避難同居が始まってから、数日が経った。
最初に決めた通り、お互いの勤務時間だけは共有した。
理久には、オペ日がある。
外来もある。
当直もある。
急な呼び出しもある。
美月にも、日勤がある。
準夜がある。
深夜がある。
勤務表を見せ合ったわけではない。
ただ、必要な範囲だけ、スマホのメッセージで送る。
『明日、朝から手術日です』
『分かりました』
『今日は準夜です』
『了解。鍵、忘れないで』
その程度。
必要最低限。
業務連絡のようなやり取り。
その方が、美月にはありがたかった。
生活時間帯は、思ったほど重ならなかった。
朝、美月が起きると、理久はもういない。
夜、美月が戻ると、理久はまだ病院にいる。
逆に、理久が帰宅する頃には、美月がゲストルームで眠っていることも多い。
同じ家にいる。
けれど、同じ生活をしているわけではない。
同居というより、静かなシェアハウス。
いや、避難。
あくまで、避難。
美月は何度もそう思い直した。
冷蔵庫は使っていいと言われている。
キッチンも、自由に使っていいと言われている。
洗濯機も、使っていいと言われている。
けれど、美月は基本的に自分の分だけを使った。
食べたものは補充する。
使った場所は元に戻す。
洗濯は、理久のものと重ならない時間にする。
リビングに私物は置きっぱなしにしない。
ここは自分の家ではない。
そう思っていないと、何かを間違えそうだった。
それでも、家はいつも綺麗だった。
水回りは、驚くほど清潔だった。
タオルはいつの間にか新しいものに替わっている。
洗面所には、未開封の歯ブラシや小さなアメニティが補充されていた。
どうやら、週に何度かハウスキーパーが入っているらしい。
ゲストルームのシーツも、ハウスキーパーが入った日にはきれいに整えられていた。
事前に聞いてはいたけれど、他人の家でそこまで整えられていることに、美月はまだ慣れなかった。
ある朝、洗面所に積まれた新しいタオルを見て、思わず手を止める。
……どれだけお金持ちなのだろうか。
藤崎理久。
外科医。
タワーマンションの高層階。
ハウスキーパー。
整いすぎた部屋。
余裕。
清潔。
隙がない。
やっぱり、普通ではない。
普通ではないのに。
その生活圏に入ってみると、意外なほど圧がなかった。
理久は、リビングに私物を置きっぱなしにしない。
美月の部屋のドアには、必要な時以外近づかない。
美月の帰宅時間に合わせて、起きて待っていることもしない。
朝も、無理に顔を合わせようとはしない。
踏み込まない。
でも、放っておかれているわけでもない。
準夜勤を終えて戻ってきた夜、玄関の先の廊下に、小さな灯りが点いていた。

明るすぎない。
眠りを邪魔しない。
けれど、足元はちゃんと見える。
偶然なのか、気遣いなのかは分からない。
ただ、真っ暗な部屋に一人で入らなくていいことに、美月は少しだけ救われた。
その日だけではなかった。
日勤で疲れて戻ってきた夜も。
深夜明けで頭がぼんやりしている朝も。
玄関を開けると、廊下の灯りだけは、いつも小さく点いていた。
理久に聞こうと思ったことはある。
でも、聞けなかった。
聞いてしまえば、それが気遣いだと認めることになる。
気遣いだと分かってしまえば、きっともっと困る。
だから美月は、何も言わずに靴を脱いだ。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で、小さく言う。
返事はない。
それでいい。
返事がないことに、安心する。
でも、廊下の灯りが点いていることにも、安心してしまう。
そこが、一番困る。
* * *
ある深夜勤明けの朝。
美月が理久の部屋へ戻ると、リビングは静かだった。
理久は、もう出勤している。
最初に共有した予定では、今日は朝から手術日だった。
玄関の先の廊下には、いつものように小さな灯りが点いている。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で、小さく言う。
深夜勤明けの体は重い。
頭の奥がぼんやりしていて、空腹なのか疲労なのかもよく分からない。
美月は荷物をゲストルームへ置き、シャワーより先に水だけ飲もうと冷蔵庫を開けた。
