光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

恋人になった。

そう言葉にしてしまえば簡単なのに、翌週の院内では何も変わらなかった。

藤崎先生と、綾瀬さん。

約束通り、必要以上に近づかない。

私語もしない。

仕事中は、仕事の顔をする。

それでよかった。

仕事中は、その線がある方が落ち着く。

先生もそれを分かっているから、院内では何も変えなかった。

だから美月も、何も変えなかった。

電子カルテを開く。

処置を確認する。

患者の訴えを聞く。

ナースコールに対応する。

そこに恋人という言葉は持ち込まない。

持ち込む必要もない。

けれど、廊下の向こうで白衣姿の先生を見かけた時だけ、ふと事実が浮かぶ。

あの人が、自分の恋人。

それは仕事の邪魔をするほどのものではない。

ただ、まだ少しだけ現実味のない事実として、胸の奥に置かれている。

そんな一週間が過ぎた土曜の朝。

先生は「少し先に出る」と言って、車を取りに行ってしまった。

今も美月は、避難の延長で先生の家にいる。

同じ家から出るのだから、一緒に向かえばいい。

そう思わなかったわけではない。

けれど、しばらくして先生からメッセージが届いた。

十時半。

駅のロータリー。

待ち合わせ場所だけが、短く送られてきていた。

恋人らしく待ち合わせをしたいのか。

それとも、何か企んでいるのか。

たぶん、両方だ。

指定された時間にロータリーへ向かうと、黒い車の前に先生が立っていた。

黒い車は、派手ではないのに、一目で高そうだと分かる車だった。

白いシャツに、ネイビーのジャケット。

休日らしい服装なのに、相変わらず隙がない。

ただ立っているだけなのに、妙に絵になる。

美月は一瞬、見なかったことにしたくなった。

何これ。

普通に駅前で待っているだけなのに、なぜこんなに映画のワンシーンみたいになるのか。

先生がこちらに気づいて、少し笑った。

「おはよう」

美月は近づきながら、できるだけ普通の顔を作った。

「おはようございます」

先生の目が少し細くなる。

「病院の外で先生って呼ばれるのも距離あるけど、おはようございますもなかなかだね」

「朝なので」

「理由になってる?」

「善処します」

先生は楽しそうに笑った。

「今日はそれでいいよ」

美月は車を見た。

「……これ、先生の車ですか」

「うん」

「そうですか」

「引いた?」

「少し」

「正直だね」

「褒められても困ります」

先生は助手席のドアを開けた。

「どうぞ」

その仕草があまりにも自然で、美月は少しだけ警戒しながら乗り込んだ。

車内は静かで、ほのかに清潔な香りがした。

先生が運転席に乗り込み、車を発進させる。

運転する横顔まで絵になるのだから、本当に困る。

美月は、窓の外へ視線を逃がした。

高速に乗ると、景色が流れる速度が変わる。

休日の午前。

隣には先生。

目的地は横浜。

デート。

そう思った瞬間だけ、胸の奥が少し落ち着かなくなった。

「今日は、ただ歩くだけだから」

先生が前を向いたまま言った。

「赤レンガですか?」

「うん。雑貨とか、好きそうだから」

「なぜ分かるんですか」

「見てれば分かるよ」

美月は一瞬黙った。

そんなところまで見ているのか。

「……見すぎです」

「好きな人だからね」

美月は窓の外を向いた。

こういうことを、当たり前みたいに言う。

本当に、なんつー男。

少し間があって、先生が言った。

「車を回すついでに、少し待ち合わせっぽくしたかった」

美月は、窓の外を向いたまま固まった。

「……それは」

「恋人っぽいでしょ」

その言い方が、少しだけ照れているように聞こえた。

美月は答えに困った。

企んでいるのかと思った。

実際、少しは企んでいたのだろう。

でも、それだけではなかった。

先生も、恋人らしいことを少しずつ試している。

そう思ったら、胸の奥が妙にくすぐったくなった。

「……そうかもしれませんね」

小さく答えると、先生が少しだけ笑った気配がした。

横浜に着くと、赤レンガ倉庫の周りは休日らしい賑わいだった。

家族連れ。

カップル。

観光客。

海風に髪を押さえながら歩く人たち。

先生は車を停め、自然に助手席側へ回ってきた。

ドアを開けられる前に、美月は慌てて自分で開けた。

「できます」

「知ってる」

「じゃあ、しないでください」

「したかった」

「……そういうところです」

「どういうところ?」

「人を落ち着かなくさせるところです」

先生は少しだけ嬉しそうに笑った。

「それは悪くないね」

「悪いです」

車を降りて歩き出すと、先生の視線が美月の首元に落ちた。

美月は反射的にそこを押さえる。

今日は、表参道で先生が選んだネックレスをつけてきていた。

仕事では無理。

毎回も無理。

そう思っていたのに、休日に出かけるとなると、なぜか手に取ってしまった。

