美月の手は、思っていたより少し冷たかった。
海風のせいかもしれない。
緊張しているせいかもしれない。
それとも、外で恋人として手を繋ぐことに、まだ慣れていないせいかもしれない。
理久は、絡めた指にほんの少しだけ力を込めた。
強くはしない。
引っ張らない。
逃げられないようにする必要はない。
ただ、ここにいると分かるくらいに。
隣を見ると、美月は前を向いたまま歩いていた。
顔は少し赤い。
けれど、手は離さない。
少しだけです。
人が多いところだけです。
深い意味はありません。
そう言い訳を重ねていたくせに、繋いだ手はそのままだった。
からかいたくなる。
今、ものすごく。
でも、今日はやめておいた。
美月が自分で取った手だったから。
赤レンガの広場には、人が多かった。
家族連れ。
観光客。
手を繋いで歩く恋人たち。
写真を撮る人。
海の方へ向かう人。
その中を、美月と並んで歩く。
繋いだ手は、最初より少しだけ自然になっていた。
理久は、さっきのことを思い出していた。
美月がトイレから戻ってきた時、彼女は近づいてこなかった。
少し離れた場所でスマホを見るふりをして、こちらを見ていた。
画面なんて、たぶん何も見ていなかったと思う。
そのくせ、こちらが戻ると何でもない顔をしようとした。
相変わらずですね。
そう言った声には、ほんの少しだけ棘があった。
妬いている、というほど素直ではない。
怒っている、というほど強くもない。
ただ、少し面白くない。
そのくらいの感情を、本人だけが必死に隠そうとしていた。
美月らしいと思った。
恋人になったからといって、急に当然のように隣に立つ人ではない。
自分の場所だと主張する人でもない。
でも、完全に平気な顔もできない。
近づかない。
けれど、離れきるわけでもない。
線を引く。
でも、その線の向こう側から、ちゃんと見ている。
分かりにくいようで、分かりやすい。
美月の気持ちは、いつも少し遅れて表に出る。
言葉ではなく、視線や沈黙や、ほんの少し硬くなる声に出る。
理久は、それを見落としたくなかった。
女ホイホイ。
美月はそう言った。
ひどい言い方だと思う。
でも、少しだけ嬉しかった。
見られることには慣れている。
声をかけられることも、特別なことではない。
それ自体に、もう大した感情は動かない。
けれど、美月がそれを面白くないと思ってくれたことは、少し違った。
もちろん、嫉妬してほしいわけではない。
不安にさせたいわけでもない。
それでも、美月の中に自分がちゃんといるのだと分かるのは、どうしようもなく嬉しかった。
隣を見る。
美月の首元には、表参道で選んだネックレスが小さく光っていた。
飼い猫に首輪。
そう言ったら、予想通り怒られた。
あれは、言い方が悪かった。
悪かったけれど、似合っていると思ったのは本当だった。
今日、美月はそれをつけてきた。
仕事では着けられないだろうし、毎回着けるものでもない。
それでも、休日に出かける今日、それを着けることを美月が選んだ。
そのことに気づいた時、理久は少し浮かれた。
たぶん、かなり。
顔には出していないつもりだった。
でも、美月には少し伝わっていたかもしれない。
美月は、自分に向けられる視線には鈍いくせに、こちらの変化には妙に鋭い。
「先生」
ふいに、美月が言った。
「何?」
「見すぎです」
理久は少し笑った。
「ばれた?」
「ばれます」
「似合ってるから」
美月はすぐに視線を逸らした。
「……それは、もう聞きました」
「今日も言いたかった」
「毎回言うつもりですか」
「たぶん」
「その“たぶん”は信用できません」
「じゃあ、言う」
美月は黙った。
耳が少し赤くなっている。
その横顔を見ていると、また余計なことを言いたくなる。
けれど、やっぱり今日は少しだけ我慢した。
からかうのは楽しい。
美月が困る顔は、かなり好きだ。
でも、今はそれだけにしたくなかった。
美月は、まだ自分の気持ちの置き場所を探している。
病院では藤崎先生と綾瀬さん。
外では恋人。
家では、まだ仮住まいの延長。
