仕事帰り。
美月は、理久の最寄駅で待っていた。
駅とマンションは、ほぼ直結している。
前に来た時も思ったけれど、やはり圧倒される。
改札の向こうには、仕事帰りの人たちが流れていた。
スーツ姿の会社員。
買い物袋を持った女性。
イヤホンをした学生。
そして、その中に、藤崎理久がいた。
白衣ではない。
仕事帰りの私服。
落ち着いた色のコートに、シャツ。
疲れているはずなのに、相変わらず隙がない。
「待った?」
「いえ」
「じゃあ、行こうか」
美月はすぐに言った。
「ピアスだけ受け取りに来たんですが」
「うん。人質だから」
「本当に人聞きが悪いです」
「先に言ったの、綾瀬さんだけど」
美月は言い返そうとして、やめた。
このやり取りにも、少し慣れてきている。
それが嫌だった。
かなり嫌だった。
マンションに着き、エレベーターで上がる。
二度目なのに、やはり落ち着かない。
静かな廊下。
広い玄関。
雨の日に見た、夜景のある部屋。
玄関に入ると、理久はいつものように距離を取った。
「どうぞ」
「お邪魔します」
美月は靴をそろえながら、心の中で確認する。
今日はピアスを受け取るだけ。
本当に、それだけ。
長居しない。
流されない。
余計な話をしない。
リビングへ通されると、理久は洗面台の方へ行き、小さなケースを持って戻ってきた。
「はい」
美月はそれを受け取る。
小さなケースの中に、ピアスは片方ずつ丁寧に入っていた。
柔らかい布の上に置かれ、傷がつかないようにされている。
思った以上に、きちんと保管されていた。
美月は少しだけ拍子抜けした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「では、失礼します」
「早いな」
「目的は達成しましたので」
理久は少し笑った。
そして、リビングの奥を指す。
そこには、チェス盤が置かれていた。
美月は眉をひそめる。
「……何ですか、あれ」
「チェス」
「見れば分かります」
「一局だけ」
「なぜですか」
「俺が勝ったら、夕飯も付き合ってよ」
美月は、じっと理久を見た。
「勝負形式にする意味があります?」
「綾瀬さんが納得しやすいかなと思って」
「勝てる前提ですね」
「ハンデつけるよ」
「それでも自信があると」
「うん」
腹立つ。
本当に、腹立つ。
でも。
少し面白い。
美月はチェス盤を見た。
白と黒の駒が、きれいに並んでいる。
理久の部屋に置かれていると、それすら妙に似合ってしまうのが、また腹立たしい。
「……一局だけです」
「うん。一局だけ」
「負けたら、本当にピアスだけ受け取って帰ります」
「いいよ」
その即答が、逆に信用できない。
美月はソファの前に座った。
理久は向かいに座り、駒を整える。
「白でいい?」
「どちらでも」
「じゃあ、綾瀬さんが白」
「ハンデですか」
「うん」
「それでも勝てると思っているんですね」
理久は少し笑った。
「言ったでしょ」
腹立つ。
この人は本当に腹立つ。
けれど、美月は駒を一つ前に出した。
最初の一手。
白いポーンが、盤上を進む。
理久は、少しだけ楽しそうにそれを見た。
* * *
理久は約束通り、ハンデをつけた。
確かに有利な条件だった。
最初の数手、美月は慎重に駒を動かした。
チェスに詳しいわけではない。
けれど、ルールは分かる。
深く考えれば、少しは戦えるはずだと思っていた。
けれど、理久はその余裕を簡単に崩してきた。
攻めているようで、逃げ道を残す。
こちらが安全だと思った場所に、次の手で罠が現れる。
一つの駒を守ったつもりが、別の駒を失う。
気づいた時には、盤面の端へ追い込まれていた。
「……待ってください」
「待つ?」
