光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

好きとは、まだ言っていない。

その事実を、美月は翌朝から何度も確認していた。

好きとは言っていない。

悪くはない、と言った。

ここにいることも、自分で選んだ。

好きという言葉にしてしまうのが怖いことも、自分の中では分かっている。

でも。

好きです、とは言っていない。

だから、まだ大丈夫。

何が大丈夫なのかは分からない。

けれど、そう思わないと落ち着かなかった。

昨夜のリビング。

珈琲の香り。

少し斜めの席に座る先生。

触れない距離。

それでも近すぎる会話。

好きって、言わせたい。

あの言葉を思い出すたびに、仕事中でも耳が熱くなった。

本当にやめてほしい。

病棟で点滴確認をしている時に思い出す言葉ではない。

退院指導の資料を確認している時に、頭をよぎっていい声ではない。

美月はナースステーションで電子カルテを開きながら、小さく息を吐いた。

仕事中。

勤務中。

便利な言葉を胸の中で繰り返す。

けれど、その便利な言葉も、最近少し効きが悪い。

「綾瀬さん、何か疲れてます?」

後輩に聞かれ、美月はすぐに顔を上げた。

「大丈夫」

言った瞬間、また自分で気づく。

大丈夫。

便利な言葉。

藤崎先生なら、ここで「二回言う?」と聞くだろう。

そう思ったところで、美月は自分に腹が立った。

なぜ、今、藤崎先生が出てくるのか。

後輩は不思議そうに首を傾げる。

「本当に大丈夫ですか?」

「うん。大丈夫」

二回言った。

美月は心の中で頭を抱えた。

もう駄目かもしれない。

いや、駄目ではない。

仕事はできている。

できているのだから、大丈夫。

……たぶん。

* * *

その日は、美月の方が少し早くマンションへ戻った。

ゲストルームに荷物を置き、管理会社から届いていた修繕費の書類を確認する。

部屋は戻った。

戻ろうと思えば戻れる。

けれど、自分はまだここにいる。

その事実に、何度も意識が向く。

合鍵は、バッグの内ポケットに入っている。

一度返して、もう一度受け取った鍵。

その重みが、以前よりずっと意味を持ってしまった気がする。

美月は書類を閉じ、ベッドに腰を下ろした。

最初にここへ来た夜は、知らない部屋だった。

今も、自分の部屋ではない。

でも、完全に知らない場所でもなくなっている。

それが怖い。

そして、嫌ではない。

そこが一番困る。

スマホが震えた。

藤崎理久。

『今から帰る。夕飯、食べた?』

美月は画面を見つめた。

帰る。

その言葉が、あまりにも自然に入ってくる。

自分もここに帰ってきている。

先生もここに帰ってくる。

同じ場所へ。

美月は少し迷ってから返した。

『軽く食べました』

すぐ既読がつく。

『足りてる?』

『足りています』

『二回言わない?』

美月は画面を睨んだ。

同じ家に帰ってくる相手と、LINEでこのやり取り。

おかしい。

完全におかしい。

でも、もう慣れ始めている。

それもまた怖い。

『勤務外です』

送ったあと、しまったと思った。

今は勤務外だ。

つまり、その逃げ方は使えない。

案の定、すぐ返信が来た。

『便利な言葉、今日は使えないね』

美月はスマホを伏せた。

本当に、なんつー男。

しばらくして、玄関の音がした。

先生が帰ってきた。

美月はゲストルームから出るタイミングを少し迷った。

出るべきか。

出ないべきか。

おかえりと言う必要はない。

そもそもここは、自分の家ではない。

でも、玄関の音がした瞬間に顔を上げてしまった時点で、もうかなりおかしい。

リビングの方から、先生の声がした。

「ただいま」

美月は固まった。

それはずるい。

おかえりを言わせる気だ。

絶対に言わせる気だ。

しばらく黙っていると、スマホが震えた。

『今のは独り言』

美月は思わず小さく笑いそうになった。

本当に、この人は。

美月はゲストルームのドアを開け、リビングへ出た。

先生はスーツのジャケットを脱いだところだった。

仕事帰りの顔をしている。

少し疲れているのに、相変わらず整っている。

「……お疲れさまです」

