飲み会の予定が続く時期だった。
病棟ごとに、医局ごとに、あちこちで小さな集まりが入る。
10A病棟も例外ではない。
日頃お世話になっている医師たちにも声をかけ、こぢんまりとした飲み会を開いていた。
とはいえ、夜の居酒屋はどこも騒がしい。
同じ店の別フロアや隣の個室には、他の病棟らしき団体もいる。
廊下では、酔った声や笑い声が行き交っていた。
美月は、少し席を外してトイレへ向かった。
戻る途中、廊下の少し奥で、二人の男女が立っているのが見えた。
女性の方は、明らかに酔っていた。
声が大きく、距離も近い。
男の方は壁際に立ったまま、少し体を引いている。
笑ってはいる。
けれど、拒まないわけではない。
むしろ、相手の腕をやんわり外すような動きをしていた。
美月は内心でため息をついた。
他所でやってよね……。
そう思いながら、目線をそらして通り過ぎようとした。
その瞬間、男の横顔が見えた。
藤崎理久だった。
美月は、足を止めそうになった。
……うわ。
藤崎先生。
相変わらず、モテモテのようだ。
というより、これはもう。
引き寄せている。
本人が何かをしているわけではないのに、女性の方から勝手に寄っていく。
女ホイホイ。
ひどい表現だと思う。
でも、他に言いようがなかった。
「藤崎先生って、ほんと優しいですよねぇ」
酔った女性が、少し甘えた声で言う。
理久は困ったように笑った。
「ありがとうございます。でも、そろそろ戻った方がいいですよ」
「えー、もうちょっとだけ」
「皆さん待ってますから」
「先生も一緒に来てくださいよ」
理久は、角が立たないように距離を取っている。
いつもの王子の顔。
相手を傷つけず、場も壊さず、でも受け入れすぎない。
ああいうところが、また人を勘違いさせるのでは。
美月はそう思った。
助けるべきか。
一瞬だけ考えた。
けれど、すぐにやめた。
慣れているでしょう。
あれだけ場数を踏んでいそうな人なのだから、自分でどうにかするはずだ。
それに、ここで美月が出ていけば、それはそれで面倒なことになる。
綾瀬さん、藤崎先生と何かあるの?
そんな視線が一瞬で集まる。
絶対に嫌だ。
美月は何も見なかった顔で、静かに通り過ぎた。
その瞬間。
理久と目が合った。
彼は一瞬だけ、分かりやすくこちらを見た。
助けて。
そう言った気がした。
美月は、無表情で視線を外した。
知らない。
私は知らない。
あんな人は知らない。
* * *
席に戻ると、飲み会は相変わらず盛り上がっていた。
内科のレジデントも何人か来ていて、10Aの看護師たちは楽しそうに話している。
美月も空いた席に戻り、何事もなかった顔でグラスを持った。
しばらくして、別の看護師が戻ってきた。
その子は席に着くなり、目を輝かせて声をひそめる。
「ねえ、今さ、廊下で見ちゃった」
「何を?」
「外科の藤崎先生。なんか他の病棟の人っぽい女の子に、めちゃくちゃ絡まれてた」
すぐに周囲が食いついた。
「え、藤崎先生?」
「やっぱりモテるんだ」
「絡まれてるって何?」
「酔った勢いで口説かれてたの?」
その話題は、あっという間に広がった。
美月はグラスを見つめながら、少しだけ眉を下げた。
あらあら。
こうやって、知らないところで注目の的になる方も大変なのかもしれない。
誰かが見ている。
誰かが話す。
何でもないことでも、すぐに噂になる。
美月は少しだけ、理久に同情した。
その時、隣に座っていた内科医の桐谷が、ふいに美月の方を見た。
「綾瀬、見たんじゃないの?」
美月は一瞬だけ止まった。
「さぁ?」
「はぐらかした」
「何のことですか」
桐谷は少し笑った。
10Aによく顔を出す内科医で、穏やかに見えるのに、妙に人の反応を拾うところがある。
「藤崎と同期なんだよ。大学の頃から、ああいうの多かった」
「……そうなんですか」