「今の、いつから仕掛けてました?」
「最初から」
美月は盤面を見つめた。
「性格が出ますね」
理久が笑う。
「俺の?」
「はい。逃げ道を残しているように見せて、全部塞ぐところが」
「褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」
理久は楽しそうだった。
美月は、次の手を考える。
右に逃げる。
駄目。
左に逃げる。
そこも塞がれている。
守りに入れば、次の一手で取られる。
美月は駒を持ったまま、しばらく固まった。
「……これは」
「うん」
「かなり性格が悪いです」
「まだ負けてないよ」
「負ける形が見えています」
「よく見えてるね」
「褒められても嬉しくありません」
「褒めてる」
「だから嬉しくありません」
理久が声を出さずに笑った。
結局、ハンデがあったにもかかわらず、美月はあっさり負けた。
信じられないくらい自然に。
気づいた時には、逃げ場がなかった。
理久が穏やかに言う。
「チェックメイト」
美月はしばらく盤面を見つめた。
白いキングは、もうどこにも動けない。
「……これは、かなり性格が悪いです」
「チェスの話?」
「全般です」
「ひどいな」
「事実です」
理久は楽しそうだった。
美月はため息をつき、ピアスのケースをバッグにしまった。
「分かりました。夕飯ですね」
「うん」
「ただし、普通のお店でお願いします」
「前にも聞いた気がする」
「前回、まったく守られなかったので」
「今回は普通寄り」
「寄り?」
「綾瀬さん基準だと分からないけど」
「信用できません」
「じゃあ、信用しないで」
またそれ。
美月は思った。
信用しないで、と言う人ほど、変なところで信用させてくる。
それが一番厄介なのだ。
* * *
タクシーに乗る。
美月は窓の外を見ながら、心の中で思った。
なんでこうなる。
ピアスを取りに来ただけ。
それだけだったはず。
なのに、チェスで負けて、夕飯。
完全に理久のペースだった。
「不満そう」
隣で理久が言う。
美月は窓の外を見たまま答えた。
「不満です」
理久は少しだけ笑った。
「分かりやすい」
「分かりやすくしているんです」
「親切だね」
「警告です」
腹立つ。
けれど、この流れももう何度目か分からない。
店に着くと、静かで雰囲気のあるレストランだった。
前回よりは落ち着いている。
けれど、普通かと言われると、やはり普通ではない。
スタッフがすぐに出迎える。
「藤崎様、お待ちしておりました」
美月は足を止めた。
え。
予約?
個室に案内される。
美月は席に着く前に、理久を見た。
「……最初から予約していました?」
理久は悪びれない。
「うん」
「勝負、負ける気なかったんですね」
「負けても来てもらうつもりだったよ」
「それ、勝負の意味がありません」
「あるよ。綾瀬さんが“仕方ない”って言いやすい」
うわ。
まただ。
逃げ道を作っているようで、最初から連れてくる気だった。
美月は呆れたように息を吐いた。
「本当に、なかなかのやり手ですね」
「まだ“なかなか”?」
「かなり、です」
理久は少し嬉しそうに笑った。
「それ、けっこう気に入ってる」
「褒めていません」
「知ってる」
本当に、なんつー男。
* * *
食事が始まる。
前回より少し落ち着いた店だった。
個室だから、周囲の目はない。
けれど、その分、理久との距離が近い。
美月は料理に手を伸ばしながら、ふと、ずっと思っていたことを口にした。
「藤崎先生」
「ん?」
「一緒にディナーに行きたがる方なんて、山ほどいるのでは」
理久の手が、一瞬だけ止まった。
美月は続ける。
「よく誘われている姿も見ていますし。そういう方と行かれたらいいかと」
