恋人になった。
そう言葉にしてしまえば簡単なのに、翌週の院内では何も変わらなかった。
藤崎先生と、綾瀬さん。
約束通り、必要以上に近づかない。
私語もしない。
仕事中は、仕事の顔をする。
それでよかった。
仕事中は、その線がある方が落ち着く。
先生もそれを分かっているから、院内では何も変えなかった。
だから美月も、何も変えなかった。
電子カルテを開く。
処置を確認する。
患者の訴えを聞く。
ナースコールに対応する。
そこに恋人という言葉は持ち込まない。
持ち込む必要もない。
けれど、廊下の向こうで白衣姿の先生を見かけた時だけ、ふと事実が浮かぶ。
あの人が、自分の恋人。
それは仕事の邪魔をするほどのものではない。
ただ、まだ少しだけ現実味のない事実として、胸の奥に置かれている。
そんな一週間が過ぎた土曜の朝。
先生は「少し先に出る」と言って、車を取りに行ってしまった。
今も美月は、避難の延長で先生の家にいる。
同じ家から出るのだから、一緒に向かえばいい。
そう思わなかったわけではない。
けれど、しばらくして先生からメッセージが届いた。
十時半。
駅のロータリー。
待ち合わせ場所だけが、短く送られてきていた。
恋人らしく待ち合わせをしたいのか。
それとも、何か企んでいるのか。
たぶん、両方だ。
指定された時間にロータリーへ向かうと、黒い車の前に先生が立っていた。
黒い車は、派手ではないのに、一目で高そうだと分かる車だった。
白いシャツに、ネイビーのジャケット。
休日らしい服装なのに、相変わらず隙がない。
ただ立っているだけなのに、妙に絵になる。
美月は一瞬、見なかったことにしたくなった。
何これ。
普通に駅前で待っているだけなのに、なぜこんなに映画のワンシーンみたいになるのか。
先生がこちらに気づいて、少し笑った。
「おはよう」
美月は近づきながら、できるだけ普通の顔を作った。
「おはようございます」
先生の目が少し細くなる。
「病院の外で先生って呼ばれるのも距離あるけど、おはようございますもなかなかだね」
「朝なので」
「理由になってる?」
「善処します」
先生は楽しそうに笑った。
「今日はそれでいいよ」
美月は車を見た。
「……これ、先生の車ですか」
「うん」
「そうですか」
「引いた?」
「少し」
「正直だね」
「褒められても困ります」
先生は助手席のドアを開けた。
「どうぞ」
その仕草があまりにも自然で、美月は少しだけ警戒しながら乗り込んだ。
車内は静かで、ほのかに清潔な香りがした。
先生が運転席に乗り込み、車を発進させる。
運転する横顔まで絵になるのだから、本当に困る。
美月は、窓の外へ視線を逃がした。
高速に乗ると、景色が流れる速度が変わる。
休日の午前。
隣には先生。
目的地は横浜。
デート。
そう思った瞬間だけ、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
「今日は、ただ歩くだけだから」
先生が前を向いたまま言った。
「赤レンガですか?」
「うん。雑貨とか、好きそうだから」
「なぜ分かるんですか」
「見てれば分かるよ」
美月は一瞬黙った。
そんなところまで見ているのか。
「……見すぎです」
「好きな人だからね」
美月は窓の外を向いた。
こういうことを、当たり前みたいに言う。
本当に、なんつー男。
少し間があって、先生が言った。
「車を回すついでに、少し待ち合わせっぽくしたかった」
美月は、窓の外を向いたまま固まった。
「……それは」
「恋人っぽいでしょ」
その言い方が、少しだけ照れているように聞こえた。
美月は答えに困った。
企んでいるのかと思った。
実際、少しは企んでいたのだろう。
でも、それだけではなかった。
先生も、恋人らしいことを少しずつ試している。
そう思ったら、胸の奥が妙にくすぐったくなった。
「……そうかもしれませんね」
小さく答えると、先生が少しだけ笑った気配がした。
横浜に着くと、赤レンガ倉庫の周りは休日らしい賑わいだった。
家族連れ。
カップル。
観光客。
海風に髪を押さえながら歩く人たち。
