光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

「俺のこと、どう思ってるの?」

先生の問いに、息が止まった。

玄関の扉は閉まっている。

外の空気は、もう入ってこない。

それなのに、足元だけがまだ冷えているような気がした。

先生は、もう私に触れていなかった。

抱きしめてもいない。

一歩分、距離を取って、私の前に立っている。

それは、逃がさないための距離ではなかった。

私が自分で答えられるように、空けられた距離だった。

それなのに、さっき腕の中にいた時よりも、ずっと近くにいる気がした。

どう思っているのか。

考えたことがなかったわけではない。

考えないようにしてきただけだ。

優しい。

誠実。

信用できる。

頼ってもいいのかもしれないと思わせてくれる。

でも、それだけでは足りないことを、もう私は分かっていた。

分かっているのに、その先へ行くのが怖い。

「先生のこと……」

そこまで言って、言葉が止まった。

好き。

その二文字だけが、喉の奥で止まる。

言葉にしたら、形になる。

形になったら、もうなかったことにはできない。

だから、言えなかった。

「……だと思います」

やっと出た声は、あまりにも中途半端だった。

自分でも、何を言ったのか分からない。

言ったようで、何も言っていない。

先生の眉が、かすかに動いた。

「……え?」

その声は、聞こえなかったからではなかった。

本来あるはずの言葉だけが抜け落ちたことに、一瞬、追いつかなかったような声だった。

「聞こえなかったんだけど」

私は視線を伏せた。

聞こえなかったのではない。

言っていないのだ。

先生も、たぶん分かっている。

分かっていて、聞いている。

ずるい。

でも、私もずるい。

言えないくせに、離れられない。

帰ろうとしているくせに、泣いている。

何も認めようとしないくせに、先生の前から動けない。

「何も、言ってないので……」

そう言うと、先生は黙った。

笑わなかった。

ただ、困ったように、ほんの少しだけ息を吐いた。

その沈黙が、余計に苦しかった。

言わなかった言葉だけが、先生にも聞こえてしまった気がした。

好き。

たった二文字なのに、どうしても声にならなかった。

私はその沈黙に耐えられなくなって、顔を上げた。

「先生は……」

先生の目が、わずかに揺れた。

「先生は、私のこと……どう思ってるんですか」

聞いてから、しまったと思った。

自分は答えられなかったくせに、先生には答えを求めている。

でも、聞かずにはいられなかった。

私だけがこんなふうに乱れているのは、苦しかった。

先生はすぐには答えなかった。

いつものように整った表情ではなかった。

病院で見る、余裕のある藤崎先生でもなかった。

何かを言おうとして、言えずにいる顔だった。

その沈黙の中に、私には聞こえない言葉がある気がした。

けれど先生は、それを飲み込むように目を伏せた。

そして、低い声で言った。

「……帰ってほしく、ないと思った」

好きだとは、言わなかった。

大切だとも、言わなかった。

でも、その言葉だけは、逃げずに置かれた。

帰ってほしくない。

それは曖昧なのに、今の私には十分すぎるほど強かった。

先生は、そこで一歩下がった。

私が自分で立てる距離だった。

私が自分で選べる距離だった。

「帰るなら、送る」

先生は静かに言った。

「スーツケースも持つし、部屋まで行く。必要なら、部屋の確認も一緒にする」

私は何も言えなかった。

「でも、今日、自分の部屋に帰るのがつらいなら、無理に帰らなくていい」

自分の部屋に帰る。

その言葉が、胸の奥で揺れる。

帰る場所はある。

帰れる状態にもなっている。

なのに、その場所へ足が向かない。

先生は、私の迷いを見ているように続けた。

「決めるのは、綾瀬さん」

帰ってほしくないと言ったのに。

それでも、最後は私に選ばせる。

先生はいつもそうだ。

踏み込んでくるくせに、最後の一線は越えない。

優しいのか、ずるいのか。

分からない。

「綾瀬さん」

「はい」

「……美月って、呼んでいい?」

一瞬、意味が分からなかった。

「え?」

先生は少しだけ目を伏せた。

それから、もう一度、私を見る。

「美月」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が跳ねた。

病棟で呼ばれる「綾瀬さん」ではない。

誰にでも向けられる、整った声でもない。

今、自分だけに向けられた名前。

私は思わず視線を逸らした。

「……まだ、いいとは言ってません」

「うん」

先生の声は、少しだけ甘かった。

「でも、だめとも言われてない……よね?」

そんなふうに言われると、直視できない。

帰る家はある。

自分の部屋は、もう直っている。

ここにいる理由は、もうない。

それなのに、気持ちはまだ、この部屋に留まりたいと思っている。

名前を呼ばれると、心がそれを受け入れてしまう。

この気持ちに名前をつけるとするなら。

それは、きっと。

けれど、まだ認めたくなかった。

認めてしまうのが怖かった。

私は、玄関に置かれたスーツケースを見た。

帰る準備は、もうできている。

このまま持って出ればいい。

自分の部屋に戻ればいい。

何も間違っていない。

なのに、足は動かなかった。

「……今日は」

先生は黙って待っていた。

「今日は、戻します」

先生の目が、少しだけ揺れた。

「荷物を?」

私は頷いた。

「荷物を、ここに」

それだけ言うと、胸がいっぱいになった。

先生は何も言わずに、一歩下がった。

玄関の中に、私のための場所を空けるように。

私はスーツケースの持ち手を握った。

一度履いた靴を、もう一度脱ぐ。

帰るために履いた靴を、帰らないために脱ぐ。

それだけのことなのに、指先が震えた。

スーツケースのキャスターが、小さく床を鳴らす。

さっきまで外へ向かっていた荷物が、もう一度この家の中へ戻っていく。

先生は何も言わなかった。

ただ、私が自分で動くのを待っていた。

靴を脱ぎ終えて顔を上げると、先生が手元の封筒を差し出した。

さっき、私が返した合鍵だった。

「これ」

私は封筒を見つめた。

「返したものです」

「うん」

「受け取ったじゃないですか」

「受け取った」

先生は静かに頷いた。

「でも、今日ここにいるなら、持ってて」

私はすぐには受け取れなかった。

受け取ったら、本当に戻ってきたことになる気がした。

ただ泊まる場所としてではなく。

ただ避難先としてではなく。

自分で、ここにいることを選んだ証拠になる。

先生は急かさなかった。

封筒を差し出したまま、私が受け取るのを待っている。

「……今日だけです」

ようやくそう言うと、先生は少しだけ笑った。

「うん」

「今日だけ、借ります」

「分かった」

私は封筒を受け取った。

返したはずの合鍵が、もう一度、手のひらに戻る。

さっきより、ずっと重い。

でも、嫌ではなかった。

今日は帰らない。

この選択が正しいのかは、分からない。

けれど、私がこの選択をしたことだけは、紛れもない事実だった。