美月は席に着いたまま、しばらく言葉を失っていた。
窓の外には、夜景が広がっている。
表参道を歩いていたはずだった。
少し外の空気を吸って、雑貨を見るくらいのつもりだった。
それなのに、病院関係者らしき人から逃げるために先生の手を引き、飛び込んだ先は高級ジュエリー店。
あれよあれよという間に、先生の買い物として、ネックレスが美月の首元に残った。
飼い猫に首輪くらいに思って、なんて言われた。
そして今。
なぜか、夜景の見えるレストランにいる。
照明は落ち着いていて、テーブルの上のグラスは薄く光っている。
周囲の声は静かで、運ばれてくる料理も、何もかもが綺麗だった。
一体、どうして。
藤崎理久、どんだけ王子様なの。
美月は胸元にそっと意識を向けた。
小さなネックレスが、さっきからずっと肌に触れている。
さっき、そのまま着けることになった。
けれど、店を出たあとも、外そうとはしなかった。
それなのに、こうしてレストランの席に座ると、その意味が急に重くなる。
こんなプレゼントをされて。
こんな素敵なレストランに連れてこられて。
恋人と、恋人ではない境界は、一体どこにあるのだろう。
美月はグラスを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……先ほどは、ありがとうございました」
ようやく、それだけ言えた。
先生は、少しだけ目元を緩める。
「うん」
それ以上、先生は何も言わなかった。
その静けさが、かえって困った。
分かっている。
これは嬉しい。
こんなことをされたら、普通は心が動く。
いや、もうかなり揺さぶられている。
ちらっと先生を見る。
夜景を背にして、先生は相変わらず絵になる。
こういう場が似合いすぎる。
何もかもが自然で、スマートで、ずるい。
美月は、つい可愛くないことを言ってしまった。
「……もっと、素直に喜んでくれる女性にしてあげた方が、嬉しい反応がもらえると思いますが」
言った瞬間、少しだけ後悔した。
先生が、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしたから。
それは、いつものからかう顔ではなかった。
表面だけなら、まだ笑っている。
でも、その奥に一瞬、違うものが見えた気がした。
先生はグラスに視線を落とした。
「そうだね」
静かな声だった。
「顔とか、ステータスとか、バックグラウンドとか。そういうのを好む人は、多いと思う」
美月は、言葉を返せなかった。
「自分で言うのも変だけど、俺はたぶん、世の中では恵まれている方なんだと思う」
先生は、少しだけ笑った。
「だから、人が求めているものを差し出すのは、わりと簡単なんだよ」
「……先生、それ、世界中の人を敵に回す発言ですね」
「だよね」
先生は笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなる。
「でも、それって俺を見てるのかな」
その言葉が、美月の胸に刺さった。
俺を見てるのかな。
その響きは、思った以上に深いところへ落ちてきた。
綺麗なレストラン。
完璧な所作。
誰にでも向けられるような余裕のある微笑み。
その奥に、少しだけ寂しさが見える。
たぶん、この人はずっと見られてきた。
顔も。
肩書きも。
育ちも。
医師という立場も。
でも、その奥にいる藤崎理久本人まで、ちゃんと見ようとする人がどれだけいたのだろう。
そう思った瞬間、美月の胸の奥にも、似たような痛みがかすかに触れた。
見られているのに、見られていない。
求められているのに、自分ではないものを求められている。
その感覚を、美月は知らないわけではなかった。
自分の前に置かれるもの。
自分より先に見られるもの。
そこから逃げるように、美月はここまで来た。
けれど、今はまだ、そのことを言葉にはできない。
美月はグラスに視線を落とした。
先生は、少しだけ息を吐く。
「人の心って、そんなに簡単じゃないことも知ってる。自分では満足してもらえていると思っていても、相手はそうじゃないこともある」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「多少のことでは困らないと思ってたんだけどね」
先生は、そこで美月を見た。
「自分でも驚くくらい、美月に困ってる」
「……わ、私にですか?」
「うん」
先生は少し笑う。
「前にも言ったよね。器用にできないって」
美月は、その言葉を思い出した。
