光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

洗面所の事故から、二日が経った。

事故。

美月は、何度もそう言い聞かせていた。

濡れた髪。

前を留めていないパジャマ。

鎖骨。

胸元。

少し低い声。

「……覗き?」

それから。

おやすみ、美月。

あれは事故だった。

でも、自分の反応までは、事故では片づけられなかった。

そのせいで、家の中にいると落ち着かない。

リビングに先生がいるだけで、洗面所のことを思い出す。

廊下ですれ違うだけで、距離を測ってしまう。

洗面所のドアが閉まっているだけで、妙に意識してしまう。

よくない。

非常によくない。

そんな美月の様子を見ていたのか、先生はその日の朝、珈琲を飲みながら何でもない顔で言った。

「今日、少し外に出ない?」

美月はカップを持つ手を止めた。

「外、ですか」

「うん」

「どこへ」

「表参道」

即答だった。

美月は眉を寄せる。

「なぜ急に表参道」

「外の空気を吸うため」

「表参道である必要がありますか」

「ある」

「何の必要ですか」

「俺が行きたい」

美月は黙った。

理由になっているようで、なっていない。

けれど、先生は続けた。

「家の中にいると、考えすぎるでしょ」

美月は視線を逸らした。

図星だった。

かなり図星だった。

「考えすぎていません」

「二回言う?」

「言いません」

「じゃあ、少し考えてる」

「少しだけです」

「うん。じゃあ、少し外に出よう」

うまい。

本当に、うまい。

少しだけ、という言葉を勝手に拾って、外出の理由に変えてくる。

美月はカップを置いた。

「買い物ですか」

「散歩でもいい」

「曖昧ですね」

「美月が逃げやすいように」

美月は先生を見た。

先生は、いつものように穏やかな顔をしている。

けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。

逃げ道は残す。

でも、確実に逃げ道の前に立つ。

この人は本当に、そういうことをする。

美月は小さくため息をついた。

「少しだけです」

「うん。少しだけ」

「雑貨を見るだけです」

「うん」

「変なところには行きません」

「変なところって?」

「先生が選ぶ場所全般です」

先生が笑った。

「信用ないな」

「積み重ねの結果です」

「それ、気に入った?」

「便利なので」

先生は楽しそうに笑って、珈琲を飲んだ。

その顔を見て、美月は少しだけ後悔した。

行くと言ってしまった。

少しだけ。

本当に、少しだけのつもりだった。

* * *

表参道は、相変わらず眩しかった。

街路樹の緑。

ガラス張りの店。

綺麗な服を着た人たち。

休日の午後らしい、少し浮き立った空気。

病院の白い廊下とは、まったく違う世界だった。

美月は先生の隣を歩きながら、少しだけ落ち着かなかった。

先生は、休日の服を着ている。

黒のジャケットに、淡い色のシャツ。

仕事中の整った外科医ではなく、休日の男の顔をしている。

それなのに、目立つ。

普通に歩いているだけなのに、目立つ。

すれ違う女性が、一瞬だけ先生を見る。

カフェの前で並んでいる人も、ショーウィンドウを見ている人も、視線がほんの少しだけ引っかかる。

本人は気づいていないのか。

気づいていて気にしていないのか。

たぶん、後者だ。

慣れている顔をしている。

それが少しだけ面白くない。

いや。

面白くないと思う資格はない。

好きとは言っていない。

恋人でもない。

ただ、同じ家にいるだけ。

……ただ、ではない気もするけれど。

美月は首を横に振りそうになった。

考えない。

外の空気を吸いに来ただけ。

「美月」

隣から呼ばれて、美月は顔を上げた。

「何ですか」

「ぼーっとしてた」

「していません」

「じゃあ、少ししてた」

「表参道が眩しいだけです」

「表参道が?」

「はい」

「俺じゃなくて?」

美月は一瞬、言葉を失った。

先生が少しだけ笑う。

腹立たしい。

本当に腹立たしい。

「先生は、自覚があるんですね」

「何の?」

「目立つことです」

「そう?」

「そうです」

「美月がそう思ってくれてるなら、嬉しいけど」

「そういう意味ではありません」

「じゃあ、どういう意味?」

美月は答えなかった。

答えたら負ける気がした。

先生はそれ以上追わず、自然に歩く速度を少し落とした。

美月の歩幅に合わせている。

