火事の日から、数週間が過ぎた。
仮住まいは、少しずつ日常になっていた。
最初の数日は、すべてが落ち着かなかった。
合鍵を持つこと。
理久の部屋に戻ること。
同じリビングに自分の気配があること。
洗面所の使用時間を気にすること。
家の中なのに、必要なことをスマホで送ること。
全部が、仮のものだった。
ここは自分の家ではない。
ここは藤崎先生の家だ。
私は一時的に避難しているだけ。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
けれど、人は慣れてしまう。
朝、冷蔵庫にヨーグルトが入っていること。
帰宅すると、廊下の小さな灯りがついていること。
準夜勤明けの日、真っ暗ではない部屋に入れること。
冷蔵庫に水が補充されていること。
リビングのテーブルに、短いメモが置かれていること。
『無理しないで』
それだけの文字を見て、少しだけ息ができること。
最初は、全部に戸惑った。
距離の近さにも。
踏み込まれなさにも。
理久が何も聞かずに、必要なものだけを置いていくことにも。
でも、いつの間にかそれは、美月の一日の中に入り込んでいた。
大したことないホテル。
仮住まい。
避難先。
そう言い換えていた場所は、いつの間にか少しだけ、帰る場所の顔をし始めていた。
だから、管理会社から連絡が来た時、美月は一瞬だけ言葉を失った。
勤務の休憩中だった。
ナースステーションの隅で、スマホを確認した時。
画面に表示された件名を見て、美月は指を止めた。
『修繕完了のお知らせ』
本文には、必要なことが淡々と書かれていた。
室内の修繕が完了したこと。
清掃も終了していること。
管理会社立ち会いのもと、室内確認が可能なこと。
確認後は、通常通り住める状態であること。
当然の連絡だった。
待っていた連絡のはずだった。
やっと自分の部屋に戻れる。
迷惑をかけ続けなくて済む。
藤崎先生の家にいる理由が、なくなる。
そう思った瞬間、美月の胸の奥が少しだけ沈んだ。
寂しい。
そう思ってしまった自分に、さらに驚いた。
部屋が直ったのに。
帰る場所が戻ったのに。
どうして、寂しいと思うのだろう。
「綾瀬さん?」
後輩の声に、美月は顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。大丈夫」
また言ってしまった。
大丈夫。
便利な言葉。
後輩は少し心配そうに見たけれど、それ以上は聞かなかった。
美月はスマホの画面を伏せる。
勤務中。
今は勤務中。
自分の感情を考えている場合ではない。
そう思って、記録画面へ視線を戻した。
けれど、指先にはまだ、さっき読んだ文面が残っているような気がした。
修繕が完了しました。
通常通りお住まいいただけます。
通常通り。
自分の部屋へ戻る。
それが、普通。
それが、本来の生活。
そう分かっているのに、胸の奥だけが、うまく納得しなかった。
* * *
その夜、美月が理久のマンションへ戻ると、廊下の灯りがいつものように点いていた。
「……お邪魔します」
小さく言って、靴を脱ぐ。
その言葉も、最近少しだけ苦しくなっている。
お邪魔します。
自分はここにお邪魔している。
そう言い聞かせるための言葉。
けれど、玄関の匂いも、廊下の明かりも、リビングの静けさも、もう完全な他人のものには見えなかった。
美月はゲストルームへ荷物を置いた。
スマホを取り出し、管理会社からのメールをもう一度開く。
何度読んでも、内容は変わらない。
帰れる。
美月はしばらく画面を見つめてから、リビングへ向かった。
理久は、ソファでタブレットを見ていた。
白いシャツに黒のパンツ。
病院の藤崎先生ではないけれど、家の中でも相変わらず整っている。
美月が入ると、理久は顔を上げた。
「おかえり」
美月は一瞬、息を止めた。
最近、理久は時々その言葉を使う。
まだ慣れない。
慣れてはいけない気もする。
「……お邪魔します」
いつものように返すと、理久は少しだけ笑った。
「まだそっちなんだ」
「そっちです」
「そっか」