器用にできない。
あの時も、先生はそう言った。
「……十分、器用に見えますけど」
「器用に見せるのは得意だからね」
「そうですね。みんな、騙されていますよね」
先生が目を細める。
「言うね」
「本当はエセ王子なのに」
「ひどいな」
「ひどくありません。そうやって感じの良さそうにしているけれど、本当は結構面倒な人です」
「面倒?」
「はい」
「じゃあ、美月は」
先生が、少しだけ声を落とした。
「その面倒な俺を見てるの?」
美月は、言葉に詰まった。
からかわれているのではない。
今の問いは、いつもの軽い調子ではなかった。
さっき先生が言った言葉が、もう一度胸の奥で響く。
でも、それって俺を見てるのかな。
美月は、自分の指先を見た。
見ている。
たぶん、見てしまっている。
病棟で見せる整った顔だけではなく。
誰にでも向ける王子の笑顔だけではなく。
意地悪で。
少し子どもっぽくて。
ずるくて。
でも、踏み込みすぎた時にはちゃんと止まる人。
美月が黙っていると、先生が少しだけ笑った。
「困る質問だった?」
「……困ります」
「俺も困ってる」
その声が、思ったよりやわらかかった。
「美月に、どう見られているのかが気になる」
美月は顔を上げた。
先生は、まっすぐにこちらを見ている。
逃げ道を塞ぐようでいて、でも、答えを奪う目ではなかった。
ただ、待っている。
美月が自分で言葉を選ぶのを。
「……感じよく見せている先生より」
声が、思ったより小さくなった。
「そのままの先生の方が、私は好っ……」
そこで、声が止まった。
しまった。
美月は息を呑んだ。
言いかけた。
今、確かに言いかけた。
先生も、少しだけ意外そうな顔をしていた。
からかわれると思った。
いつものように、笑って逃げ道を塞がれると思った。
でも、先生は何も言わなかった。
ただ、少し困ったような、祈るような顔で、美月を見ている。
一層、からかってくれたらよかった。
その方が、ずっと楽だった。
でも。
美月は、ゆっくりと息を吸った。
もう、自分の気持ちを認めるしかない。
騙されないと思っていた。
王子になんて落ちないと思っていた。
でも、先生は美月を騙す気なんて、たぶんなかった。
美月に見せている顔は、きっと本質そのものだった。
少し面倒で。
少し意地悪で。
逃げ道を上手に塞いで。
でも、優しくて。
温かくて。
ちゃんと、美月自身を見てくれる人。
あの日、帰りたくないと思ってしまった。
みんなに見せる顔で見られたくないと思ってしまった。
その時点で、もう分かっていたのかもしれない。
ただ、自分で認めるのが怖かっただけで。
「先生」
声が、少し震えた。
先生は何も言わずに待っている。
「先生のことが」
一度、言葉が詰まる。
でも、今度は逃げなかった。
「好きです」
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥にあったものが、ようやく形を持った気がした。
この感情に名前をつけるなら、それはきっと恋だ。
「ちょっと面倒で、ちょっと意地悪で、すぐ揶揄ってきて、逃げ道を塞ぐのが上手で」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「でも、優しくて、温かくて、ちゃんと私を見てくれる先生のことが……私は、好きです」
言葉にしたら、もう戻れない。
そう思っていた。
でも、戻れない場所まで来ていたのは、本当はずっと前からだったのかもしれない。
あの日、帰らないと決めた時。
合鍵をもう一度受け取った時。
首元のネックレスを外さなかった時。
答えは、少しずつ積み重なっていた。
今、ようやくそれを言葉にしただけだった。
先生は、しばらく黙っていた。
あれだけ好きと言わせようとしていたのに。
すぐに笑うことも、からかうこともしなかった。
困ったような表情にも見える。
でも、それ以上に、どこか安心したようにも見えた。
「……ありがとう」
低い声だった。
美月は瞬きをする。
感謝。
何に対する感謝なのだろう。
告白に対してなのか。
見つけたことに対してなのか。
それとも、先生自身を見たことに対してなのか。
先生は、ゆっくり息を吐いた。
「うん」
何かを確かめるような声だった。
「嬉しい。すごく嬉しい」
その言葉は、どこか遠くを見つめているようにも聞こえた。
でも同時に、何かをひとつずつ噛みしめているようにも見えた。
やがて、先生は美月を見た。
いつもの完璧な微笑みではなかった。
