雷は、まだ時々鳴っていた。
大きな音の間隔は、少しずつ空いてきている。
それでも、カーテン越しに白い光が滲むたび、美月の肩は小さく跳ねた。
理久は、握った手にほんの少し力が入るのを感じていた。
意外だった。
病棟では落ち着いている。
こちらが何を言っても、基本的には表情を崩さない。
困っても、すぐに言葉で距離を取る。
その綾瀬さんが、今はクッションを膝の上に置き、雷のたびに息を詰めている。
笑ったのは、悪かったと思う。
でも、正直に言えば、少し可愛かった。
もちろん本人に言えば怒られる。
実際、怒られた。
「弱ってる時に言わないでください」
そう言いながら、それでも彼女は理久の隣に来た。
ただし、身体が触れるほど近くではない。
クッションひとつ分、きっちり距離を空けた場所。
安全圏、と言っていた。
雷から。
理久から。
それとも、今の自分の感情から。
たぶん、全部だ。
手を差し出した時も、断られると思った。
でも、美月は少し迷ってから、指先だけを預けてきた。
「少しだけです」
「雷が鳴っている間だけです」
「勘違いしないでください」
全部、いつもの綾瀬さんだった。
けれど、その手は思ったより冷たくて、少しだけ力が入っていた。
だから、何も言わずに握った。
からかうのはやめた。
マグカップは、少し口をつけたあと、テーブルに戻されている。
クッションは膝の上。
片手でその端を掴みながら、もう片方の手だけを理久に預けている。
全部を預けるわけではない。
でも、一人ではいられない。
その中途半端な頼り方が、いかにも綾瀬さんらしかった。
テレビをつけると、深夜のドラマの再放送が流れていた。
内容はほとんど頭に入ってこない。
画面の中では、誰かが雨の中で何かを言い合っている。
大げさすぎる音楽と台詞が、雷の音を少しだけ誤魔化してくれた。
美月は最初、真剣に見るでもなく、ただ音があることに安心しているようだった。
時々、雷が鳴る。
そのたびに、美月の手に少しだけ力が入る。
そのたびに、理久は同じ強さで握り返した。
大丈夫、と言葉にはしなかった。
言ったところで、彼女はきっと、
「理屈は分かってます」
と返すだろうから。
そういうところが、綾瀬さんらしい。
怖いのに。
ちゃんと怖がっているのに。
それでも、最後の一線だけは自分で守ろうとする。
弱っているところを見せたくない。
甘えていると思われたくない。
頼っていると認めたくない。
それなのに、今は理久の手を離さない。
いや。
離せないのは、どちらだろう。
理久は、自分の手元に視線を落としそうになって、やめた。
見ない方がいい。
見たら、たぶん余計なことを考える。
美月は、化粧を落としていた。
髪の毛先も、まだ少し湿っている。
部屋着の袖口から、細い手首が少しだけ見えている。
それは色気というより、生活の内側だった。
人に見せるつもりのない顔。
整える前の髪。
眠る前の服。
本来なら、理久が見るはずのないもの。
だから、余計に見ない方がいい。
そう思ったのに、視界の端には入ってくる。
本人は、それどころではないのだろう。
雷が怖くて、クッションを膝に置き、片手だけをこちらに預けている。
完全に油断しているわけではない。
でも、いつもの綾瀬さんよりは、ずっと近い。
これは、かなりまずい。
理久はテレビの画面に視線を固定した。
画面の中の二人は、まだ雨の中で何かを言い合っている。
何をそんなに揉めているのか、まったく分からない。
けれど、その音があるおかげで、美月の息遣いを意識しすぎずに済んだ。
雷の間隔は、少しずつ空いていった。
カーテン越しの光も、さっきほど強くない。
美月の手に入る力も、少しずつ弱くなる。
テレビの音に紛れるように、彼女の呼吸がゆっくり整っていった。
理久は声をかけなかった。
眠れるなら、そのまま眠った方がいい。
そう思ったから。
しばらくして、ドラマが終わった。
エンディング曲が流れる。
外の雷も、だいぶ遠くなっている。
美月の手に入る力は、もうほとんど抜けていた。
「綾瀬さん?」
小さく声をかける。
返事はない。
美月はテレビの方を向いたまま、目を閉じていた。
膝の上のクッションを抱えた腕も、ゆるんでいる。
眠っている。
理久は動きを止めた。
「……寝た?」
もちろん返事はない。
美月は、静かに寝息を立てていた。
雷が怖くて、緊張して、ようやく眠れたのだろう。
起こす気にはなれなかった。
ブランケットを取りたい。