それ以上は言わない。
からかいすぎない。
その距離が、今は余計に胸に残った。
美月は、テーブルの端に立ったまま言った。
「管理会社から連絡がありました」
理久の視線が、少しだけ変わる。
「うん」
「部屋の修繕が終わったそうです」
理久は、タブレットを持つ手を一瞬だけ止めた。
本当に一瞬。
けれど、美月には分かった。
その一瞬に、理久が何かを飲み込んだことが。
でも、次に顔を上げた時には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「よかったね」
その声は、優しかった。
正しくて、乱れなくて、ちゃんとしていた。
美月は小さく頷く。
「はい」
やっと戻れるのだから、よかった。
そう返すべきだった。
けれど、声が少しだけ遅れた。
「明後日、室内確認に行く予定です」
「管理会社の人も来る?」
「はい」
「じゃあ、一人ではないんだね」
「はい。大丈夫です」
理久が、少しだけこちらを見る。
「二回言う?」
美月は首を横に振った。
「今日は言いません」
「そっか」
短い沈黙。
美月はそれを埋めるように続けた。
「荷物も、その日に少しずつ戻そうと思います」
「手伝うよ」
すぐに返ってきた。
美月は慌てて首を振る。
「大丈夫です。最初に持ってきた分だけですから」
「遠慮しなくていい」
「いえ。本当に大丈夫です」
理久は、それ以上押さなかった。
「分かった」
その一言が、思ったより胸に刺さった。
引き止められなかったことに、ほっとしたはずなのに。
少しだけ、苦しかった。
理久はタブレットをテーブルに置き、美月を見る。
「何かあったら、連絡して」
「はい」
会話は普通だった。
普通すぎるくらいだった。
理久は無理に引き止めない。
困った顔もしない。
寂しそうな顔もしない。
ただ、ちゃんと受け止めてくれる。
それがありがたいはずなのに。
美月は、自分の胸の奥がじわじわと重くなるのを感じていた。
「今日は、早めに休みます」
そう言うと、理久は小さく頷いた。
「うん。そうした方がいい」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
いつもの短いやり取り。
美月はリビングを出て、ゲストルームへ戻った。
ドアを閉める。
部屋の中は静かだった。
ベッド。
デスク。
クローゼット。
借りているタオル。
少し増えた自分の荷物。
ここに来た夜は、すべてが他人のものに見えた。
白すぎるシーツ。
きれいに整えられた机。
空っぽのクローゼット。
使っていいと言われたタオル。
それらは全部、自分が一時的に借りているものだった。
でも今は、少しだけ違う。
デスクの端には、自分のヘアゴムが置いてある。
椅子の横には、仕事用のバッグがある。
クローゼットには、数枚の服がかかっている。
洗面所の端には、化粧品を置かせてもらっている。
仮のものなのに。
仮のはずなのに。
美月はベッドに腰を下ろし、小さく息を吐いた。
帰る。
自分の部屋へ。
それでいい。
それが正しい。
ここに長くいてはいけない。
そう思えば思うほど、胸の奥が重くなった。
* * *
翌日、美月は仕事の合間に管理会社へ返信をした。
室内確認の日程。
鍵の受け渡し。
残っている荷物の確認。
火災保険へ提出する書類。
必要なことを一つずつ処理していく。
仕事も、事務手続きも、優先順位をつければ動ける。
それは美月の得意なことだった。
だから、帰る準備も淡々と進められるはずだった。
その夜、理久の部屋へ戻ってから、美月はゲストルームの荷物を少しずつまとめ始めた。
スーツケースを開く。
服を畳む。
使わなかったものから入れていく。
持ってきた時より、荷物が少しだけ増えている。
コンビニで買ったヘアクリップ。
予備の靴下。
途中で買い足した化粧水。
使いかけのハンドクリーム。
一つずつ手に取るたびに、ここで過ごした日々が余計に具体的になる。
火事の日。
最初の朝。
大したことないホテル。
廊下の灯り。
スープ。
雷の夜。
何もなかった顔。
