光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

タクシーの中で、美月はほとんど話せなかった。

窓の外を流れる街の灯りを見ているのに、何も頭に入ってこない。

火事。
同じフロア。
煙。
水濡れ。
今夜は入れない可能性。

管理会社の担当者が言った言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。

理久は隣で、必要以上に話しかけてこなかった。

ただ、運転手に行き先を伝え、美月のマンションへ向かう道を確認し、それから静かに座っている。

さっきまで、光の中にいた。

綺麗だった。
楽しかった。
少しだけ、素直になってしまった。

それなのに、今はもう、現実のことしか考えられない。

いや。

考えなければいけないことが多すぎて、何も考えられなかった。

「綾瀬さん」

理久の声で、美月は顔を上げた。

「着いたよ」

マンションの前には、まだ人が集まっていた。

消防車は何台か撤収していたが、赤い光の名残と、ざわついた空気が残っている。

住人らしき人たちが、建物の前で不安そうに話していた。

焦げたような匂い。
濡れた床の匂い。
どこか湿った空気。

美月はタクシーを降りた瞬間、足元が少し頼りなくなった。

自分の住んでいる場所なのに、まるで知らない場所みたいだった。

管理会社の担当者が、美月の名前を確認して近づいてくる。

「綾瀬様ですね」

「はい」

説明は、淡々としていた。

火元は同じフロアの別室。
美月の部屋が燃えたわけではない。
けれど、廊下から煙が入り、消火活動の影響で水も入っている。
安全確認と清掃、修繕が必要になるため、今夜は泊まれない。