先生は車を停め、自然に助手席側へ回ってきた。
ドアを開けられる前に、美月は慌てて自分で開けた。
「できます」
「知ってる」
「じゃあ、しないでください」
「したかった」
「……そういうところです」
「どういうところ?」
「人を落ち着かなくさせるところです」
先生は少しだけ嬉しそうに笑った。
「それは悪くないね」
「悪いです」
車を降りて歩き出すと、先生の視線が美月の首元に落ちた。
美月は反射的にそこを押さえる。
今日は、表参道で先生が選んだネックレスをつけてきていた。
仕事では無理。
毎回も無理。
そう思っていたのに、休日に出かけるとなると、なぜか手に取ってしまった。
「今日、つけてくれたんだ」
「……休日なので」
「うん」
先生は少しだけ笑った。
「似合ってる」
「それは、もう聞きました」
「今日も言いたかった」
美月は返事をせず、少しだけ歩く速度を上げた。
赤レンガ倉庫の中に入ると、先生は本当に雑貨を見るつもりらしかった。
小さなガラスの置物。
アロマ。
陶器の器。
海を思わせる青い小物。
美月は、思っていたよりも楽しくなってしまった。
「これ、可愛い」
小さく呟いた瞬間、先生が隣で笑った。
「やっぱり好きだと思った」
「別に、買うとは言ってません」
「部屋に置く?」
「どこの部屋にですか」
「リビングとか」
「先生の家基準にしないでください」
「今、美月もいるでしょ」
「避難です」
「まだ?」
「……継続観察です」
先生は楽しそうに笑った。
こういう時間は、不思議だった。
病院でもなく。
先生の家でもなく。
ただ、二人で雑貨を見ている。
普通の恋人みたいだ。
そう思って、美月は慌てて別の棚を見た。
まだ、その言葉に慣れていない。
恋人。
その言葉は、先生の隣で歩くと、急に現実味を持つ。
雑貨店を出て、通路を歩いていると、美月は周囲の視線に気づいた。
正確には、先生に向けられる視線に。
通り過ぎる女性が、ちらりと先生を見る。
店員が、少し声のトーンを上げる。
カップルで歩いている女性まで、一瞬だけ先生を見て、それから隣の男性に話しかける。
あぁ。
この人は、どこにいても目立つのだ。
病院の中だけではない。
白衣を着ていなくても。
藤崎先生という肩書きがなくても。
ただそこにいるだけで、人の目を引く。
そういう人なのだ。
美月は、少しだけ歩く距離を調整した。
近づきすぎず、離れすぎず。
偶然一緒にいるようにも見える距離。
でも、完全な他人には見えない距離。
面倒くさい。
自分でそう思った。
先生はそれに気づいているのかいないのか、穏やかに歩いている。
たぶん、気づいている。
この人が気づいていないわけがない。
「美月?」
「何ですか」
「ぼーっとしてた」
「してません」
そう返したけれど、少しだけ声が硬くなった気がした。
自分でも分かる。
これは嫉妬なのか。
いや、違う。
先生が見られるのは当然だ。
白衣を着ていなくても、この人は目立つ。
そこに腹が立っているわけではない。
ただ、少し面白くない。
あの人たちが見ているのは、綺麗で、余裕があって、外側の整った藤崎理久だけだ。
中身は結構面倒な男なのに。
からかうし、ずるいし、意外と子どもっぽい。
そういうところを知らないくせに。
そう思ってしまった自分に、美月は少しだけ驚いた。
これは、何だろう。
独占欲とは違う気がする。
でも、面白くない。
確かに、面白くない。
「お手洗い、行ってきます」
美月はそう言って、少し離れた。
女子トイレは思ったより混んでいた。
ようやく戻ると、少し先に先生が見えた。
そして、その横に女性が二人立っていた。
道を聞いているようだった。
先生は、いつもの顔で応対している。
感じよく。
でも、入りすぎず。
距離を保って。
それは分かる。
分かるけれど、近づけなかった。
美月は足を止めた。
このまま行けば、先生の隣に立つことになる。
恋人です、という顔になる。
それはまだできない。
病院関係者がいるわけではない。
でも、外で先生の隣に自然に立つことに、まだ慣れていない。
美月は少し離れた場所で、スマホを取り出した。
見ていないふり。