声は淡々としていた。
嫉妬ではない。
責めているわけでもない。
ただ、本当に不思議なのだ。
なぜ、自分なのか。
理久は少しだけ黙った。
そして、いつもの軽い笑顔ではなく、少し真面目な顔で言った。
「そういう人たちとは、行かない」
「なぜですか」
「行ったら、期待させるから」
美月は言葉に詰まった。
理久は続ける。
「誘われるのと、行きたいのは違うでしょ」
美月は視線を逸らした。
「……慣れていそうなので」
「慣れてるよ。誘われるのは」
その返しに、美月は少しむっとした。
でも理久は、すぐに続けた。
「でも、行きたいと思う人は、そんなにいない」
空気が変わる。
美月は、ナプキンの端を指で押さえた。
「そういう言い方、ずるいです」
「うん」
「否定しないんですね」
「今のは、否定したくない」
いつもの軽口ではない。
でも、重すぎもしない。
逃げ道はある。
けれど、ちゃんと本音が混ざっていた。
美月は困った。
かなり困った。
「私は、誘いやすそうには見えないと思いますけど」
理久が少し笑う。
「見えないね」
「では、なぜ」
「誘いにくいから」
美月は顔を上げた。
「……意味が分かりません」
「誘いにくい人を、誘いたくなった」
「面倒な性格ですね」
「よく言われる」
「でしょうね」
理久は水のグラスを置き、少しだけ身を引いた。
近づきすぎない距離。
「綾瀬さんは、俺を“藤崎先生すごい”って見ないでしょ」
「見ません」
「知ってる」
「むしろ警戒対象です」
「それも知ってる」
「では、なぜ」
理久は少しだけ笑った。
「その方が楽だから」
美月は黙った。
理久は、ゆっくり続ける。
「俺が何をしても、簡単に喜ばない。でも、ちゃんと見てる。嫌なら嫌って顔をするし、怪しいと思ったら怪しいって顔をする」
「……顔に出ていますか」
「かなり」
「最悪です」
「俺は好きだけど」
美月は固まった。
理久はすぐに、いつもの調子に戻す。
「顔がね」
「今、絶対わざとですよね」
「うん」
「最低です」
理久は楽しそうに笑う。
美月の耳は少し熱かった。
理久は、穏やかに続けた。
「山ほどいる人たちと行けばいい、って言ったけど」
「はい」
「綾瀬さんは、その“山ほど”に入っていないから誘ってる」
美月は返せない。
「それ、どういう意味ですか」
「俺を見てる場所が違うってこと」
美月は黙った。
理久は笑う。
「だから、チェスで勝ってでも連れてきた」
「それは脅迫に近いです」
「勝負に負けたのは綾瀬さん」
「ハンデがあったのに」
「うん。かわいかった」
「かわいくありません」
美月は即座に返した。
けれど、理久は少しも悪びれない。
「そういうところも含めて」
「……本当に、性格が悪いですね」
「それは何度か聞いた」
美月は、もう何度目か分からないため息をついた。
この人は、強引に奪うわけではない。
けれど、こちらが反論できない形で、次へ進ませる。
そして、その途中で少しだけ本音を落としてくる。
それが一番厄介だった。
食事の終盤、美月は水を飲みながら言った。
「結局、またご馳走になっています」
「そうだね」
「お礼の意味がありません」
「今日は俺が誘ったから」
「それも最初から予約していたんですよね」
「うん」
「やっぱり策士です」
「悪役寄り?」
「かなり」
理久は嬉しそうに笑った。
「それ、けっこう気に入ってる」
「褒めていません」
「知ってる」
帰り道。
店を出ると、夜風が少し涼しかった。
タクシーを待つ間、美月はピアスの入ったケースをバッグの中で確認した。
ピアスは返ってきた。
目的は達成した。
それなのに、借りは減っていない。
むしろ、増えた気がする。