「本人は慣れてるけど、面倒くさがってる」
美月はグラスを置いた。
「慣れているようには見えますね」
「まあ、慣れてるよ。うまいしね」
桐谷は軽く笑う。
「でも、自分に言い寄ってくるタイプには、あんまり興味ないんだよね」
美月は、そこで初めて桐谷の顔をちゃんと見た。
「そうなんですか」
「そうそう。寄ってくる人には感じよくするけど、ちゃんと線を引く。だから余計にモテるんだと思うけど」
美月は内心で思う。
なるほど。
本人にその気がなくても、あの対応なら確かに誤解される。
桐谷は、軽い口調で続けた。
「藤崎って、余裕あるように見えるでしょ」
「見えますね」
「まあ、実際あるけど」
桐谷は少しだけ声を落とした。
「でも、興味ある相手には意外と不器用かもよ」
美月は思わず咳き込みそうになった。
「……そうなんですか」
「たぶんね。俺、あいつが本気で誰かを追ってるところ、あんまり見たことないから」
美月は、それ以上聞かないことにした。
聞いてはいけない気がした。
藤崎理久が誰に興味を持つのか。
誰を追うのか。
そんなことを考え始めたら、たぶん面倒なことになる。
美月はグラスへ視線を落とした。
考えない。
考えたら、たぶん負ける。
* * *
飲み会の終盤。
美月はレジ横の狭いスペースで、集めた会費と伝票を確認していた。
幹事役の後輩が店員とやり取りをしている横で、足りない分がないか、財布を片手にもう一度金額を数える。
店の入口付近は、帰り支度をする人たちで少し混み合っていた。
奥からは、まだ笑い声が聞こえてくる。
その時、背後から低い声がした。
「綾瀬さん」
振り向くと、理久が立っていた。
顔色は変わっていない。
立ち姿も崩れていない。
けれど、さっきより少しだけ、目元の余裕が薄い気がした。
「さっき、助けてくれなかったね」
美月は一瞬だけ言葉に詰まった。
「助ける必要、ありました?」
「絡まれてた」
「慣れてるでしょう」
「慣れてるけど」
理久は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「助けてほしかった」
その言い方が、思っていたより素直で、美月は返事に困った。
だから、少しだけ茶化した。
「相変わらず、女ホイホイですね」
理久が目を細める。
「ひどい言い方」
「事実です。女の人が次々吸い寄せられているじゃないですか」
「でも、一名、そのトラップに引っかからない子がいるんだけど」
美月は即座に返した。
「私をゴキ扱いしないでください」
理久が少し笑った。
「誰のことか言ってないけど?」
美月は止まった。
「……あ」
「自覚あるんだ」
「今のは言葉の流れです」
「ふうん」
その声が少しだけ低くて、美月は思わず視線を外した。
危ない。
この人は、こういうところが危ない。
距離は近い。
けれど、ここは店の入口近くで、すぐ後ろには会計を待つ人たちがいる。
誰かが振り返れば、すぐに見られる場所だった。
それなのに、さっき桐谷に言われた言葉が、妙に頭に残っている。
興味ある相手には、意外と不器用かもよ。
美月は財布を閉じながら、できるだけ平静に言った。
「そろそろ戻ってください」
「冷たいな」
「普通です」
「じゃあ、また助けてほしい時は呼ぶ」
「呼ばないでください」
「検討する」
「しないやつですね」
理久は声を出さずに笑った。
その笑い方は、いつもの王子の笑顔とは少し違って見えた。
* * *
店を出る頃には、飲み会はほとんど解散になっていた。
会計が終わり、それぞれが駅の方へ流れていく。
美月もバッグを持ち、タクシーを拾おうと入口の方へ向かった。
今日はもう帰ろう。
これ以上、理久のペースに巻き込まれるのは危険だ。
そう思って店を出た瞬間、入口付近でまた騒がしい声が聞こえた。
「藤崎先生、二次会行きましょうよ」
