光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

「俺の家、来る?」

それは誘いではなかった。

口説き文句でもなかった。

今の美月が、ちゃんと休める場所を差し出す声だった。

だから余計に、断り方が分からなかった。

美月はスマホを握ったまま、何も言えずに立っていた。

ホテルを探さなければならない。

そう思うのに、画面の文字は少しも頭に入ってこない。

場所。
金額。
空室。
チェックイン時間。
明日の勤務。

選ばなければいけないことが多すぎて、何も選べなかった。

理久は急かさなかった。

ただ、美月が答えを出せるまで、静かに待っている。

その沈黙が、今は少しだけありがたかった。

美月は、ようやく小さく息を吸った。

「……今日だけ」

声は、自分で思ったより弱かった。

理久は頷いた。

「うん。今日だけ」

「本当に、今日だけです」

「分かった」

「明日は、ホテルを探します」

「それは明日考えよう」

美月は反論しようとして、やめた。

今夜、全部決めなくていい。

さっきそう言われたばかりだった。

理久はタクシーを止め、美月の荷物をひとつ持った。

「持てます」

「重い方だけ」

「でも」

「これは、ただの荷物運び」

そう言われると、返しづらかった。

美月は少しだけ迷ってから、手を離した。

「……すみません」

「謝らなくていい」

何度目か分からないその言葉を聞いて、美月は黙った。

謝らなくていい。

そう言われるたびに、自分がどれだけ謝ろうとしているのかに気づく。

迷惑をかけている。
巻き込んでいる。
頼ってしまっている。

そう思うのに、今はその荷物を自分で持ち直す気力すらなかった。

* * *

理久の部屋に着いた頃には、美月はほとんど喋れなくなっていた。

前にも来たことがある部屋だった。

雨の日に、コーヒーを飲んだ部屋。
ソファで寝落ちした部屋。
朝食まで出された部屋。

けれど、今夜はまったく違って見えた。

広いリビング。
静かな窓。
夜景の光。

整っているのに、今の美月には少し遠い。

理久は荷物を置き、奥の部屋のドアを開けた。

「ここ、使って」

ゲストルームだった。

ベッド。
小さなデスク。
クローゼット。
新しいタオル。
水のペットボトル。

ホテルの部屋みたいに整っている。

美月は入口で立ち止まった。

「……本当に、すみません」

「謝らなくていい」

理久は軽く言った。

「部屋を一つ貸すだけだから」

「でも、今日だけです」

「うん。今日だけでもいい」

その言い方が、妙に引っかかった。

今日だけでもいい。

つまり、今日だけではなくてもいい、という意味に聞こえる。

美月が顔を上げると、理久はいつもの穏やかな顔をしていた。

「明日は、ホテルを探します」

「ホテルでもいいと思うよ」

「そうします」

「でも、ここもホテルとあまり変わらないんじゃない?」

美月は即座に顔を上げた。

「変わります」

「個室はある。ベッドもある。タオルもある。水もある」

「そういう問題ではありません」

「セキュリティは二十四時間。病院にも近い。掃除も基本的には外注だから、綾瀬さんが気を遣うこともない」

美月は言葉に詰まった。

悔しいけれど。

それは、そうかもしれない。

ゲストルームは、確かにホテルの部屋に近い。

それどころか、その辺のビジネスホテルよりずっと広くて、静かで、整っている。

美月は少しだけ眉を寄せた。

「……どれだけ良い生活してるんですか」

「昔から、こういうのが普通だったから」

「……」

さらっと言われると、返す言葉がない。

「そこ、引くところ?」

「少し」

理久は小さく笑った。



その笑い方を見て、美月の中で何かが少し戻ってきた。

さっきまで、火事のことばかりで頭が真っ白だった。

何も選べなくて、何も言えなくて、ただ立っているだけだった。

でも今は、少し腹が立つ。

この人は、こうやって平然と逃げ道を塞いでくる。

優しい顔をして。
現実的な理由を並べて。
最後に、こちらが言い返したくなるようなことを言う。

「他に気になることは?」

理久が聞いた。

美月はすぐに答えた。

「気になることしかありません」

「たとえば?」

「まず、ご迷惑ですよね」

「迷惑なら、こんな提案しない」

即答だった。

美月は言葉に詰まる。

「でも、男性の部屋に……」

「俺がいるから?」

「そうです」

「前に、あれだけ安心して寝てたのに?」

「なっ……!」

「ソファで、かなりしっかり寝てた」

「それは不可抗力です」

「前回、朝まで何もなかった実績はある」

「実績って言わないでください」

「事実だから」

「事実でも言わないでください」

理久は楽しそうに笑った。

その余裕のある顔が、また腹立たしい。

「それに、生活時間もたぶん合わない」

「生活時間?」

「綾瀬さんは三交代。俺は手術も外来も当直もある。朝も夜も、顔を合わせない日が普通にあると思う」

同じ家にいる。

その言葉だけを考えると意味が大きすぎる。

