光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜


屋形船の中は、思っていたよりも賑やかだった。

座敷席には料理が並び、窓の外では夜の水面が揺れている。

少し遠くに見える街の灯りが、水に滲んでいた。

病棟スタッフに、普段関わりのある医師たちも交じった親睦会。

少し気を遣う飲み会だった。

美月は端の席で、烏龍茶のグラスを持っていた。

こういう場では、飲みすぎない。

場を壊さない程度には笑う。

必要な会話はする。

でも、線は越えない。

それは昔からの習慣だった。

特に今日は、理久もいる。

いや。

ここでは、藤崎先生だ。

少し離れた席で、桐谷や他の医師たちと話している。

病院の外でも、職場関係者がいれば、理久は藤崎先生だった。

穏やかで、品があって、余裕がある。

誰に話しかけられても、ちょうどいい距離で返す。

笑う。

聞く。

流す。

踏み込みすぎない。

そのすべてが自然で、周囲には完璧に見える。

美月は、あまり見ないようにしていた。

見てしまうと、目が合うかもしれない。

目が合ったら、何かが出てしまうかもしれない。

だから、見ない。

見るとしても、偶然。

見えてしまっただけ。

そういうことにする。

病院の人たちがいる場所では、藤崎先生と綾瀬さん。

それは、もう決めたことだった。

それでも、少し離れたところで藤崎先生として振る舞う理久を見ると、不思議な感覚になる。

自分だけが、別の顔を知っている。

その事実だけが、胸の奥で静かに存在していた。

「綾瀬、顔が仕事中」

隣から及川が言った。

美月はグラスを置く。

「通常運転です」

「屋形船で通常運転すんなよ」

「こういう場こそ通常運転が大事です」

「出た。真面目」

及川は呆れたように笑った。

及川颯真。

今は外科レジデントとして病院に戻ってきているが、10Aの人たちにとっては、昔から知っている後輩医師でもある。

研修医時代から、先輩たちに可愛がられ、叱られても最後には笑わせてしまうような人だった。

美月にも昔から遠慮がなかった。

必要以上に踏み込むようでいて、ぎりぎりのところでは踏み込みすぎない。

だから今でも、及川相手だと少しだけ雑になる。

同僚というより、戦友に近い。

病棟の人たちも、その距離感を知っていた。

「おー、また綾瀬さんと及川先生がセットになってる」

向かいの席から、先輩看護師が笑いながら言った。

「懐かしいね。研修医時代からその感じ」

「及川先生、昔から綾瀬さんに強かったもんね」

「いや、俺が強いんじゃなくて、綾瀬が強すぎたんですよ」

及川がすぐに乗る。

「俺、何回オーダー確認で刺されたか」

「刺してません」

美月は即答した。

「刺してた。言葉で」

「必要な確認です」

「ほら、この感じ」

周囲が笑う。

美月はため息をついた。

本当に面倒くさい。

でも、こういうからかいは、病棟の中では昔からあるものだった。

本気ではない。

分かっている。

及川も、調子に乗っているだけだ。

分かっている。

だから美月は、いつも通り流そうとした。

「でもさ、及川先生って、10Aに馴染むの早かったよね」

別の先輩が言った。

「それは綾瀬さんのおかげじゃない?」

「え、そうなんですか?」

後輩看護師が興味を示す。

美月は嫌な予感がした。

及川が、ここぞとばかりに胸を張る。

「まあ、俺が10Aに馴染めたのは、綾瀬のおかげでもあるんで」

「何それ」

美月は眉を寄せた。

「同期愛?」

「違います」

「戦友愛?」

「それならまだ」

「お、許可出た」

また周囲が笑う。

及川は、場の空気に合わせるのがうまい。

病棟の先輩たちも、そういう及川をよく知っている。

だから、多少の悪ノリも笑いになる。

その流れの中で、及川がいつもの調子で、軽く美月の肩へ手を置こうとした。

本当に、深い意味はなかったのだと思う。

昔からの距離感。

場に合わせた悪ノリ。

周りに茶化された延長。

美月も、一瞬だけ眉を寄せただけだった。

けれど、その手が美月の肩に触れる前に。

低い声が落ちた。

「触れるなよ」

空気が止まった。

美月の指先が、グラスに触れたまま固まる。

声の方を見る。

理久だった。