ペットボトルの水を取ろうとして、手が止まる。
小さな保存容器が入っていた。
その上に、短いメモが貼られている。
『昨夜のスープ、作りすぎた。食べられそうなら』
それだけ。
一緒に食べようと言われたわけではない。
待たれていたわけでもない。
温めろとも、食べろとも書かれていない。
ただ、置いてあった。
美月はしばらく保存容器を見つめた。
作りすぎた。
その言い方が、いかにも逃げ道を残している。
食べなくてもいい。
気を遣わなくてもいい。
でも、必要なら使っていい。
そういう置き方。
本当に、距離の取り方が上手い。
美月は小さく息を吐き、保存容器を取り出した。
鍋に移して温める。
湯気が上がる。
野菜と鶏肉の、やさしい匂いがした。
「……いただきます」
一口飲んで、美月は少しだけ黙った。
悔しいくらい、おいしかった。
深夜勤明けの体に、ちょうどよかった。
濃すぎない。
軽すぎない。
胃に重くない。
ちゃんと、食べられるものだった。
誰もいないリビングで。
理久のいない部屋で。
それなのに、ひとりで食べている気がしなかった。
食べ終えてから、美月は迷った末、スマホを開いた。
『スープ、いただきました。ありがとうございます』
送ってから、少しだけ後悔した。
丁寧すぎただろうか。
いや、借りている立場なのだから、礼は必要だ。
返事はすぐには来なかった。
当然だ。
今日は朝から手術日だと聞いている。
美月はスマホを伏せた。
シャワーを浴びて、ゲストルームに戻る。
体は疲れているはずなのに、頭だけが少しだけ起きていた。
廊下の灯り。
冷蔵庫のスープ。
短いメモ。
それらを思い出しながら、美月はベッドに横になった。
ここは藤崎先生の家だ。
自分の部屋ではない。
そう思うのに、目を閉じた時、胸の奥は昨日より少しだけ静かだった。
眠りに落ちる直前、それが少し怖いと思った。
目を覚ましたのは、夕方だった。
カーテンの向こうが、淡い色に沈み始めている。
スマホを見ると、返信が届いていた。
『食べられたならよかった』
それだけだった。
美月は画面を見つめる。
からかわれなかった。
「作りすぎを信じた?」とか。
「大したことないホテルの朝食です」とか。
そういう返事をしてきてもおかしくないのに。
理久は、そこではふざけなかった。
美月はスマホを伏せた。
こういうところだ。
からかう時と、からかわない時の線が、分かりにくいようで、妙にはっきりしている。
だから安心してしまう。
だから、怖い。
* * *
別の日。
美月が日勤を終えて戻ると、珍しくリビングに灯りがついていた。
玄関を開けた瞬間、奥から声がした。
「おかえり」
美月は、その場で固まった。
おかえり。
その言葉が、あまりにも自然に聞こえたから。
ここは自分の家ではない。
帰ってきたと言われる場所でもない。
そう返される立場でもない。
美月は少し遅れて、靴を脱ぎながら言った。
「……お邪魔します」
リビングの方から、理久が顔を出した。
シャツの袖を軽くまくり、手にはタブレットを持っている。
帰ってきて少し経っているのか、髪は整っているのに、表情だけが少し緩んでいた。
理久は、美月の返事を聞いて、ほんの少し笑った。
「堅いな」
「実際、そうなので」
「そう?」
「そうです」
理久はそれ以上言わなかった。
「この前のスープ、口に合った?」
「いただきました」
「よかった」
「……作りすぎた量ではなかったと思います」
理久の口元が少し動く。
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、次はもう少し多く作る」
「そういう意味ではありません」
いつもの調子で返してから、美月は自分で少し驚いた。
普通に会話している。
病棟ではない。
外食でもない。
理久の部屋のリビングで。
それなのに、変に緊張していない。
理久は、少し離れた位置に立っていた。
近づきすぎない。
ドアの前を塞がない。
手を伸ばせば届く距離ではない。
それが、かえって安心する。
「今日、疲れてる?」
不意に聞かれ、美月は少しだけ目を伏せた。
「普通です」
「二回言わないなら、まあ普通かな」
「何ですか、その基準」
「綾瀬さん基準」
「勝手に作らないでください」
