洗面所の事故から、二日が経った。
事故。
美月は、何度もそう言い聞かせていた。
濡れた髪。
前を留めていないパジャマ。
鎖骨。
胸元。
少し低い声。
「……覗き?」
それから。
おやすみ、美月。
あれは事故だった。
でも、自分の反応までは、事故では片づけられなかった。
そのせいで、家の中にいると落ち着かない。
リビングに先生がいるだけで、洗面所のことを思い出す。
廊下ですれ違うだけで、距離を測ってしまう。
洗面所のドアが閉まっているだけで、妙に意識してしまう。
よくない。
非常によくない。
そんな美月の様子を見ていたのか、先生はその日の朝、珈琲を飲みながら何でもない顔で言った。
「今日、少し外に出ない?」
美月はカップを持つ手を止めた。
「外、ですか」
「うん」
「どこへ」
「表参道」
即答だった。
美月は眉を寄せる。
「なぜ急に表参道」
「外の空気を吸うため」
「表参道である必要がありますか」
「ある」
「何の必要ですか」
「俺が行きたい」
美月は黙った。
理由になっているようで、なっていない。
けれど、先生は続けた。
「家の中にいると、考えすぎるでしょ」
美月は視線を逸らした。
図星だった。
かなり図星だった。
「考えすぎていません」
「二回言う?」
「言いません」
「じゃあ、少し考えてる」
「少しだけです」
「うん。じゃあ、少し外に出よう」
うまい。
本当に、うまい。
少しだけ、という言葉を勝手に拾って、外出の理由に変えてくる。
美月はカップを置いた。
「買い物ですか」
「散歩でもいい」
「曖昧ですね」
「美月が逃げやすいように」
美月は先生を見た。
先生は、いつものように穏やかな顔をしている。
けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。
逃げ道は残す。
でも、確実に逃げ道の前に立つ。
この人は本当に、そういうことをする。
美月は小さくため息をついた。
「少しだけです」
「うん。少しだけ」
「雑貨を見るだけです」
「うん」
「変なところには行きません」
「変なところって?」
「先生が選ぶ場所全般です」
先生が笑った。
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
「それ、気に入った?」
「便利なので」
先生は楽しそうに笑って、珈琲を飲んだ。
その顔を見て、美月は少しだけ後悔した。
行くと言ってしまった。
少しだけ。
本当に、少しだけのつもりだった。
* * *
表参道は、相変わらず眩しかった。
街路樹の緑。
ガラス張りの店。
綺麗な服を着た人たち。
休日の午後らしい、少し浮き立った空気。
病院の白い廊下とは、まったく違う世界だった。
美月は先生の隣を歩きながら、少しだけ落ち着かなかった。
先生は、休日の服を着ている。
黒のジャケットに、淡い色のシャツ。
仕事中の整った外科医ではなく、休日の男の顔をしている。
それなのに、目立つ。
普通に歩いているだけなのに、目立つ。
すれ違う女性が、一瞬だけ先生を見る。
カフェの前で並んでいる人も、ショーウィンドウを見ている人も、視線がほんの少しだけ引っかかる。
本人は気づいていないのか。
気づいていて気にしていないのか。
たぶん、後者だ。
慣れている顔をしている。
それが少しだけ面白くない。
いや。
面白くないと思う資格はない。
好きとは言っていない。
恋人でもない。
ただ、同じ家にいるだけ。
……ただ、ではない気もするけれど。
美月は首を横に振りそうになった。
考えない。
外の空気を吸いに来ただけ。
「美月」
隣から呼ばれて、美月は顔を上げた。
「何ですか」
「ぼーっとしてた」
「していません」
「じゃあ、少ししてた」
「表参道が眩しいだけです」
「表参道が?」
「はい」
「俺じゃなくて?」
美月は一瞬、言葉を失った。
先生が少しだけ笑う。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
「先生は、自覚があるんですね」
「何の?」
「目立つことです」
「そう?」
「そうです」
「美月がそう思ってくれてるなら、嬉しいけど」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
美月は答えなかった。
答えたら負ける気がした。
先生はそれ以上追わず、自然に歩く速度を少し落とした。