美月は頷いた。

頷いているつもりだった。

でも、言葉がうまく自分の中に入ってこない。

「室内を確認されますか」

そう聞かれて、ようやく美月は顔を上げた。

「……はい」

理久はすぐには動かなかった。

ただ、美月の横で一度だけ管理会社の担当者に視線を向け、それから静かに言った。

「俺はここで待ってる。必要だったら呼んで」

美月は少し遅れて頷いた。

「……分かりました」

そう答えて、美月は一人で部屋へ向かった。

* * *

部屋のドアを開けた瞬間、美月は息を止めた。

燃えたわけではない。

けれど、そこは朝出てきた時の部屋ではなかった。

煙の臭いが残っている。
床の一部が湿っている。
壁際には水の跡があり、いくつかの荷物には養生がかけられていた。

ベッドも、布類も、すぐに使える状態ではない。

いつもの部屋なのに、いつもの部屋ではない。

洗面台に置いたスキンケア。
椅子にかけた部屋着。
読みかけの本。
明日着るつもりだった服。

朝には何でもなかったものが、急に遠く感じた。

美月は、ただ立ち尽くした。

「綾瀬さん」

後ろから理久の声がした。

玄関の外だった。

「大丈夫?」

美月は返事をしようとした。

大丈夫です。

そう言えばよかった。

いつものように。

でも、声が出なかった。

数秒の沈黙のあと、理久がもう一度言った。

「入ってもいい?」

美月は少し遅れて振り向いた。

理久は、勝手に入ってくるつもりはないように、玄関の外で待っていた。

それが分かったから、美月は小さく頷いた。

「……はい」

「分かった」

理久は靴を脱ぎ、濡れていない場所を選んで部屋に入った。

けれど、必要以上に周囲を見回さなかった。

そのことが分かったから、美月は少しだけ息ができた。

「今夜必要なものだけ取ろう」

理久が静かに言った。

「全部考えなくていい。今夜と明日のことだけ」

今夜。
明日。

まずは、そこだけ。

その言葉で、止まっていた頭が少しずつ動き始めた。

財布。
身分証。
スマホの充電器。
明日の勤務に必要なもの。
最低限の着替え。

理久は勝手に引き出しを開けなかった。

触れる前に必ず確認し、必要なものだけを取り、美月の前に置いていく。

「これは持っていく?」

「……はい」

「これは?」

「大丈夫です」

短いやり取りを繰り返しているうちに、バッグの中身が少しずつ整っていった。

全部を元通りにすることはできない。

でも、今夜を越える準備だけはできていく。

管理会社の担当者が、廊下から声をかけた。

「綾瀬様、明日以降の立ち入りについてですが」

美月は顔を上げた。

返事をしなければ。

聞かなければ。

そう思うのに、すぐに言葉が出なかった。

理久が、美月を見た。

「聞いてもいい?」

美月は少し遅れて頷いた。

「……はい」

理久は管理会社の担当者へ向き直り、必要なことだけを短く確認していった。

明日以降、いつ立ち入りできるのか。
荷物の搬出はどうするのか。
保険会社への連絡はどこにすればいいのか。

美月はそれを横で聞きながら、自分がほとんど何も言えていないことに気づいた。

いつもなら、自分で聞ける。

必要なことを整理して、優先順位をつけて、次の行動を決められる。

仕事では、そうしている。

患者の急変でも。
家族対応でも。
退院調整でも。

なのに、自分のことになると、こんなにも動けない。

そのことが、少し悔しかった。

でも今は、悔しさよりも疲れの方が大きかった。

* * *

最低限の荷物をまとめ終える頃には、部屋の中にいるだけで息苦しくなっていた。

煙の匂いが、髪や服に染みついている気がする。

美月はバッグを抱え、玄関の前で立ち止まった。

朝、ここから普通に仕事へ向かった。

それなのに、今はもう、この部屋に戻れない。

そんなことが、本当にあるのかと思った。

理久が荷物の一つを持つ。

「出よう」

美月は小さく頷いた。

「……はい」

マンションの外に出ると、夜の空気がやけに冷たく感じた。

管理会社の担当者にもう一度頭を下げ、明日以降の連絡先を確認する。

それだけで、もう十分疲れていた。

美月はスマホを取り出した。

ホテルを探さなければならない。

そう思って画面を開いたのに、検索欄を前にして指が止まった。

場所。
金額。
空室。
チェックイン時間。
明日の出勤。

どれも大事なのに、どれも選べない。

画面の文字が、うまく頭に入ってこなかった。

「綾瀬さん」

理久が静かに呼んだ。

美月はスマホを見たまま答えた。

「大丈夫です。ホテルを探します」

「うん」

理久は否定しなかった。

「一緒に探す。今から入れるところを探して、そこまで送る」

「……大丈夫です」

そう言ったのに、指は動かなかった。

数秒の沈黙が落ちる。

理久は急かさなかった。

ただ、美月の手元を一度だけ見て、それから静かに言った。

「ホテルでもいい」

美月は顔を上げた。

「それか、俺の家でもいい」

息が止まった。

理久はすぐに続ける。

「ゲストルームがある。俺は別室にいる。鍵も渡す」

「でも」

「変な意味じゃない」

理久の声は、低くて落ち着いていた。

「今から取れるホテルよりは、落ち着けると思う。病院にも近いし、明日の勤務にも間に合う」

正論だった。

あまりにも、正論だった。

けれど、それを受け入れるには、意味が大きすぎる。

藤崎理久の家に行く。

雨宿りとは違う。
寝落ちしただけとは違う。

今度は、自分の意思で、彼の家に行くことになる。

美月はスマホを握ったまま、何も言えなかった。

理久は少しだけ声をやわらげた。

「嫌なら、今の話はなしでいい」

「……」

「ホテルを探そう。俺も一緒に見る」

美月は画面に視線を戻した。

でも、やっぱり文字が頭に入ってこない。

探さなければいけない。
決めなければいけない。

そう思うほど、何も選べなくなる。

理久は、美月の答えを待っていた。

押さない。
でも、離れない。

その距離が、今は少しだけありがたかった。

「綾瀬さん」

理久が言った。

「今夜、全部決めなくていい」

美月は顔を上げた。

「今日の分だけでいい。明日のことは、明日考えればいい」

その言葉で、美月の中の何かが少しだけほどけた。

今夜、全部決めなくていい。

そう言われたことで、ようやく息が吸えた。

理久は、美月の目を見て言った。

「俺の家、来る?」

それは誘いではなかった。

口説き文句でもなかった。

今の美月が、ちゃんと休める場所を差し出す声だった。

だから余計に、断り方が分からなかった。