完全に見ているのに。
画面には何も入ってこなかった。
やっぱり先生はモテる。
それはもう、仕方のないことだ。
仕方ない。
仕方ないけれど。
面白くない。
しばらくして、先生が女性たちに軽く会釈し、こちらへ歩いてきた。
美月はスマホの画面を見たまま、気づいていないふりをした。
「美月」
呼ばれて、ようやく顔を上げる。
「待たせた?」
「私が待たせたんです。お手洗い、混んでたので」
「うん」
先生の目が、少しだけ細くなる。
「戻ってきてたのは、見えたけど」
美月は言葉に詰まった。
気づいていた。
やっぱり、この人は気づいていた。
美月は思わず、さっき女性たちがいた方をちらりと見た。
「……相変わらずですね」
先生が少し笑う。
「道を聞かれただけだよ」
「聞きやすいんでしょうね」
「そう?」
「そうです」
「感じよさそうに見えるから?」
「自覚があるんですね」
「少しは」
美月は黙った。
先生は、美月の顔を少し覗き込むように見た。
「もしかして、面白くなかった?」
「別に」
「別に、の顔じゃないけど」
「普通です」
「普通でもないかな」
腹立たしい。
こういう時だけ、観察眼を発揮しないでほしい。
先生は少しだけ笑って、軽い声で言った。
「モテてごめんね」
美月は固まった。
開き直ってる。
開き直ってる、この人。
なんだか嫌な感じ。
美月は返事をせず、先に歩き出した。
「美月」
後ろから楽しそうな声が追ってくる。
「妬いてくれてるんだね」
美月はすぐに振り向いた。
「妬いてないですよ」
「うん」
「本当に妬いてないです」
「そういうことにしておくね」
美月は目を細めた。
「……その言い方、絶対に納得していませんよね」
「してないけど、今日は深追いしない」
「いつもそうしてください」
「それは善処します」
「私の言葉を使わないでください」
先生は笑った。
それがまた、腹立たしい。
少し歩いたところで、美月は小さくぼそっと言った。
「……女ホイホイ」
先生が一瞬黙った。
それから、すぐ隣に並んできて、楽しそうに覗き込む。
「じゃあ、美月も引っかかった?」
美月は足を止めた。
「私は対象外です」
「今、隣にいるのに?」
「不可抗力です」
「便利だね、その言葉」
「先生相手には便利なんです」
「じゃあ、俺は?」
「何がですか」
「美月にとって、俺は不可抗力?」
美月は言葉に詰まった。
そんな聞き方はずるい。
不可抗力。
たしかに、最初はそうだったのかもしれない。
火事。
避難。
同居。
雷。
合鍵。
珈琲。
ネックレス。
気づけば、いろいろなものに押されるようにして、ここまで来ていた。
でも、今ここにいるのは、もう不可抗力だけではない。
レストランで好きだと言ったのは、自分だ。
付き合うと決めたのも、自分だ。
今日、ここに来たのも。
たぶん、自分で選んだ。
「……最初は」
美月は小さく言った。
「最初は、不可抗力だったかもしれません」
先生は何も言わなかった。
ただ、美月を見ている。
「でも、今は」
言いかけて、美月は視線を逸らした。
全部言うのは、まだ少し恥ずかしい。
「……不可抗力だけでは、ないです」
先生の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「そっか」
「それ以上、聞かないでください」
「うん。今日は聞かない」
「今日は、ですか」
「いつか聞く」
「……そういうところです」
先生は笑った。
けれど、その笑い方は、さっきより少しだけ優しかった。
赤レンガ倉庫の外へ出ると、海風が強かった。
広場には人が多い。
恋人たちが手を繋いで歩いている。
家族連れが写真を撮っている。
観光客が楽しそうに通り過ぎる。
その中で、美月と先生は、まだ少し距離を空けて歩いていた。
さっきの女性たちのことが、まだ少しだけ胸に残っている。
見られるのが嫌なわけではない。
先生が誰かに親切にするのが嫌なわけでもない。
でも、自分が隣に行けなかったことが、少しだけ悔しかった。
恋人なのに。
自分でそう決めたのに。
まだ、その場所に立つことに慣れていない。
先生が足を止めた。