「さっき全然話せなかったです」
「少しだけでいいから」
理久が、数人の女性に囲まれていた。
本当に女ホイホイ。
もはや気の毒になるレベルだった。
理久は笑って断ろうとしている。
でも、相手は酔っていて、簡単には引かない。
美月は見なかったことにしようとした。
今日二回目。
しかし、その時、視界の端で桐谷が動いた。
桐谷は、近くにいた若い外科レジデントに何か言い、軽く肩を押す。
そのレジデントが、女性たちの方へ入っていった。
「すみません、藤崎先生、教授から連絡が入ってます」
明らかに嘘だった。
けれど、酔った場ではそれで十分だった。
女性たちの注意が少し逸れる。
その瞬間、桐谷が美月の方へ歩いてきた。
「綾瀬、タクシー?」
「はい」
「じゃあ、これ」
そう言って、桐谷は手にしていた男性物の上着を美月の腕に押し込んだ。
「え?」
「届け物」
「誰にですか」
「本人に」
意味が分からない。
そう思った次の瞬間、店の前にタクシーが止まった。
桐谷が、美月の肩を軽く押す。
「乗って」
「え、あの」
「屈んで」
「はい?」
言われるまま、反射的に少し身をかがめた。
その隙に、背後から誰かがタクシーに乗り込んできた。
ドアが閉まる。
美月は顔を上げた。
隣に、藤崎理久がいた。
「……」
「……」
しばらく沈黙が落ちた。
美月は膝の上を見る。
理久の上着。
隣を見る。
理久本人。
「……この上着」
「俺の」
「返します」
美月が差し出すと、理久は今度は素直に受け取った。
「ありがとう」
「どういうことですか」
理久は少し視線を逸らした。
「救出してもらった」
「誰をですか」
「俺を」
「誰に」
「桐谷に」
美月は、ようやく全体像を理解し始めた。
あの内科医。
レジデントを差し向けた。
上着を押し込んだ。
美月を屈ませた。
その隙に理久が乗り込んだ。
完璧すぎる連携。
「……なんて頼んだら、こうなるんですか」
「普通に、逃げたいって言った」
「それで私のタクシーに?」
「一番安全そうだったから」
「私は避難所ではありません」
理久が少し笑う。
「うん。ごめん」
その声が、少しだけ素直だった。
タクシーは走り出していた。
美月が行き先を告げると、理久はその前に自分のマンションへ寄るよう運転手に伝えた。
つまり、先に理久を降ろし、そのあと美月を送るつもりらしい。
「それも、頼んでいません」
「うん」
「分かってます?」
「分かってる」
「分かっている人の行動ではありません」
理久は少しだけ笑った。
「今日は助けてもらったから」
「助けた覚えはありません」
「でも、助かった」
そう言われると、返す言葉に困った。
タクシーが、理久のマンション前に停まった。
理久は降りる前に、運転手へ一万円札を差し出した。
「このまま彼女を送ってください。お釣りは彼女に」
美月は慌てた。
「待ってください。私が払います」
「もう渡した」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、次返して」
美月は固まった。
まただ。
また、次の理由を作られた。
「……図りましたね」
理久はドアに手をかけたまま、少しだけ悪い顔で笑った。
「気づいた?」
「今のはさすがに分かります」
「じゃあ、また」
そう言って、理久は降りていく。
ドアが閉まる。
タクシーは再び走り出した。
しばらくして、自宅前に着いた。
運転手が振り返る。
「お釣りです」
美月は差し出されたお釣りを受け取った。
封筒に入っているわけでもない、ただの紙幣と硬貨。
けれど、それが妙に重く感じた。
タクシー代のお釣り。
返さなければならない。
つまり、また会う理由ができてしまった。
美月は小さく息を吐いた。
本当に、なんつー男。
でも、さっき「助けてほしかった」と言った声だけは。