美月の歩幅に合わせている。
道路側を先生が歩き、人とすれ違う時には、ほんの少しだけ美月を内側へ入れる。
触れない。
手も取らない。
でも、守る位置にいる。
そういうところがまた、ずるい。
美月がそう考えていた時だった。
少し先の横断歩道の向こうから、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。
美月の背中が、一瞬で固まる。
病院で見たことがある。
たぶん、薬剤部か、外来か。
どこかで何度かすれ違っている人。
確信はない。
けれど、病院関係者かもしれない。
その人は、友人らしき女性と話しながら、こちらへ向かってくる。
信号が変われば、すぐこちら側へ渡ってくる距離だった。
まだ気づかれていない。
でも、このまま進めば、正面からすれ違う。
先生と二人で表参道を歩いているところを見られる。
別に悪いことはしていない。
休日に外を歩いているだけ。
同じ病院の医師と看護師が、たまたま一緒にいるだけ。
いや、たまたまではない。
一緒に来ている。
しかも、今は同じ家にいる。
そこまで考えた瞬間、美月の身体が先に動いた。
「先生」
「ん?」
「こっちです」
「え?」
「いいから、こっちです」
美月は先生の手を取った。
自分でも、ほとんど無意識だった。
見つかる前に、視線から外れなければ。
ただ、それだけだった。
先生の返事を待たずに、美月はすぐ横にあったガラスの扉へ逃げ込んだ。
扉が静かに閉まる。
外のざわめきが遠くなる。
店内は、落ち着いた照明に包まれていた。
一瞬、空気が変わった。
静か。
高そう。
とても高そう。
空気まで高い。
美月は顔を上げた。
そして、固まった。
ガラスケースの中で、指輪やネックレスがきらきらと光っている。
細いチェーン。
小さな石。
繊細なピアス。
上品なリング。
間違えた。
完全に、逃げ込む場所を間違えた。
そこは、高級ジュエリー店だった。
美月はようやく、自分の手元に気づいた。
先生の手を、しっかり握っていた。
「……っ」
慌てて離す。
先生はその手を見て、それから美月を見た。
少しだけ笑っている。
非常に楽しそうだった。
「意外と積極的だね」
「違います」
即答した。
「避難です」
「また避難?」
「今のは本当に避難です」
「知り合いでもいた?」
美月は小さく頷いた。
「病院関係者かもしれない人がいました」
「なるほど」
「見つかる前に逃げました」
「判断が早いね」
「職業柄です」
「それで俺の手を引いたんだ」
美月は一瞬黙った。
「……不可抗力です」
「うん」
先生は楽しそうに頷いた。
「良い避難先だね」
「最悪の避難先です」
美月は店内を見回した。
出たい。
すぐに出たい。
けれど、店員はすでに品のいい笑顔でこちらを見ている。
入ったばかりで何も見ずに出る方が、かえって目立つ。
逃げ場がない。
美月は目だけで先生に訴えた。
出たいです。
こんな高いものを見に来たわけではありません。
知り合いから隠れるために入っただけです。
先生はその視線を受けて、楽しそうに微笑んだ。
「なかなか良い店選びをするんだね」
「選んでません」
「美月が連れてきた」
「逃げ込んだだけです」
「でも、手を引いて」
「それは不可抗力です」
「すぐ出る方が不自然だよ」
美月は固まった。
たしかに。
「……先生」
「見るだけ」
「本当ですか」
「たぶん」
「その“たぶん”が一番信用できません」
先生は笑いながら、自然にショーケースの方へ進んだ。
美月は仕方なくついて行く。
ショーケースの中のジュエリーは、どれも眩しかった。
華奢なリング。
小さな石のネックレス。
シンプルなのに、明らかに上質だと分かるピアス。
ふと、値札が目に入る。
美月は、思わず視線を外した。
買えない額ではない。
けれど、気軽に試していい額でもない。
少なくとも、知り合いから隠れるために逃げ込んだ店で、流れのまま眺めるものではなかった。
店員が、品のいい笑顔で近づいてくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
美月は心の中で悲鳴を上げた。
探していません。
隠れに来ました。
もちろん、そんなことは言えない。
美月が固まっていると、先生が自然に返した。
「彼女に似合いそうなものを見せてもらえますか」
美月の心臓が止まりそうになった。
彼女。
今、彼女って言った?