「今日、つけてくれたんだ」

「……休日なので」

「うん」

先生は少しだけ笑った。

「似合ってる」

「それは、もう聞きました」

「今日も言いたかった」

美月は返事をせず、少しだけ歩く速度を上げた。

赤レンガ倉庫の中に入ると、先生は本当に雑貨を見るつもりらしかった。

小さなガラスの置物。

アロマ。

陶器の器。

海を思わせる青い小物。

美月は、思っていたよりも楽しくなってしまった。

「これ、可愛い」

小さく呟いた瞬間、先生が隣で笑った。

「やっぱり好きだと思った」

「別に、買うとは言ってません」

「部屋に置く?」

「どこの部屋にですか」

「リビングとか」

「先生の家基準にしないでください」

「今、美月もいるでしょ」

「避難です」

「まだ?」

「……継続観察です」

先生は楽しそうに笑った。

こういう時間は、不思議だった。

病院でもなく。

先生の家でもなく。

ただ、二人で雑貨を見ている。

普通の恋人みたいだ。

そう思って、美月は慌てて別の棚を見た。

まだ、その言葉に慣れていない。

恋人。

その言葉は、先生の隣で歩くと、急に現実味を持つ。

雑貨店を出て、通路を歩いていると、美月は周囲の視線に気づいた。

正確には、先生に向けられる視線に。

通り過ぎる女性が、ちらりと先生を見る。

店員が、少し声のトーンを上げる。

カップルで歩いている女性まで、一瞬だけ先生を見て、それから隣の男性に話しかける。

あぁ。

この人は、どこにいても目立つのだ。

病院の中だけではない。

白衣を着ていなくても。

藤崎先生という肩書きがなくても。

ただそこにいるだけで、人の目を引く。

そういう人なのだ。

美月は、少しだけ歩く距離を調整した。

近づきすぎず、離れすぎず。

偶然一緒にいるようにも見える距離。

でも、完全な他人には見えない距離。

面倒くさい。

自分でそう思った。

先生はそれに気づいているのかいないのか、穏やかに歩いている。

たぶん、気づいている。

この人が気づいていないわけがない。

「美月?」

「何ですか」

「ぼーっとしてた」

「してません」

そう返したけれど、少しだけ声が硬くなった気がした。

自分でも分かる。

これは嫉妬なのか。

いや、違う。

先生が見られるのは当然だ。

白衣を着ていなくても、この人は目立つ。

そこに腹が立っているわけではない。

ただ、少し面白くない。

あの人たちが見ているのは、綺麗で、余裕があって、外側の整った藤崎理久だけだ。

中身は結構面倒な男なのに。

からかうし、ずるいし、意外と子どもっぽい。

そういうところを知らないくせに。

そう思ってしまった自分に、美月は少しだけ驚いた。

これは、何だろう。

独占欲とは違う気がする。

でも、面白くない。

確かに、面白くない。

「お手洗い、行ってきます」

美月はそう言って、少し離れた。

女子トイレは思ったより混んでいた。

ようやく戻ると、少し先に先生が見えた。

そして、その横に女性が二人立っていた。

道を聞いているようだった。

先生は、いつもの顔で応対している。

感じよく。

でも、入りすぎず。

距離を保って。

それは分かる。

分かるけれど、近づけなかった。

美月は足を止めた。

このまま行けば、先生の隣に立つことになる。

恋人です、という顔になる。

それはまだできない。

病院関係者がいるわけではない。

でも、外で先生の隣に自然に立つことに、まだ慣れていない。

美月は少し離れた場所で、スマホを取り出した。

見ていないふり。

完全に見ているのに。

画面には何も入ってこなかった。

やっぱり先生はモテる。

それはもう、仕方のないことだ。

仕方ない。

仕方ないけれど。

面白くない。

しばらくして、先生が女性たちに軽く会釈し、こちらへ歩いてきた。

美月はスマホの画面を見たまま、気づいていないふりをした。

「美月」

呼ばれて、ようやく顔を上げる。

「待たせた?」

「私が待たせたんです。お手洗い、混んでたので」

「うん」

先生の目が、少しだけ細くなる。

「戻ってきてたのは、見えたけど」

美月は言葉に詰まった。

気づいていた。

やっぱり、この人は気づいていた。

美月は思わず、さっき女性たちがいた方をちらりと見た。

「……相変わらずですね」

先生が少し笑う。

「道を聞かれただけだよ」

「聞きやすいんでしょうね」

「そう?」

「そうです」

「感じよさそうに見えるから?」

「自覚があるんですね」

「少しは」

美月は黙った。

先生は、美月の顔を少し覗き込むように見た。

「もしかして、面白くなかった?」

「別に」

「別に、の顔じゃないけど」

「普通です」

「普通でもないかな」

腹立たしい。

こういう時だけ、観察眼を発揮しないでほしい。

先生は少しだけ笑って、軽い声で言った。

「モテてごめんね」

美月は固まった。

開き直ってる。