いってらっしゃい。
行ってきます。
その全部が、荷物の隙間からこぼれてくるようだった。
美月は手を止めた。
だめだ。
ただ片づけているだけなのに、感傷的になってどうする。
帰る準備をしているだけ。
避難生活を終えるだけ。
そう言い聞かせて、もう一度服を畳む。
けれど、手は思ったより遅かった。
少し片づけては、止まる。
また入れては、止まる。
結局、半分ほど詰めたところで、美月はスーツケースを閉じた。
今日は、ここまででいい。
そう決めて、デスクの上を片づける。
書類。
充電器。
ヘアゴム。
ペン。
最後に、引き出しの中へ入れていた合鍵を取り出した。
小さな金属の重みが、手のひらに乗る。
最初に渡された時、その重さに戸惑った。
藤崎理久の家の合鍵。
持っていていいものなのか分からなかった。
けれど今は。
返すことの方が、重い。
美月はしばらく鍵を見つめていた。
何を考えているのだろう。
ただの鍵だ。
仮住まいが終わるだけ。
火事の後始末がひと段落するだけ。
藤崎先生にも、これ以上迷惑をかけずに済む。
良いことしかない。
そう言い聞かせて、美月は小さな封筒を取り出した。
合鍵を中へ入れる。
封をする。
デスクの上に置く。
それだけの動作に、やけに時間がかかった。
封筒の白さが、やけに目立つ。
美月はベッドの端に座り、その封筒を見つめた。
明日。
明日、これを返す。
明日、自分の部屋へ戻る。
明日、ここを出る。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
帰るはずだった。
最初から、そのはずだった。
なのに今は。
その“はず”が、こんなに重い。
美月は部屋の明かりを少し落とした。
眠らなければならない。
明日も仕事がある。
管理会社との確認もある。
荷物も運ばなければならない。
やることは、たくさんある。
だから、眠らなければ。
ベッドに入って目を閉じる。
けれど、デスクの上に置いた封筒の存在だけが、暗い部屋の中でもずっと消えなかった。
仮住まいは、少しずつ日常になっていた。
最初の数日は、すべてが落ち着かなかった。
合鍵を持つこと。
理久の部屋に戻ること。
同じリビングに自分の気配があること。
洗面所の使用時間を気にすること。
家の中なのに、必要なことをスマホで送ること。
全部が、仮のものだった。
ここは自分の家ではない。
ここは藤崎先生の家だ。
私は一時的に避難しているだけ。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
けれど、人は慣れてしまう。
朝、冷蔵庫にヨーグルトが入っていること。
帰宅すると、廊下の小さな灯りがついていること。
準夜勤明けの日、真っ暗ではない部屋に入れること。
冷蔵庫に水が補充されていること。
リビングのテーブルに、短いメモが置かれていること。
『無理しないで』
それだけの文字を見て、少しだけ息ができること。
最初は、全部に戸惑った。
距離の近さにも。
踏み込まれなさにも。
理久が何も聞かずに、必要なものだけを置いていくことにも。
でも、いつの間にかそれは、美月の一日の中に入り込んでいた。
大したことないホテル。
仮住まい。
避難先。
そう言い換えていた場所は、いつの間にか少しだけ、帰る場所の顔をし始めていた。
だから、管理会社から連絡が来た時、美月は一瞬だけ言葉を失った。
勤務の休憩中だった。
ナースステーションの隅で、スマホを確認した時。
画面に表示された件名を見て、美月は指を止めた。
『修繕完了のお知らせ』
本文には、必要なことが淡々と書かれていた。
室内の修繕が完了したこと。
清掃も終了していること。
管理会社立ち会いのもと、室内確認が可能なこと。
確認後は、通常通り住める状態であること。
当然の連絡だった。
待っていた連絡のはずだった。
やっと自分の部屋に戻れる。
迷惑をかけ続けなくて済む。
藤崎先生の家にいる理由が、なくなる。
そう思った瞬間、美月の胸の奥が少しだけ沈んだ。
寂しい。