美月が言うと、先生が少しだけ目を細めた。

「それで返すんだ」

「適切な挨拶です」

「おかえりじゃなくて?」

「言いません」

「二回目は?」

「言いません」

「もう二回言った」

美月は悔しくなった。

「そういうところ、本当に性格が悪いです」

「知ってる」

先生は楽しそうに笑った。

その顔を見て、美月は少しだけ安心している自分に気づく。

駄目だ。

本当に、駄目だ。

この人が帰ってくることに、安心している。

* * *

夜は静かに過ぎていった。

先生は買ってきた夕食を軽く済ませ、美月はその向かいで書類を整理した。

会話は少ない。

でも、気まずくはない。

「これ、保険会社に出す写真?」

「はい。管理会社からもらいました」

「日付と場所、分かるように保存しておいた方がいいよ」

「そうですね」

「クラウドにも上げた?」

「まだです」

「やっておく?」

「自分でできます」

「うん。分かってる」

それでも、先生は横から勝手に触ったりしない。

必要な助言だけをして、あとは待つ。

その距離感に、少しずつ慣れている。

慣れてはいけないのに。

寝る前、美月は先にお風呂を使わせてもらうことにした。

「先にお風呂、入ってきてもいいですか」

「どうぞ」

「では、先に失礼します」

美月は洗面所へ向かった。

この家に来てから、風呂と洗面所を使う時間は基本的にずらしている。

最初に決めたルールだ。

ゲストルームには勝手に入らない。

風呂と洗面所は時間をずらす。

職場では今まで通り。

必要なことはLINEでもいい。

そのルールがあったから、ここにいられた。

そのはずだった。

美月は洗面所で髪をほどき、スマホを手に取った。

明日の持ち物を確認する。

管理会社へ返送する書類。

忘れないように、リマインダーに入れておく。

通知時間を朝に設定して、スマホを洗面台の端に置いた。

それから、浴室へ入った。

湯気の中で、ようやく少しだけ息が抜けた。

今日は一日、落ち着かなかった。

昨日のリビングの会話が、何度も頭をよぎった。

好きって、言わせたい。

思い出すたびに、耳が熱くなる。

美月はシャワーを少し強めに出した。

流せるものなら、全部流してしまいたい。

けれど、流れない。

先生の声も。

珈琲の香りも。

ここにいることを自分で選んだという事実も。

全部、身体のどこかに残っている。

風呂を出て、髪を乾かし、歯を磨いて、スキンケアを済ませた。

そのままゲストルームへ戻り、明日の服を出す。

書類をバッグに入れる。

しばらくして、そろそろ寝ようと思った。

アラームをかけようとして、手が止まる。

スマホがない。

「……あ」

ベッドの上。

枕元。

バッグの中。

どこにもない。

数秒考えて、思い出した。

洗面台の端だ。

リマインダーを設定して、そのまま置いてきた。

最悪。

美月は小さく息を吐いた。

先生は、もうお風呂を済ませただろうか。

耳を澄ませる。

シャワーの音は聞こえない。

廊下も静かだった。

もう部屋に戻ったのかもしれない。

それなら、スマホを取るだけ。

すぐに戻ればいい。

美月はゲストルームを出て、洗面所の前まで行った。

廊下の明かりはついている。

足元も暗くない。

だから、洗面所の下から漏れている光には気づかなかった。

美月はドアノブに手をかけた。

鍵は、かかっていない。

誰も使っていないのだと思った。

思ってしまった。

スマホを取るだけ。

そう思って、ノックもせずに扉を開けた。

そして、固まった。

洗面台の前に、先生がいた。

風呂上がりらしく、髪が濡れている。

首にはタオル。

前開きのパジャマを羽織っているのに、ボタンは留められていなかった。

襟元が開いて、鎖骨から胸元にかけての肌が見える。

見えた。

見えてしまった。

病棟の藤崎先生ではない。

家の中で、風呂上がりに洗面台の前に立っている男。

美月は、完全に動けなくなった。

先生も鏡越しにこちらを見て、一瞬だけ止まった。

それから、少しだけ口元を緩める。

「……覗き?」

美月の顔が、一気に熱くなった。

「ち、違います」

声が裏返った。

「スマホを取りに来ただけです」

「スマホ」

「はい」