恋人の意味なのか。
女性の意味なのか。
店員への自然な表現なのか。
分からない。
分からないけれど、耳が熱い。
店員は何の違和感もない様子で微笑んだ。
「かしこまりました。普段使いしやすいものですと、こちらなどいかがでしょうか」
美月は先生を睨む。
先生は涼しい顔をしている。
「先生」
「見るだけ」
「今、見るだけの範囲を超えました」
「まだ見てるだけ」
「店員さんを巻き込みました」
「仕事の邪魔はしてない」
「そういう問題ではありません」
先生は楽しそうだった。
美月は逃げるタイミングを完全に失っていた。
店員がいくつかネックレスを並べてくれる。
細いチェーン。
小さな石。
月のような曲線のトップ。
肌に馴染みそうな淡い光。
どれも綺麗だった。
綺麗すぎて、困る。
美月は見ないようにしようとして、結局見てしまった。
その中のひとつに、目が止まる。
小さな石が一粒だけついたネックレス。
派手ではない。
主張も強くない。
でも、光を受けると静かに揺れる。
美月が見てしまったことに、先生はすぐ気づいた。
「それ、いいね」
「何も言っていません」
「見てた」
美月は唇を結んだ。
言い返せなかった。
見ていた。
確かに、見てしまった。
店員が穏やかに言った。
「よろしければ、ご試着だけでも」
美月は反射的に断ろうとした。
「いえ、私は——」
「お願いします」
先生が、静かに言った。
美月は先生を見る。
「先生」
「試すだけ」
その言い方は穏やかだった。
けれど、ここでこれ以上言い募れば、店員を困らせる。
美月は小さく息を吸って、諦めたように鏡の前へ立った。
店員が後ろに回り、ネックレスを首元に合わせる。
細いチェーンが肌に触れた。
冷たい。
一瞬、身体がこわばる。
留め具が留まる、小さな音がした。
鏡の中に、自分が映った。
首元に、小さな光。
美月は、言葉を失った。
似合わないと思っていた。
こういうものは、自分には関係ないと思っていた。
病棟では髪をまとめ、スクラブを着て、動きやすさを優先する。
患者の邪魔にならないもの。
洗いやすいもの。
現実的なもの。
自分を飾るものは、いつも後回しだった。
なのに、鏡の中の自分は、少し違って見えた。
首元の小さな光が、やけに静かに馴染んでいる。
派手ではない。
でも、確かにそこにある。
美月は、思わず黙り込んだ。
先生が鏡越しに見ている。
近づかない。
触れない。
ただ、見ている。
その目が、少しだけ優しくなった。
「似合ってる」
たったそれだけ。
それだけなのに、美月の胸が少し熱くなる。
店員も微笑んだ。
「とてもお似合いです。華奢なので、休日にも使いやすいかと思います」
休日。
病院ではない日。
先生と並んで歩く日。
そんな想像をしかけて、美月は慌てて顔を上げた。
だめ。
危険。
非常に危険。
「外します」
美月は小さく言った。
その瞬間、先生が店員に向き直った。
「こちらをお願いします」
美月は固まった。
「先生っ」
「俺の買い物」
その一言で、美月は何も言えなくなった。
美月が欲しいと言ったわけではない。
美月が選んだわけでもない。
けれど、先生はもう決めている顔をしていた。
店員は、完璧に品のいい笑顔を保っている。
すごい。
この空気の中で笑顔を崩さない。
プロだ。
あれよあれよという間に会計が進む。
先生は当然のようにカードを出し、店員が丁寧に包みを用意してくれる。
美月はその間、首元のネックレスを意識し続けていた。
外しますと言えばいい。
そう思う。
けれど、言い切れなかった。
そこが一番まずい。
包みを用意しながら、店員が穏やかに聞いた。
「よろしければ、このままお着けになられますか」
美月は一瞬、先生を見た。
先生は静かに答えた。
「お願いします」
それは、彼の買い物だった。
彼が選び、彼が支払ったもの。
美月が口を挟む隙は、もうなかった。
けれど、それを嫌だと思えない自分がいた。
店員は、変わらない笑顔で頷いた。
「かしこまりました」