少し離れた席から、こちらを見ている。

表情は、大きく崩れていない。

けれど、目が違った。

病棟で見る藤崎先生の目ではない。

誰にでも穏やかな、余裕のある外科医の目でもない。

静かで、冷たい。

その視線は、まっすぐ及川に向いていた。

及川の手は、美月の肩に触れる手前で止まっている。

一瞬だけ、船の中の笑い声が遠のいた。

まずい。

美月は思った。

これは、まずい。

理久の言葉自体はおかしくない。

酔った場の悪ノリで女性に触れようとするのを、立場が上の医師が止める。

それは、むしろ正しい。

でも、声の温度が違った。

ただの注意ではない。

もっと個人的なものが、一瞬だけ混じった。

美月は、顔には出さなかった。

通常運転。

そう自分に言い聞かせる。

ここで焦ったら終わる。

及川も、場に合わせるようにすぐ手を引いた。

「すみません、調子乗りました」

軽い声。

でも、いつもの軽さより少しだけ硬い。

そこへ、桐谷がすぐに入った。

「及川、後輩の悪ノリは藤崎が止めるしかないだろ」

わざと明るい声だった。

「さすが藤崎。王子はこういうところも抜かりない」

その一言で、止まりかけた空気がまた動き出す。

「確かに」

「藤崎先生、さすが」

「及川先生、王子に怒られてる」

「やっぱり王子はナイトですね」

笑いが戻る。

理久は、すぐにいつもの顔に戻った。

穏やかで、少し困ったような微笑み。

「酔った場でも、そういうのは良くないから」

声も、もう普段の藤崎先生だった。

周囲は、それで納得した。

後輩医師の悪ノリを、立場が上の藤崎先生が止めた。

藤崎先生が女性を守った。

桐谷がうまく流した。

それだけの話になった。

美月も、何事もなかったようにグラスを持ち直した。

「及川くん、そういうところです」

「はい、すみません」

「反省してください」

「反省します」

周囲がまた笑う。

及川も笑った。

美月も、軽く流した。

場は戻った。

けれど、及川だけは気づいたように見えた。

あの一瞬の理久の目。

普段の藤崎先生からは想像できない目だった。

後輩医師の悪ノリを止める、立場が上の医師の目ではない。

少なくとも、美月にはそう見えた。

触るな、ではなく。

触れるなよ。

その言い方に混じったものを、及川はたぶん聞き逃さなかった。

美月も、それに気づいた。

及川が気づいてしまったことに。

美月は烏龍茶を一口飲んだ。

冷たいはずなのに、喉が乾いている気がした。

理久はもうこちらを見ていない。

桐谷と話している。

いつもの藤崎先生の顔で。

けれど、美月には分かっていた。

あれは、戻した顔だ。

一度出てしまったものを、すぐにしまった顔。

そして及川も、たぶん分かってしまった。

そのことだけが、少しだけ胸に残った。

その後、屋形船の会は何事もなかったように続いた。

病棟の先輩たちは、研修医時代の及川の失敗談で盛り上がり、医師たちは桐谷に突っ込まれ、看護師たちは料理や景色の話で笑っていた。

及川も、いつもの調子に戻った。

戻ったように見えた。

けれど、美月には分かる。

及川は時々、理久の方を見ていた。

探るような目ではない。

でも、何かを確認するような目だった。

美月はできるだけ普通に過ごした。

笑うところでは笑い、返すところでは返す。

理久の方は見ない。

及川の視線にも気づかないふりをする。

やがて会が終わり、船を降りる頃には、夜風が少し冷たくなっていた。

川沿いの灯りが揺れている。

参加者たちは駅へ向かう組、二次会へ行く組、タクシーを拾う組に分かれていった。

「綾瀬」

後ろから及川に声をかけられた。

美月は振り向く。

「何?」

及川は、いつもの軽い顔に戻りきれていなかった。

少しだけ気まずそうに、頭をかく。

「さっきの、悪かった」

「肩の?」

「うん。場に乗った。調子乗った」

「触られてないし」

「触る前に止められたからな」

及川は、少し苦笑した。

「でも、触ろうとしたのは事実だから。ごめん」

意外と真面目な謝り方だった。

美月は小さく息を吐いた。

「分かった。もういいよ」

「怒ってない?」

「怒ってない」

「ほんとに?」

「しつこい」

及川は一瞬だけ黙り、それから少し笑った。

「怒ってないならいい」