「そっか」

先生は笑った。

困ったような、面白がっているような笑い方だった。

「俺も不注意だったよね。ごめん」

その素直な謝罪に、美月は少しだけ我に返る。

「そ、そうですよ。鍵をかけるルールでしたよね?」

「そうなんだよね」

先生はタオルで濡れた髪を軽く押さえた。

その仕草だけで、また目のやり場に困る。

「一回、水を取りに行ったから、鍵を閉め忘れてた」

「き、気をつけてください」

「うん」

先生は素直に頷いた。

「仕事ができる綾瀬さんも、忘れ物には気をつけて」

「……今、それを言います?」

「今だから」

先生は洗面台の端に置かれていたスマホを手に取った。

「これでしょ」

「はい」

美月は、できるだけ先生の顔だけを見るようにして手を伸ばした。

顔だけ。

絶対に、視線を下げてはいけない。

そう思っていたのに、開いた襟元が視界の端に入る。

無理。

本当に無理。

「ありがとうございます」

そう言って受け取ろうとした瞬間、先生がスマホをひょいっと横へずらした。

美月の手が空を切る。

「……え?」

もう一度手を伸ばす。

今度は少し上に逃げる。

届かない。

美月は固まった。

「な……何がしたいんですか?」

「んー」

先生は少し考えるような顔をした。

「なんとなく?」

「なんとなくで遊ばないでください」

「そうだね」

「返してください」

「はい、どうぞ」

そう言いながら、また少しだけ持ち上げる。

美月はむっとして手を伸ばした。

届きそうで、届かない。

腹立たしい。

本当に腹立たしい。

そういえば、先生はこういう揶揄うようなこともする人だった。

病院で見せる王子は、たぶん仮面だ。

本来の姿は、割と子どもっぽい一面もある。

エセ王子。

美月は心の中でそう決めた。

「先生」

「ん?」

「取らせる気、あります?」

「あるよ」

「全然ありません」

「二回言う?」

「言いません」

先生は少しだけ笑った。

それから、今度はちゃんとスマホを差し出した。

「はい、どうぞ」

美月は慎重に手を伸ばす。

今度は逃げなかった。

指先が、ほんの少しだけ先生の指に触れた。

ただそれだけなのに、肩が跳ねそうになる。

スマホを受け取って、美月はすぐに一歩下がった。

「あ……ありがとうございます」

「うん」

先生は笑っていた。

濡れた髪。

開いた襟元。

余裕のある表情。

少し子どもっぽいからかい方。

全部が、ずるい。

こんなに揶揄われているのに。

引っかからないなんて思っていたのに。

綺麗なものは、やっぱり綺麗だと思ってしまう。

それが悔しい。

本当に悔しい。

「では、失礼します」

美月は逃げるようにドアへ向かった。

その背中に、先生の声が落ちる。

「おやすみ、美月」

心臓に悪い。

こんなプライベートな姿を見せられて、平常心でいられるわけがない。

しかも、その声で名前を呼ばないでほしい。

美月はドアノブを握ったまま、なんとか返した。

「……おやすみなさい」

それだけ言って、洗面所を出た。

廊下に出て、ようやく息を吐く。

心臓がうるさい。

スマホを握りしめたまま、ゲストルームへ戻る。

ドアを閉めて、背中を預けた。

事故だ。

これは事故。

生活動線の事故。

仮住まいの距離が、少しだけ近すぎただけ。

そう言い聞かせる。

けれど、さっき見えてしまったものが頭から消えない。

濡れた髪。

前を留めていないパジャマ。

鎖骨。

胸元。

低い声。

おやすみ、美月。

美月はスマホをベッドの上に置き、両手で顔を覆った。

揶揄われた。

完全に揶揄われた。

しかも、かなり子どもっぽいやり方で。

腹立たしい。

本当に、腹立たしい。

それなのに。

この家にいるのが嫌だとは思わなかった。

むしろ、困るくらい胸が落ち着かない。

悔しいけれど。

こんなにドキッとさせられて、気持ちが先生に向かないなんてこと、あるわけがない。

でも。

それをまだ口にして認めるのは、やっぱり怖かった。

好きとは、まだ言っていない。

美月はもう一度、心の中で確認する。

でも、その言葉で自分を守れる時間は、たぶんもう長くない。

鏡の中で見た自分の顔は、少しも事故では済まない赤さをしていた。