光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

再び、ゲストルームに戻ってきてしまった。

さっきまでは、出ていくつもりだった部屋。

荷物をまとめて、自分の気配を少しずつ消して、もう戻らないつもりで扉を閉めたはずの部屋。

そこに、またスーツケースを置いている。

美月は、ベッドの端に腰を下ろした。

……何をしているんだろう、私は。

泣いた。

引き止められた。

抱きしめられた。

好きとも言えなかった。

帰るとも言えなかった。

そして結局、今日は帰らないと自分で決めた。

自分で決めた。

そこだけは、間違えてはいけない。

先生に命令されたわけではない。

流されたわけでもない。

帰ることもできた。

部屋も直っている。

管理会社の人にも、もう住めると言われた。

それなのに私は、靴を脱いで、スーツケースをもう一度この家の中へ入れた。

今日は帰らない。

そう決めた。

でも。

今日だけ、のはずだ。

今日だけ。

それ以上の意味は、まだない。

ない、はずだ。

美月は両手で顔を覆った。

どうなるの、これ。

恋人ではない。

同居でもない。

避難生活は、もう終わっている。

それなのに、ここにいる。

何ひとつ、名前がついていない。

名前がついていないものは、扱い方が分からない。

その時、ドアが軽くノックされた。

トントン。

「美月。珈琲、入れたけど飲む?」

名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。

まだ慣れない。

でも、嫌ではなかった。

それが一番困る。

「……行きます」

美月は小さく息を吐いてから立ち上がった。

リビングに出ると、テーブルにはマグカップが二つ置かれていた。

夜景の見える窓。

柔らかい照明。

さっきまで玄関で泣いていた自分が嘘のように、部屋は静かだった。

藤崎先生は、向かいではなく、少し斜めの席に座っていた。

近すぎない。

でも、遠くもない。

美月が座ると、先生はマグカップを軽く指した。

「熱いから気をつけて」

「ありがとうございます」

美月はマグカップを両手で持った。

ひと口飲む。

香りが柔らかい。

苦すぎず、酸味も強くない。

前に飲んだものより、少し丸い味がした。

「新しい豆にしてみた」

先生が言った。

「どう?」

「……おいしいです」

「好き?」

美月の手が止まった。

今の聞き方。

今、絶対に。

美月はマグカップを見つめたまま、慎重に言葉を選んだ。

「……味は、です」

先生が少し笑った。

「手強いな」

「今のは誘導ですか?」

「普通に聞いただけ」

「普通ではありません。今の流れで“好き?”は、明らかに誘導です」

「…ばれた?」

「ばれます」

先生は悪びれなかった。

むしろ、どこか楽しそうに珈琲を飲んでいる。

「警戒されてるね」

「警戒せざるを得ません」

「でも、飲んではくれるんだ」

「珈琲に罪はありません」

先生は声を出さずに笑った。

その表情は、さっき玄関で私を呼び止めた人と同じなのに、少し違う。

余裕はある。

でも、病院で見る王子の顔ではない。

美月にだけ向ける、少し悪くて、少し嬉しそうな顔。

美月はそれを見て、胸の奥がまた小さく揺れた。

ああ。

この顔が見たかったんだ。

思った瞬間、慌てて珈琲を飲む。

先生は、それを見逃さない。

「今の顔、好きだな」

美月はむせそうになった。

「っ……先生」

「俺は言ったよ」

「何をですか」

「好きって」

「顔の話です」

「うん。まずは顔から」

「段階を踏まないでください」

「踏んだ方がいいかなと思って」

「そういう意味ではありません」

先生は楽しそうに笑う。

美月はマグカップを握りしめながら、少しだけ睨んだ。

「藤崎先生」

「ん?」

「好きって言わせたいんですか」

先生は、今度は少しだけ間を置いた。

そして、まっすぐ美月を見る。

「うん」

あまりにも素直に認められて、美月は言葉を失った。

先生は続ける。

「でも、無理には言わせない」

「……その割には、珈琲で誘導してきました」

「それくらいはいいかなと思って」

「よくありません」

「じゃあ、次はもう少し分かりにくくする」

「そういう問題ではありません」

先生が笑う。

美月も、少しだけ笑いそうになる。

でも、その笑いは完全には隠しきれなかった。

先生はやっぱり見逃さない。

「今のは?」

「何ですか」

「ちょっと笑った」

「気のせいです」

「気のせいじゃない」

「気のせいです」

「二回言った」

美月はマグカップで口元を隠した。

「……珈琲が、おいしかったので」

先生は嬉しそうに目を細める。

「じゃあ、豆は正解」

「はい。豆は」

「俺は?」

美月は、また手を止めた。

この人は本当に油断ならない。

美月は慎重に返す。

「……現在、継続観察中です」

先生は肩を揺らして笑った。