美月は小さく呟いた。
「……お礼、全然できていない」
隣で理久が、少しだけ楽しそうに言う。
「じゃあ、また会えるね」
美月は思った。
うわ。
そこに繋げるためだったのか。
完全に、理久のペース。
藤崎理久、やっぱりかなりのやり手だ。
タクシーが来る。
理久は自然に扉を開け、美月を先に乗せる。
その動きすら、あまりにも自然で腹立たしい。
美月は席に座りながら言った。
「次は、私が店を選びます」
理久は少しだけ目を細めた。
「うん。楽しみにしてる」
「普通のお店です」
「分かってる」
美月は疑わしげに理久を見た。
「その顔は、分かっていない顔です」
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
理久は笑った。
美月は窓の外へ視線を向けた。
ピアスは戻った。
でも、次の約束ができてしまった。
そしてもっと困ったことに。
なぜ自分なのか。
その答えを、少しだけ聞いてしまった。
美月は、夜の街を見ながら思った。
もう、ただのモテ医者とは言えない。
この人は、かなり面倒で、かなりずるい。
そしてたぶん。
少しだけ、本気だ。
美月は、理久の最寄駅で待っていた。
駅とマンションは、ほぼ直結している。
前に来た時も思ったけれど、やはり圧倒される。
改札の向こうには、仕事帰りの人たちが流れていた。
スーツ姿の会社員。
買い物袋を持った女性。
イヤホンをした学生。
そして、その中に、藤崎理久がいた。
白衣ではない。
仕事帰りの私服。
落ち着いた色のコートに、シャツ。
疲れているはずなのに、相変わらず隙がない。
「待った?」
「いえ」
「じゃあ、行こうか」
美月はすぐに言った。
「ピアスだけ受け取りに来たんですが」
「うん。人質だから」
「本当に人聞きが悪いです」
「先に言ったの、綾瀬さんだけど」
美月は言い返そうとして、やめた。
このやり取りにも、少し慣れてきている。
それが嫌だった。
かなり嫌だった。
マンションに着き、エレベーターで上がる。
二度目なのに、やはり落ち着かない。
静かな廊下。
広い玄関。
雨の日に見た、夜景のある部屋。
玄関に入ると、理久はいつものように距離を取った。
「どうぞ」
「お邪魔します」
美月は靴をそろえながら、心の中で確認する。
今日はピアスを受け取るだけ。
本当に、それだけ。
長居しない。
流されない。
余計な話をしない。
リビングへ通されると、理久は洗面台の方へ行き、小さなケースを持って戻ってきた。
「はい」
美月はそれを受け取る。
小さなケースの中に、ピアスは片方ずつ丁寧に入っていた。
柔らかい布の上に置かれ、傷がつかないようにされている。
思った以上に、きちんと保管されていた。
美月は少しだけ拍子抜けした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「では、失礼します」
「早いな」
「目的は達成しましたので」
理久は少し笑った。
そして、リビングの奥を指す。
そこには、チェス盤が置かれていた。
美月は眉をひそめる。
「……何ですか、あれ」
「チェス」
「見れば分かります」
「一局だけ」
「なぜですか」
「俺が勝ったら、夕飯も付き合ってよ」
美月は、じっと理久を見た。
「勝負形式にする意味があります?」
「綾瀬さんが納得しやすいかなと思って」
「勝てる前提ですね」
「ハンデつけるよ」
「それでも自信があると」
「うん」
腹立つ。
本当に、腹立つ。
でも。
少し面白い。
美月はチェス盤を見た。
白と黒の駒が、きれいに並んでいる。
理久の部屋に置かれていると、それすら妙に似合ってしまうのが、また腹立たしい。
「……一局だけです」