道路側を先生が歩き、人とすれ違う時には、ほんの少しだけ美月を内側へ入れる。

触れない。

手も取らない。

でも、守る位置にいる。

そういうところがまた、ずるい。

美月がそう考えていた時だった。

少し先の横断歩道の向こうから、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。

美月の背中が、一瞬で固まる。

病院で見たことがある。

たぶん、薬剤部か、外来か。

どこかで何度かすれ違っている人。

確信はない。

けれど、病院関係者かもしれない。

その人は、友人らしき女性と話しながら、こちらへ向かってくる。

信号が変われば、すぐこちら側へ渡ってくる距離だった。

まだ気づかれていない。

でも、このまま進めば、正面からすれ違う。

先生と二人で表参道を歩いているところを見られる。

別に悪いことはしていない。

休日に外を歩いているだけ。

同じ病院の医師と看護師が、たまたま一緒にいるだけ。

いや、たまたまではない。

一緒に来ている。

しかも、今は同じ家にいる。

そこまで考えた瞬間、美月の身体が先に動いた。

「先生」

「ん?」

「こっちです」

「え?」

「いいから、こっちです」

美月は先生の手を取った。

自分でも、ほとんど無意識だった。

見つかる前に、視線から外れなければ。

ただ、それだけだった。

先生の返事を待たずに、美月はすぐ横にあったガラスの扉へ逃げ込んだ。

扉が静かに閉まる。

外のざわめきが遠くなる。

店内は、落ち着いた照明に包まれていた。

一瞬、空気が変わった。

静か。

高そう。

とても高そう。

空気まで高い。

美月は顔を上げた。

そして、固まった。

ガラスケースの中で、指輪やネックレスがきらきらと光っている。

細いチェーン。

小さな石。

繊細なピアス。

上品なリング。

間違えた。

完全に、逃げ込む場所を間違えた。

そこは、高級ジュエリー店だった。

美月はようやく、自分の手元に気づいた。

先生の手を、しっかり握っていた。

「……っ」

慌てて離す。

先生はその手を見て、それから美月を見た。

少しだけ笑っている。

非常に楽しそうだった。

「意外と積極的だね」

「違います」

即答した。

「避難です」

「また避難?」

「今のは本当に避難です」

「知り合いでもいた?」

美月は小さく頷いた。

「病院関係者かもしれない人がいました」

「なるほど」

「見つかる前に逃げました」

「判断が早いね」

「職業柄です」

「それで俺の手を引いたんだ」

美月は一瞬黙った。

「……不可抗力です」

「うん」

先生は楽しそうに頷いた。

「良い避難先だね」

「最悪の避難先です」

美月は店内を見回した。

出たい。

すぐに出たい。

けれど、店員はすでに品のいい笑顔でこちらを見ている。

入ったばかりで何も見ずに出る方が、かえって目立つ。

逃げ場がない。

美月は目だけで先生に訴えた。

出たいです。

こんな高いものを見に来たわけではありません。

知り合いから隠れるために入っただけです。

先生はその視線を受けて、楽しそうに微笑んだ。

「なかなか良い店選びをするんだね」

「選んでません」

「美月が連れてきた」

「逃げ込んだだけです」

「でも、手を引いて」

「それは不可抗力です」

「すぐ出る方が不自然だよ」

美月は固まった。

たしかに。

「……先生」

「見るだけ」

「本当ですか」

「たぶん」

「その“たぶん”が一番信用できません」

先生は笑いながら、自然にショーケースの方へ進んだ。

美月は仕方なくついて行く。

ショーケースの中のジュエリーは、どれも眩しかった。

華奢なリング。

小さな石のネックレス。

シンプルなのに、明らかに上質だと分かるピアス。

ふと、値札が目に入る。

美月は、思わず視線を外した。

買えない額ではない。

けれど、気軽に試していい額でもない。

少なくとも、知り合いから隠れるために逃げ込んだ店で、流れのまま眺めるものではなかった。

店員が、品のいい笑顔で近づいてくる。

「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」

美月は心の中で悲鳴を上げた。

探していません。

隠れに来ました。

もちろん、そんなことは言えない。

美月が固まっていると、先生が自然に返した。

「彼女に似合いそうなものを見せてもらえますか」

美月の心臓が止まりそうになった。

彼女。

今、彼女って言った?