「美月」
「何ですか」
「手、繋いでいい?」
美月は周囲を見た。
人は多い。
見られるかもしれない。
病院関係者が、絶対にいないとは言い切れない。
でも。
さっき近づけなかった自分が、少しだけ嫌だった。
離れて待つしかなかったことが、少しだけ面白くなかった。
先生の隣に立つことを、自分で避けたことが、少しだけ悔しかった。
美月は小さく息を吐いた。
「……少しだけです」
先生が手を差し出す。
美月は、その手を取った。
先生はからかわなかった。
ただ、嬉しそうに指を絡めた。
その静かな反応に、美月の胸が少し熱くなる。
手を繋いだだけ。
それだけなのに、さっきまで曖昧だった距離が、少しだけ形を持った気がした。
「先生」
「ん?」
「少しだけですから」
「うん」
「人が多いところだけです」
「うん」
「深い意味はありません」
先生が、少しだけ笑った。
「分かった」
本当に分かっているのかは怪しい。
けれど、先生はそれ以上何も言わなかった。
からかわない。
急かさない。
ただ、美月の歩幅に合わせて歩く。
そのことが、かえってずるい。
海風が、二人の間を通り抜ける。
繋いだ手は、思っていたより温かかった。
美月は前を向いたまま、ほんの少しだけ指先に力を込めた。
先生は何も言わなかった。
ただ、同じように少しだけ握り返してくる。
それだけで、十分だった。
女ホイホイ。
そう言ってしまったことを、美月は少しだけ後悔した。
けれど、否定しきれない自分もいる。
たくさんの人が振り返る、この人に。
自分も、たぶん引っかかった。
でも、ただ引っかかっただけではない。
この人の綺麗な外側だけではなく。
面倒で、意地悪で、少し子どもっぽくて。
それでも、ちゃんと自分を見てくれるところに。
気づいたら、逃げられなくなっていた。
それでも。
今、繋いだこの手は、誰かに捕まえられたものではない。
美月が、自分で取った手だった。
赤レンガの広場を、二人はゆっくり歩いていく。
少しだけ。
そう言ったはずの手は、まだ離せないままだった。
そう言葉にしてしまえば簡単なのに、翌週の院内では何も変わらなかった。
藤崎先生と、綾瀬さん。
約束通り、必要以上に近づかない。
私語もしない。
仕事中は、仕事の顔をする。
それでよかった。
仕事中は、その線がある方が落ち着く。
先生もそれを分かっているから、院内では何も変えなかった。
だから美月も、何も変えなかった。
電子カルテを開く。
処置を確認する。
患者の訴えを聞く。
ナースコールに対応する。
そこに恋人という言葉は持ち込まない。
持ち込む必要もない。
けれど、廊下の向こうで白衣姿の先生を見かけた時だけ、ふと事実が浮かぶ。
あの人が、自分の恋人。
それは仕事の邪魔をするほどのものではない。
ただ、まだ少しだけ現実味のない事実として、胸の奥に置かれている。
そんな一週間が過ぎた土曜の朝。
先生は「少し先に出る」と言って、車を取りに行ってしまった。
今も美月は、避難の延長で先生の家にいる。
同じ家から出るのだから、一緒に向かえばいい。
そう思わなかったわけではない。
けれど、しばらくして先生からメッセージが届いた。
十時半。
駅のロータリー。
待ち合わせ場所だけが、短く送られてきていた。
恋人らしく待ち合わせをしたいのか。
それとも、何か企んでいるのか。
たぶん、両方だ。
指定された時間にロータリーへ向かうと、黒い車の前に先生が立っていた。
黒い車は、派手ではないのに、一目で高そうだと分かる車だった。
白いシャツに、ネイビーのジャケット。
休日らしい服装なのに、相変わらず隙がない。
ただ立っているだけなのに、妙に絵になる。
美月は一瞬、見なかったことにしたくなった。
何これ。
普通に駅前で待っているだけなのに、なぜこんなに映画のワンシーンみたいになるのか。
先生がこちらに気づいて、少し笑った。
「おはよう」
美月は近づきながら、できるだけ普通の顔を作った。
「おはようございます」
先生の目が少し細くなる。
「病院の外で先生って呼ばれるのも距離あるけど、おはようございますもなかなかだね」