そのどれもが本当で、そのどれもが少し不安定だ。
理久は、それを急かしたくなかった。
急かしたい気持ちなら、ある。
理久と呼んでほしい。
隣に立ってほしい。
手も、できれば離したくない。
でも、それを理久が奪うように決めてしまったら、意味がない。
美月は、誰かのものになるために隣にいる人ではない。
仕事をして。
患者を見て。
必要なことは医師にも言って。
自分で考えて、自分で線を引いて、自分で選ぶ人だ。
その人が、自分でこちらに来てくれる。
それがいい。
美月が美月のまま、隣にいること。
その距離を、大切にしたいと思った。
「美月」
「何ですか」
「今日、来てくれてありがとう」
美月が、少しだけこちらを見る。
「急に何ですか」
「言いたくなった」
「先生らしくないです」
「そう?」
「少し」
理久は笑った。
「じゃあ、今日は少しだけそういう日」
美月は何か言いたそうにした。
けれど、結局何も言わなかった。
その代わり、繋いだ手にほんの少しだけ力が入った。
理久は、それで十分だった。
言葉より分かりやすい時がある。
美月は、言葉にするのが苦手だ。
でも、手は離さなかった。
それが、今日の答えだった。
赤レンガの広場を抜ける頃、繋いだ手はまだそのままだった。
少しだけ。
そう言ったのは美月だった。
けれど、その少しだけは、思っていたより長く続いている。
理久は、その温度を覚えておこうと思った。
外で恋人として歩いた、最初の休日。
美月が少しだけ嫉妬して。
それを必死に隠して。
それでも最後には、自分で手を取ってくれた日。
離したくないと思った。
けれど、強く握ることとは違う。
捕まえることとも違う。
美月が自分で取ってくれたこの手を、ちゃんと受け取ること。
急かさずに。
からかいすぎずに。
美月が逃げないくらいに。
でも、ちゃんと隣にいると分かるくらいに。
海風が、二人の間を通り抜けた。
理久は、絡めた指をほんの少しだけ握り返す。
美月は何も言わなかった。
けれど、その手は離れなかった。
海風のせいかもしれない。
緊張しているせいかもしれない。
それとも、外で恋人として手を繋ぐことに、まだ慣れていないせいかもしれない。
理久は、絡めた指にほんの少しだけ力を込めた。
強くはしない。
引っ張らない。
逃げられないようにする必要はない。
ただ、ここにいると分かるくらいに。
隣を見ると、美月は前を向いたまま歩いていた。
顔は少し赤い。
けれど、手は離さない。
少しだけです。
人が多いところだけです。
深い意味はありません。
そう言い訳を重ねていたくせに、繋いだ手はそのままだった。
からかいたくなる。
今、ものすごく。
でも、今日はやめておいた。
美月が自分で取った手だったから。
赤レンガの広場には、人が多かった。
家族連れ。
観光客。
手を繋いで歩く恋人たち。
写真を撮る人。
海の方へ向かう人。
その中を、美月と並んで歩く。
繋いだ手は、最初より少しだけ自然になっていた。
理久は、さっきのことを思い出していた。
美月がトイレから戻ってきた時、彼女は近づいてこなかった。
少し離れた場所でスマホを見るふりをして、こちらを見ていた。
画面なんて、たぶん何も見ていなかったと思う。
そのくせ、こちらが戻ると何でもない顔をしようとした。
相変わらずですね。
そう言った声には、ほんの少しだけ棘があった。
妬いている、というほど素直ではない。
怒っている、というほど強くもない。
ただ、少し面白くない。
そのくらいの感情を、本人だけが必死に隠そうとしていた。
美月らしいと思った。
恋人になったからといって、急に当然のように隣に立つ人ではない。
自分の場所だと主張する人でもない。
でも、完全に平気な顔もできない。
近づかない。
けれど、離れきるわけでもない。
線を引く。
でも、その線の向こう側から、ちゃんと見ている。
分かりにくいようで、分かりやすい。
美月の気持ちは、いつも少し遅れて表に出る。
言葉ではなく、視線や沈黙や、ほんの少し硬くなる声に出る。