恋人の意味なのか。

女性の意味なのか。

店員への自然な表現なのか。

分からない。

分からないけれど、耳が熱い。

店員は何の違和感もない様子で微笑んだ。

「かしこまりました。普段使いしやすいものですと、こちらなどいかがでしょうか」

美月は先生を睨む。

先生は涼しい顔をしている。

「先生」

「見るだけ」

「今、見るだけの範囲を超えました」

「まだ見てるだけ」

「店員さんを巻き込みました」

「仕事の邪魔はしてない」

「そういう問題ではありません」

先生は楽しそうだった。

美月は逃げるタイミングを完全に失っていた。

店員がいくつかネックレスを並べてくれる。

細いチェーン。

小さな石。

月のような曲線のトップ。

肌に馴染みそうな淡い光。

どれも綺麗だった。

綺麗すぎて、困る。

美月は見ないようにしようとして、結局見てしまった。

その中のひとつに、目が止まる。

小さな石が一粒だけついたネックレス。

派手ではない。

主張も強くない。

でも、光を受けると静かに揺れる。

美月が見てしまったことに、先生はすぐ気づいた。

「それ、いいね」

「何も言っていません」

「見てた」

美月は唇を結んだ。

言い返せなかった。

見ていた。

確かに、見てしまった。

店員が穏やかに言った。

「よろしければ、ご試着だけでも」

美月は反射的に断ろうとした。

「いえ、私は——」

「お願いします」

先生が、静かに言った。

美月は先生を見る。

「先生」

「試すだけ」

その言い方は穏やかだった。

けれど、ここでこれ以上言い募れば、店員を困らせる。

美月は小さく息を吸って、諦めたように鏡の前へ立った。

店員が後ろに回り、ネックレスを首元に合わせる。

細いチェーンが肌に触れた。

冷たい。

一瞬、身体がこわばる。

留め具が留まる、小さな音がした。

鏡の中に、自分が映った。

首元に、小さな光。

美月は、言葉を失った。

似合わないと思っていた。

こういうものは、自分には関係ないと思っていた。

病棟では髪をまとめ、スクラブを着て、動きやすさを優先する。

患者の邪魔にならないもの。

洗いやすいもの。

現実的なもの。

自分を飾るものは、いつも後回しだった。

なのに、鏡の中の自分は、少し違って見えた。

首元の小さな光が、やけに静かに馴染んでいる。

派手ではない。

でも、確かにそこにある。

美月は、思わず黙り込んだ。

先生が鏡越しに見ている。

近づかない。

触れない。

ただ、見ている。

その目が、少しだけ優しくなった。

「似合ってる」

たったそれだけ。

それだけなのに、美月の胸が少し熱くなる。

店員も微笑んだ。

「とてもお似合いです。華奢なので、休日にも使いやすいかと思います」

休日。

病院ではない日。

先生と並んで歩く日。

そんな想像をしかけて、美月は慌てて顔を上げた。

だめ。

危険。

非常に危険。

「外します」

美月は小さく言った。

その瞬間、先生が店員に向き直った。

「こちらをお願いします」

美月は固まった。

「先生っ」

「俺の買い物」

その一言で、美月は何も言えなくなった。

美月が欲しいと言ったわけではない。

美月が選んだわけでもない。

けれど、先生はもう決めている顔をしていた。

店員は、完璧に品のいい笑顔を保っている。

すごい。

この空気の中で笑顔を崩さない。

プロだ。

あれよあれよという間に会計が進む。

先生は当然のようにカードを出し、店員が丁寧に包みを用意してくれる。

美月はその間、首元のネックレスを意識し続けていた。

外しますと言えばいい。

そう思う。

けれど、言い切れなかった。

そこが一番まずい。

包みを用意しながら、店員が穏やかに聞いた。