少しだけ、忘れにくかった。
病棟ごとに、医局ごとに、あちこちで小さな集まりが入る。
10A病棟も例外ではない。
日頃お世話になっている医師たちにも声をかけ、こぢんまりとした飲み会を開いていた。
とはいえ、夜の居酒屋はどこも騒がしい。
同じ店の別フロアや隣の個室には、他の病棟らしき団体もいる。
廊下では、酔った声や笑い声が行き交っていた。
美月は、少し席を外してトイレへ向かった。
戻る途中、廊下の少し奥で、二人の男女が立っているのが見えた。
女性の方は、明らかに酔っていた。
声が大きく、距離も近い。
男の方は壁際に立ったまま、少し体を引いている。
笑ってはいる。
けれど、拒まないわけではない。
むしろ、相手の腕をやんわり外すような動きをしていた。
美月は内心でため息をついた。
他所でやってよね……。
そう思いながら、目線をそらして通り過ぎようとした。
その瞬間、男の横顔が見えた。
藤崎理久だった。
美月は、足を止めそうになった。
……うわ。
藤崎先生。
相変わらず、モテモテのようだ。
というより、これはもう。
引き寄せている。
本人が何かをしているわけではないのに、女性の方から勝手に寄っていく。
女ホイホイ。
ひどい表現だと思う。
でも、他に言いようがなかった。
「藤崎先生って、ほんと優しいですよねぇ」
酔った女性が、少し甘えた声で言う。
理久は困ったように笑った。
「ありがとうございます。でも、そろそろ戻った方がいいですよ」
「えー、もうちょっとだけ」
「皆さん待ってますから」
「先生も一緒に来てくださいよ」
理久は、角が立たないように距離を取っている。
いつもの王子の顔。
相手を傷つけず、場も壊さず、でも受け入れすぎない。
ああいうところが、また人を勘違いさせるのでは。
美月はそう思った。
助けるべきか。
一瞬だけ考えた。
けれど、すぐにやめた。
慣れているでしょう。
あれだけ場数を踏んでいそうな人なのだから、自分でどうにかするはずだ。
それに、ここで美月が出ていけば、それはそれで面倒なことになる。
綾瀬さん、藤崎先生と何かあるの?
そんな視線が一瞬で集まる。
絶対に嫌だ。
美月は何も見なかった顔で、静かに通り過ぎた。
その瞬間。
理久と目が合った。
彼は一瞬だけ、分かりやすくこちらを見た。
助けて。
そう言った気がした。
美月は、無表情で視線を外した。
知らない。
私は知らない。
あんな人は知らない。
* * *
席に戻ると、飲み会は相変わらず盛り上がっていた。
内科のレジデントも何人か来ていて、10Aの看護師たちは楽しそうに話している。
美月も空いた席に戻り、何事もなかった顔でグラスを持った。
しばらくして、別の看護師が戻ってきた。
その子は席に着くなり、目を輝かせて声をひそめる。
「ねえ、今さ、廊下で見ちゃった」
「何を?」
「外科の藤崎先生。なんか他の病棟の人っぽい女の子に、めちゃくちゃ絡まれてた」
すぐに周囲が食いついた。
「え、藤崎先生?」
「やっぱりモテるんだ」
「絡まれてるって何?」
「酔った勢いで口説かれてたの?」
その話題は、あっという間に広がった。
美月はグラスを見つめながら、少しだけ眉を下げた。
あらあら。
こうやって、知らないところで注目の的になる方も大変なのかもしれない。
誰かが見ている。
誰かが話す。
何でもないことでも、すぐに噂になる。
美月は少しだけ、理久に同情した。
その時、隣に座っていた内科医の桐谷が、ふいに美月の方を見た。
「綾瀬、見たんじゃないの?」
美月は一瞬だけ止まった。
「さぁ?」
「はぐらかした」
「何のことですか」
桐谷は少し笑った。
10Aによく顔を出す内科医で、穏やかに見えるのに、妙に人の反応を拾うところがある。
「藤崎と同期なんだよ。大学の頃から、ああいうの多かった」
「……そうなんですか」
