翌朝。
美月は、見慣れない天井を見上げていた。
白い天井。
静かな部屋。
整ったベッド。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。
寝ぼけた頭で、ゆっくりと思い出す。
火事。
煙の匂い。
水濡れ。
修繕。
そして、藤崎理久の部屋。
美月は、ベッドの上で固まった。
……ここ、藤崎先生の家だ。
昨日の夜は、疲れすぎていた。
部屋の被害を見て、管理会社の説明を聞いて、最低限の荷物をまとめて、理久の家に来た。
ゲストルームを使わせてもらった。
水もタオルも用意されていた。
必要なものがあれば言って、と言われた。
「明日のことは、明日考えればいい」
そう言われて、何とか眠った。
眠れないと思っていたのに、気づいたら朝だった。
美月はゆっくり起き上がる。
自分の寝巻き。
すっぴん。
整っていない髪。
この状態で部屋を出たら、藤崎先生がいるかもしれない。
どうする。
おはようございます、でいいのだろうか。
いや、変。
でも、黙って洗面所へ行くのも変。
そもそもここは、他人の家だ。
しかも、ただの他人ではない。
外科の藤崎先生。
病棟では王子と呼ばれている男。
自分の前では、かなり厄介な男。
美月はベッドの上でしばらく固まった。
けれど、時計を見て我に返る。
日勤。
迷っている場合ではない。
美月はそっとドアを開けた。
リビングは静かだった。
誰もいない。
広い窓の向こうに、朝の街が見える。
ダイニングテーブルには、マグカップと、小さなメモと鍵が置かれていた。
美月は近づき、メモを手に取る。
『合鍵です。
戸締まりよろしく。
冷蔵庫は好きに使って。
無理しないで』
その下に、もう一行。
『朝ごはんは冷蔵庫。食べられそうなら』
美月は、しばらくメモを見つめた。
簡潔。
必要なことだけ。
でも、最後にちゃんと「無理しないで」とある。
こういうところだ。
こういうところが、ずるい。
美月は鍵を手に取った。
小さな金属の重みが、妙に現実的だった。
合鍵。
藤崎理久の家の合鍵。
それを自分が持っている。
冷静に考えると、かなりおかしい。
けれど、今はおかしさに立ち止まっている時間がなかった。
美月は洗面所を借り、手早く身支度を整えた。
洗面台には、未開封の歯ブラシとタオルが置かれていた。
必要以上には踏み込まない。
でも、必要になりそうなものは先に置いてある。
距離の取り方が、いちいち上手い。
本当に厄介だ。
冷蔵庫を開けると、ヨーグルトとカットフルーツ、ペットボトルの水が入っていた。
朝食を作る余裕はない。
けれど、何も食べずに出ると、確かに午前中がきつい。
美月は迷った末、ヨーグルトとカットフルーツを取り出した。
「……いただきます」
誰もいないリビングで、小さく呟く。
ヨーグルトの蓋を開け、カットフルーツを少しずつ口に運ぶ。
甘い。
ちゃんと食べられるものを選ばれている。
変な感じだった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
それが少し怖い。
* * *
病院に着くと、日常の音が戻ってきた。
ナースステーションのざわめき。
電子カルテの起動音。
モニターのアラーム。
朝の申し送り。
検査出しの確認。
ここに来ると、美月は自然に看護師の顔になる。
火事のことも、理久の部屋にいることも、いったん頭の奥へ押し込める。
患者の状態。
指示変更。
点滴更新。
検査時間。
後輩の動き。
見るべきものはいくらでもある。
だから、仕事中は大丈夫。
そう思っていた。
昼休憩。
美月は同僚たちと食堂へ行った。
昨日から、火事の件は病棟内でも少し話題になっている。
もちろん、詳細までは話していない。
テーブルで食べていると、後輩が心配そうに聞いてきた。
「綾瀬さん、火事の件、大丈夫でした?」
「うん。部屋自体は燃えてないから」
「でも、住めないんですよね?」
「しばらくはね」
「災難でしたね……。今どこで過ごしてるんですか?」
美月の箸が止まった。
一瞬、間が空く。
正直には言えない。
藤崎先生の家です。
言えるわけがない。
言った瞬間、10A病棟が爆発する。
美月は、できるだけ自然な顔で言った。
「……ホテルだよ」
同僚が少し目を丸くする。
「ホテル?」
「うん。あ、いや、大したことないホテルだよ」
言った瞬間、自分でも分かった。
今の言い方は、かなり不自然だった。
大したことないホテル。
何それ。
でも、もう戻れない。
美月は味噌汁を飲むふりをした。
その時だった。
食堂の通路を、白衣姿の理久が通りかかった。
外科の医師たちと一緒だった。