病棟で見せる穏やかな顔でもなかった。
藤崎理久自身の顔だった。
「俺も好きだよ、美月」
美月は息を止めた。
ああ、やっぱり綺麗だ。
この微笑みに、ときめかないわけがない。
こんなふうに見つめられて、心を奪われない人はいないだろう。
でも、それだけではない。
この人の面倒なところも。
意地悪なところも。
少し子どもっぽいところも。
寂しそうに笑うところも。
その全部を知って、それでも抗えないほど惹かれている。
先生は、まっすぐに美月を見た。
「俺と、付き合ってください」
その言葉で、美月は初めて現実に戻った。
付き合う。
恋人。
こんな王子と呼ばれている人に、好きだと言われている。
恋人になってほしいと言われている。
それがどれだけ幸せなことなのか、分からないはずがない。
でも、同時に。
色々なものが浮かんでくる。
職場。
院内で顔を合わせる場面。
藤崎先生のファン。
噂。
医局。
周囲の目。
先生は外科医で、自分は看護師。
同じ病院。
院内で関わることもある。
現実は、そんなにうまくはいかない。
「また、色々考えてる」
先生の声で、美月は顔を上げた。
「……」
「なんとなく、思考は読めるよ」
先生は、からかうようには笑わなかった。
「職場のこと。院内で顔を合わせること。噂になること。俺の立場と、美月の立場」
美月は、何も言えなかった。
全部、当たっていた。
「それは、ちゃんと守る」
先生の声は、静かだった。
「職場では、今まで通りにする。藤崎先生と綾瀬さん。必要以上に近づかないし、噂になるようなこともしない」
美月は、息を止めた。
「美月が働きにくくなるようなことは、絶対にしない」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
「それでも不安なことがあったら、その都度ちゃんと話す。俺が勝手に決めない」
先生は、まっすぐに美月を見ていた。
「美月の仕事も、立場も、ちゃんと大事にしたい」
ずるいのに。
からかうのに。
逃げ道を塞ぐのに。
一番大事なところは、いつもちゃんと守ってくれる。
恋人になりたいと言われているのに。
その先に、ちゃんと自分の仕事がある。
生活がある。
立場がある。
それを壊さないようにすると、先生は言ってくれている。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
美月は、少しだけ姿勢を正した。
「では、改めまして」
先生が見ている。
美月は小さく息を吸った。
「お付き合い、よろしくお願いします」
言った瞬間、先生の顔が今までで一番自然にほどけた。
「うん。よろしく」
その笑顔を見て、美月は少しだけ胸が熱くなった。
この人は、本当に嬉しそうに笑うのだ。
いつもの完璧な微笑みではなく。
病棟で見せる穏やかな顔でもなく。
藤崎理久自身の顔で。
少し間があって、先生がグラスを持つ。
「じゃあ、恋人記念に」
美月も、少し遅れてグラスを持つ。
「……はい」
グラスが軽く触れた。
小さな音がして、夜景の光が揺れる。
それだけで十分だったはずなのに、先生がふいに言った。
「あと、美月が好きって言ってくれた記念」
美月はすぐに顔を上げた。
「それは忘れてください」
「無理」
「忘れてください」
「絶対覚えておく」
「最低です」
「うん。でも、かなり嬉しい」
その声があまりに素直で、美月は言い返せなくなった。
呆れたように息を吐く。
でも、少しだけ笑ってしまった。
この夜から、二人はようやく恋人になった。
ただし職場では、これまで通り。
藤崎先生と、綾瀬さん。
秘密の仮住まい。
そして、秘密の恋人関係。
その始まりは、思っていたよりずっと甘くて、ずっと厄介で。
そして、少しだけ怖かった。
けれど美月は、首元のネックレスにそっと触れた。
冷たいはずの小さな光は、肌に馴染んで、もう温かかった。
「美月」
先生が呼ぶ。
「何ですか」
「今、ネックレス触った」
「触ってません」
「触ったよ」
「確認です」
「何の?」
「……ちゃんと、現実かどうかの」
言ってから、美月は少しだけ恥ずかしくなった。
先生は静かに笑った。
からかわれるかと思った。
でも、からかわなかった。
「現実だよ」
その声は優しかった。
美月は、目を伏せる。
「……はい」
夜景の光が、グラスに映る。
首元のネックレスが、小さく揺れる。
恋人。
まだ、その言葉は少し落ち着かない。
でも、首元の小さな光は、もう肌に馴染んでいる。
それが怖くて。
