光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

目を覚ました時、最初に感じたのは、手の温度だった。

リビングは、明るすぎなかった。
けれど、暗くもない。

少し落とされた照明と、つけっぱなしのテレビの明かりが、部屋の中をぼんやり照らしている。
音量は小さく、画面の中で誰かが話している声だけが、遠くに聞こえた。

雷は、もう鳴っていない。

雨の音も、さっきよりずっと静かだった。

美月はぼんやりと瞬きをする。

ここはどこだろう。

一瞬、そう思ってから、思い出す。

理久のマンション。
リビング。
雷。
ソファ。
クッション。
温かい飲み物。

そして。

手。

美月は、自分の手を見た。

理久の手と、繋がっていた。

一気に目が覚める。

しかも、自分は理久の肩にもたれていた。

「……っ」

声にならない息が漏れた。

何をしているの、私。

寝た。

完全に寝た。

雷が怖くて、手を借りて、そのまま寝てしまった。

しかも、もたれている。

美月は慌てて体を起こそうとして、動きを止めた。

理久が眠っていた。

白いシャツのまま、ソファの背に軽く体を預けている。
片手は、美月の手を握ったまま。
もう片方の手は、ソファの上に力なく置かれていた。

眠っている。

本当に。

美月は息をひそめた。

起こしてはいけない。

そう思ったのに、視線が外せなかった。

いつもの藤崎先生ではなかった。

病棟で誰にでも穏やかに笑う顔でもない。
少し意地悪に美月を追い込む時の顔でもない。
整えられた王子の顔でもない。

ただ、眠っている顔だった。

少し乱れた前髪。
伏せられた睫毛。
力の抜けた口元。
白いシャツの襟元に落ちる、やわらかな光。

綺麗な人だと思った。

思ってしまった。

美月はすぐに視線を逸らそうとした。

でも、逸らせなかった。

仕事中の理久は、いつも隙がない。

誰に対しても感じがよく、穏やかで、余裕がある。
たぶん、見られることに慣れている。
期待される顔をすることにも慣れている。

でも今は、そのどれでもない。

美月だけが、見ている。

そう思った瞬間、胸の奥が変なふうに跳ねた。

違う。

これは寝ぼけているだけ。

雷で疲れて、眠って、頭がぼんやりしているだけ。

そう言い聞かせたのに、手が動いた。

空いている方の手が、そっと伸びる。

触れるつもりはなかった。

本当に。

ただ、前髪が少し乱れていて。

その影が、頬に落ちていて。

美月の指先が、理久の頬に触れた。

ほんの少し。

一瞬だけ。

温かい。

「……綺麗」

声が漏れた。

言った瞬間、美月の体が固まった。

何を言った。

今、何を。

美月は息を止めたまま、理久を見る。

眠っている。

起きていない。

たぶん。

きっと。

大丈夫。

大丈夫ではない。

美月は急いで手を引いた。

まずい。

非常にまずい。

今すぐ離れなければ。

繋がれた手をそっとほどこうとする。

けれど、美月が動いた瞬間、理久の指が反射的に軽く握り返した。

「……」

美月は動きを止める。

起きた?