けれど理久は、それを淡々と生活の話に変えていく。

勤務。
時間帯。
動線。
休息。

現実的な言葉ばかりだった。

「別に、他の人に言いふらすつもりもない」

「当たり前です」

「職場では今まで通り。病院で余計な顔もしない」

「当然です」

「じゃあ、ここにいればいいんじゃない?」

美月は反射的に言った。

「そうですね。修繕が終わるまで、ここにいさせていただきます」

言った瞬間、固まった。

しまった。

今、自分で言った。

今日だけのはずだった。
明日はホテルを探すはずだった。

なのに、気づいたら自分の口で、しばらくここにいると言ってしまっている。

理久は、にこっと笑った。

本当に、綺麗に。

「うん。分かった」



その笑顔を見た瞬間、美月は悟った。

やられた。

完全に、やられた。

「……今、言わせましたね」

「言わせてないよ」

「誘導しました」

「必要な情報を並べただけ」

「言い方」

理久は少しだけ笑った。

「じゃあ、割り切って使って」

美月はテーブルの上に置かれた鍵を見た。

押しつけられたわけではない。

でも、そこにある。

逃げ道のように見えていたものが、気づいたら道になっていた。

「最低限のルールは決めよう」

理久が言った。

「ルール?」

「洗面所を使う時は鍵をかける」

「かけます」

即答だった。

「寝る時も、部屋の鍵をかけていい」

「かけます」

「俺の部屋には勝手に入らない」

「入りません」

「俺も、この部屋には勝手に入らない」

美月はそこで少しだけ黙った。

当たり前のことなのに、先に言われると少し安心する。

理久はその沈黙を見て、穏やかに続けた。

「部屋を一つ貸すだけ。ルームシェアくらいに考えて」

「ルームシェア……」

「期間限定で」

「……」

「そのくらい元気なら、大丈夫そうだね」

美月は顔を上げた。

そこでようやく、自分がさっきまでよりずっと普通に言い返していたことに気づいた。

言い返せる。

腹も立つ。

それは、たぶん少しだけ戻ってきたということだった。

美月は小さく息を吐いた。

「……お世話になります」

理久は静かに頷いた。

「うん」

* * *

理久は洗面所の場所と、タオルの場所だけを簡単に説明した。

「先に使って。俺は後でいい」

「でも」

「煙の匂い、気になるでしょ」

美月は自分の袖を見た。

確かに、まだ焦げたような匂いが残っている気がする。

「必要なものがなければ、明日買えばいい」

「……はい」

「鍵は持っていて。明日の朝、俺はたぶん先に出てる」

美月は顔を上げた。

「先に?」

「手術日だから。綾瀬さんが起きる頃には、もういないと思う」

「……そうですか」

「だから、出る時は普通に鍵をかけて出ていい。返すのはいつでもいい」

美月は鍵を見た。

小さな金属のそれが、妙に重く見える。

「今日だけでも、必要でしょ」

理久は押しつけるのではなく、ただそう言った。

「持つかどうかは、あとで決めていい」

そう言われて、美月はまた返事に困った。

この人は、いつもそうだ。

逃げ道を置く。
選択肢を置く。
でも、必要なものは先に用意してしまう。

優しいのか、ずるいのか。

やっぱり、よく分からない。

理久はキッチンへ行き、すぐに戻ってきた。

手には、温かい飲み物が入ったマグカップがある。

「飲めそう?」

「……少しなら」

「無理に飲まなくていい」

そう言って、理久はマグカップをサイドテーブルに置いた。

湯気が、ゆっくり上がっている。

美月はそれを見て、急に自分がひどく疲れていることに気づいた。

足が重い。
肩が痛い。
頭の奥がぼんやりする。

さっきまで、ずっと立っていたような気がする。

「今日はもう休んで」

理久は部屋の入口に立った。

「何かあったら呼んで」

「はい」

「呼びにくかったら、スマホにでもいい」

美月は少しだけ顔を上げた。

「同じ家の中で?」

「その方が楽なら」

その言い方があまりにも真面目で、美月は少しだけ笑いそうになった。

けれど、笑うには疲れすぎていた。

「ありがとうございます」

理久は軽く頷いた。

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

ドアが静かに閉まった。

美月は、知らない部屋の中に一人で立っていた。

知らない部屋。

けれど、不思議と怖くはなかった。

ベッドも、タオルも、水も、鍵も。

必要なものは揃えられている。

でも、踏み込まれてはいない。

その距離が、今はどうしようもなくありがたかった。

美月はベッドに腰を下ろした。

スマホには、管理会社からのメールが届いている。

やることは山ほどある。

保険会社への連絡。
荷物の搬出。
クリーニング。
修繕の予定。
職場への影響。
明日の勤務。

でも今日は、もう無理だ。

明日のことは、明日考えればいい。

理久の言葉を思い出す。

美月はバッグを床に置き、深く息を吐いた。

助けられてしまった。

また。

でも今回は、悔しさよりも安心の方が大きかった。

それが少しだけ、怖かった。