「よろしければ、このままお着けになられますか」

美月は一瞬、先生を見た。

先生は静かに答えた。

「お願いします」

それは、彼の買い物だった。

彼が選び、彼が支払ったもの。

美月が口を挟む隙は、もうなかった。

けれど、それを嫌だと思えない自分がいた。

店員は、変わらない笑顔で頷いた。

「かしこまりました」

先生は何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ目元を緩めた。

それが見えて、美月はすぐに視線を逸らした。

店員が丁寧に頭を下げる。

「またぜひお立ち寄りくださいませ」

美月は、胸元に小さく光るネックレスを意識しながら、店を出た。

外に出た瞬間、ようやく息を吸う。

表参道の空気が、やけに現実的に感じた。

さっきまでの静かな店内。

眩しいショーケース。

首元に触れる小さな光。

全部、夢みたいだった。

でも、これは現実だ。

本当に買われてしまった。

そして、そのまま着けることになってしまった。

美月は先生に向き直る。

「先生」

「ん?」

「これは……」

言いかけて、言葉が止まった。

受け取れません。

そう言うべきなのかもしれない。

けれど、店に戻って返すのも違う気がした。

自分がお金を払うのも、違う。

そもそも、先生は美月に買わせたわけではない。

欲しいと言わせたわけでもない。

ただ、自分の買い物だと言って、選んだ。

それをどう受け取ればいいのか、美月には分からなかった。

「……こんな展開になるなんて、不本意です」

「不本意?」

先生が楽しそうな顔を向けてくる。

その表情が、また腹立たしい。

「結構お高いので……気が引けるというか」

「なら、飼い猫に首輪くらいに思って」

美月は、じっと先生に視線を向けた。

先生はすぐに笑った。

「はいはい。冗談。ごめんごめん」

「全然、冗談に聞こえません」

「言い方が悪かった」

「悪すぎます」

美月は首元にそっと手を添えた。

細いチェーンは、もう肌の温度に少し馴染み始めている。

先生の自宅に住まわせてもらっている。

食事も、生活も、ずいぶん助けてもらっている。

そう考えると、あながち間違っていないような気もしてしまう。

いや。

違う。

流されてはいけない。

美月は顔を上げた。

「飼われた覚えはありません」

そう言って、ふいっとそっぽを向く。

先生が、ふっと笑った。

小さく、こぼすような笑いだった。

「そういうところが猫っぽい」

「なっ……」

顔が熱くなった。

恥ずかしくて、もう先生の顔が見られない。

なんか、ずるい。

やっぱり、ずるい。

「美月」

「何ですか」

「こっち見ないの?」

「見ません」

先生が立ち止まった。

「今度は、あっち」

「え?」

思わず振り向くと、先生は美月が進んでいる方向とは別の道を指差していた。

「あ、振り向いた」

「……っ」

本当に、調子が狂う。

院内の態度と全然違う。

あのきらきらとした王子は、どこへ行ったのだろう。

「どこに行くんですか」

「食べるところ」

「食事……ですか?」

「そう」

「行きません」

「もう予約した。行かない?」

まただ。

先手必勝なのだろうか。

美月は首元に指先を添えた。

小さな光が、指先に触れる。

まだ帰るには、少し早い気がした。

「……行きます」

先生の目元が、やわらかく緩んだ。

「良かった」

その笑い方は、さっきまでのからかうような顔とは違っていた。

温かくて、静かで、どこか安心させるような微笑み。

その姿は、紛れもなく王子そのものだった。

一体、この人はどんな人なんだろう。

考えれば考えるほど、分からなくなっていった。