美月は何も言わなかった。

及川は、そこで終わらせようとしたようにも見えた。

けれど、少しだけ間を置いてから、声を落とした。

「綾瀬」

「何」

「もしかして、綾瀬と藤崎先生って……」

そこで、及川は言葉を止めた。

最後までは言わなかった。

付き合ってるのか、と聞くこともできた。

でも、聞かなかった。

美月は及川を見た。

表情は変えなかった。

肯定もしない。

否定もしない。

ただ、黙って及川を見ていた。

その沈黙だけで、十分だった。

及川は、それ以上踏み込まなかった。

「……いや、何でもない」

軽く笑う。

でも、その笑いはいつもより少しだけ控えめだった。

美月も何も言わなかった。

言えなかったのではない。

言わなかった。

及川は、たぶん気づいた。

けれど、それ以上は踏み込まなかった。

軽く見えるし、余計なことも言う。

それでも、本当に触れられたくないところには踏み込まない。

そういう男だということを、美月は知っていた。

及川は、少し遠くを見るようにして言った。

「俺、刺されるかな?」

美月は一拍置いて答えた。

「……刺されるわけないでしょ」

「いや、一旦刺された気分」

「ご愁傷様です」

「冷たいな」

「通常運転です」

及川は苦笑した。

その会話で、少しだけ空気が戻った。

及川はそれ以上、藤崎先生の話をしなかった。

何を聞くこともない。

誰にも言わないとも言わない。

守るとも言わない。

けれど、それで十分だった。

及川が何も言わないこと。

それ自体が、返事だった。

その時、少し離れた場所で声が上がった。

「二次会どうする?」

「近くに店あるらしいよ」

「綾瀬さんも行く?」

看護師の一人に声をかけられた。

美月はすぐに断ろうとした。

明日も勤務がある。

それで十分だった。

でも、二次会に行かない理由としては少し弱い。

そこで美月は、隣の及川を見た。

及川が嫌な予感を察した顔をする。

美月は、いつもの落ち着いた声で言った。

「私は遠慮しておきます。及川くん、もうすぐ結婚する彼女がいるそうなので、今日はその話を聞いてあげてください」

一瞬、及川が固まった。

「は?」

周囲が一気に反応する。

「え、及川先生、彼女いるの?」

「しかも結婚?」

「初耳!」

「いつから?」

「相手どんな人?」

病棟の先輩たちの目が一斉に及川へ向く。

及川は、美月を見た。

「お前、売りやがったな」

美月は涼しい顔で返す。

「必要な処置です」

「処置って言うな!」

周囲はもう完全に及川へ食いついている。

「及川先生、詳しく」

「二次会で聞こう」

「逃げられないよ」

「いや、ちょっと待ってくださいって」

及川は慌てている。

美月はその隙に、バッグを持った。

「では、私はこれで失礼します」

「綾瀬!」

及川が叫ぶ。

美月は振り返らず、軽く手だけ上げた。

「ご武運を」

「最悪だ!」

及川の声が夜風に流れる。

美月は少しだけ笑いそうになった。

これでいい。

及川は、さっき少し踏み込みかけた。

それは調子に乗っただけだったのかもしれない。

悪気はなかったのかもしれない。

でも、美月にとっては少し危うかった。

理久にとっても、きっとそうだった。

だから、及川には少しだけ犠牲になってもらう。

二次会の話題としては十分すぎる。

及川はきっと文句を言うだろう。

でも、たぶん分かっている。

あれくらいの話題提供で済ませてもらえるなら、安いものだと。

美月は夜風の中を歩き出した。

少し離れたところで、藤崎先生が桐谷と話しているのが見えた。

理久はこちらを見ていない。

見ていないふりをしている。

美月も、声はかけなかった。

病院の人たちがいる場所では、藤崎先生と綾瀬さん。

その約束は変わらない。

けれど今夜、その約束の表面が、ほんの少しだけ揺れた。

理久が一瞬だけ見せた、普段とは違う目。

及川が、それに気づいてしまったこと。

そして、それでも何も聞かなかったこと。

美月は駅へ向かう道で、首元に手をやりかけて、途中で止めた。

今日は職場の親睦会だったから、ネックレスは着けていない。

それでも、そこに小さな光があるような気がした。

秘密はまだ、秘密のまま。

ただ、その輪郭を、誰かが一瞬だけ見てしまった夜だった。