開き直ってる、この人。

なんだか嫌な感じ。

美月は返事をせず、先に歩き出した。

「美月」

後ろから楽しそうな声が追ってくる。

「妬いてくれてるんだね」

美月はすぐに振り向いた。

「妬いてないですよ」

「うん」

「本当に妬いてないです」

「そういうことにしておくね」

美月は目を細めた。

「……その言い方、絶対に納得していませんよね」

「してないけど、今日は深追いしない」

「いつもそうしてください」

「それは善処します」

「私の言葉を使わないでください」

先生は笑った。

それがまた、腹立たしい。

少し歩いたところで、美月は小さくぼそっと言った。

「……女ホイホイ」

先生が一瞬黙った。

それから、すぐ隣に並んできて、楽しそうに覗き込む。

「じゃあ、美月も引っかかった?」

美月は足を止めた。

「私は対象外です」

「今、隣にいるのに?」

「不可抗力です」

「便利だね、その言葉」

「先生相手には便利なんです」

「じゃあ、俺は?」

「何がですか」

「美月にとって、俺は不可抗力?」

美月は言葉に詰まった。

そんな聞き方はずるい。

不可抗力。

たしかに、最初はそうだったのかもしれない。

火事。

避難。

同居。

雷。

合鍵。

珈琲。

ネックレス。

気づけば、いろいろなものに押されるようにして、ここまで来ていた。

でも、今ここにいるのは、もう不可抗力だけではない。

レストランで好きだと言ったのは、自分だ。

付き合うと決めたのも、自分だ。

今日、ここに来たのも。

たぶん、自分で選んだ。

「……最初は」

美月は小さく言った。

「最初は、不可抗力だったかもしれません」

先生は何も言わなかった。

ただ、美月を見ている。

「でも、今は」

言いかけて、美月は視線を逸らした。

全部言うのは、まだ少し恥ずかしい。

「……不可抗力だけでは、ないです」

先生の表情が、少しだけ柔らかくなった。

「そっか」

「それ以上、聞かないでください」

「うん。今日は聞かない」

「今日は、ですか」

「いつか聞く」

「……そういうところです」

先生は笑った。

けれど、その笑い方は、さっきより少しだけ優しかった。

赤レンガ倉庫の外へ出ると、海風が強かった。

広場には人が多い。

恋人たちが手を繋いで歩いている。

家族連れが写真を撮っている。

観光客が楽しそうに通り過ぎる。

その中で、美月と先生は、まだ少し距離を空けて歩いていた。

さっきの女性たちのことが、まだ少しだけ胸に残っている。

見られるのが嫌なわけではない。

先生が誰かに親切にするのが嫌なわけでもない。

でも、自分が隣に行けなかったことが、少しだけ悔しかった。

恋人なのに。

自分でそう決めたのに。

まだ、その場所に立つことに慣れていない。

先生が足を止めた。

「美月」

「何ですか」

「手、繋いでいい?」

美月は周囲を見た。

人は多い。

見られるかもしれない。

病院関係者が、絶対にいないとは言い切れない。

でも。

さっき近づけなかった自分が、少しだけ嫌だった。

離れて待つしかなかったことが、少しだけ面白くなかった。

先生の隣に立つことを、自分で避けたことが、少しだけ悔しかった。

美月は小さく息を吐いた。

「……少しだけです」

先生が手を差し出す。

美月は、その手を取った。

先生はからかわなかった。

ただ、嬉しそうに指を絡めた。

その静かな反応に、美月の胸が少し熱くなる。

手を繋いだだけ。

それだけなのに、さっきまで曖昧だった距離が、少しだけ形を持った気がした。

「先生」

「ん?」

「少しだけですから」

「うん」

「人が多いところだけです」

「うん」

「深い意味はありません」

先生が、少しだけ笑った。

「分かった」

本当に分かっているのかは怪しい。

けれど、先生はそれ以上何も言わなかった。

からかわない。

急かさない。

ただ、美月の歩幅に合わせて歩く。

そのことが、かえってずるい。

海風が、二人の間を通り抜ける。

繋いだ手は、思っていたより温かかった。

美月は前を向いたまま、ほんの少しだけ指先に力を込めた。

先生は何も言わなかった。

ただ、同じように少しだけ握り返してくる。

それだけで、十分だった。

女ホイホイ。

そう言ってしまったことを、美月は少しだけ後悔した。

けれど、否定しきれない自分もいる。

たくさんの人が振り返る、この人に。

自分も、たぶん引っかかった。

でも、ただ引っかかっただけではない。

この人の綺麗な外側だけではなく。

面倒で、意地悪で、少し子どもっぽくて。

それでも、ちゃんと自分を見てくれるところに。

気づいたら、逃げられなくなっていた。

それでも。

今、繋いだこの手は、誰かに捕まえられたものではない。

美月が、自分で取った手だった。

赤レンガの広場を、二人はゆっくり歩いていく。

少しだけ。

そう言ったはずの手は、まだ離せないままだった。