光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

美月は席に着いたまま、しばらく言葉を失っていた。

窓の外には、夜景が広がっている。

表参道を歩いていたはずだった。

少し外の空気を吸って、雑貨を見るくらいのつもりだった。

それなのに、病院関係者らしき人から逃げるために先生の手を引き、飛び込んだ先は高級ジュエリー店。

あれよあれよという間に、先生の買い物として、ネックレスが美月の首元に残った。

飼い猫に首輪くらいに思って、なんて言われた。

そして今。

なぜか、夜景の見えるレストランにいる。

照明は落ち着いていて、テーブルの上のグラスは薄く光っている。

周囲の声は静かで、運ばれてくる料理も、何もかもが綺麗だった。

一体、どうして。

藤崎理久、どんだけ王子様なの。

美月は胸元にそっと意識を向けた。

小さなネックレスが、さっきからずっと肌に触れている。

さっき、そのまま着けることになった。

けれど、店を出たあとも、外そうとはしなかった。

それなのに、こうしてレストランの席に座ると、その意味が急に重くなる。

こんなプレゼントをされて。

こんな素敵なレストランに連れてこられて。

恋人と、恋人ではない境界は、一体どこにあるのだろう。

美月はグラスを見つめながら、小さく息を吐いた。

「……先ほどは、ありがとうございました」

ようやく、それだけ言えた。

先生は、少しだけ目元を緩める。

「うん」

それ以上、先生は何も言わなかった。

その静けさが、かえって困った。

分かっている。

これは嬉しい。

こんなことをされたら、普通は心が動く。

いや、もうかなり揺さぶられている。

ちらっと先生を見る。

夜景を背にして、先生は相変わらず絵になる。

こういう場が似合いすぎる。

何もかもが自然で、スマートで、ずるい。

美月は、つい可愛くないことを言ってしまった。

「……もっと、素直に喜んでくれる女性にしてあげた方が、嬉しい反応がもらえると思いますが」

言った瞬間、少しだけ後悔した。

先生が、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしたから。

それは、いつものからかう顔ではなかった。

表面だけなら、まだ笑っている。

でも、その奥に一瞬、違うものが見えた気がした。

先生はグラスに視線を落とした。

「そうだね」

静かな声だった。

「顔とか、ステータスとか、バックグラウンドとか。そういうのを好む人は、多いと思う」

美月は、言葉を返せなかった。

「自分で言うのも変だけど、俺はたぶん、世の中では恵まれている方なんだと思う」

先生は、少しだけ笑った。

「だから、人が求めているものを差し出すのは、わりと簡単なんだよ」

「……先生、それ、世界中の人を敵に回す発言ですね」

「だよね」

先生は笑った。

けれど、その笑みはすぐに薄くなる。

「でも、それって俺を見てるのかな」

その言葉が、美月の胸に刺さった。

俺を見てるのかな。

その響きは、思った以上に深いところへ落ちてきた。

綺麗なレストラン。

完璧な所作。

誰にでも向けられるような余裕のある微笑み。

その奥に、少しだけ寂しさが見える。

たぶん、この人はずっと見られてきた。

顔も。

肩書きも。

育ちも。

医師という立場も。

でも、その奥にいる藤崎理久本人まで、ちゃんと見ようとする人がどれだけいたのだろう。

そう思った瞬間、美月の胸の奥にも、似たような痛みがかすかに触れた。

見られているのに、見られていない。

求められているのに、自分ではないものを求められている。

その感覚を、美月は知らないわけではなかった。

自分の前に置かれるもの。

自分より先に見られるもの。

そこから逃げるように、美月はここまで来た。

けれど、今はまだ、そのことを言葉にはできない。

美月はグラスに視線を落とした。

先生は、少しだけ息を吐く。

「人の心って、そんなに簡単じゃないことも知ってる。自分では満足してもらえていると思っていても、相手はそうじゃないこともある」

その声は、どこか遠くを見ているようだった。

「多少のことでは困らないと思ってたんだけどね」

先生は、そこで美月を見た。

「自分でも驚くくらい、美月に困ってる」

「……わ、私にですか?」

「うん」

先生は少し笑う。

「前にも言ったよね。器用にできないって」

美月は、その言葉を思い出した。

器用にできない。

