ひとつだけはっきりしている。
美月を大事にしたい。
ただ、好きだと言うだけではなく。
抱きしめたいとか、独占したいとか、隣に置きたいとか。
そういう自分の欲より先に。
美月が美月のまま立っていられる場所を、壊さないこと。
桐谷に言われた言葉が、何度も胸の奥で重く響く。
本気なら、大事にしろ。
理久は目を閉じた。
美月には連絡しない。
今日はこのまま帰って、水を飲んで、寝る。
余計なことはしない。
それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。
そう決めた。
けれど、嫉妬は水を飲めば消えるものではない。
その当たり前を、理久はまだ少し、軽く見ていた。
屋形船の件を、わざわざこちらから持ち出すつもりはなかった。
けれど、桐谷から「少し飲むか」とだけ連絡が来ていた。
呼び出された店は、病院から少し離れた場所にあった。
個室というほどではないが、席ごとに低い仕切りがあり、通路からは奥の席が一部だけ見える造りだった。
店に入った時、奥の席が少し賑やかなのは分かった。
若い看護師らしい声と、医師たちの笑い声。
病院から少し離れているとはいえ、大学病院の職員が使う店は、どうしても限られる。
知った顔がいてもおかしくはない。
理久は一瞬だけ、そちらを見た。
低い仕切りの向こうに、10Aの若い看護師たちと、外科レジデントが数人。
その中に、見慣れた後ろ姿があった。
髪は仕事中より柔らかく下ろされている。
横顔までは、まだはっきり見えない。
美月は、こちらに気づいていなかった。
それでいい。
気づかれない方がいい。
そう思って、理久はすぐに視線を戻した。
病院の外とはいえ、職場関係者のいる場だ。
ここでは、美月は10Aの看護師で、理久は外科の藤崎先生。
少なくとも、周囲にとっては。
少し離れた席で、桐谷が軽く手を上げた。
名前は呼ばなかった。
理久も、声を返さずにそちらへ向かう。
「遅かったな」
席に着くなり、桐谷が小さく言った。
「呼んだの、そっちでしょ」
「呼んだけど、そんな顔で来いとは言ってない」
「どんな顔」
「見なかったことにした顔」
理久は返事をしなかった。
桐谷は、そういう沈黙を見逃さない。
店員が来る。
桐谷がビールを頼んだので、理久も同じものにした。
普段通り。
最初から崩れるつもりはない。
翌日の予定もある。
飲みすぎるつもりもない。
場に合わせて、適度に。
それくらいは、いつもできる。
料理をいくつか頼み、二人はしばらく仕事の話をした。
病棟の患者の状態。
外科へ相談が回っていた症例の経過。
最近、10Aとの連携で出た細かい確認事項。
桐谷は相変わらず口は悪いが、見るところは見ている。
「この前の件、外科の返事、早かったな」
桐谷が小鉢を取りながら言った。
「珍しく褒めるね」
「褒めてるわけじゃない。助かったと言ってる」
「それを褒めてるって言うんじゃないの」
「調子に乗るな」
理久は少し笑った。
ビールを一口飲む。
冷えた苦みは、いつも通りだった。
店の中は適度に騒がしく、低い仕切りの向こうの会話も、はっきり聞こうとしなければただのざわめきに紛れる。
桐谷はビールを置き、奥の席の方へ一瞬だけ視線を流した。
「今日は、あっちも若いのが多いな」
理久は見なかった。
「みたいだね」
「10Aの若い子たちと、外科のレジデントか」
「知ってるの?」
「何人かはな。病棟で顔を見る」
桐谷は淡々と言った。
「及川もいるだろ」
理久はグラスを置いた。
「見えた?」
「見えた。というか、声で分かる」
「うるさいから?」
「うるさいから」
桐谷は少し笑った。
「場を回すのはうまい。余計なことも言うがな」
「半分褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「調子に乗る」
「だろうね」
奥の席から笑い声が聞こえた。