何かを話しながら、こちらに視線を向けることもなく歩いていく。
聞こえなかった。
そう思いたかった。
けれど、距離は近かった。
そして理久は、何事もなかったように通り過ぎていった。
いつもの藤崎先生の顔で。
職場の中で、余計な反応はしない。
分かっている。
分かっているけれど。
聞かれていたら、終わりだ。
後輩が続ける。
「ホテル暮らしって大変じゃないですか?」
「……まあ、少しね」
「病院から近いんですか?」
「近い……かな」
近い。
かなり近い。
というか、近すぎる。
同僚が言う。
「でも、変なホテルより安心できるところの方がいいですよね」
美月は小さく頷いた。
「……うん。安心は、できる」
言ってから、また少し気まずくなった。
安心はできる。
それは本当だった。
そこが一番困る。
* * *
昼休憩を終えて、病棟へ戻る前。
美月は、食堂を出たところでスマホを確認した。
通知が入っていた。
藤崎理久。
嫌な予感しかしない。
美月は画面を開いた。
『大したことないホテル、快適?』
美月は一瞬でスマホを伏せた。
やっぱり聞いていた。
しかも、そこを拾ってくる。
最低。
少し迷ってから、返信する。
『勤務中です』
すぐに返事が来た。
『便利だね、それ』
美月は小さく息を吐いた。
『必要な言葉です』
『じゃあ、勤務外なら答える?』
美月は、画面を睨んだ。
答えない。
絶対に答えない。
そう思っていたのに、指が勝手に動く。
『大したことはありません』
すぐに返事が来た。
『うち、そこそこ大したことあると思うけど』
腹立つ。
自覚があるのが腹立つ。
『ホテルではありません』
『じゃあ、何?』
美月は返事に困った。
藤崎先生の家。
そう打つのは、何となく嫌だった。
借りている部屋。
それも違う気がする。
避難先。
それが一番正しいのかもしれない。
けれど、そう書くと急に現実味が増してしまう。
結局、美月は短く返した。
『仮住まいです』
少し間が空いた。
『うん。それでいい』
その返事を見て、美月は動きを止めた。
からかわれると思った。
「仮住まいって硬いね」とか。
「ホテルより堅い」とか。
そういう返事が来ると思っていた。
でも、理久はそこでは茶化さなかった。
それでいい。
その一言だけ。
美月はスマホを持ったまま、小さく息を吐いた。
本当に、この人は分からない。
美月は、見慣れない天井を見上げていた。
白い天井。
静かな部屋。
整ったベッド。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。
寝ぼけた頭で、ゆっくりと思い出す。
火事。
煙の匂い。
水濡れ。
修繕。
そして、藤崎理久の部屋。
美月は、ベッドの上で固まった。
……ここ、藤崎先生の家だ。
昨日の夜は、疲れすぎていた。
部屋の被害を見て、管理会社の説明を聞いて、最低限の荷物をまとめて、理久の家に来た。
ゲストルームを使わせてもらった。
水もタオルも用意されていた。
必要なものがあれば言って、と言われた。
「明日のことは、明日考えればいい」
そう言われて、何とか眠った。
眠れないと思っていたのに、気づいたら朝だった。
美月はゆっくり起き上がる。
自分の寝巻き。
すっぴん。
整っていない髪。
この状態で部屋を出たら、藤崎先生がいるかもしれない。
どうする。
おはようございます、でいいのだろうか。
いや、変。
でも、黙って洗面所へ行くのも変。
そもそもここは、他人の家だ。
しかも、ただの他人ではない。
外科の藤崎先生。
病棟では王子と呼ばれている男。
自分の前では、かなり厄介な男。
美月はベッドの上でしばらく固まった。
けれど、時計を見て我に返る。
日勤。
迷っている場合ではない。
美月はそっとドアを開けた。
リビングは静かだった。
誰もいない。
広い窓の向こうに、朝の街が見える。
ダイニングテーブルには、マグカップと、小さなメモと鍵が置かれていた。
美月は近づき、メモを手に取る。
『合鍵です。
戸締まりよろしく。
冷蔵庫は好きに使って。
無理しないで』
その下に、もう一行。
『朝ごはんは冷蔵庫。食べられそうなら』
美月は、しばらくメモを見つめた。
簡潔。
必要なことだけ。
でも、最後にちゃんと「無理しないで」とある。
こういうところだ。
こういうところが、ずるい。
美月は鍵を手に取った。
小さな金属の重みが、妙に現実的だった。
合鍵。
藤崎理久の家の合鍵。
それを自分が持っている。
冷静に考えると、かなりおかしい。
けれど、今はおかしさに立ち止まっている時間がなかった。
美月は洗面所を借り、手早く身支度を整えた。
洗面台には、未開封の歯ブラシとタオルが置かれていた。