あの時も、先生はそう言った。

「……十分、器用に見えますけど」

「器用に見せるのは得意だからね」

「そうですね。みんな、騙されていますよね」

先生が目を細める。

「言うね」

「本当はエセ王子なのに」

「ひどいな」

「ひどくありません。そうやって感じの良さそうにしているけれど、本当は結構面倒な人です」

「面倒?」

「はい」

「じゃあ、美月は」

先生が、少しだけ声を落とした。

「その面倒な俺を見てるの?」

美月は、言葉に詰まった。

からかわれているのではない。

今の問いは、いつもの軽い調子ではなかった。

さっき先生が言った言葉が、もう一度胸の奥で響く。

でも、それって俺を見てるのかな。

美月は、自分の指先を見た。

見ている。

たぶん、見てしまっている。

病棟で見せる整った顔だけではなく。

誰にでも向ける王子の笑顔だけではなく。

意地悪で。

少し子どもっぽくて。

ずるくて。

でも、踏み込みすぎた時にはちゃんと止まる人。

美月が黙っていると、先生が少しだけ笑った。

「困る質問だった?」

「……困ります」

「俺も困ってる」

その声が、思ったよりやわらかかった。

「美月に、どう見られているのかが気になる」

美月は顔を上げた。

先生は、まっすぐにこちらを見ている。

逃げ道を塞ぐようでいて、でも、答えを奪う目ではなかった。

ただ、待っている。

美月が自分で言葉を選ぶのを。

「……感じよく見せている先生より」

声が、思ったより小さくなった。

「そのままの先生の方が、私は好っ……」

そこで、声が止まった。

しまった。

美月は息を呑んだ。

言いかけた。

今、確かに言いかけた。

先生も、少しだけ意外そうな顔をしていた。

からかわれると思った。

いつものように、笑って逃げ道を塞がれると思った。

でも、先生は何も言わなかった。

ただ、少し困ったような、祈るような顔で、美月を見ている。

一層、からかってくれたらよかった。

その方が、ずっと楽だった。

でも。

美月は、ゆっくりと息を吸った。

もう、自分の気持ちを認めるしかない。

騙されないと思っていた。

王子になんて落ちないと思っていた。

でも、先生は美月を騙す気なんて、たぶんなかった。

美月に見せている顔は、きっと本質そのものだった。

少し面倒で。

少し意地悪で。

逃げ道を上手に塞いで。

でも、優しくて。

温かくて。

ちゃんと、美月自身を見てくれる人。

あの日、帰りたくないと思ってしまった。

みんなに見せる顔で見られたくないと思ってしまった。

その時点で、もう分かっていたのかもしれない。

ただ、自分で認めるのが怖かっただけで。

「先生」

声が、少し震えた。

先生は何も言わずに待っている。

「先生のことが」

一度、言葉が詰まる。

でも、今度は逃げなかった。

「好きです」

言ってしまった。

その瞬間、胸の奥にあったものが、ようやく形を持った気がした。

この感情に名前をつけるなら、それはきっと恋だ。

「ちょっと面倒で、ちょっと意地悪で、すぐ揶揄ってきて、逃げ道を塞ぐのが上手で」

美月は、少しだけ視線を落とした。

「でも、優しくて、温かくて、ちゃんと私を見てくれる先生のことが……私は、好きです」

言葉にしたら、もう戻れない。

そう思っていた。

でも、戻れない場所まで来ていたのは、本当はずっと前からだったのかもしれない。

あの日、帰らないと決めた時。

合鍵をもう一度受け取った時。

首元のネックレスを外さなかった時。

答えは、少しずつ積み重なっていた。

今、ようやくそれを言葉にしただけだった。

先生は、しばらく黙っていた。

あれだけ好きと言わせようとしていたのに。

すぐに笑うことも、からかうこともしなかった。

困ったような表情にも見える。

でも、それ以上に、どこか安心したようにも見えた。

「……ありがとう」

低い声だった。

美月は瞬きをする。

感謝。

何に対する感謝なのだろう。

告白に対してなのか。

見つけたことに対してなのか。

それとも、先生自身を見たことに対してなのか。

先生は、ゆっくり息を吐いた。

「うん」

何かを確かめるような声だった。

「嬉しい。すごく嬉しい」

その言葉は、どこか遠くを見つめているようにも聞こえた。

でも同時に、何かをひとつずつ噛みしめているようにも見えた。

やがて、先生は美月を見た。

いつもの完璧な微笑みではなかった。

病棟で見せる穏やかな顔でもなかった。

藤崎理久自身の顔だった。

「俺も好きだよ、美月」

