光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

翌朝。

美月は、あまり眠れなかった。

目を閉じても、昨夜のことが何度も頭の中で繰り返される。

雷。
繋いだ手。
先生の寝顔。
頬に触れた指先。
「綺麗」と漏れてしまった声。
そして、膝の上に倒れ込んでしまった瞬間。

何度思い出しても、顔が熱くなる。

それでも、出勤しなければならない。

日勤。
いつも通り。
何もなかった顔で。

美月はベッドから起き上がり、髪を整えた。

鏡を見る。

少し寝不足の顔をしている。

けれど、病棟に立てないほどではない。

大丈夫。
仕事に入れば、いつもの自分に戻れる。

そう言い聞かせて、ゲストルームを出た。

洗面所へ向かい、ノブに手をかける。

けれど、回らなかった。

鍵がかかっている。

そうだった。

洗面所を使う時は、鍵をかける。
最初に決めたルールだ。

美月が一歩下がろうとした時、中から水音が止まった。

「綾瀬さん?」

理久の声だった。

美月の心臓が、跳ねる。

「すみません。使っているとは思わなくて」

少し間があって、理久が言った。

「待ってて」

すぐに、鍵の外れる音がした。

扉が開く。

理久がいた。

白いシャツに、黒のスラックス。

すでに仕事へ行く準備はほとんど整っているようで、昨夜のままの少し乱れた髪ではなく、いつものようにきちんと整えられていた。

洗顔を終えたところらしく、手には白いタオルを持っている。

美月の心臓が、また一つ跳ねた。

昨日の寝顔とは違う。

でも、近い。

同じ家の洗面所。
朝。
しかも自分はまだ、完全に気持ちを立て直せていない。

「おはよう。使う?」

その声は柔らかい。

けれど、どこか整いすぎていた。

「……おはようございます。使います」

「どうぞ。俺、もう終わったから」

理久は自然に場所を空けた。

距離も近づきすぎない。
視線も必要以上に向けない。
昨夜のことには触れない。

手を繋いでいたことにも。
膝の上に倒れ込んだことにも。
頬に触れてしまったことにも。
「綺麗」と言ってしまったことにも。

まるで、本当に何もなかったみたいに。

美月は洗面台の前に立った。

鏡越しに、理久が少し後ろを通るのが見える。

その顔は、病棟で見る藤崎先生の顔だった。

誰にでも優しく、感じがよく、隙がない。

完璧な距離感。
上品な笑顔。
踏み込ませない空気。

美月の胸が、ちくりと痛んだ。

あれ。

自分でも驚く。

なぜ痛いのか分からない。

昨日、あれだけ近かった。

あれだけ自然な顔を見た。
少し寝ぼけた声も、困ったような表情も、動揺した一瞬も見た。

なのに今朝の理久は、全部しまい込んでいる。

いつもの藤崎先生に戻っている。

それはきっと、正しい。

ここは彼の家だけれど、自分は避難しているだけ。

彼が距離を取るのは当然だ。
変に昨夜のことを持ち出さないのも、大人として正しい。

正しい。
正しいのに。

どうして、こんなにざわざわするんだろう。

身支度を終えて、美月はリビングへ向かった。

テーブルの上には、水のペットボトルと、簡単に食べられるものが置かれていた。

その横に、小さなメモがある。

『無理しないで』

それだけ。

美月はしばらく、その文字を見つめた。

昨夜のことは何も言わない。
でも、必要なことだけは置いてある。

踏み込まない。
でも、完全には放っておかない。

この距離が、ずるい。

美月はペットボトルをバッグに入れた。

理久はリビングでコーヒーを飲んでいた。

仕事に出る準備は、もうほとんど整っている。

「鍵、持った?」

「はい」

「何か困ったら連絡して」

「ありがとうございます」

「今日は日勤だよね」

「はい」

短い会話。

それだけ。

昨夜のことなど、一切なかったように。

美月は玄関へ向かった。

靴を履き、バッグを肩にかける。

ドアノブに手をかけた時、理久の声がした。

「いってらっしゃい」

美月の動きが止まる。

いってらっしゃい。

その言葉が、あまりにも自然に耳に入ってきた。

ここは自分の家ではない。
帰ってくる場所でもない。
そう言ってもらう立場でもない。

それなのに。

「……行ってきます」

言ってから、自分で驚いた。

行ってきます。

自然に出てしまった。

理久は少しだけ目を細めた。

けれど、何も言わない。

からかわない。
指摘しない。
笑いすぎもしない。

ただ、いつもの穏やかな顔で、

「うん」

とだけ言った。

美月は玄関を出た。

廊下を歩き、エレベーターに乗る。

胸の奥が、まだざわざわしている。

昨夜のことをからかわれたかったわけではない。

むしろ、触れられたら困る。