先生は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元を緩めた。
それが見えて、美月はすぐに視線を逸らした。
店員が丁寧に頭を下げる。
「またぜひお立ち寄りくださいませ」
美月は、胸元に小さく光るネックレスを意識しながら、店を出た。
外に出た瞬間、ようやく息を吸う。
表参道の空気が、やけに現実的に感じた。
さっきまでの静かな店内。
眩しいショーケース。
首元に触れる小さな光。
全部、夢みたいだった。
でも、これは現実だ。
本当に買われてしまった。
そして、そのまま着けることになってしまった。
美月は先生に向き直る。
「先生」
「ん?」
「これは……」
言いかけて、言葉が止まった。
受け取れません。
そう言うべきなのかもしれない。
けれど、店に戻って返すのも違う気がした。
自分がお金を払うのも、違う。
そもそも、先生は美月に買わせたわけではない。
欲しいと言わせたわけでもない。
ただ、自分の買い物だと言って、選んだ。
それをどう受け取ればいいのか、美月には分からなかった。
「……こんな展開になるなんて、不本意です」
「不本意?」
先生が楽しそうな顔を向けてくる。
その表情が、また腹立たしい。
「結構お高いので……気が引けるというか」
「なら、飼い猫に首輪くらいに思って」
美月は、じっと先生に視線を向けた。
先生はすぐに笑った。
「はいはい。冗談。ごめんごめん」
「全然、冗談に聞こえません」
「言い方が悪かった」
「悪すぎます」
美月は首元にそっと手を添えた。
細いチェーンは、もう肌の温度に少し馴染み始めている。
先生の自宅に住まわせてもらっている。
食事も、生活も、ずいぶん助けてもらっている。
そう考えると、あながち間違っていないような気もしてしまう。
いや。
違う。
流されてはいけない。
美月は顔を上げた。
「飼われた覚えはありません」
そう言って、ふいっとそっぽを向く。
先生が、ふっと笑った。
小さく、こぼすような笑いだった。
「そういうところが猫っぽい」
「なっ……」
顔が熱くなった。
恥ずかしくて、もう先生の顔が見られない。
なんか、ずるい。
やっぱり、ずるい。
「美月」
「何ですか」
「こっち見ないの?」
「見ません」
先生が立ち止まった。
「今度は、あっち」
「え?」
思わず振り向くと、先生は美月が進んでいる方向とは別の道を指差していた。
「あ、振り向いた」
「……っ」
本当に、調子が狂う。
院内の態度と全然違う。
あのきらきらとした王子は、どこへ行ったのだろう。
「どこに行くんですか」
「食べるところ」
「食事……ですか?」
「そう」
「行きません」
「もう予約した。行かない?」
まただ。
先手必勝なのだろうか。
美月は首元に指先を添えた。
小さな光が、指先に触れる。
まだ帰るには、少し早い気がした。
「……行きます」
先生の目元が、やわらかく緩んだ。
「良かった」
その笑い方は、さっきまでのからかうような顔とは違っていた。
温かくて、静かで、どこか安心させるような微笑み。
その姿は、紛れもなく王子そのものだった。
一体、この人はどんな人なんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなっていった。
事故。
美月は、何度もそう言い聞かせていた。
濡れた髪。
前を留めていないパジャマ。
鎖骨。
胸元。
少し低い声。
「……覗き?」
それから。
おやすみ、美月。
あれは事故だった。
でも、自分の反応までは、事故では片づけられなかった。
そのせいで、家の中にいると落ち着かない。
リビングに先生がいるだけで、洗面所のことを思い出す。
廊下ですれ違うだけで、距離を測ってしまう。
洗面所のドアが閉まっているだけで、妙に意識してしまう。
よくない。
非常によくない。
そんな美月の様子を見ていたのか、先生はその日の朝、珈琲を飲みながら何でもない顔で言った。
「今日、少し外に出ない?」
美月はカップを持つ手を止めた。
「外、ですか」
「うん」