「朝なので」
「理由になってる?」
「善処します」
先生は楽しそうに笑った。
「今日はそれでいいよ」
美月は車を見た。
「……これ、先生の車ですか」
「うん」
「そうですか」
「引いた?」
「少し」
「正直だね」
「褒められても困ります」
先生は助手席のドアを開けた。
「どうぞ」
その仕草があまりにも自然で、美月は少しだけ警戒しながら乗り込んだ。
車内は静かで、ほのかに清潔な香りがした。
先生が運転席に乗り込み、車を発進させる。
運転する横顔まで絵になるのだから、本当に困る。
美月は、窓の外へ視線を逃がした。
高速に乗ると、景色が流れる速度が変わる。
休日の午前。
隣には先生。
目的地は横浜。
デート。
そう思った瞬間だけ、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
「今日は、ただ歩くだけだから」
先生が前を向いたまま言った。
「赤レンガですか?」
「うん。雑貨とか、好きそうだから」
「なぜ分かるんですか」
「見てれば分かるよ」
美月は一瞬黙った。
そんなところまで見ているのか。
「……見すぎです」
「好きな人だからね」
美月は窓の外を向いた。
こういうことを、当たり前みたいに言う。
本当に、なんつー男。
少し間があって、先生が言った。
「車を回すついでに、少し待ち合わせっぽくしたかった」
美月は、窓の外を向いたまま固まった。
「……それは」
「恋人っぽいでしょ」
その言い方が、少しだけ照れているように聞こえた。
美月は答えに困った。
企んでいるのかと思った。
実際、少しは企んでいたのだろう。
でも、それだけではなかった。
先生も、恋人らしいことを少しずつ試している。
そう思ったら、胸の奥が妙にくすぐったくなった。
「……そうかもしれませんね」
小さく答えると、先生が少しだけ笑った気配がした。
横浜に着くと、赤レンガ倉庫の周りは休日らしい賑わいだった。
家族連れ。
カップル。
観光客。
海風に髪を押さえながら歩く人たち。
先生は車を停め、自然に助手席側へ回ってきた。
ドアを開けられる前に、美月は慌てて自分で開けた。
「できます」
「知ってる」
「じゃあ、しないでください」
「したかった」
「……そういうところです」
「どういうところ?」
「人を落ち着かなくさせるところです」
先生は少しだけ嬉しそうに笑った。
「それは悪くないね」
「悪いです」
車を降りて歩き出すと、先生の視線が美月の首元に落ちた。
美月は反射的にそこを押さえる。
今日は、表参道で先生が選んだネックレスをつけてきていた。
仕事では無理。
毎回も無理。
そう思っていたのに、休日に出かけるとなると、なぜか手に取ってしまった。
「今日、つけてくれたんだ」
「……休日なので」
「うん」
先生は少しだけ笑った。
「似合ってる」
「それは、もう聞きました」
「今日も言いたかった」
美月は返事をせず、少しだけ歩く速度を上げた。
赤レンガ倉庫の中に入ると、先生は本当に雑貨を見るつもりらしかった。
小さなガラスの置物。
アロマ。
陶器の器。
海を思わせる青い小物。
美月は、思っていたよりも楽しくなってしまった。
「これ、可愛い」
小さく呟いた瞬間、先生が隣で笑った。
「やっぱり好きだと思った」
「別に、買うとは言ってません」
「部屋に置く?」
「どこの部屋にですか」
「リビングとか」
「先生の家基準にしないでください」
「今、美月もいるでしょ」
「避難です」
「まだ?」
「……継続観察です」
先生は楽しそうに笑った。
こういう時間は、不思議だった。
病院でもなく。
先生の家でもなく。
ただ、二人で雑貨を見ている。
普通の恋人みたいだ。
そう思って、美月は慌てて別の棚を見た。
まだ、その言葉に慣れていない。
恋人。
その言葉は、先生の隣で歩くと、急に現実味を持つ。
雑貨店を出て、通路を歩いていると、美月は周囲の視線に気づいた。
正確には、先生に向けられる視線に。
通り過ぎる女性が、ちらりと先生を見る。
店員が、少し声のトーンを上げる。
カップルで歩いている女性まで、一瞬だけ先生を見て、それから隣の男性に話しかける。