そう思ってしまった自分に、さらに驚いた。
部屋が直ったのに。
帰る場所が戻ったのに。
どうして、寂しいと思うのだろう。
「綾瀬さん?」
後輩の声に、美月は顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。大丈夫」
また言ってしまった。
大丈夫。
便利な言葉。
後輩は少し心配そうに見たけれど、それ以上は聞かなかった。
美月はスマホの画面を伏せる。
勤務中。
今は勤務中。
自分の感情を考えている場合ではない。
そう思って、記録画面へ視線を戻した。
けれど、指先にはまだ、さっき読んだ文面が残っているような気がした。
修繕が完了しました。
通常通りお住まいいただけます。
通常通り。
自分の部屋へ戻る。
それが、普通。
それが、本来の生活。
そう分かっているのに、胸の奥だけが、うまく納得しなかった。
* * *
その夜、美月が理久のマンションへ戻ると、廊下の灯りがいつものように点いていた。
「……お邪魔します」
小さく言って、靴を脱ぐ。
その言葉も、最近少しだけ苦しくなっている。
お邪魔します。
自分はここにお邪魔している。
そう言い聞かせるための言葉。
けれど、玄関の匂いも、廊下の明かりも、リビングの静けさも、もう完全な他人のものには見えなかった。
美月はゲストルームへ荷物を置いた。
スマホを取り出し、管理会社からのメールをもう一度開く。
何度読んでも、内容は変わらない。
帰れる。
美月はしばらく画面を見つめてから、リビングへ向かった。
理久は、ソファでタブレットを見ていた。
白いシャツに黒のパンツ。
病院の藤崎先生ではないけれど、家の中でも相変わらず整っている。
美月が入ると、理久は顔を上げた。
「おかえり」
美月は一瞬、息を止めた。
最近、理久は時々その言葉を使う。
まだ慣れない。
慣れてはいけない気もする。
「……お邪魔します」
いつものように返すと、理久は少しだけ笑った。
「まだそっちなんだ」
「そっちです」
「そっか」
それ以上は言わない。
からかいすぎない。
その距離が、今は余計に胸に残った。
美月は、テーブルの端に立ったまま言った。
「管理会社から連絡がありました」
理久の視線が、少しだけ変わる。
「うん」
「部屋の修繕が終わったそうです」
理久は、タブレットを持つ手を一瞬だけ止めた。
本当に一瞬。
けれど、美月には分かった。
その一瞬に、理久が何かを飲み込んだことが。
でも、次に顔を上げた時には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「よかったね」
その声は、優しかった。
正しくて、乱れなくて、ちゃんとしていた。
美月は小さく頷く。
「はい」
やっと戻れるのだから、よかった。
そう返すべきだった。
けれど、声が少しだけ遅れた。
「明後日、室内確認に行く予定です」
「管理会社の人も来る?」
「はい」
「じゃあ、一人ではないんだね」
「はい。大丈夫です」
理久が、少しだけこちらを見る。
「二回言う?」
美月は首を横に振った。
「今日は言いません」
「そっか」
短い沈黙。
美月はそれを埋めるように続けた。
「荷物も、その日に少しずつ戻そうと思います」
「手伝うよ」
すぐに返ってきた。
美月は慌てて首を振る。
「大丈夫です。最初に持ってきた分だけですから」
「遠慮しなくていい」
「いえ。本当に大丈夫です」
理久は、それ以上押さなかった。
「分かった」
その一言が、思ったより胸に刺さった。
引き止められなかったことに、ほっとしたはずなのに。
少しだけ、苦しかった。
理久はタブレットをテーブルに置き、美月を見る。
「何かあったら、連絡して」
「はい」
会話は普通だった。
普通すぎるくらいだった。
理久は無理に引き止めない。
困った顔もしない。
寂しそうな顔もしない。
ただ、ちゃんと受け止めてくれる。
それがありがたいはずなのに。
美月は、自分の胸の奥がじわじわと重くなるのを感じていた。
「今日は、早めに休みます」
そう言うと、理久は小さく頷いた。