「どこへ」
「表参道」
即答だった。
美月は眉を寄せる。
「なぜ急に表参道」
「外の空気を吸うため」
「表参道である必要がありますか」
「ある」
「何の必要ですか」
「俺が行きたい」
美月は黙った。
理由になっているようで、なっていない。
けれど、先生は続けた。
「家の中にいると、考えすぎるでしょ」
美月は視線を逸らした。
図星だった。
かなり図星だった。
「考えすぎていません」
「二回言う?」
「言いません」
「じゃあ、少し考えてる」
「少しだけです」
「うん。じゃあ、少し外に出よう」
うまい。
本当に、うまい。
少しだけ、という言葉を勝手に拾って、外出の理由に変えてくる。
美月はカップを置いた。
「買い物ですか」
「散歩でもいい」
「曖昧ですね」
「美月が逃げやすいように」
美月は先生を見た。
先生は、いつものように穏やかな顔をしている。
けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。
逃げ道は残す。
でも、確実に逃げ道の前に立つ。
この人は本当に、そういうことをする。
美月は小さくため息をついた。
「少しだけです」
「うん。少しだけ」
「雑貨を見るだけです」
「うん」
「変なところには行きません」
「変なところって?」
「先生が選ぶ場所全般です」
先生が笑った。
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
「それ、気に入った?」
「便利なので」
先生は楽しそうに笑って、珈琲を飲んだ。
その顔を見て、美月は少しだけ後悔した。
行くと言ってしまった。
少しだけ。
本当に、少しだけのつもりだった。
* * *
表参道は、相変わらず眩しかった。
街路樹の緑。
ガラス張りの店。
綺麗な服を着た人たち。
休日の午後らしい、少し浮き立った空気。
病院の白い廊下とは、まったく違う世界だった。
美月は先生の隣を歩きながら、少しだけ落ち着かなかった。
先生は、休日の服を着ている。
黒のジャケットに、淡い色のシャツ。
仕事中の整った外科医ではなく、休日の男の顔をしている。
それなのに、目立つ。
普通に歩いているだけなのに、目立つ。
すれ違う女性が、一瞬だけ先生を見る。
カフェの前で並んでいる人も、ショーウィンドウを見ている人も、視線がほんの少しだけ引っかかる。
本人は気づいていないのか。
気づいていて気にしていないのか。
たぶん、後者だ。
慣れている顔をしている。
それが少しだけ面白くない。
いや。
面白くないと思う資格はない。
好きとは言っていない。
恋人でもない。
ただ、同じ家にいるだけ。
……ただ、ではない気もするけれど。
美月は首を横に振りそうになった。
考えない。
外の空気を吸いに来ただけ。
「美月」
隣から呼ばれて、美月は顔を上げた。
「何ですか」
「ぼーっとしてた」
「していません」
「じゃあ、少ししてた」
「表参道が眩しいだけです」
「表参道が?」
「はい」
「俺じゃなくて?」
美月は一瞬、言葉を失った。
先生が少しだけ笑う。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
「先生は、自覚があるんですね」
「何の?」
「目立つことです」
「そう?」
「そうです」
「美月がそう思ってくれてるなら、嬉しいけど」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
美月は答えなかった。
答えたら負ける気がした。
先生はそれ以上追わず、自然に歩く速度を少し落とした。
美月の歩幅に合わせている。
道路側を先生が歩き、人とすれ違う時には、ほんの少しだけ美月を内側へ入れる。
触れない。
手も取らない。
でも、守る位置にいる。
そういうところがまた、ずるい。
美月がそう考えていた時だった。
少し先の横断歩道の向こうから、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。
