数日後。
美月は院内食堂で、同僚と昼食をとっていた。
日勤の合間の短い休憩だった。
トレーの上には、あまり味を覚えていない定食が載っている。
午前中は入退院が重なり、検査出しも多かった。
午後には処置が二件、退院指導が一件、夕方までに終わらせたい記録もある。
頭の中では、すでに午後の業務が順番待ちをしていた。
それでも、食堂のざわめきの中にいると、少しだけ病棟から離れた気がする。
向かいに座る同僚たちは、いつものように病棟の話や医師の話をしていた。
「昨日の準夜、ほんと大変だったんだから」
「分かる。急変って、なぜか重なるよね」
「そういえば、外科の先生、誰か戻ってきたんだっけ?」
その時、隣の同僚が急に小声になった。
「あ、藤崎先生だ」
「外科の?」
「そうそう。戻ってきたばかりの」
「かっこいいよね」
「分かる。なんか余裕あるよね」
「絶対モテるって分かってるよね、あれ」
美月は、つられて何気なく視線を向けた。
そして、固まった。
……あの人だ。
駅ビルで急病人に対応した時の男性。
一般人だと思って、通路を空けるように頼んだ。
AED対応も、周囲の人への声かけも、当然のように一緒にやってくれた。
途中から妙に手際がいいとは思った。
でも、まさか。
医者。
しかも、同じ病院の外科医。
藤崎先生。
美月は一瞬で視線を戻した。
無理。
気まずい。
あの人に、自分は普通に指示を出した。
そちら側を空けてください、とか。
救急隊が入れるように通路を空けてください、とか。
AEDを装着しましょう、とか。
相手が外科医だと知っていたら、もう少し言い方を考えたかもしれない。
いや、考えないかもしれない。
あの場では、必要なことを言っただけだ。
それでも、気まずいものは気まずい。
知らない。
私は知らない。
あんな人は知らない。
美月は何事もなかったように、味噌汁を飲もうとした。
その時、食堂を出ようとしていた藤崎理久が、ふとこちらに気づいた。
立ち止まりはしなかった。
声もかけなかった。
ただ一瞬、目が合った。
そして、彼が少しだけ笑った。
「あ」と気づいたみたいな、控えめな笑み。
周囲に見せるためではなく、美月にだけ届くくらいの。
美月は即座に目を逸らした。
気づかれた。
絶対、気づかれた。
無理。
知らない。
私は知らない。
しかし、隣の同僚が微妙に気づいた。
「……今、藤崎先生こっち見なかった?」
「え、見てないよ」
美月は早口で返した。
「いや、なんか笑ってなかった?」
「知らない知らない。あんな人は知らない」
「否定早くない?」
「知らない」
「二回言った」
「知らない」
「三回目」
同僚が怪しむ目で美月を見る。
美月は、定食の小鉢に視線を落とした。
最悪だ。
顔に出ている。
その日は、結局それ以上何も起きなかった。
藤崎理久は追ってこなかった。
声もかけてこなかった。
それが、逆に気になった。
気にしていない。
気にしていないけれど。
あの控えめな笑みだけが、午後の記録中も、なぜか頭の隅に残っていた。
美月は院内食堂で、同僚と昼食をとっていた。
日勤の合間の短い休憩だった。
トレーの上には、あまり味を覚えていない定食が載っている。
午前中は入退院が重なり、検査出しも多かった。
午後には処置が二件、退院指導が一件、夕方までに終わらせたい記録もある。
頭の中では、すでに午後の業務が順番待ちをしていた。
それでも、食堂のざわめきの中にいると、少しだけ病棟から離れた気がする。
向かいに座る同僚たちは、いつものように病棟の話や医師の話をしていた。
「昨日の準夜、ほんと大変だったんだから」
「分かる。急変って、なぜか重なるよね」
「そういえば、外科の先生、誰か戻ってきたんだっけ?」
その時、隣の同僚が急に小声になった。
「あ、藤崎先生だ」
「外科の?」
「そうそう。戻ってきたばかりの」
「かっこいいよね」
「分かる。なんか余裕あるよね」
「絶対モテるって分かってるよね、あれ」
美月は、つられて何気なく視線を向けた。
そして、固まった。
……あの人だ。
駅ビルで急病人に対応した時の男性。
一般人だと思って、通路を空けるように頼んだ。
AED対応も、周囲の人への声かけも、当然のように一緒にやってくれた。
途中から妙に手際がいいとは思った。
でも、まさか。
医者。
しかも、同じ病院の外科医。
藤崎先生。
美月は一瞬で視線を戻した。
無理。
気まずい。
あの人に、自分は普通に指示を出した。
そちら側を空けてください、とか。
救急隊が入れるように通路を空けてください、とか。
AEDを装着しましょう、とか。
相手が外科医だと知っていたら、もう少し言い方を考えたかもしれない。
いや、考えないかもしれない。
あの場では、必要なことを言っただけだ。
それでも、気まずいものは気まずい。
知らない。
私は知らない。
あんな人は知らない。
美月は何事もなかったように、味噌汁を飲もうとした。
その時、食堂を出ようとしていた藤崎理久が、ふとこちらに気づいた。
立ち止まりはしなかった。
声もかけなかった。
ただ一瞬、目が合った。
そして、彼が少しだけ笑った。
「あ」と気づいたみたいな、控えめな笑み。
周囲に見せるためではなく、美月にだけ届くくらいの。
美月は即座に目を逸らした。
気づかれた。
絶対、気づかれた。
無理。
知らない。
私は知らない。
しかし、隣の同僚が微妙に気づいた。
「……今、藤崎先生こっち見なかった?」
「え、見てないよ」
美月は早口で返した。
「いや、なんか笑ってなかった?」
「知らない知らない。あんな人は知らない」
「否定早くない?」
「知らない」
「二回言った」
「知らない」
「三回目」
同僚が怪しむ目で美月を見る。
美月は、定食の小鉢に視線を落とした。
最悪だ。
顔に出ている。
その日は、結局それ以上何も起きなかった。
藤崎理久は追ってこなかった。
声もかけてこなかった。
それが、逆に気になった。
気にしていない。
気にしていないけれど。
あの控えめな笑みだけが、午後の記録中も、なぜか頭の隅に残っていた。