「うん。一局だけ」
「負けたら、本当にピアスだけ受け取って帰ります」
「いいよ」
その即答が、逆に信用できない。
美月はソファの前に座った。
理久は向かいに座り、駒を整える。
「白でいい?」
「どちらでも」
「じゃあ、綾瀬さんが白」
「ハンデですか」
「うん」
「それでも勝てると思っているんですね」
理久は少し笑った。
「言ったでしょ」
腹立つ。
この人は本当に腹立つ。
けれど、美月は駒を一つ前に出した。
最初の一手。
白いポーンが、盤上を進む。
理久は、少しだけ楽しそうにそれを見た。
* * *
理久は約束通り、ハンデをつけた。
確かに有利な条件だった。
最初の数手、美月は慎重に駒を動かした。
チェスに詳しいわけではない。
けれど、ルールは分かる。
深く考えれば、少しは戦えるはずだと思っていた。
けれど、理久はその余裕を簡単に崩してきた。
攻めているようで、逃げ道を残す。
こちらが安全だと思った場所に、次の手で罠が現れる。
一つの駒を守ったつもりが、別の駒を失う。
気づいた時には、盤面の端へ追い込まれていた。
「……待ってください」
「待つ?」
「今の、いつから仕掛けてました?」
「最初から」
美月は盤面を見つめた。
「性格が出ますね」
理久が笑う。
「俺の?」
「はい。逃げ道を残しているように見せて、全部塞ぐところが」
「褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」
理久は楽しそうだった。
美月は、次の手を考える。
右に逃げる。
駄目。
左に逃げる。
そこも塞がれている。
守りに入れば、次の一手で取られる。
美月は駒を持ったまま、しばらく固まった。
「……これは」
「うん」
「かなり性格が悪いです」
「まだ負けてないよ」
「負ける形が見えています」
「よく見えてるね」
「褒められても嬉しくありません」
「褒めてる」
「だから嬉しくありません」
理久が声を出さずに笑った。
結局、ハンデがあったにもかかわらず、美月はあっさり負けた。
信じられないくらい自然に。
気づいた時には、逃げ場がなかった。
理久が穏やかに言う。
「チェックメイト」
美月はしばらく盤面を見つめた。
白いキングは、もうどこにも動けない。
「……これは、かなり性格が悪いです」
「チェスの話?」
「全般です」
「ひどいな」
「事実です」
理久は楽しそうだった。
美月はため息をつき、ピアスのケースをバッグにしまった。
「分かりました。夕飯ですね」
「うん」
「ただし、普通のお店でお願いします」
「前にも聞いた気がする」
「前回、まったく守られなかったので」
「今回は普通寄り」
「寄り?」
「綾瀬さん基準だと分からないけど」
「信用できません」
「じゃあ、信用しないで」
またそれ。
美月は思った。
信用しないで、と言う人ほど、変なところで信用させてくる。
それが一番厄介なのだ。
* * *
タクシーに乗る。
美月は窓の外を見ながら、心の中で思った。
なんでこうなる。
ピアスを取りに来ただけ。
それだけだったはず。
なのに、チェスで負けて、夕飯。
完全に理久のペースだった。
「不満そう」
隣で理久が言う。
美月は窓の外を見たまま答えた。
「不満です」
理久は少しだけ笑った。
「分かりやすい」
「分かりやすくしているんです」
「親切だね」
「警告です」
腹立つ。
けれど、この流れももう何度目か分からない。
店に着くと、静かで雰囲気のあるレストランだった。
前回よりは落ち着いている。
けれど、普通かと言われると、やはり普通ではない。
スタッフがすぐに出迎える。
「藤崎様、お待ちしておりました」
美月は足を止めた。
え。
予約?