理久は笑った。
その笑い方が、少しだけ穏やかだった。
美月は視線を逸らす。
こういう時、どうしていいか分からない。
おかえり、と言われた。
ただいま、とは返せなかった。
でも。
返せなかったことに、ほんの少しだけ胸の奥が引っかかっている。
それが嫌だった。
「私は、部屋に戻ります」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
短い会話。
それだけで終わる。
理久は引き止めない。
美月も振り返らない。
ゲストルームに入ってドアを閉めると、静けさが戻ってきた。
美月はベッドの端に座り、少しだけ息を吐いた。
同じ家にいるのに、近づきすぎない。
必要以上に話さない。
必要以上に触れない。
必要以上に待たない。
それがありがたかった。
ありがたいはずだった。
* * *
避難同居は、淡々と続いた。
朝、テーブルに短いメモがある日。
『今日は当直です』
冷蔵庫に水が補充されている日。
『使って』
準夜勤明けに戻ると、廊下の灯りだけが点いている日。
深夜入りの日、美月が夕方に起きると、リビングに誰もいないのに、カーテンだけが少し開けられていた日。
踏み込まれない。
でも、完全には一人にされない。
その距離が、美月には楽だった。
楽で、安心で。
だからこそ、怖かった。
ここは、藤崎理久の家だ。
大したことないホテルでもない。
ただの仮住まいでもない。
自分の部屋でもない。
それなのに、玄関の扉を開けた時、廊下に小さな灯りが点いているだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
美月は、その感覚に名前をつけないようにした。
名前をつけたら、きっと戻れなくなる。
だから今日も、いつものように小さく言う。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で。
けれど、真っ暗ではない部屋の中で。
近づきすぎない。
でも、離れすぎてもいない。
その距離が、いつの間にか少しだけ、楽になっていた。
楽になってしまったことが、少しだけ怖かった。
最初に決めた通り、お互いの勤務時間だけは共有した。
理久には、オペ日がある。
外来もある。
当直もある。
急な呼び出しもある。
美月にも、日勤がある。
準夜がある。
深夜がある。
勤務表を見せ合ったわけではない。
ただ、必要な範囲だけ、スマホのメッセージで送る。
『明日、朝から手術日です』
『分かりました』
『今日は準夜です』
『了解。鍵、忘れないで』
その程度。
必要最低限。
業務連絡のようなやり取り。
その方が、美月にはありがたかった。
生活時間帯は、思ったほど重ならなかった。
朝、美月が起きると、理久はもういない。
夜、美月が戻ると、理久はまだ病院にいる。
逆に、理久が帰宅する頃には、美月がゲストルームで眠っていることも多い。
同じ家にいる。
けれど、同じ生活をしているわけではない。
同居というより、静かなシェアハウス。
いや、避難。
あくまで、避難。
美月は何度もそう思い直した。
冷蔵庫は使っていいと言われている。
キッチンも、自由に使っていいと言われている。
洗濯機も、使っていいと言われている。
けれど、美月は基本的に自分の分だけを使った。
食べたものは補充する。
使った場所は元に戻す。
洗濯は、理久のものと重ならない時間にする。
リビングに私物は置きっぱなしにしない。
ここは自分の家ではない。
そう思っていないと、何かを間違えそうだった。
それでも、家はいつも綺麗だった。
水回りは、驚くほど清潔だった。
タオルはいつの間にか新しいものに替わっている。
洗面所には、未開封の歯ブラシや小さなアメニティが補充されていた。
どうやら、週に何度かハウスキーパーが入っているらしい。
ゲストルームのシーツも、ハウスキーパーが入った日にはきれいに整えられていた。
事前に聞いてはいたけれど、他人の家でそこまで整えられていることに、美月はまだ慣れなかった。
ある朝、洗面所に積まれた新しいタオルを見て、思わず手を止める。
……どれだけお金持ちなのだろうか。
藤崎理久。
外科医。
タワーマンションの高層階。