あぁ。
この人は、どこにいても目立つのだ。
病院の中だけではない。
白衣を着ていなくても。
藤崎先生という肩書きがなくても。
ただそこにいるだけで、人の目を引く。
そういう人なのだ。
美月は、少しだけ歩く距離を調整した。
近づきすぎず、離れすぎず。
偶然一緒にいるようにも見える距離。
でも、完全な他人には見えない距離。
面倒くさい。
自分でそう思った。
先生はそれに気づいているのかいないのか、穏やかに歩いている。
たぶん、気づいている。
この人が気づいていないわけがない。
「美月?」
「何ですか」
「ぼーっとしてた」
「してません」
そう返したけれど、少しだけ声が硬くなった気がした。
自分でも分かる。
これは嫉妬なのか。
いや、違う。
先生が見られるのは当然だ。
白衣を着ていなくても、この人は目立つ。
そこに腹が立っているわけではない。
ただ、少し面白くない。
あの人たちが見ているのは、綺麗で、余裕があって、外側の整った藤崎理久だけだ。
中身は結構面倒な男なのに。
からかうし、ずるいし、意外と子どもっぽい。
そういうところを知らないくせに。
そう思ってしまった自分に、美月は少しだけ驚いた。
これは、何だろう。
独占欲とは違う気がする。
でも、面白くない。
確かに、面白くない。
「お手洗い、行ってきます」
美月はそう言って、少し離れた。
女子トイレは思ったより混んでいた。
ようやく戻ると、少し先に先生が見えた。
そして、その横に女性が二人立っていた。
道を聞いているようだった。
先生は、いつもの顔で応対している。
感じよく。
でも、入りすぎず。
距離を保って。
それは分かる。
分かるけれど、近づけなかった。
美月は足を止めた。
このまま行けば、先生の隣に立つことになる。
恋人です、という顔になる。
それはまだできない。
病院関係者がいるわけではない。
でも、外で先生の隣に自然に立つことに、まだ慣れていない。
美月は少し離れた場所で、スマホを取り出した。
見ていないふり。
完全に見ているのに。
画面には何も入ってこなかった。
やっぱり先生はモテる。
それはもう、仕方のないことだ。
仕方ない。
仕方ないけれど。
面白くない。
しばらくして、先生が女性たちに軽く会釈し、こちらへ歩いてきた。
美月はスマホの画面を見たまま、気づいていないふりをした。
「美月」
呼ばれて、ようやく顔を上げる。
「待たせた?」
「私が待たせたんです。お手洗い、混んでたので」
「うん」
先生の目が、少しだけ細くなる。
「戻ってきてたのは、見えたけど」
美月は言葉に詰まった。
気づいていた。
やっぱり、この人は気づいていた。
美月は思わず、さっき女性たちがいた方をちらりと見た。
「……相変わらずですね」
先生が少し笑う。
「道を聞かれただけだよ」
「聞きやすいんでしょうね」
「そう?」
「そうです」
「感じよさそうに見えるから?」
「自覚があるんですね」
「少しは」
美月は黙った。
先生は、美月の顔を少し覗き込むように見た。
「もしかして、面白くなかった?」
「別に」
「別に、の顔じゃないけど」
「普通です」
「普通でもないかな」
腹立たしい。
こういう時だけ、観察眼を発揮しないでほしい。
先生は少しだけ笑って、軽い声で言った。
「モテてごめんね」
美月は固まった。
開き直ってる。
開き直ってる、この人。
なんだか嫌な感じ。
美月は返事をせず、先に歩き出した。
「美月」
後ろから楽しそうな声が追ってくる。
「妬いてくれてるんだね」
美月はすぐに振り向いた。
「妬いてないですよ」
「うん」
「本当に妬いてないです」
「そういうことにしておくね」
美月は目を細めた。
「……その言い方、絶対に納得していませんよね」
「してないけど、今日は深追いしない」
「いつもそうしてください」
「それは善処します」
「私の言葉を使わないでください」
先生は笑った。
それがまた、腹立たしい。
少し歩いたところで、美月は小さくぼそっと言った。
「……女ホイホイ」
先生が一瞬黙った。
それから、すぐ隣に並んできて、楽しそうに覗き込む。