けれど、立ち上がれば手が離れる。
手が離れれば、起きるかもしれない。
いや、起きた方がいいのかもしれない。
ゲストルームで寝た方が、彼女のためにはいい。
そう思う。
思うのに、動けなかった。
ふと、肩に重みを感じた。
美月の体が、少しずつこちらに傾いてきている。
理久は反射的に息を止めた。
そのまま、美月の頭が理久の肩に触れる。
軽い。
でも、どうしようもなく重い。
理久は、しばらく動けなかった。
彼女は、完全に油断している。
理久の隣で。
それが分かった瞬間、胸の奥が少しだけ危うくなる。
ここは彼女の避難先だ。
雷が怖くて、ようやく眠れた人を、こちらの都合で起こしてはいけない。
それに、今この距離に余計な意味を持たせたら、全部が壊れる。
理久は静かに息を吐いた。
美月の頭がずれないように、少しだけ姿勢を変える。
握ったままだった手を、ほんの少し緩める。
でも、離さない。
起きたら、たぶん怒る。
「寝てません」
「もたれてません」
「不可抗力です」
そう言うに決まっている。
少し笑いそうになった。
でも、今は笑わない。
見ないようにした。
テレビの画面を見る。
エンディングの後、次の番組が始まっていた。
内容は、やっぱり頭に入ってこない。
見ないようにした。
……でも、見えてしまっただけ。
そう言い訳しながら、結局もう一度だけ横顔を見た。
ほんと、危ないな。
声には出さない。
出したら、きっと本当にまずい。
理久は、彼女の手をもう一度、少しだけ握り直した。
雷はもう遠い。
部屋の中では、落とした照明とテレビの明かりだけが、静かに揺れている。
帰宅したままの白いシャツ。
まだ浴びていないシャワー。
机の上に置いたままのタブレット。
返しきれていない仕事の連絡。
本当なら、やることはいくつもあった。
けれど、そのどれもが、今は遠かった。
美月の呼吸が、肩越しにゆっくり伝わってくる。
規則的で、静かで、少し安心したような寝息。
理久は動かなかった。
起こさないように。
離さないように。
余計な意味を持たせないように。
それだけを考えていたはずだった。
けれど、雷の音が遠くなる頃、理久の意識も少しずつ沈んでいった。
手は、繋いだままだった。
大きな音の間隔は、少しずつ空いてきている。
それでも、カーテン越しに白い光が滲むたび、美月の肩は小さく跳ねた。
理久は、握った手にほんの少し力が入るのを感じていた。
意外だった。
病棟では落ち着いている。
こちらが何を言っても、基本的には表情を崩さない。
困っても、すぐに言葉で距離を取る。
その綾瀬さんが、今はクッションを膝の上に置き、雷のたびに息を詰めている。
笑ったのは、悪かったと思う。
でも、正直に言えば、少し可愛かった。
もちろん本人に言えば怒られる。
実際、怒られた。
「弱ってる時に言わないでください」
そう言いながら、それでも彼女は理久の隣に来た。
ただし、身体が触れるほど近くではない。
クッションひとつ分、きっちり距離を空けた場所。
安全圏、と言っていた。
雷から。
理久から。
それとも、今の自分の感情から。
たぶん、全部だ。
手を差し出した時も、断られると思った。
でも、美月は少し迷ってから、指先だけを預けてきた。
「少しだけです」
「雷が鳴っている間だけです」
「勘違いしないでください」
全部、いつもの綾瀬さんだった。
けれど、その手は思ったより冷たくて、少しだけ力が入っていた。
だから、何も言わずに握った。
からかうのはやめた。
マグカップは、少し口をつけたあと、テーブルに戻されている。
クッションは膝の上。
片手でその端を掴みながら、もう片方の手だけを理久に預けている。
全部を預けるわけではない。
でも、一人ではいられない。
その中途半端な頼り方が、いかにも綾瀬さんらしかった。
テレビをつけると、深夜のドラマの再放送が流れていた。
内容はほとんど頭に入ってこない。
画面の中では、誰かが雨の中で何かを言い合っている。
大げさすぎる音楽と台詞が、雷の音を少しだけ誤魔化してくれた。
美月は最初、真剣に見るでもなく、ただ音があることに安心しているようだった。
時々、雷が鳴る。
そのたびに、美月の手に少しだけ力が入る。
そのたびに、理久は同じ強さで握り返した。
大丈夫、と言葉にはしなかった。
言ったところで、彼女はきっと、
「理屈は分かってます」
と返すだろうから。
そういうところが、綾瀬さんらしい。