ハウスキーパー。
整いすぎた部屋。
余裕。
清潔。
隙がない。
やっぱり、普通ではない。
普通ではないのに。
その生活圏に入ってみると、意外なほど圧がなかった。
理久は、リビングに私物を置きっぱなしにしない。
美月の部屋のドアには、必要な時以外近づかない。
美月の帰宅時間に合わせて、起きて待っていることもしない。
朝も、無理に顔を合わせようとはしない。
踏み込まない。
でも、放っておかれているわけでもない。
準夜勤を終えて戻ってきた夜、玄関の先の廊下に、小さな灯りが点いていた。

明るすぎない。
眠りを邪魔しない。
けれど、足元はちゃんと見える。
偶然なのか、気遣いなのかは分からない。
ただ、真っ暗な部屋に一人で入らなくていいことに、美月は少しだけ救われた。
その日だけではなかった。
日勤で疲れて戻ってきた夜も。
深夜明けで頭がぼんやりしている朝も。
玄関を開けると、廊下の灯りだけは、いつも小さく点いていた。
理久に聞こうと思ったことはある。
でも、聞けなかった。
聞いてしまえば、それが気遣いだと認めることになる。
気遣いだと分かってしまえば、きっともっと困る。
だから美月は、何も言わずに靴を脱いだ。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で、小さく言う。
返事はない。
それでいい。
返事がないことに、安心する。
でも、廊下の灯りが点いていることにも、安心してしまう。
そこが、一番困る。
* * *
ある深夜勤明けの朝。
美月が理久の部屋へ戻ると、リビングは静かだった。
理久は、もう出勤している。
最初に共有した予定では、今日は朝から手術日だった。
玄関の先の廊下には、いつものように小さな灯りが点いている。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で、小さく言う。
深夜勤明けの体は重い。
頭の奥がぼんやりしていて、空腹なのか疲労なのかもよく分からない。
美月は荷物をゲストルームへ置き、シャワーより先に水だけ飲もうと冷蔵庫を開けた。
ペットボトルの水を取ろうとして、手が止まる。
小さな保存容器が入っていた。
その上に、短いメモが貼られている。
『昨夜のスープ、作りすぎた。食べられそうなら』
それだけ。
一緒に食べようと言われたわけではない。
待たれていたわけでもない。
温めろとも、食べろとも書かれていない。
ただ、置いてあった。
美月はしばらく保存容器を見つめた。
作りすぎた。
その言い方が、いかにも逃げ道を残している。
食べなくてもいい。
気を遣わなくてもいい。
でも、必要なら使っていい。
そういう置き方。
本当に、距離の取り方が上手い。
美月は小さく息を吐き、保存容器を取り出した。
鍋に移して温める。
湯気が上がる。
野菜と鶏肉の、やさしい匂いがした。
「……いただきます」
一口飲んで、美月は少しだけ黙った。
悔しいくらい、おいしかった。
深夜勤明けの体に、ちょうどよかった。
濃すぎない。
軽すぎない。
胃に重くない。
ちゃんと、食べられるものだった。
誰もいないリビングで。
理久のいない部屋で。
それなのに、ひとりで食べている気がしなかった。
食べ終えてから、美月は迷った末、スマホを開いた。
『スープ、いただきました。ありがとうございます』
送ってから、少しだけ後悔した。
丁寧すぎただろうか。
いや、借りている立場なのだから、礼は必要だ。
返事はすぐには来なかった。
当然だ。
今日は朝から手術日だと聞いている。
美月はスマホを伏せた。
シャワーを浴びて、ゲストルームに戻る。
体は疲れているはずなのに、頭だけが少しだけ起きていた。
廊下の灯り。
冷蔵庫のスープ。
短いメモ。
それらを思い出しながら、美月はベッドに横になった。
ここは藤崎先生の家だ。
自分の部屋ではない。
そう思うのに、目を閉じた時、胸の奥は昨日より少しだけ静かだった。
眠りに落ちる直前、それが少し怖いと思った。
目を覚ましたのは、夕方だった。
カーテンの向こうが、淡い色に沈み始めている。
スマホを見ると、返信が届いていた。
『食べられたならよかった』
それだけだった。
美月は画面を見つめる。