理久は見なかった。
見ないようにした。
けれど、声は届く。
若い看護師の声。
レジデントの笑い声。
その中に、落ち着いた美月の声が混じった。
「それは確認不足です」
少し笑いが起きる。
そこに、及川の声が重なった。
「あー、出た。綾瀬の正論」
「正論ではなく事実です」
「その言い方がもう正論なんだよ」
周囲がまた笑う。
理久はグラスを持つ手を止めた。
及川。
その名前が、胸の奥で少しだけ引っかかる。
屋形船の夜。
触れるなよ。
自分が言ってしまった声。
あの場では、後輩医師の悪ノリを止めた言葉として収まった。
収めた。
桐谷も、空気を戻してくれた。
けれど、及川は気づいた。
たぶん、美月も分かっていた。
それなのに、今も奥の席では、いつもの距離で会話が続いている。
及川は美月を「綾瀬」と呼ぶ。
美月は及川を「及川くん」と呼ぶ。
病棟では、及川先生。
けれど、こういう場では、及川くん。
その切り替えがあることも、理久には分かっている。
分かっているからこそ、面白くなかった。
それは昔からの距離なのだろう。
理久が入り込む前からある距離。
美月が新人だった頃から、少しずつできた距離。
頭では分かっている。
美月は理久の恋人だ。
でも、それだけではない。
10Aの看護師で、後輩の先輩で、及川とは新人時代からの戦友で、病棟の人たちと関係を積み上げてきた人だ。
その全部が美月だ。
分かっている。
分かっているのに。
面白くない。
本当に、自分でも面倒だと思う。
桐谷が、横から理久を見る。
「見るなよ」
「見てない」
「聞いてる顔してる」
「耳は塞げない」
「面倒だな」
「自覚はある」
「あるならまだましだ」
桐谷はビールを飲んだ。
理久もグラスを傾ける。
ビールの苦みは、いつも通りだった。
それなのに、喉の奥に残るものがある。
奥の席から、また及川の声がした。
「だから、すぐ刺すなって」
「刺してません」
「刺してる。新人の時からそのまま」
新人の時。
その言葉に、理久の指が止まった。
桐谷は、その反応を見逃さなかった。
「綾瀬、あれでも丸くなった方だぞ」
理久は、ゆっくり桐谷を見た。
「知ってるの?」
「そりゃ知ってる。俺も、あいつが新人の頃から10Aには出入りしてたからな」
桐谷はグラスを置いた。
「今よりもう少し尖ってた。正しいんだけど、正しすぎる。必要な確認なんだけど、逃げ道がない」
理久は黙って聞いていた。
「及川が刺されたって言うのも、半分は本当だろうな」
「……そう」
「でも、悪い意味じゃない」
桐谷の声は淡々としていた。
「綾瀬は、最初から患者を見る目は良かった。周りに流されないし、必要なことは言う。ただ、不器用だっただけだ」
理久は奥の席を見なかった。
見なかったけれど、美月の声だけは届いている。
「今も不器用だけどな」
桐谷は少し笑った。
その言い方には、昔から知っている人間の距離があった。
理久の知らない時間を、桐谷も知っている。
その事実が、さらに面白くなかった。
料理は進んでいた。
ビールも一杯目ではない。
酔っているというほどではない。
けれど、いつもより、感情が少しだけ近いところにある。
理久はメニューを手に取った。
「日本酒、ある?」
桐谷の眉が動く。
「今から?」
「料理に合いそうだから」
「さっきからそればっかりだな。まだ刺身も来てないぞ」
「来るでしょ」
「その顔で日本酒はやめろ」
「どんな顔」
「嫉妬してる顔」
理久は返事をしなかった。
桐谷はため息をついた。
「一杯だけにしろ」
「分かってる」
「分かってる奴は、その流れで日本酒を追加しない」
それでも理久は、店員を呼んだ。
運ばれてきた日本酒は、透明な器の中で静かに光っていた。
理久はそれを一口飲む。
喉を通る熱が、思ったよりはっきり残った。
ビールのあとだからか。
それとも、今の自分がそういう状態だからか。
分からない。
ただ、熱だけが残った。
