光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

その日は日勤だった。

仕事が終わり、同僚と軽く夕飯を食べてから、理久のマンションへ戻る。

エントランスを抜けたところで、美月はふと足を止めた。

今、自分は何を思ったのだろう。

戻る。

いや。

帰る、と。

ほんの一瞬、そう思ってしまった。

避難先。

これは避難先。

そう言い聞かせながら、エレベーターに乗る。

高層階まで、音もなく上がっていく箱の中で、美月は自分の映った扉を見た。

少し疲れた顔。
けれど、最初の頃ほど緊張していない顔。

それが、また落ち着かなかった。

部屋の前に着き、鍵を取り出す。

金属製の鍵を差し込み、静かに回す。

小さな音とともに、ロックが外れた。

「……お邪魔します」

誰もいない玄関で、小さく言う。

返事はない。

理久はまだ帰っていなかった。

リビングは静かで、廊下の灯りだけが小さく点いている。

明るすぎない。
眠りを邪魔しない。
けれど、足元はちゃんと見える。

もう何度も見た光なのに、そのたびに胸の奥が少しだけ緩む。

美月は靴を脱ぎ、ゲストルームへ荷物を置いた。

今日は、もう何も考えたくない。

管理会社からの連絡も、保険会社の書類も、クリーニングの手配も、明日に回してしまいたい。

そう思いながら、先にシャワーを浴びた。

湯気の中で、仕事の疲れが少しずつほどけていく。

部屋着に着替え、化粧も落とした。
髪はざっと乾かしただけで、毛先にまだ少し湿り気が残っている。

もう寝るだけの格好だった。

誰かに見られる前提ではない。

理久が帰ってくる頃には、たぶん自分はゲストルームにいる。
そう思っていた。

リビングへ水を取りに出た時だった。

窓の外が、白く光った。

一瞬遅れて、低い雷鳴。

美月の手が止まる。

……雷。

もう一度、光る。

さっきより近い。

ごろごろ、というより、建物全体に低く響くような音だった。

美月は無意識に肩をすくめる。

小さい頃から、雷が苦手だった。

音も嫌いだし、突然光るのも嫌い。

理屈では安全だと分かっている。
高層マンションの中にいれば、外にいるよりずっと安全なことも分かっている。

けれど、体が先に反応してしまう。

広いリビング。
大きな窓。
高層階の夜景。

普段は綺麗な景色が、雷の日だけは怖い。

美月は、カーテンを閉めようと窓の方を見た。

閉めたい。

けれど、どう操作するのか分からない。

この部屋のカーテンは、普通に手で引くようなものではなさそうだった。
壁際にスイッチのようなものはある。
けれど、どれが照明で、どれがカーテンなのか分からない。

それに、窓際まで近づくのも嫌だった。

また外が白く光る。

美月は思わず一歩引いた。

無理。

これは無理。

結局、美月はソファへ戻り、クッションを抱えて端に座った。

リビングの照明を少しだけ明るくする。

それでも、雷鳴が響くたびに体が固まった。

大丈夫。

ここは室内。

窓から離れていればいい。

停電するわけでもない。

分かっている。

分かっているけれど、怖いものは怖い。

そう思った時、玄関が開いた。

理久が帰ってきた。

「ただいま」

いつもの声。

低すぎず、軽すぎず、夜の部屋に自然に落ちる声。

けれど、美月には返事をする余裕がなかった。

また光る。

雷鳴。

美月は反射的にクッションを抱きしめた。

玄関の方で、理久の動きが少し止まる気配がした。

靴を脱ぐ音。
鍵を置く音。
ジャケットを外す衣擦れの音。

それから、白いシャツのまま、理久がリビングへ入ってきた。

袖口は軽くまくられている。
仕事帰りの顔なのに、すでに少しだけ家の中の顔になっていた。

そこで初めて、美月の様子に気づいたように、理久は足を止めた。

「……綾瀬さん?」

美月は、化粧を落としていることも、髪の毛先がまだ湿っていることも、気にしている余裕がなかった。

理久がリビングに入ってくる。

「どうしたの」

また、窓の外が光った。

美月は小さく息を飲む。

それを見て、理久はすぐに察した。

「雷、怖いの?」

美月はクッションを抱えたまま、少しだけ視線を逸らした。