いや、まだ眠っている。

でも、手を離せない。

もう一度、慎重に体を引こうとした。

その時、膝の上に置いていたクッションが少しずれた。

「あ」

小さく声が出る。

落としそうになったクッションを押さえようとして、体勢が崩れた。

慌てて立て直そうとしたけれど、繋がれた手が邪魔になる。

次の瞬間、美月の体は理久の方へ倒れ込んでいた。

「っ……!」

理久の膝に、半分乗るような形になる。

近い。

近すぎる。

美月の心臓が、跳ねた。

その瞬間、理久の目が開いた。

一瞬、何が起きているのか分からないように、理久は瞬きをした。

そして、膝の上の美月を見た。

美月も、固まったまま理久を見る。

沈黙。

テレビの音だけが、遠くで流れている。

「……綾瀬さん?」

理久の声は、少し低かった。

完全に寝起きの声だった。

美月は答えられない。

理久はもう一度瞬きをしてから、自分の膝の上にいる美月と、繋いだままの手を見た。

ようやく状況を理解し始めたように、少しだけ目を細める。

「……逃げようとした?」

美月は即答できなかった。

逃げようとした。

完全に逃げようとした。

なぜなら、触れてしまったから。

見てしまったから。

綺麗だと思ってしまったから。

理久は、まだ少し寝起きの顔のまま、静かに聞いた。

「今、何か言った?」

美月の体が固まる。

「……言ってません」

「そう」

理久は少しだけ間を置いた。

その目が、ようやく焦点を結ぶように、美月を見る。

「綺麗、って聞こえた気がした」

美月の顔が、一気に熱くなった。

「聞き間違いです」

「そう?」

「寝ぼけていたんだと思います」

「俺が?」

「はい」

理久が、少しだけ笑った。

「じゃあ、そういうことにしておく」

その言い方が、絶対に信じていない。

美月は膝の上から降りようとした。

「降ります」

「うん」

でも理久は、すぐにはからかわなかった。

美月が体勢を整えられるように、ちゃんと支える。

そこがまた困る。

無事にソファへ戻った美月は、クッションを抱えて距離を取った。

「……すみませんでした」

理久は、軽く首を振る。

「俺もごめん。起きた時、びっくりしたでしょ」

「びっくりしました」

「手、離せばよかった」

美月は、繋いでいた手を見てしまう。

もう離れている。

離れているのに、まだ温度が残っている気がした。

「……いえ」

「ん?」

「雷が、怖かったので」

小さな声だった。

理久は、静かに聞いている。

「その……助かりました」

理久は少しだけ表情を和らげた。

「よかった」

美月はまた視線を落とす。

「でも、もう大丈夫です」

「うん」

「雷、止んでますし」

「うん」

「なので、もう……」

理久が少し笑う。

「手、いらない?」

美月は黙った。

本当は、もういらない。

雷は止んでいる。

でも、さっきまでの温度が残っている。

それを認めるのが悔しくて、恥ずかしい。

「……今は、いりません」

理久は、いつものように深追いしなかった。

「分かった」

その“分かった”が、少しだけ優しい。

美月はクッションに顔を半分隠す。

理久は、少し乱れた髪をかき上げながら、ようやく自分の状況に気づいたように笑った。

「俺、着替えてない」

「……そうですね」

「寝落ちした」

「私もです」

「お互い様?」

「同じにしないでください」

「厳しいな」

少しだけ、いつもの空気に戻る。

でも、完全には戻らない。

理久の顔が近かったこと。

手を握られたこと。

自分から頬に触れたこと。

「綺麗」と言ってしまったこと。

全部、なかったことにはできない。

美月は心の中で思った。

これは、雷のせい。

寝ぼけていたせい。

非常事態だったせい。

でも、どれだけ理由を並べても、指先にはまだ理久の頬の感触が残っていた。

それが一番、まずかった。

美月は、クッションを抱えたまま小さな声で言った。

「あ、ありがとうございました。お、おやすみなさい」

いつもの美月なら、もっと整った言い方をする。

失礼します。
もう大丈夫です。
本日はありがとうございました。

そうやって、きれいに距離を置く。

でも今の言葉は、全然整っていなかった。

美月はほとんど逃げるように立ち上がり、視線も合わせないままゲストルームへ戻っていった。

ドアが閉まる。

リビングに、静けさが戻った。

* * *

理久はしばらく動けなかった。

テレビの音だけが、やけに遠くに聞こえる。

さっきまで美月がいたソファの端。

まだ少しだけ沈んだクッション。

繋いでいた手の感触。

全部が残っている。

「……これは」

思わず、息が漏れた。

やばい。

非常にやばい。

反則だろ。

雷が怖くて、手を預けてきた時点で十分危なかった。

そのまま眠って、もたれかかってきた時も、かなり危なかった。

でも、今のは違う。

起きた後の、あの顔。

逃げようとして崩れた体勢。

真っ赤になって、言葉が整わないまま部屋へ戻っていく背中。

それを見て、何も思わない方がおかしい。

理久は片手で髪をかき上げた。

「……まずいな」

声に出すと、余計に現実味が増した。

ここは彼女の避難先だ。

彼女は困って、理久の家に来ている。

それを忘れたら終わりだ。

分かっている。

分かっているのに、今夜の美月は、あまりにも近かった。

理久は、さっきまで繋いでいた手を見た。

まだ、彼女の手の冷たさと温度が残っている気がした。

しばらくして、理久はようやく立ち上がった。

テレビを消す。
テーブルの上のマグカップを片づける。
リビングの照明を少し落とす。

いつもの動作をひとつずつしているのに、頭の中はまったく整わなかった。

シャワーを浴びて、自分の部屋へ戻る。

ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。

手の温度が、まだ残っている。

膝の上に落ちてきた重さも。
頬に触れた指先も。
綺麗、と漏れた声も。

全部、忘れた方がいい。

明日には、何もなかった顔をしなければならない。

そう分かっているのに。

理久は、目を閉じてから、もう一度だけ小さく息を吐いた。

本当に、まずい。

* * *

ゲストルームのドアを閉めた瞬間、美月はそのまま背中を預けた。

心臓がうるさい。

何をしているの、私。

ベッドまで歩いて、布団に潜り込む。

顔まで隠しても、全然落ち着かなかった。

綺麗って言った。

声に出した。

しかも、触った。

頬に。

ありえない。

本当に、ありえない。

先生は寝ていた。

たぶん、聞こえていない。

でも、起きた時のあの目。
少し低い声。
自分が膝の上にいると分かった時の、一瞬の沈黙。

聞こえていたのかもしれない。

そう思った瞬間、美月は布団の中で小さく呻いた。

雷が怖かったから。

だから、手を借りたのは仕方ない。

でも、頬に触れたのは雷のせいではない。

「綺麗」と言ってしまったのも、雷のせいではない。

美月は、さっきまで繋いでいた手を握りしめた。

先生の寝顔。
触れた頬の感触。
手の温度。

全部が、目を閉じても浮かんでくる。

明日から、どうしよう。

それだけが、何度も頭の中で繰り返された。