桐谷が横目で見る。
「ペース考えろよ」
「分かってる」
「その分かってるが、一番信用できない」
理久はグラスを置いた。
「診断が雑」
「雑で結構」
桐谷の声は、少しだけ低くなった。
「嫉妬するなとは言わない」
理久は顔を上げた。
「ただ、それを綾瀬の職場に持ち込むな」
理久は黙った。
「お前は外科の助教で、あいつは10Aの看護師だ。お前が少しでも特別な顔をすれば、周りはお前じゃなくて綾瀬を見る」
桐谷はグラスを置いた。
「藤崎先生に何かされた、じゃなくて、綾瀬さんが藤崎先生と何かあるらしい、になる」
その言葉は、静かに刺さった。
理久は奥の席を見なかった。
見なくても、美月のいる位置は分かっていた。
「屋形船の時は、まだ及川の悪ノリを止めた側で済んだ。そう見えたからな」
桐谷は続ける。
「でも、次は分からない」
「……分かってる」
「本当に?」
理久は答えなかった。
言えば言うほど、嘘みたいになる気がした。
桐谷は少しだけ息を吐いた。
「お前が本気なのは分かるよ」
理久は、そこで初めて桐谷を見た。
「だから言ってる」
桐谷の声は軽くなかった。
「本気なら、大事にしろ」
理久は、グラスに添えた指を止めた。
「大事にするって、甘やかすことでも、囲い込むことでも、嫉妬した相手から遠ざけることでもないぞ」
桐谷は、奥の席へ一瞬だけ視線を向けた。
「綾瀬には綾瀬の場所がある。先輩として、看護師として、病棟で積み上げてきた場所がある」
理久は黙って聞いていた。
「お前が隣に立つなら、その場所ごと大事にしろ」
日本酒の熱より、その言葉の方が重かった。
「触れるなよ、って言いたくなる気持ちは分かる。でも、その一言で一番困るのは、及川じゃなくて綾瀬だ」
理久は、ゆっくり息を吐いた。
分かっている。
分かっていたはずだった。
けれど、桐谷に言葉にされると、逃げ場がなかった。
及川に嫉妬している。
それだけなら、まだ分かりやすかった。
でも本当は、それだけではない。
及川が美月を「綾瀬」と呼ぶこと。
美月が及川を「及川くん」と呼ぶこと。
後輩たちが美月を頼ること。
看護師たちが、美月の新人時代を知っていること。
桐谷が、美月の尖っていた頃を知っていること。
その全部が、面白くない。
自分が知らない美月を、周囲が当然のように知っている。
そのことに嫉妬している。
本当に、面倒な男だ。
理久はグラスの中の日本酒を見た。
「綾瀬は、お前の恋人なんだろ」
桐谷が言った。
「でも、それだけじゃない。10Aの看護師で、後輩の先輩で、病棟に必要な人間だ」
その言葉は、淡々としていた。
だからこそ、刺さる。
「お前が好きになったのは、そういう綾瀬だろ」
理久は何も言えなかった。
その通りだった。
病棟で、患者の状態を見落とさない美月。
自分に対しても、必要なことは言う美月。
逃げようとしながら、それでも自分で戻ると決めた美月。
好きと言わされて怒りながらも、ちゃんと自分の言葉で向き合った美月。
理久は、そういう美月を好きになった。
誰かの後ろに隠れる人ではない。
誰かの所有物になる人でもない。
自分の足で立っている人だ。
だからこそ、隣にいてほしいと思った。
なのに。
その場所を、自分の感情で揺らしてどうする。
「……分かってる」
今度の声は、さっきより低かった。
桐谷は理久を見る。
「じゃあ、飲むのはここまで」
理久は少しだけ眉を寄せる。
「そこにつながる?」
「つながる」
桐谷は水のグラスを理久の前に押し出した。
「酔った勢いで連絡するな。呼び出すな。会いに行くな。面倒な男になるな」
理久は小さく笑った。
「もうなってる気がする」
「自覚があるなら止まれる」
桐谷は、短く言った。
「水飲め」
理久はしばらく黙っていた。
それから、日本酒ではなく、水のグラスを取った。
冷たい水が喉を通る。
酒の熱が少しだけ薄まった。
奥の席では、まだ会話が続いている。