「本人は慣れてるけど、面倒くさがってる」
美月はグラスを置いた。
「慣れているようには見えますね」
「まあ、慣れてるよ。うまいしね」
桐谷は軽く笑う。
「でも、自分に言い寄ってくるタイプには、あんまり興味ないんだよね」
美月は、そこで初めて桐谷の顔をちゃんと見た。
「そうなんですか」
「そうそう。寄ってくる人には感じよくするけど、ちゃんと線を引く。だから余計にモテるんだと思うけど」
美月は内心で思う。
なるほど。
本人にその気がなくても、あの対応なら確かに誤解される。
桐谷は、軽い口調で続けた。
「藤崎って、余裕あるように見えるでしょ」
「見えますね」
「まあ、実際あるけど」
桐谷は少しだけ声を落とした。
「でも、興味ある相手には意外と不器用かもよ」
美月は思わず咳き込みそうになった。
「……そうなんですか」
「たぶんね。俺、あいつが本気で誰かを追ってるところ、あんまり見たことないから」
美月は、それ以上聞かないことにした。
聞いてはいけない気がした。
藤崎理久が誰に興味を持つのか。
誰を追うのか。
そんなことを考え始めたら、たぶん面倒なことになる。
美月はグラスへ視線を落とした。
考えない。
考えたら、たぶん負ける。
* * *
飲み会の終盤。
美月はレジ横の狭いスペースで、集めた会費と伝票を確認していた。
幹事役の後輩が店員とやり取りをしている横で、足りない分がないか、財布を片手にもう一度金額を数える。
店の入口付近は、帰り支度をする人たちで少し混み合っていた。
奥からは、まだ笑い声が聞こえてくる。
その時、背後から低い声がした。
「綾瀬さん」
振り向くと、理久が立っていた。
顔色は変わっていない。
立ち姿も崩れていない。
けれど、さっきより少しだけ、目元の余裕が薄い気がした。
「さっき、助けてくれなかったね」
美月は一瞬だけ言葉に詰まった。
「助ける必要、ありました?」
「絡まれてた」
「慣れてるでしょう」
「慣れてるけど」
理久は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「助けてほしかった」
その言い方が、思っていたより素直で、美月は返事に困った。
だから、少しだけ茶化した。
「相変わらず、女ホイホイですね」
理久が目を細める。
「ひどい言い方」
「事実です。女の人が次々吸い寄せられているじゃないですか」
「でも、一名、そのトラップに引っかからない子がいるんだけど」
美月は即座に返した。
「私をゴキ扱いしないでください」
理久が少し笑った。
「誰のことか言ってないけど?」
美月は止まった。
「……あ」
「自覚あるんだ」
「今のは言葉の流れです」
「ふうん」
その声が少しだけ低くて、美月は思わず視線を外した。
危ない。
この人は、こういうところが危ない。
距離は近い。
けれど、ここは店の入口近くで、すぐ後ろには会計を待つ人たちがいる。
誰かが振り返れば、すぐに見られる場所だった。
それなのに、さっき桐谷に言われた言葉が、妙に頭に残っている。
興味ある相手には、意外と不器用かもよ。
美月は財布を閉じながら、できるだけ平静に言った。
「そろそろ戻ってください」
「冷たいな」
「普通です」
「じゃあ、また助けてほしい時は呼ぶ」
「呼ばないでください」
「検討する」
「しないやつですね」
理久は声を出さずに笑った。
その笑い方は、いつもの王子の笑顔とは少し違って見えた。
* * *
店を出る頃には、飲み会はほとんど解散になっていた。
会計が終わり、それぞれが駅の方へ流れていく。
美月もバッグを持ち、タクシーを拾おうと入口の方へ向かった。
今日はもう帰ろう。
これ以上、理久のペースに巻き込まれるのは危険だ。
そう思って店を出た瞬間、入口付近でまた騒がしい声が聞こえた。
「藤崎先生、二次会行きましょうよ」