「……苦手です」

理久は一瞬だけ黙って、それから少し笑った。

「はは」

美月は睨む。

「笑いました?」

「ごめん。意外で」

「笑うところではありません」

「うん。ごめん」

でも、まだ少し笑っている。

美月はむっとした。

けれど、次の雷でまた肩が跳ねた。

その瞬間、理久の表情が変わった。

笑いが消える。

「ほんとに苦手なんだ」

「……だから言ったじゃないですか」

「うん」

理久はソファの横を通り、テーブルの上に置かれていたリモコンを取った。

何でもない顔でボタンを押す。

すると、大きな窓を覆うカーテンが、音もなくゆっくり閉じていった。

美月は思わずその動きを見つめる。

「……それで閉まるんですね」

「うん」

「分かりませんでした」

「分からない時は呼んで。ここの設備、初見には分かりにくいから」

「窓際まで行くのも嫌だったんです」

「それは、本当に苦手なんだね」

「だから言いました」

「うん。ごめん」

今度は笑わなかった。

理久は部屋の照明を少しだけ温かくする。
テレビをつけて、音量を少し上げる。

「音、紛れるでしょ」

美月は小さく頷いた。

「……ありがとうございます」

理久はキッチンへ行き、温かい飲み物を作った。

マグカップを美月の前に置く。

「カフェイン少なめ。寝る前だし」

美月はマグを両手で持った。

湯気が、指先にやわらかく触れる。

本当に、こういう時の段取りが早い。

どこまで隙がないのだろう。

でも今は、その隙のなさがありがたかった。

理久は少し離れたソファの端に腰を下ろした。

近づきすぎない。

その距離が、いつもの理久だった。

「こっち来る?」

美月は即答できなかった。

来る?

何それ。

どういう意味。

いや、でも怖い。

閉じたカーテン越しに、また白い光が滲む。

美月は、言葉より先に立ち上がっていた。

理久の隣に腰を下ろす。
ただし、身体が触れないように、クッションひとつ分ほど距離を空けて。

理久が小さく笑う。

「そこなんだ」

「安全圏です」

「雷から?」

「いろいろです」

理久は、それ以上からかわなかった。

美月は温かい飲み物に少しだけ口をつけ、マグカップをテーブルに戻した。

クッションを膝に抱え直す。

また雷が鳴る。

美月は反射的に目を閉じた。

理久が少しだけ手を伸ばしかけて、止める。

触れない。

代わりに、静かに言った。

「大丈夫。ここ、高層だけど避雷設備はある。建物の中にいれば安全」

「理屈は分かってます」

「うん。怖いものは怖いよね」

その言い方が、思ったより優しくて。

美月は少しだけ力が抜けた。

「……子どもみたいで、すみません」

「全然」

「笑ったくせに」

理久は少し困ったように笑った。

「可愛いと思っただけ」

美月が止まる。

「……今、何て」

「雷が苦手なの、可愛い」

「そういうの、弱ってる時に言わないでください」

「弱ってる時だから言った」

「最低です」

「二回言う?」

「言いません」

いつものやり取りが戻ってきて、美月は少し安心した。

でも、次の大きな雷で、またびくっとする。

理久が今度は、そっと手を差し出した。

「手、貸す?」

美月は、その手を見た。

いつもの美月なら断る。

必要ありません。
大丈夫です。
お気遣いなく。

いくらでも言える。

でも、今日は雷が怖い。

本当に、怖い。

そしてこの人は今、ふざけていない。

美月はしばらく迷ってから、そっと指先だけ預けた。

理久は何も言わない。

からかわない。

ただ、軽く握る。

「……少しだけです」

「うん」

「雷が鳴っている間だけです」

「うん」

「勘違いしないでください」

理久が少し笑う。

「今日はしない」

美月は、テーブルに置いたマグカップを見つめたまま、手を握られている。

外では雷が鳴っている。

でも、さっきより少しだけ怖くない。

理久はテレビを見ているふりをしながら、手を離さなかった。

美月は思う。

これは避難。

雷からの避難。

……本当に、避難ばかりしている。

でも、その避難先が理久の隣になっていることには、今は気づかないふりをした。