怖いのに。
ちゃんと怖がっているのに。
それでも、最後の一線だけは自分で守ろうとする。
弱っているところを見せたくない。
甘えていると思われたくない。
頼っていると認めたくない。
それなのに、今は理久の手を離さない。
いや。
離せないのは、どちらだろう。
理久は、自分の手元に視線を落としそうになって、やめた。
見ない方がいい。
見たら、たぶん余計なことを考える。
美月は、化粧を落としていた。
髪の毛先も、まだ少し湿っている。
部屋着の袖口から、細い手首が少しだけ見えている。
それは色気というより、生活の内側だった。
人に見せるつもりのない顔。
整える前の髪。
眠る前の服。
本来なら、理久が見るはずのないもの。
だから、余計に見ない方がいい。
そう思ったのに、視界の端には入ってくる。
本人は、それどころではないのだろう。
雷が怖くて、クッションを膝に置き、片手だけをこちらに預けている。
完全に油断しているわけではない。
でも、いつもの綾瀬さんよりは、ずっと近い。
これは、かなりまずい。
理久はテレビの画面に視線を固定した。
画面の中の二人は、まだ雨の中で何かを言い合っている。
何をそんなに揉めているのか、まったく分からない。
けれど、その音があるおかげで、美月の息遣いを意識しすぎずに済んだ。
雷の間隔は、少しずつ空いていった。
カーテン越しの光も、さっきほど強くない。
美月の手に入る力も、少しずつ弱くなる。
テレビの音に紛れるように、彼女の呼吸がゆっくり整っていった。
理久は声をかけなかった。
眠れるなら、そのまま眠った方がいい。
そう思ったから。
しばらくして、ドラマが終わった。
エンディング曲が流れる。
外の雷も、だいぶ遠くなっている。
美月の手に入る力は、もうほとんど抜けていた。
「綾瀬さん?」
小さく声をかける。
返事はない。
美月はテレビの方を向いたまま、目を閉じていた。
膝の上のクッションを抱えた腕も、ゆるんでいる。
眠っている。
理久は動きを止めた。
「……寝た?」
もちろん返事はない。
美月は、静かに寝息を立てていた。
雷が怖くて、緊張して、ようやく眠れたのだろう。
起こす気にはなれなかった。
ブランケットを取りたい。
けれど、立ち上がれば手が離れる。
手が離れれば、起きるかもしれない。
いや、起きた方がいいのかもしれない。
ゲストルームで寝た方が、彼女のためにはいい。
そう思う。
思うのに、動けなかった。
ふと、肩に重みを感じた。
美月の体が、少しずつこちらに傾いてきている。
理久は反射的に息を止めた。
そのまま、美月の頭が理久の肩に触れる。
軽い。
でも、どうしようもなく重い。
理久は、しばらく動けなかった。
彼女は、完全に油断している。
理久の隣で。
それが分かった瞬間、胸の奥が少しだけ危うくなる。
ここは彼女の避難先だ。
雷が怖くて、ようやく眠れた人を、こちらの都合で起こしてはいけない。
それに、今この距離に余計な意味を持たせたら、全部が壊れる。
理久は静かに息を吐いた。
美月の頭がずれないように、少しだけ姿勢を変える。
握ったままだった手を、ほんの少し緩める。
でも、離さない。
起きたら、たぶん怒る。
「寝てません」
「もたれてません」
「不可抗力です」
そう言うに決まっている。
少し笑いそうになった。
でも、今は笑わない。
見ないようにした。
テレビの画面を見る。
エンディングの後、次の番組が始まっていた。
内容は、やっぱり頭に入ってこない。
見ないようにした。
……でも、見えてしまっただけ。
そう言い訳しながら、結局もう一度だけ横顔を見た。
ほんと、危ないな。
声には出さない。
出したら、きっと本当にまずい。
理久は、彼女の手をもう一度、少しだけ握り直した。
雷はもう遠い。
部屋の中では、落とした照明とテレビの明かりだけが、静かに揺れている。
帰宅したままの白いシャツ。
まだ浴びていないシャワー。
机の上に置いたままのタブレット。
返しきれていない仕事の連絡。
本当なら、やることはいくつもあった。
けれど、そのどれもが、今は遠かった。
美月の呼吸が、肩越しにゆっくり伝わってくる。
規則的で、静かで、少し安心したような寝息。
理久は動かなかった。
起こさないように。
離さないように。
余計な意味を持たせないように。
それだけを考えていたはずだった。
けれど、雷の音が遠くなる頃、理久の意識も少しずつ沈んでいった。
手は、繋いだままだった。