それでも、嬉しかった。
窓の外には、夜景が広がっている。
表参道を歩いていたはずだった。
少し外の空気を吸って、雑貨を見るくらいのつもりだった。
それなのに、病院関係者らしき人から逃げるために先生の手を引き、飛び込んだ先は高級ジュエリー店。
あれよあれよという間に、先生の買い物として、ネックレスが美月の首元に残った。
飼い猫に首輪くらいに思って、なんて言われた。
そして今。
なぜか、夜景の見えるレストランにいる。
照明は落ち着いていて、テーブルの上のグラスは薄く光っている。
周囲の声は静かで、運ばれてくる料理も、何もかもが綺麗だった。
一体、どうして。
藤崎理久、どんだけ王子様なの。
美月は胸元にそっと意識を向けた。
小さなネックレスが、さっきからずっと肌に触れている。
さっき、そのまま着けることになった。
けれど、店を出たあとも、外そうとはしなかった。
それなのに、こうしてレストランの席に座ると、その意味が急に重くなる。
こんなプレゼントをされて。
こんな素敵なレストランに連れてこられて。
恋人と、恋人ではない境界は、一体どこにあるのだろう。
美月はグラスを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……先ほどは、ありがとうございました」
ようやく、それだけ言えた。
先生は、少しだけ目元を緩める。
「うん」
それ以上、先生は何も言わなかった。
その静けさが、かえって困った。
分かっている。
これは嬉しい。
こんなことをされたら、普通は心が動く。
いや、もうかなり揺さぶられている。
ちらっと先生を見る。
夜景を背にして、先生は相変わらず絵になる。
こういう場が似合いすぎる。
何もかもが自然で、スマートで、ずるい。
美月は、つい可愛くないことを言ってしまった。
「……もっと、素直に喜んでくれる女性にしてあげた方が、嬉しい反応がもらえると思いますが」
言った瞬間、少しだけ後悔した。
先生が、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしたから。
それは、いつものからかう顔ではなかった。
表面だけなら、まだ笑っている。
でも、その奥に一瞬、違うものが見えた気がした。
先生はグラスに視線を落とした。
「そうだね」
静かな声だった。
「顔とか、ステータスとか、バックグラウンドとか。そういうのを好む人は、多いと思う」
美月は、言葉を返せなかった。
「自分で言うのも変だけど、俺はたぶん、世の中では恵まれている方なんだと思う」
先生は、少しだけ笑った。
「だから、人が求めているものを差し出すのは、わりと簡単なんだよ」
「……先生、それ、世界中の人を敵に回す発言ですね」
「だよね」
先生は笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなる。
「でも、それって俺を見てるのかな」
その言葉が、美月の胸に刺さった。
俺を見てるのかな。
その響きは、思った以上に深いところへ落ちてきた。
綺麗なレストラン。
完璧な所作。
誰にでも向けられるような余裕のある微笑み。
その奥に、少しだけ寂しさが見える。
たぶん、この人はずっと見られてきた。
顔も。
肩書きも。
育ちも。
医師という立場も。
でも、その奥にいる藤崎理久本人まで、ちゃんと見ようとする人がどれだけいたのだろう。
そう思った瞬間、美月の胸の奥にも、似たような痛みがかすかに触れた。
見られているのに、見られていない。
求められているのに、自分ではないものを求められている。
その感覚を、美月は知らないわけではなかった。
自分の前に置かれるもの。
自分より先に見られるもの。
そこから逃げるように、美月はここまで来た。
けれど、今はまだ、そのことを言葉にはできない。
美月はグラスに視線を落とした。
先生は、少しだけ息を吐く。
「人の心って、そんなに簡単じゃないことも知ってる。自分では満足してもらえていると思っていても、相手はそうじゃないこともある」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「多少のことでは困らないと思ってたんだけどね」
先生は、そこで美月を見た。
「自分でも驚くくらい、美月に困ってる」
「……わ、私にですか?」
「うん」
先生は少し笑う。
「前にも言ったよね。器用にできないって」
美月は、その言葉を思い出した。
器用にできない。