美月の背中が、一瞬で固まる。
病院で見たことがある。
たぶん、薬剤部か、外来か。
どこかで何度かすれ違っている人。
確信はない。
けれど、病院関係者かもしれない。
その人は、友人らしき女性と話しながら、こちらへ向かってくる。
信号が変われば、すぐこちら側へ渡ってくる距離だった。
まだ気づかれていない。
でも、このまま進めば、正面からすれ違う。
先生と二人で表参道を歩いているところを見られる。
別に悪いことはしていない。
休日に外を歩いているだけ。
同じ病院の医師と看護師が、たまたま一緒にいるだけ。
いや、たまたまではない。
一緒に来ている。
しかも、今は同じ家にいる。
そこまで考えた瞬間、美月の身体が先に動いた。
「先生」
「ん?」
「こっちです」
「え?」
「いいから、こっちです」
美月は先生の手を取った。
自分でも、ほとんど無意識だった。
見つかる前に、視線から外れなければ。
ただ、それだけだった。
先生の返事を待たずに、美月はすぐ横にあったガラスの扉へ逃げ込んだ。
扉が静かに閉まる。
外のざわめきが遠くなる。
店内は、落ち着いた照明に包まれていた。
一瞬、空気が変わった。
静か。
高そう。
とても高そう。
空気まで高い。
美月は顔を上げた。
そして、固まった。
ガラスケースの中で、指輪やネックレスがきらきらと光っている。
細いチェーン。
小さな石。
繊細なピアス。
上品なリング。
間違えた。
完全に、逃げ込む場所を間違えた。
そこは、高級ジュエリー店だった。
美月はようやく、自分の手元に気づいた。
先生の手を、しっかり握っていた。
「……っ」
慌てて離す。
先生はその手を見て、それから美月を見た。
少しだけ笑っている。
非常に楽しそうだった。
「意外と積極的だね」
「違います」
即答した。
「避難です」
「また避難?」
「今のは本当に避難です」
「知り合いでもいた?」
美月は小さく頷いた。
「病院関係者かもしれない人がいました」
「なるほど」
「見つかる前に逃げました」
「判断が早いね」
「職業柄です」
「それで俺の手を引いたんだ」
美月は一瞬黙った。
「……不可抗力です」
「うん」
先生は楽しそうに頷いた。
「良い避難先だね」
「最悪の避難先です」
美月は店内を見回した。
出たい。
すぐに出たい。
けれど、店員はすでに品のいい笑顔でこちらを見ている。
入ったばかりで何も見ずに出る方が、かえって目立つ。
逃げ場がない。
美月は目だけで先生に訴えた。
出たいです。
こんな高いものを見に来たわけではありません。
知り合いから隠れるために入っただけです。
先生はその視線を受けて、楽しそうに微笑んだ。
「なかなか良い店選びをするんだね」
「選んでません」
「美月が連れてきた」
「逃げ込んだだけです」
「でも、手を引いて」
「それは不可抗力です」
「すぐ出る方が不自然だよ」
美月は固まった。
たしかに。
「……先生」
「見るだけ」
「本当ですか」
「たぶん」
「その“たぶん”が一番信用できません」
先生は笑いながら、自然にショーケースの方へ進んだ。
美月は仕方なくついて行く。
ショーケースの中のジュエリーは、どれも眩しかった。
華奢なリング。
小さな石のネックレス。
シンプルなのに、明らかに上質だと分かるピアス。
ふと、値札が目に入る。
美月は、思わず視線を外した。
買えない額ではない。
けれど、気軽に試していい額でもない。
少なくとも、知り合いから隠れるために逃げ込んだ店で、流れのまま眺めるものではなかった。
店員が、品のいい笑顔で近づいてくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
美月は心の中で悲鳴を上げた。
探していません。
隠れに来ました。
もちろん、そんなことは言えない。
美月が固まっていると、先生が自然に返した。
「彼女に似合いそうなものを見せてもらえますか」
美月の心臓が止まりそうになった。
彼女。
今、彼女って言った?