理久は、それを見落としたくなかった。
女ホイホイ。
美月はそう言った。
ひどい言い方だと思う。
でも、少しだけ嬉しかった。
見られることには慣れている。
声をかけられることも、特別なことではない。
それ自体に、もう大した感情は動かない。
けれど、美月がそれを面白くないと思ってくれたことは、少し違った。
もちろん、嫉妬してほしいわけではない。
不安にさせたいわけでもない。
それでも、美月の中に自分がちゃんといるのだと分かるのは、どうしようもなく嬉しかった。
隣を見る。
美月の首元には、表参道で選んだネックレスが小さく光っていた。
飼い猫に首輪。
そう言ったら、予想通り怒られた。
あれは、言い方が悪かった。
悪かったけれど、似合っていると思ったのは本当だった。
今日、美月はそれをつけてきた。
仕事では着けられないだろうし、毎回着けるものでもない。
それでも、休日に出かける今日、それを着けることを美月が選んだ。
そのことに気づいた時、理久は少し浮かれた。
たぶん、かなり。
顔には出していないつもりだった。
でも、美月には少し伝わっていたかもしれない。
美月は、自分に向けられる視線には鈍いくせに、こちらの変化には妙に鋭い。
「先生」
ふいに、美月が言った。
「何?」
「見すぎです」
理久は少し笑った。
「ばれた?」
「ばれます」
「似合ってるから」
美月はすぐに視線を逸らした。
「……それは、もう聞きました」
「今日も言いたかった」
「毎回言うつもりですか」
「たぶん」
「その“たぶん”は信用できません」
「じゃあ、言う」
美月は黙った。
耳が少し赤くなっている。
その横顔を見ていると、また余計なことを言いたくなる。
けれど、やっぱり今日は少しだけ我慢した。
からかうのは楽しい。
美月が困る顔は、かなり好きだ。
でも、今はそれだけにしたくなかった。
美月は、まだ自分の気持ちの置き場所を探している。
病院では藤崎先生と綾瀬さん。
外では恋人。
家では、まだ仮住まいの延長。
そのどれもが本当で、そのどれもが少し不安定だ。
理久は、それを急かしたくなかった。
急かしたい気持ちなら、ある。
理久と呼んでほしい。
隣に立ってほしい。
手も、できれば離したくない。
でも、それを理久が奪うように決めてしまったら、意味がない。
美月は、誰かのものになるために隣にいる人ではない。
仕事をして。
患者を見て。
必要なことは医師にも言って。
自分で考えて、自分で線を引いて、自分で選ぶ人だ。
その人が、自分でこちらに来てくれる。
それがいい。
美月が美月のまま、隣にいること。
その距離を、大切にしたいと思った。
「美月」
「何ですか」
「今日、来てくれてありがとう」
美月が、少しだけこちらを見る。
「急に何ですか」
「言いたくなった」
「先生らしくないです」
「そう?」
「少し」
理久は笑った。
「じゃあ、今日は少しだけそういう日」
美月は何か言いたそうにした。
けれど、結局何も言わなかった。
その代わり、繋いだ手にほんの少しだけ力が入った。
理久は、それで十分だった。
言葉より分かりやすい時がある。
美月は、言葉にするのが苦手だ。
でも、手は離さなかった。
それが、今日の答えだった。
赤レンガの広場を抜ける頃、繋いだ手はまだそのままだった。
少しだけ。
そう言ったのは美月だった。
けれど、その少しだけは、思っていたより長く続いている。
理久は、その温度を覚えておこうと思った。
外で恋人として歩いた、最初の休日。
美月が少しだけ嫉妬して。
それを必死に隠して。
それでも最後には、自分で手を取ってくれた日。
離したくないと思った。
けれど、強く握ることとは違う。
捕まえることとも違う。
美月が自分で取ってくれたこの手を、ちゃんと受け取ること。
急かさずに。
からかいすぎずに。
美月が逃げないくらいに。
でも、ちゃんと隣にいると分かるくらいに。
海風が、二人の間を通り抜けた。
理久は、絡めた指をほんの少しだけ握り返す。
美月は何も言わなかった。
けれど、その手は離れなかった。