外科レジデントの一人が何かを言い、若い看護師が笑う。
及川が場をつなぐ。
美月が、後輩に小さく声をかける。
「大丈夫?」
後輩が頷く。
美月はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。
その顔を、理久は見てしまった。
病棟の先輩の顔。
後輩を見守る顔。
恋人としての美月とは、違う顔。
でも、それも美月だった。
理久の知らない時間の中で、美月が積み上げてきた顔だった。
理久は、水のグラスを置いた。
「……悔しいな」
桐谷が少しだけ目を細める。
「何が」
「俺の知らない綾瀬さんを、みんな普通に知ってる」
言ってから、理久は自分で少し笑った。
美月、と呼びたい相手のはずなのに。
今、奥の席にいるのは、病棟の中で時間を積み上げてきた綾瀬さんだった。
桐谷は笑わなかった。
「そりゃそうだろ」
「もう少し慰めるとかないの」
「ない」
桐谷はあっさり言った。
「あいつは、お前に会う前からあそこで働いてる。お前の知らない時間があるのは当たり前だ」
「分かってる」
「その当たり前に嫉妬するくらい本気なら」
桐谷は少しだけ声を落とした。
「これから知ればいい」
理久は黙った。
「ただし、綾瀬の場所を壊さない形でな」
その言葉で、結局そこに戻る。
でも、戻るべきところはそこなのだと思った。
美月を知りたい。
もっと近づきたい。
自分だけに見せる顔を増やしたい。
そう思う。
けれど、そのために美月が立っている場所を壊したら、本末転倒だ。
理久は、もう一度水を飲んだ。
「帰る」
桐谷が少しだけ眉を上げる。
「正解」
「言い方」
「褒めてる」
「褒め方が雑」
「雑でも帰れ」
理久は小さく笑い、会計を済ませるために立ち上がった。
量を飲んだわけではない。
けれど、飲み慣れない日本酒の熱が、思ったより身体に残っている。
たぶん、酒だけのせいではない。
奥の席はまだ賑やかだった。
美月には気づかれない。
その方がいい。
今日ここに来たことも、できれば知られない方がいい。
理久はそのまま店を出た。
外の空気は冷たかった。
店の中から、まだ笑い声が聞こえる。
その中に、美月の声が混じっているのかもしれない。
理久は、聞き分けようとする自分を止めた。
スマートフォンを出す。
美月の名前を表示しかけて、すぐに閉じた。
連絡しない。
呼び出さない。
気づかせない。
嫉妬したからといって、彼女を巻き込まない。
そう決める。
数分後、タクシーが止まった。
乗り込む直前、桐谷からメッセージが入った。
『水飲め。余計なことするな。
本気なら大事にしろ』
理久はしばらく画面を見ていた。
それから、短く返す。
『分かってる』
送ってから、少しだけ苦笑した。
また言っている。
本当に分かっているのか。
自分でも、少し怪しい。
タクシーが走り出す。
窓の外に、夜の街の灯りが流れていく。
理久は背もたれに身体を預けた。
余裕のある外科医でもない。
王子でもない。
何でもない。
好きな相手に嫉妬して、日本酒を飲みすぎかけた、面倒な男。
それが今夜の自分だった。
「……最悪だな」
小さく呟いた声は、夜の車内に消えた。
それでも、ひとつだけはっきりしている。
美月を大事にしたい。
ただ、好きだと言うだけではなく。
抱きしめたいとか、独占したいとか、隣に置きたいとか。
そういう自分の欲より先に。
美月が美月のまま立っていられる場所を、壊さないこと。
桐谷に言われた言葉が、何度も胸の奥で重く響く。
本気なら、大事にしろ。
理久は目を閉じた。
美月には連絡しない。
今日はこのまま帰って、水を飲んで、寝る。
余計なことはしない。
それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。
そう決めた。
けれど、嫉妬は水を飲めば消えるものではない。
その当たり前を、理久はまだ少し、軽く見ていた。