美月は息を止めた。

ああ、やっぱり綺麗だ。

この微笑みに、ときめかないわけがない。

こんなふうに見つめられて、心を奪われない人はいないだろう。

でも、それだけではない。

この人の面倒なところも。

意地悪なところも。

少し子どもっぽいところも。

寂しそうに笑うところも。

その全部を知って、それでも抗えないほど惹かれている。

先生は、まっすぐに美月を見た。

「俺と、付き合ってください」

その言葉で、美月は初めて現実に戻った。

付き合う。

恋人。

こんな王子と呼ばれている人に、好きだと言われている。

恋人になってほしいと言われている。

それがどれだけ幸せなことなのか、分からないはずがない。

でも、同時に。

色々なものが浮かんでくる。

職場。

院内で顔を合わせる場面。

藤崎先生のファン。

噂。

医局。

周囲の目。

先生は外科医で、自分は看護師。

同じ病院。

院内で関わることもある。

現実は、そんなにうまくはいかない。

「また、色々考えてる」

先生の声で、美月は顔を上げた。

「……」

「なんとなく、思考は読めるよ」

先生は、からかうようには笑わなかった。

「職場のこと。院内で顔を合わせること。噂になること。俺の立場と、美月の立場」

美月は、何も言えなかった。

全部、当たっていた。

「それは、ちゃんと守る」

先生の声は、静かだった。

「職場では、今まで通りにする。藤崎先生と綾瀬さん。必要以上に近づかないし、噂になるようなこともしない」

美月は、息を止めた。

「美月が働きにくくなるようなことは、絶対にしない」

その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。

「それでも不安なことがあったら、その都度ちゃんと話す。俺が勝手に決めない」

先生は、まっすぐに美月を見ていた。

「美月の仕事も、立場も、ちゃんと大事にしたい」

ずるいのに。

からかうのに。

逃げ道を塞ぐのに。

一番大事なところは、いつもちゃんと守ってくれる。

恋人になりたいと言われているのに。

その先に、ちゃんと自分の仕事がある。

生活がある。

立場がある。

それを壊さないようにすると、先生は言ってくれている。

そのことが、思っていた以上に嬉しかった。

美月は、少しだけ姿勢を正した。

「では、改めまして」

先生が見ている。

美月は小さく息を吸った。

「お付き合い、よろしくお願いします」

言った瞬間、先生の顔が今までで一番自然にほどけた。

「うん。よろしく」

その笑顔を見て、美月は少しだけ胸が熱くなった。

この人は、本当に嬉しそうに笑うのだ。

いつもの完璧な微笑みではなく。

病棟で見せる穏やかな顔でもなく。

藤崎理久自身の顔で。

少し間があって、先生がグラスを持つ。

「じゃあ、恋人記念に」

美月も、少し遅れてグラスを持つ。

「……はい」

グラスが軽く触れた。

小さな音がして、夜景の光が揺れる。

それだけで十分だったはずなのに、先生がふいに言った。

「あと、美月が好きって言ってくれた記念」

美月はすぐに顔を上げた。

「それは忘れてください」

「無理」

「忘れてください」

「絶対覚えておく」

「最低です」

「うん。でも、かなり嬉しい」

その声があまりに素直で、美月は言い返せなくなった。

呆れたように息を吐く。

でも、少しだけ笑ってしまった。

この夜から、二人はようやく恋人になった。

ただし職場では、これまで通り。

藤崎先生と、綾瀬さん。

秘密の仮住まい。

そして、秘密の恋人関係。

その始まりは、思っていたよりずっと甘くて、ずっと厄介で。

そして、少しだけ怖かった。

けれど美月は、首元のネックレスにそっと触れた。

冷たいはずの小さな光は、肌に馴染んで、もう温かかった。

「美月」

先生が呼ぶ。

「何ですか」

「今、ネックレス触った」

「触ってません」

「触ったよ」

「確認です」

「何の?」

「……ちゃんと、現実かどうかの」

言ってから、美月は少しだけ恥ずかしくなった。

先生は静かに笑った。

からかわれるかと思った。

でも、からかわなかった。

「現実だよ」

その声は優しかった。

美月は、目を伏せる。

「……はい」

夜景の光が、グラスに映る。

首元のネックレスが、小さく揺れる。

恋人。

まだ、その言葉は少し落ち着かない。

でも、首元の小さな光は、もう肌に馴染んでいる。

それが怖くて。

それでも、嬉しかった。