「うん。そうした方がいい」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
いつもの短いやり取り。
美月はリビングを出て、ゲストルームへ戻った。
ドアを閉める。
部屋の中は静かだった。
ベッド。
デスク。
クローゼット。
借りているタオル。
少し増えた自分の荷物。
ここに来た夜は、すべてが他人のものに見えた。
白すぎるシーツ。
きれいに整えられた机。
空っぽのクローゼット。
使っていいと言われたタオル。
それらは全部、自分が一時的に借りているものだった。
でも今は、少しだけ違う。
デスクの端には、自分のヘアゴムが置いてある。
椅子の横には、仕事用のバッグがある。
クローゼットには、数枚の服がかかっている。
洗面所の端には、化粧品を置かせてもらっている。
仮のものなのに。
仮のはずなのに。
美月はベッドに腰を下ろし、小さく息を吐いた。
帰る。
自分の部屋へ。
それでいい。
それが正しい。
ここに長くいてはいけない。
そう思えば思うほど、胸の奥が重くなった。
* * *
翌日、美月は仕事の合間に管理会社へ返信をした。
室内確認の日程。
鍵の受け渡し。
残っている荷物の確認。
火災保険へ提出する書類。
必要なことを一つずつ処理していく。
仕事も、事務手続きも、優先順位をつければ動ける。
それは美月の得意なことだった。
だから、帰る準備も淡々と進められるはずだった。
その夜、理久の部屋へ戻ってから、美月はゲストルームの荷物を少しずつまとめ始めた。
スーツケースを開く。
服を畳む。
使わなかったものから入れていく。
持ってきた時より、荷物が少しだけ増えている。
コンビニで買ったヘアクリップ。
予備の靴下。
途中で買い足した化粧水。
使いかけのハンドクリーム。
一つずつ手に取るたびに、ここで過ごした日々が余計に具体的になる。
火事の日。
最初の朝。
大したことないホテル。
廊下の灯り。
スープ。
雷の夜。
何もなかった顔。
いってらっしゃい。
行ってきます。
その全部が、荷物の隙間からこぼれてくるようだった。
美月は手を止めた。
だめだ。
ただ片づけているだけなのに、感傷的になってどうする。
帰る準備をしているだけ。
避難生活を終えるだけ。
そう言い聞かせて、もう一度服を畳む。
けれど、手は思ったより遅かった。
少し片づけては、止まる。
また入れては、止まる。
結局、半分ほど詰めたところで、美月はスーツケースを閉じた。
今日は、ここまででいい。
そう決めて、デスクの上を片づける。
書類。
充電器。
ヘアゴム。
ペン。
最後に、引き出しの中へ入れていた合鍵を取り出した。
小さな金属の重みが、手のひらに乗る。
最初に渡された時、その重さに戸惑った。
藤崎理久の家の合鍵。
持っていていいものなのか分からなかった。
けれど今は。
返すことの方が、重い。
美月はしばらく鍵を見つめていた。
何を考えているのだろう。
ただの鍵だ。
仮住まいが終わるだけ。
火事の後始末がひと段落するだけ。
藤崎先生にも、これ以上迷惑をかけずに済む。
良いことしかない。
そう言い聞かせて、美月は小さな封筒を取り出した。
合鍵を中へ入れる。
封をする。
デスクの上に置く。
それだけの動作に、やけに時間がかかった。
封筒の白さが、やけに目立つ。
美月はベッドの端に座り、その封筒を見つめた。
明日。
明日、これを返す。
明日、自分の部屋へ戻る。
明日、ここを出る。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
帰るはずだった。
最初から、そのはずだった。
なのに今は。
その“はず”が、こんなに重い。
美月は部屋の明かりを少し落とした。
眠らなければならない。
明日も仕事がある。
管理会社との確認もある。
荷物も運ばなければならない。
やることは、たくさんある。
だから、眠らなければ。
ベッドに入って目を閉じる。
けれど、デスクの上に置いた封筒の存在だけが、暗い部屋の中でもずっと消えなかった。