必要以上には踏み込まない。
でも、必要になりそうなものは先に置いてある。
距離の取り方が、いちいち上手い。
本当に厄介だ。
冷蔵庫を開けると、ヨーグルトとカットフルーツ、ペットボトルの水が入っていた。
朝食を作る余裕はない。
けれど、何も食べずに出ると、確かに午前中がきつい。
美月は迷った末、ヨーグルトとカットフルーツを取り出した。
「……いただきます」
誰もいないリビングで、小さく呟く。
ヨーグルトの蓋を開け、カットフルーツを少しずつ口に運ぶ。
甘い。
ちゃんと食べられるものを選ばれている。
変な感じだった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
それが少し怖い。
* * *
病院に着くと、日常の音が戻ってきた。
ナースステーションのざわめき。
電子カルテの起動音。
モニターのアラーム。
朝の申し送り。
検査出しの確認。
ここに来ると、美月は自然に看護師の顔になる。
火事のことも、理久の部屋にいることも、いったん頭の奥へ押し込める。
患者の状態。
指示変更。
点滴更新。
検査時間。
後輩の動き。
見るべきものはいくらでもある。
だから、仕事中は大丈夫。
そう思っていた。
昼休憩。
美月は同僚たちと食堂へ行った。
昨日から、火事の件は病棟内でも少し話題になっている。
もちろん、詳細までは話していない。
テーブルで食べていると、後輩が心配そうに聞いてきた。
「綾瀬さん、火事の件、大丈夫でした?」
「うん。部屋自体は燃えてないから」
「でも、住めないんですよね?」
「しばらくはね」
「災難でしたね……。今どこで過ごしてるんですか?」
美月の箸が止まった。
一瞬、間が空く。
正直には言えない。
藤崎先生の家です。
言えるわけがない。
言った瞬間、10A病棟が爆発する。
美月は、できるだけ自然な顔で言った。
「……ホテルだよ」
同僚が少し目を丸くする。
「ホテル?」
「うん。あ、いや、大したことないホテルだよ」
言った瞬間、自分でも分かった。
今の言い方は、かなり不自然だった。
大したことないホテル。
何それ。
でも、もう戻れない。
美月は味噌汁を飲むふりをした。
その時だった。
食堂の通路を、白衣姿の理久が通りかかった。
外科の医師たちと一緒だった。
何かを話しながら、こちらに視線を向けることもなく歩いていく。
聞こえなかった。
そう思いたかった。
けれど、距離は近かった。
そして理久は、何事もなかったように通り過ぎていった。
いつもの藤崎先生の顔で。
職場の中で、余計な反応はしない。
分かっている。
分かっているけれど。
聞かれていたら、終わりだ。
後輩が続ける。
「ホテル暮らしって大変じゃないですか?」
「……まあ、少しね」
「病院から近いんですか?」
「近い……かな」
近い。
かなり近い。
というか、近すぎる。
同僚が言う。
「でも、変なホテルより安心できるところの方がいいですよね」
美月は小さく頷いた。
「……うん。安心は、できる」
言ってから、また少し気まずくなった。
安心はできる。
それは本当だった。
そこが一番困る。
* * *
昼休憩を終えて、病棟へ戻る前。
美月は、食堂を出たところでスマホを確認した。
通知が入っていた。
藤崎理久。
嫌な予感しかしない。
美月は画面を開いた。
『大したことないホテル、快適?』
美月は一瞬でスマホを伏せた。
やっぱり聞いていた。
しかも、そこを拾ってくる。
最低。
少し迷ってから、返信する。
『勤務中です』
すぐに返事が来た。
『便利だね、それ』
美月は小さく息を吐いた。
『必要な言葉です』
『じゃあ、勤務外なら答える?』
美月は、画面を睨んだ。
答えない。
絶対に答えない。
そう思っていたのに、指が勝手に動く。
『大したことはありません』
すぐに返事が来た。
『うち、そこそこ大したことあると思うけど』
腹立つ。
自覚があるのが腹立つ。
『ホテルではありません』
『じゃあ、何?』
美月は返事に困った。
藤崎先生の家。
そう打つのは、何となく嫌だった。
借りている部屋。
それも違う気がする。
避難先。
それが一番正しいのかもしれない。
けれど、そう書くと急に現実味が増してしまう。
結局、美月は短く返した。
『仮住まいです』
少し間が空いた。
『うん。それでいい』
その返事を見て、美月は動きを止めた。
からかわれると思った。
「仮住まいって硬いね」とか。
「ホテルより堅い」とか。
そういう返事が来ると思っていた。
でも、理久はそこでは茶化さなかった。
それでいい。
その一言だけ。
美月はスマホを持ったまま、小さく息を吐いた。
本当に、この人は分からない。