恋人の意味なのか。
女性の意味なのか。
店員への自然な表現なのか。
分からない。
分からないけれど、耳が熱い。
店員は何の違和感もない様子で微笑んだ。
「かしこまりました。普段使いしやすいものですと、こちらなどいかがでしょうか」
美月は先生を睨む。
先生は涼しい顔をしている。
「先生」
「見るだけ」
「今、見るだけの範囲を超えました」
「まだ見てるだけ」
「店員さんを巻き込みました」
「仕事の邪魔はしてない」
「そういう問題ではありません」
先生は楽しそうだった。
美月は逃げるタイミングを完全に失っていた。
店員がいくつかネックレスを並べてくれる。
細いチェーン。
小さな石。
月のような曲線のトップ。
肌に馴染みそうな淡い光。
どれも綺麗だった。
綺麗すぎて、困る。
美月は見ないようにしようとして、結局見てしまった。
その中のひとつに、目が止まる。
小さな石が一粒だけついたネックレス。
派手ではない。
主張も強くない。
でも、光を受けると静かに揺れる。
美月が見てしまったことに、先生はすぐ気づいた。
「それ、いいね」
「何も言っていません」
「見てた」
美月は唇を結んだ。
言い返せなかった。
見ていた。
確かに、見てしまった。
店員が穏やかに言った。
「よろしければ、ご試着だけでも」
美月は反射的に断ろうとした。
「いえ、私は——」
「お願いします」
先生が、静かに言った。
美月は先生を見る。
「先生」
「試すだけ」
その言い方は穏やかだった。
けれど、ここでこれ以上言い募れば、店員を困らせる。
美月は小さく息を吸って、諦めたように鏡の前へ立った。
店員が後ろに回り、ネックレスを首元に合わせる。
細いチェーンが肌に触れた。
冷たい。
一瞬、身体がこわばる。
留め具が留まる、小さな音がした。
鏡の中に、自分が映った。
首元に、小さな光。
美月は、言葉を失った。
似合わないと思っていた。
こういうものは、自分には関係ないと思っていた。
病棟では髪をまとめ、スクラブを着て、動きやすさを優先する。
患者の邪魔にならないもの。
洗いやすいもの。
現実的なもの。
自分を飾るものは、いつも後回しだった。
なのに、鏡の中の自分は、少し違って見えた。
首元の小さな光が、やけに静かに馴染んでいる。
派手ではない。
でも、確かにそこにある。
美月は、思わず黙り込んだ。
先生が鏡越しに見ている。
近づかない。
触れない。
ただ、見ている。
その目が、少しだけ優しくなった。
「似合ってる」
たったそれだけ。
それだけなのに、美月の胸が少し熱くなる。
店員も微笑んだ。
「とてもお似合いです。華奢なので、休日にも使いやすいかと思います」
休日。
病院ではない日。
先生と並んで歩く日。
そんな想像をしかけて、美月は慌てて顔を上げた。
だめ。
危険。
非常に危険。
「外します」
美月は小さく言った。
その瞬間、先生が店員に向き直った。
「こちらをお願いします」
美月は固まった。
「先生っ」
「俺の買い物」
その一言で、美月は何も言えなくなった。
美月が欲しいと言ったわけではない。
美月が選んだわけでもない。
けれど、先生はもう決めている顔をしていた。
店員は、完璧に品のいい笑顔を保っている。
すごい。
この空気の中で笑顔を崩さない。
プロだ。
あれよあれよという間に会計が進む。
先生は当然のようにカードを出し、店員が丁寧に包みを用意してくれる。
美月はその間、首元のネックレスを意識し続けていた。
外しますと言えばいい。
そう思う。
けれど、言い切れなかった。
そこが一番まずい。
包みを用意しながら、店員が穏やかに聞いた。