あの時も、先生はそう言った。
「……十分、器用に見えますけど」
「器用に見せるのは得意だからね」
「そうですね。みんな、騙されていますよね」
先生が目を細める。
「言うね」
「本当はエセ王子なのに」
「ひどいな」
「ひどくありません。そうやって感じの良さそうにしているけれど、本当は結構面倒な人です」
「面倒?」
「はい」
「じゃあ、美月は」
先生が、少しだけ声を落とした。
「その面倒な俺を見てるの?」
美月は、言葉に詰まった。
からかわれているのではない。
今の問いは、いつもの軽い調子ではなかった。
さっき先生が言った言葉が、もう一度胸の奥で響く。
でも、それって俺を見てるのかな。
美月は、自分の指先を見た。
見ている。
たぶん、見てしまっている。
病棟で見せる整った顔だけではなく。
誰にでも向ける王子の笑顔だけではなく。
意地悪で。
少し子どもっぽくて。
ずるくて。
でも、踏み込みすぎた時にはちゃんと止まる人。
美月が黙っていると、先生が少しだけ笑った。
「困る質問だった?」
「……困ります」
「俺も困ってる」
その声が、思ったよりやわらかかった。
「美月に、どう見られているのかが気になる」
美月は顔を上げた。
先生は、まっすぐにこちらを見ている。
逃げ道を塞ぐようでいて、でも、答えを奪う目ではなかった。
ただ、待っている。
美月が自分で言葉を選ぶのを。
「……感じよく見せている先生より」
声が、思ったより小さくなった。
「そのままの先生の方が、私は好っ……」
そこで、声が止まった。
しまった。
美月は息を呑んだ。
言いかけた。
今、確かに言いかけた。
先生も、少しだけ意外そうな顔をしていた。
からかわれると思った。
いつものように、笑って逃げ道を塞がれると思った。
でも、先生は何も言わなかった。
ただ、少し困ったような、祈るような顔で、美月を見ている。
一層、からかってくれたらよかった。
その方が、ずっと楽だった。
でも。
美月は、ゆっくりと息を吸った。
もう、自分の気持ちを認めるしかない。
騙されないと思っていた。
王子になんて落ちないと思っていた。
でも、先生は美月を騙す気なんて、たぶんなかった。
美月に見せている顔は、きっと本質そのものだった。
少し面倒で。
少し意地悪で。
逃げ道を上手に塞いで。
でも、優しくて。
温かくて。
ちゃんと、美月自身を見てくれる人。
あの日、帰りたくないと思ってしまった。
みんなに見せる顔で見られたくないと思ってしまった。
その時点で、もう分かっていたのかもしれない。
ただ、自分で認めるのが怖かっただけで。
「先生」
声が、少し震えた。
先生は何も言わずに待っている。
「先生のことが」
一度、言葉が詰まる。
でも、今度は逃げなかった。
「好きです」
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥にあったものが、ようやく形を持った気がした。
この感情に名前をつけるなら、それはきっと恋だ。
「ちょっと面倒で、ちょっと意地悪で、すぐ揶揄ってきて、逃げ道を塞ぐのが上手で」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「でも、優しくて、温かくて、ちゃんと私を見てくれる先生のことが……私は、好きです」
言葉にしたら、もう戻れない。
そう思っていた。
でも、戻れない場所まで来ていたのは、本当はずっと前からだったのかもしれない。
あの日、帰らないと決めた時。
合鍵をもう一度受け取った時。
首元のネックレスを外さなかった時。
答えは、少しずつ積み重なっていた。
今、ようやくそれを言葉にしただけだった。
先生は、しばらく黙っていた。
あれだけ好きと言わせようとしていたのに。
すぐに笑うことも、からかうこともしなかった。
困ったような表情にも見える。
でも、それ以上に、どこか安心したようにも見えた。
「……ありがとう」
低い声だった。
美月は瞬きをする。
感謝。
何に対する感謝なのだろう。
告白に対してなのか。
見つけたことに対してなのか。
それとも、先生自身を見たことに対してなのか。
先生は、ゆっくり息を吐いた。
「うん」
何かを確かめるような声だった。
「嬉しい。すごく嬉しい」
その言葉は、どこか遠くを見つめているようにも聞こえた。
でも同時に、何かをひとつずつ噛みしめているようにも見えた。
やがて、先生は美月を見た。
いつもの完璧な微笑みではなかった。
病棟で見せる穏やかな顔でもなかった。