からかわれなかった。
「作りすぎを信じた?」とか。
「大したことないホテルの朝食です」とか。
そういう返事をしてきてもおかしくないのに。
理久は、そこではふざけなかった。
美月はスマホを伏せた。
こういうところだ。
からかう時と、からかわない時の線が、分かりにくいようで、妙にはっきりしている。
だから安心してしまう。
だから、怖い。
* * *
別の日。
美月が日勤を終えて戻ると、珍しくリビングに灯りがついていた。
玄関を開けた瞬間、奥から声がした。
「おかえり」
美月は、その場で固まった。
おかえり。
その言葉が、あまりにも自然に聞こえたから。
ここは自分の家ではない。
帰ってきたと言われる場所でもない。
そう返される立場でもない。
美月は少し遅れて、靴を脱ぎながら言った。
「……お邪魔します」
リビングの方から、理久が顔を出した。
シャツの袖を軽くまくり、手にはタブレットを持っている。
帰ってきて少し経っているのか、髪は整っているのに、表情だけが少し緩んでいた。
理久は、美月の返事を聞いて、ほんの少し笑った。
「堅いな」
「実際、そうなので」
「そう?」
「そうです」
理久はそれ以上言わなかった。
「この前のスープ、口に合った?」
「いただきました」
「よかった」
「……作りすぎた量ではなかったと思います」
理久の口元が少し動く。
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、次はもう少し多く作る」
「そういう意味ではありません」
いつもの調子で返してから、美月は自分で少し驚いた。
普通に会話している。
病棟ではない。
外食でもない。
理久の部屋のリビングで。
それなのに、変に緊張していない。
理久は、少し離れた位置に立っていた。
近づきすぎない。
ドアの前を塞がない。
手を伸ばせば届く距離ではない。
それが、かえって安心する。
「今日、疲れてる?」
不意に聞かれ、美月は少しだけ目を伏せた。
「普通です」
「二回言わないなら、まあ普通かな」
「何ですか、その基準」
「綾瀬さん基準」
「勝手に作らないでください」
理久は笑った。
その笑い方が、少しだけ穏やかだった。
美月は視線を逸らす。
こういう時、どうしていいか分からない。
おかえり、と言われた。
ただいま、とは返せなかった。
でも。
返せなかったことに、ほんの少しだけ胸の奥が引っかかっている。
それが嫌だった。
「私は、部屋に戻ります」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
短い会話。
それだけで終わる。
理久は引き止めない。
美月も振り返らない。
ゲストルームに入ってドアを閉めると、静けさが戻ってきた。
美月はベッドの端に座り、少しだけ息を吐いた。
同じ家にいるのに、近づきすぎない。
必要以上に話さない。
必要以上に触れない。
必要以上に待たない。
それがありがたかった。
ありがたいはずだった。
* * *
避難同居は、淡々と続いた。
朝、テーブルに短いメモがある日。
『今日は当直です』
冷蔵庫に水が補充されている日。
『使って』
準夜勤明けに戻ると、廊下の灯りだけが点いている日。
深夜入りの日、美月が夕方に起きると、リビングに誰もいないのに、カーテンだけが少し開けられていた日。
踏み込まれない。
でも、完全には一人にされない。
その距離が、美月には楽だった。
楽で、安心で。
だからこそ、怖かった。
ここは、藤崎理久の家だ。
大したことないホテルでもない。
ただの仮住まいでもない。
自分の部屋でもない。
それなのに、玄関の扉を開けた時、廊下に小さな灯りが点いているだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
美月は、その感覚に名前をつけないようにした。
名前をつけたら、きっと戻れなくなる。
だから今日も、いつものように小さく言う。
「……お邪魔します」
誰もいない玄関で。
けれど、真っ暗ではない部屋の中で。
近づきすぎない。
でも、離れすぎてもいない。
その距離が、いつの間にか少しだけ、楽になっていた。
楽になってしまったことが、少しだけ怖かった。