「よろしければ、このままお着けになられますか」
美月は一瞬、先生を見た。
先生は静かに答えた。
「お願いします」
それは、彼の買い物だった。
彼が選び、彼が支払ったもの。
美月が口を挟む隙は、もうなかった。
けれど、それを嫌だと思えない自分がいた。
店員は、変わらない笑顔で頷いた。
「かしこまりました」
先生は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元を緩めた。
それが見えて、美月はすぐに視線を逸らした。
店員が丁寧に頭を下げる。
「またぜひお立ち寄りくださいませ」
美月は、胸元に小さく光るネックレスを意識しながら、店を出た。
外に出た瞬間、ようやく息を吸う。
表参道の空気が、やけに現実的に感じた。
さっきまでの静かな店内。
眩しいショーケース。
首元に触れる小さな光。
全部、夢みたいだった。
でも、これは現実だ。
本当に買われてしまった。
そして、そのまま着けることになってしまった。
美月は先生に向き直る。
「先生」
「ん?」
「これは……」
言いかけて、言葉が止まった。
受け取れません。
そう言うべきなのかもしれない。
けれど、店に戻って返すのも違う気がした。
自分がお金を払うのも、違う。
そもそも、先生は美月に買わせたわけではない。
欲しいと言わせたわけでもない。
ただ、自分の買い物だと言って、選んだ。
それをどう受け取ればいいのか、美月には分からなかった。
「……こんな展開になるなんて、不本意です」
「不本意?」
先生が楽しそうな顔を向けてくる。
その表情が、また腹立たしい。
「結構お高いので……気が引けるというか」
「なら、飼い猫に首輪くらいに思って」
美月は、じっと先生に視線を向けた。
先生はすぐに笑った。
「はいはい。冗談。ごめんごめん」
「全然、冗談に聞こえません」
「言い方が悪かった」
「悪すぎます」
美月は首元にそっと手を添えた。
細いチェーンは、もう肌の温度に少し馴染み始めている。
先生の自宅に住まわせてもらっている。
食事も、生活も、ずいぶん助けてもらっている。
そう考えると、あながち間違っていないような気もしてしまう。
いや。
違う。
流されてはいけない。
美月は顔を上げた。
「飼われた覚えはありません」
そう言って、ふいっとそっぽを向く。
先生が、ふっと笑った。
小さく、こぼすような笑いだった。
「そういうところが猫っぽい」
「なっ……」
顔が熱くなった。
恥ずかしくて、もう先生の顔が見られない。
なんか、ずるい。
やっぱり、ずるい。
「美月」
「何ですか」
「こっち見ないの?」
「見ません」
先生が立ち止まった。
「今度は、あっち」
「え?」
思わず振り向くと、先生は美月が進んでいる方向とは別の道を指差していた。
「あ、振り向いた」
「……っ」
本当に、調子が狂う。
院内の態度と全然違う。
あのきらきらとした王子は、どこへ行ったのだろう。
「どこに行くんですか」
「食べるところ」
「食事……ですか?」
「そう」
「行きません」
「もう予約した。行かない?」
まただ。
先手必勝なのだろうか。
美月は首元に指先を添えた。
小さな光が、指先に触れる。
まだ帰るには、少し早い気がした。
「……行きます」
先生の目元が、やわらかく緩んだ。
「良かった」
その笑い方は、さっきまでのからかうような顔とは違っていた。
温かくて、静かで、どこか安心させるような微笑み。
その姿は、紛れもなく王子そのものだった。
一体、この人はどんな人なんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなっていった。