けれど、完全に何もなかったようにされると、今度は苦しい。

自分だけが意識しているみたいで。
自分だけが昨夜のことを大事に抱えているみたいで。

美月はエレベーターの鏡に映る自分を見た。

少し疲れた顔。

でも、昨日までとは違う顔。

私、何を期待していたんだろう。

先生の自然な顔。
寝起きの声。
困ったような表情。
手の温度。

もう一度、見たいと思ってしまった。

その他大勢に向ける仮面ではない顔を。

自分だけが知っていると思ってしまった顔を。

美月は小さく息を吐いた。

警戒ではない。

でも、安心とも少し違う。

名前をつけたくない感情が、胸の奥で形になりかけていた。

まずい。

本当に、まずい。

* * *

病院に着く頃には、美月はいつもの顔に戻っていた。

少なくとも、そう見えるようにはできていた。

申し送り。
バイタル確認。
点滴。
検査出し。
記録。
患者対応。

やるべきことはいくらでもある。

忙しさはありがたかった。

考えなくて済むから。

藤崎先生の顔。
手の温度。
今朝の「いってらっしゃい」。

全部を、仕事の中へ押し込められる。

そう思っていた。

昼前。

検査出しを終え、後輩と一緒に外来棟へつながる連絡通路を歩いていた時だった。

前方から、外科医たちが数人歩いてくる。

白衣。
名札。
手に持った資料。
低い声で交わされる仕事の話。

その中に、藤崎先生がいた。

美月の足が、一瞬だけ止まりそうになる。

止まらない。

今は勤務中。
病院の中。

藤崎先生と綾瀬さん。

それだけ。

理久は同僚の医師と何かを話しながら歩いていた。

美月に気づいていない、はずがない。

すれ違う直前、ほんの一瞬だけ視線が合った。

けれど、理久は何も変えなかった。

表情も。
歩く速度も。
声の調子も。
視線の戻し方も。

他のスタッフとすれ違う時と同じように、外科医として、ほんのわずかに頭を下げる。

美月も、同じように頭を下げた。

言葉は交わさない。

そのまま、すれ違う。

振り返らない。
呼び止めない。
目で追わない。

気づいていた。

たぶん、確実に。

それでも、何もない。
何も起きていない。

完璧だった。

本当に、完璧だった。

誰にも気づかれない。

昨日の夜、同じソファで手を繋いでいたことも。
寝顔を見てしまったことも。
頬に触れたことも。
今朝、同じ家から出勤してきたことも。

何ひとつ、表には出ない。

それでいい。

そういう約束だった。

病院では、余計な顔をしない。
職場では、今まで通り。

そうしてほしいと思っていた。

見ないでほしい。
話しかけないでほしい。
気づかないでほしい。

ずっと、そう思っていた。

それなのに。

隣を歩いていた後輩が、小さく言った。

「藤崎先生、今日も爽やかですね」

美月は少し遅れて返事をした。

「……そうだね」

「でも、綾瀬さんって藤崎先生にも普通ですよね。私、ちょっと緊張します」

「普通だよ。先生だから」

そう言った声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

後輩は笑った。

「綾瀬さんらしいです」

美月も小さく笑う。

そう。

これでいい。

自分は綾瀬さんらしく、普通にしていればいい。

藤崎先生にも、他の医師にも、同じように。

それで、いいはずなのに。

胸の奥が、まだ落ち着かない。

気づいていなかったわけではない。

気づいていた。

それなのに、何も変えなかった。

それはきっと、理久なりの線引きだった。

美月が困らないように。
誰にも気づかれないように。

分かっている。

分かっているのに。

本当に、何もなかったみたい。

そう思った瞬間、胸が少しだけ苦しくなった。

午後の業務に戻ってからも、美月はいつも通りに動いた。

指示を確認し、記録を書き、患者の訴えを聞く。

誰も何も気づかない。

当たり前だ。

気づかれるようなことは、何もしていない。

なのに、ナースステーションで電子カルテを打っている時、ふと自分の手元を見てしまった。

昨夜、繋いでいた手。

雷が怖くて借りた手。

そして、今朝にはもう離れていた手。

美月は指先を軽く握った。

見ないでほしい。
話しかけないでほしい。
気づかないでほしい。

そう思っていたはずだった。

なのに、今は。

気づいているのに何も変わらなかったことに、少しだけ傷ついている。

何もなかった顔をしてくれる人だから、安心できる。

なのに。

何もなかったことにされるのが、こんなに苦しいなんて。

美月は、自分の変化に気づいてしまった。

まずい。

本当に、まずい。

勤務中。

便利な言葉を、心の中で呟く。

けれど今日は、その言葉だけでは、胸のざわつきまでは押し込められなかった。