「医療用語で逃げた」

「逃げてません。評価中です」

「じゃあ、改善の見込みは?」

美月は少しだけ視線を落とした。

そして、小さく言う。

「……悪くは、ないです」

先生の表情が少し止まった。

美月はすぐに後悔する。

言いすぎた。

けれど、先生は茶化さなかった。

少しだけ静かに笑った。

その反応が、甘く迫られるよりずっと危険だった。

美月は珈琲をもう一口飲んだ。

「……この珈琲は、本当においしいです」

「好き?」

「好みです」

「なかなか言わないね」

「言いません」

「俺より手強い」

「先生がしつこいんです」

「うん。好きだから」

美月の指が止まった。

今のは、何にかかっているのか。

しつこいのが好きなのか。

自分が好きだからしつこいのか。

聞いたら負け。

絶対に聞いたら負け。

美月は静かに珈琲を飲んだ。

先生は、分かっている顔で微笑んでいる。

この人は、たぶん全部分かっている。

それでも、美月はまだ言わない。

好きって言ったら、きっと何かが形になる。

形になったら、もう戻れない。

そう思うのに。

戻れなくてもいいと思い始めている自分が、一番まずい。

リビングには、珈琲の香りが残っている。

夜景の光が、窓の向こうで静かに滲んでいた。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

沈黙は重くなかった。

ただ、終わらせるには少しだけ惜しい静けさだった。

先生が、マグカップを置いた。

「美月」

名前を呼ばれて、美月は顔を上げた。

「さっき、“今日は”って言ってたよね」

美月の背筋が、少しだけ伸びた。

来た。

やっぱり、そこに触れるのだ。

「……言いました」

「今日だけにする?」

美月は答えられなかった。

今日だけ。

そう言った。

自分で言った。

けれど、今ここで「はい」と言えるほど、気持ちは整理できていない。

先生は、そんな美月を急かさなかった。

「さっきは、今日は戻らないって言ってたけど」

静かな声だった。

「もう少しここにいて、自分の気持ちをちゃんと確かめてみたら?」

美月はマグカップを握る手に、少しだけ力を入れた。

「それは……」

言いかけて、顔を上げる。

「それは、先生も同じかもしれませんよ?」

先生の目が、わずかに動いた。

それから、あっさり頷く。

「そうだね」

認めた。

あっさり。

美月は言葉を失った。

なんか、ずるい。

いや、元々こういう人だった。

それは知っている。

否定しない。

逃げない。

でも、核心の言葉だけは、ぎりぎりで置かない。

先生は、ゆっくりと続けた。

「だから、帰ってほしくないと思った、って言ったよね」

「……そうですね」

やっぱりずるい。

好きとは言わない。

でも、好きに限りなく近い場所にある言葉だけを、逃げずに置いてくる。

こちらが動揺することを、分かっているくせに。

先生は、少しだけ表情を和らげた。

「無理に引き止めるつもりはないよ」

「はい」

「でも、今すぐ帰るって決めなくてもいい」

その声は穏やかだった。

穏やかなのに、軽くはなかった。

選ばせるために、わざと余白を残している。

美月には、そう見えた。

「この生活が苦しくなったら、その時に帰ればいい」

「……そんな言い方します?」

「する」

「普通、苦しくなる前提で話します?」

「帰る理由を残しておいた方が、美月はここにいられるでしょ」

美月は黙った。

その通りだった。

ここにいなければいけないと言われたら、たぶん怖くなる。

帰るなと言われたら、逃げたくなる。

でも、苦しくなったら帰ればいいと言われると。

ここにいることを、自分で選べる気がした。

「……そうですね」

美月はマグカップに視線を落とした。

「先生との共同生活に嫌気がさしたら、心置きなく帰ることにします」

先生は、なぜか嬉しそうに笑った。

「うん、楽しみだね」

「楽しみなんですか」

「うん」

「普通、嫌気がさされるのは楽しみじゃないと思います」

「それまでここにいるってことでしょ」

美月は言葉に詰まった。

まただ。

また、こちらの言葉の隙間を拾われた。

先生は、王子のような綺麗な笑顔を向ける。

でも、その笑顔は院内で見るものとは違った。

誰にでも向けられる整った笑顔ではない。

自分だけに向けられる、少し甘くて、少し悪い笑顔。

それがやっぱり、ずるい。

美月はマグカップを両手で包んだ。

「……そうですね」

「ん?」

「楽しみに、ですね」

言ってから、少しだけ変な返しだったと思った。

でも先生は笑った。

「うん。楽しみに」

珈琲の香りが、まだ部屋に残っている。

今日だけ。

そう言って戻したはずの荷物は、もうゲストルームにある。

秘密の同居は、まだ終わらない。

ただ、もう避難だけではなくなっていた。

好きとは言わない。

まだ言わない。

けれど、ここにいることを選んだ。

その事実だけが、珈琲の香りの中で、静かに残っていた。