「じゃあ、美月も引っかかった?」
美月は足を止めた。
「私は対象外です」
「今、隣にいるのに?」
「不可抗力です」
「便利だね、その言葉」
「先生相手には便利なんです」
「じゃあ、俺は?」
「何がですか」
「美月にとって、俺は不可抗力?」
美月は言葉に詰まった。
そんな聞き方はずるい。
不可抗力。
たしかに、最初はそうだったのかもしれない。
火事。
避難。
同居。
雷。
合鍵。
珈琲。
ネックレス。
気づけば、いろいろなものに押されるようにして、ここまで来ていた。
でも、今ここにいるのは、もう不可抗力だけではない。
レストランで好きだと言ったのは、自分だ。
付き合うと決めたのも、自分だ。
今日、ここに来たのも。
たぶん、自分で選んだ。
「……最初は」
美月は小さく言った。
「最初は、不可抗力だったかもしれません」
先生は何も言わなかった。
ただ、美月を見ている。
「でも、今は」
言いかけて、美月は視線を逸らした。
全部言うのは、まだ少し恥ずかしい。
「……不可抗力だけでは、ないです」
先生の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「そっか」
「それ以上、聞かないでください」
「うん。今日は聞かない」
「今日は、ですか」
「いつか聞く」
「……そういうところです」
先生は笑った。
けれど、その笑い方は、さっきより少しだけ優しかった。
赤レンガ倉庫の外へ出ると、海風が強かった。
広場には人が多い。
恋人たちが手を繋いで歩いている。
家族連れが写真を撮っている。
観光客が楽しそうに通り過ぎる。
その中で、美月と先生は、まだ少し距離を空けて歩いていた。
さっきの女性たちのことが、まだ少しだけ胸に残っている。
見られるのが嫌なわけではない。
先生が誰かに親切にするのが嫌なわけでもない。
でも、自分が隣に行けなかったことが、少しだけ悔しかった。
恋人なのに。
自分でそう決めたのに。
まだ、その場所に立つことに慣れていない。
先生が足を止めた。
「美月」
「何ですか」
「手、繋いでいい?」
美月は周囲を見た。
人は多い。
見られるかもしれない。
病院関係者が、絶対にいないとは言い切れない。
でも。
さっき近づけなかった自分が、少しだけ嫌だった。
離れて待つしかなかったことが、少しだけ面白くなかった。
先生の隣に立つことを、自分で避けたことが、少しだけ悔しかった。
美月は小さく息を吐いた。
「……少しだけです」
先生が手を差し出す。
美月は、その手を取った。
先生はからかわなかった。
ただ、嬉しそうに指を絡めた。
その静かな反応に、美月の胸が少し熱くなる。
手を繋いだだけ。
それだけなのに、さっきまで曖昧だった距離が、少しだけ形を持った気がした。
「先生」
「ん?」
「少しだけですから」
「うん」
「人が多いところだけです」
「うん」
「深い意味はありません」
先生が、少しだけ笑った。
「分かった」
本当に分かっているのかは怪しい。
けれど、先生はそれ以上何も言わなかった。
からかわない。
急かさない。
ただ、美月の歩幅に合わせて歩く。
そのことが、かえってずるい。
海風が、二人の間を通り抜ける。
繋いだ手は、思っていたより温かかった。
美月は前を向いたまま、ほんの少しだけ指先に力を込めた。
先生は何も言わなかった。
ただ、同じように少しだけ握り返してくる。
それだけで、十分だった。
女ホイホイ。
そう言ってしまったことを、美月は少しだけ後悔した。
けれど、否定しきれない自分もいる。
たくさんの人が振り返る、この人に。
自分も、たぶん引っかかった。
でも、ただ引っかかっただけではない。
この人の綺麗な外側だけではなく。
面倒で、意地悪で、少し子どもっぽくて。
それでも、ちゃんと自分を見てくれるところに。
気づいたら、逃げられなくなっていた。
それでも。
今、繋いだこの手は、誰かに捕まえられたものではない。
美月が、自分で取った手だった。
赤レンガの広場を、二人はゆっくり歩いていく。
少しだけ。
そう言ったはずの手は、まだ離せないままだった。