「さっき全然話せなかったです」
「少しだけでいいから」
理久が、数人の女性に囲まれていた。
本当に女ホイホイ。
もはや気の毒になるレベルだった。
理久は笑って断ろうとしている。
でも、相手は酔っていて、簡単には引かない。
美月は見なかったことにしようとした。
今日二回目。
しかし、その時、視界の端で桐谷が動いた。
桐谷は、近くにいた若い外科レジデントに何か言い、軽く肩を押す。
そのレジデントが、女性たちの方へ入っていった。
「すみません、藤崎先生、教授から連絡が入ってます」
明らかに嘘だった。
けれど、酔った場ではそれで十分だった。
女性たちの注意が少し逸れる。
その瞬間、桐谷が美月の方へ歩いてきた。
「綾瀬、タクシー?」
「はい」
「じゃあ、これ」
そう言って、桐谷は手にしていた男性物の上着を美月の腕に押し込んだ。
「え?」
「届け物」
「誰にですか」
「本人に」
意味が分からない。
そう思った次の瞬間、店の前にタクシーが止まった。
桐谷が、美月の肩を軽く押す。
「乗って」
「え、あの」
「屈んで」
「はい?」
言われるまま、反射的に少し身をかがめた。
その隙に、背後から誰かがタクシーに乗り込んできた。
ドアが閉まる。
美月は顔を上げた。
隣に、藤崎理久がいた。
「……」
「……」
しばらく沈黙が落ちた。
美月は膝の上を見る。
理久の上着。
隣を見る。
理久本人。
「……この上着」
「俺の」
「返します」
美月が差し出すと、理久は今度は素直に受け取った。
「ありがとう」
「どういうことですか」
理久は少し視線を逸らした。
「救出してもらった」
「誰をですか」
「俺を」
「誰に」
「桐谷に」
美月は、ようやく全体像を理解し始めた。
あの内科医。
レジデントを差し向けた。
上着を押し込んだ。
美月を屈ませた。
その隙に理久が乗り込んだ。
完璧すぎる連携。
「……なんて頼んだら、こうなるんですか」
「普通に、逃げたいって言った」
「それで私のタクシーに?」
「一番安全そうだったから」
「私は避難所ではありません」
理久が少し笑う。
「うん。ごめん」
その声が、少しだけ素直だった。
タクシーは走り出していた。
美月が行き先を告げると、理久はその前に自分のマンションへ寄るよう運転手に伝えた。
つまり、先に理久を降ろし、そのあと美月を送るつもりらしい。
「それも、頼んでいません」
「うん」
「分かってます?」
「分かってる」
「分かっている人の行動ではありません」
理久は少しだけ笑った。
「今日は助けてもらったから」
「助けた覚えはありません」
「でも、助かった」
そう言われると、返す言葉に困った。
タクシーが、理久のマンション前に停まった。
理久は降りる前に、運転手へ一万円札を差し出した。
「このまま彼女を送ってください。お釣りは彼女に」
美月は慌てた。
「待ってください。私が払います」
「もう渡した」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、次返して」
美月は固まった。
まただ。
また、次の理由を作られた。
「……図りましたね」
理久はドアに手をかけたまま、少しだけ悪い顔で笑った。
「気づいた?」
「今のはさすがに分かります」
「じゃあ、また」
そう言って、理久は降りていく。
ドアが閉まる。
タクシーは再び走り出した。
しばらくして、自宅前に着いた。
運転手が振り返る。
「お釣りです」
美月は差し出されたお釣りを受け取った。
封筒に入っているわけでもない、ただの紙幣と硬貨。
けれど、それが妙に重く感じた。
タクシー代のお釣り。
返さなければならない。
つまり、また会う理由ができてしまった。
美月は小さく息を吐いた。
本当に、なんつー男。
でも、さっき「助けてほしかった」と言った声だけは。
少しだけ、忘れにくかった。