藤崎理久自身の顔だった。
「俺も好きだよ、美月」
美月は息を止めた。
ああ、やっぱり綺麗だ。
この微笑みに、ときめかないわけがない。
こんなふうに見つめられて、心を奪われない人はいないだろう。
でも、それだけではない。
この人の面倒なところも。
意地悪なところも。
少し子どもっぽいところも。
寂しそうに笑うところも。
その全部を知って、それでも抗えないほど惹かれている。
先生は、まっすぐに美月を見た。
「俺と、付き合ってください」
その言葉で、美月は初めて現実に戻った。
付き合う。
恋人。
こんな王子と呼ばれている人に、好きだと言われている。
恋人になってほしいと言われている。
それがどれだけ幸せなことなのか、分からないはずがない。
でも、同時に。
色々なものが浮かんでくる。
職場。
院内で顔を合わせる場面。
藤崎先生のファン。
噂。
医局。
周囲の目。
先生は外科医で、自分は看護師。
同じ病院。
院内で関わることもある。
現実は、そんなにうまくはいかない。
「また、色々考えてる」
先生の声で、美月は顔を上げた。
「……」
「なんとなく、思考は読めるよ」
先生は、からかうようには笑わなかった。
「職場のこと。院内で顔を合わせること。噂になること。俺の立場と、美月の立場」
美月は、何も言えなかった。
全部、当たっていた。
「それは、ちゃんと守る」
先生の声は、静かだった。
「職場では、今まで通りにする。藤崎先生と綾瀬さん。必要以上に近づかないし、噂になるようなこともしない」
美月は、息を止めた。
「美月が働きにくくなるようなことは、絶対にしない」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
「それでも不安なことがあったら、その都度ちゃんと話す。俺が勝手に決めない」
先生は、まっすぐに美月を見ていた。
「美月の仕事も、立場も、ちゃんと大事にしたい」
ずるいのに。
からかうのに。
逃げ道を塞ぐのに。
一番大事なところは、いつもちゃんと守ってくれる。
恋人になりたいと言われているのに。
その先に、ちゃんと自分の仕事がある。
生活がある。
立場がある。
それを壊さないようにすると、先生は言ってくれている。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
美月は、少しだけ姿勢を正した。
「では、改めまして」
先生が見ている。
美月は小さく息を吸った。
「お付き合い、よろしくお願いします」
言った瞬間、先生の顔が今までで一番自然にほどけた。
「うん。よろしく」
その笑顔を見て、美月は少しだけ胸が熱くなった。
この人は、本当に嬉しそうに笑うのだ。
いつもの完璧な微笑みではなく。
病棟で見せる穏やかな顔でもなく。
藤崎理久自身の顔で。
少し間があって、先生がグラスを持つ。
「じゃあ、恋人記念に」
美月も、少し遅れてグラスを持つ。
「……はい」
グラスが軽く触れた。
小さな音がして、夜景の光が揺れる。
それだけで十分だったはずなのに、先生がふいに言った。
「あと、美月が好きって言ってくれた記念」
美月はすぐに顔を上げた。
「それは忘れてください」
「無理」
「忘れてください」
「絶対覚えておく」
「最低です」
「うん。でも、かなり嬉しい」
その声があまりに素直で、美月は言い返せなくなった。
呆れたように息を吐く。
でも、少しだけ笑ってしまった。
この夜から、二人はようやく恋人になった。
ただし職場では、これまで通り。
藤崎先生と、綾瀬さん。
秘密の仮住まい。
そして、秘密の恋人関係。
その始まりは、思っていたよりずっと甘くて、ずっと厄介で。
そして、少しだけ怖かった。
けれど美月は、首元のネックレスにそっと触れた。
冷たいはずの小さな光は、肌に馴染んで、もう温かかった。
「美月」
先生が呼ぶ。
「何ですか」
「今、ネックレス触った」
「触ってません」
「触ったよ」
「確認です」
「何の?」
「……ちゃんと、現実かどうかの」
言ってから、美月は少しだけ恥ずかしくなった。
先生は静かに笑った。
からかわれるかと思った。
でも、からかわなかった。
「現実だよ」
その声は優しかった。
美月は、目を伏せる。
「……はい」
夜景の光が、グラスに映る。
首元のネックレスが、小さく揺れる。
恋人。
まだ、その言葉は少し落ち着かない。
でも、首元の小さな光は、もう肌に馴染んでいる。
それが怖くて。
それでも、嬉しかった。