個室に案内される。
美月は席に着く前に、理久を見た。
「……最初から予約していました?」
理久は悪びれない。
「うん」
「勝負、負ける気なかったんですね」
「負けても来てもらうつもりだったよ」
「それ、勝負の意味がありません」
「あるよ。綾瀬さんが“仕方ない”って言いやすい」
うわ。
まただ。
逃げ道を作っているようで、最初から連れてくる気だった。
美月は呆れたように息を吐いた。
「本当に、なかなかのやり手ですね」
「まだ“なかなか”?」
「かなり、です」
理久は少し嬉しそうに笑った。
「それ、けっこう気に入ってる」
「褒めていません」
「知ってる」
本当に、なんつー男。
* * *
食事が始まる。
前回より少し落ち着いた店だった。
個室だから、周囲の目はない。
けれど、その分、理久との距離が近い。
美月は料理に手を伸ばしながら、ふと、ずっと思っていたことを口にした。
「藤崎先生」
「ん?」
「一緒にディナーに行きたがる方なんて、山ほどいるのでは」
理久の手が、一瞬だけ止まった。
美月は続ける。
「よく誘われている姿も見ていますし。そういう方と行かれたらいいかと」
声は淡々としていた。
嫉妬ではない。
責めているわけでもない。
ただ、本当に不思議なのだ。
なぜ、自分なのか。
理久は少しだけ黙った。
そして、いつもの軽い笑顔ではなく、少し真面目な顔で言った。
「そういう人たちとは、行かない」
「なぜですか」
「行ったら、期待させるから」
美月は言葉に詰まった。
理久は続ける。
「誘われるのと、行きたいのは違うでしょ」
美月は視線を逸らした。
「……慣れていそうなので」
「慣れてるよ。誘われるのは」
その返しに、美月は少しむっとした。
でも理久は、すぐに続けた。
「でも、行きたいと思う人は、そんなにいない」
空気が変わる。
美月は、ナプキンの端を指で押さえた。
「そういう言い方、ずるいです」
「うん」
「否定しないんですね」
「今のは、否定したくない」
いつもの軽口ではない。
でも、重すぎもしない。
逃げ道はある。
けれど、ちゃんと本音が混ざっていた。
美月は困った。
かなり困った。
「私は、誘いやすそうには見えないと思いますけど」
理久が少し笑う。
「見えないね」
「では、なぜ」
「誘いにくいから」
美月は顔を上げた。
「……意味が分かりません」
「誘いにくい人を、誘いたくなった」
「面倒な性格ですね」
「よく言われる」
「でしょうね」
理久は水のグラスを置き、少しだけ身を引いた。
近づきすぎない距離。
「綾瀬さんは、俺を“藤崎先生すごい”って見ないでしょ」
「見ません」
「知ってる」
「むしろ警戒対象です」
「それも知ってる」
「では、なぜ」
理久は少しだけ笑った。
「その方が楽だから」
美月は黙った。
理久は、ゆっくり続ける。
「俺が何をしても、簡単に喜ばない。でも、ちゃんと見てる。嫌なら嫌って顔をするし、怪しいと思ったら怪しいって顔をする」
「……顔に出ていますか」
「かなり」
「最悪です」
「俺は好きだけど」
美月は固まった。
理久はすぐに、いつもの調子に戻す。
「顔がね」
「今、絶対わざとですよね」
「うん」
「最低です」
理久は楽しそうに笑う。
美月の耳は少し熱かった。
理久は、穏やかに続けた。
「山ほどいる人たちと行けばいい、って言ったけど」
「はい」
「綾瀬さんは、その“山ほど”に入っていないから誘ってる」
美月は返せない。
「それ、どういう意味ですか」
「俺を見てる場所が違うってこと」
美月は黙った。
理久は笑う。
「だから、チェスで勝ってでも連れてきた」
「それは脅迫に近いです」
「勝負に負けたのは綾瀬さん」
「ハンデがあったのに」
「うん。かわいかった」
「かわいくありません」
美月は即座に返した。
けれど、理久は少しも悪びれない。
「そういうところも含めて」
「……本当に、性格が悪いですね」
「それは何度か聞いた」
美月は、もう何度目か分からないため息をついた。
この人は、強引に奪うわけではない。
けれど、こちらが反論できない形で、次へ進ませる。
そして、その途中で少しだけ本音を落としてくる。
それが一番厄介だった。
食事の終盤、美月は水を飲みながら言った。
「結局、またご馳走になっています」
「そうだね」
「お礼の意味がありません」
「今日は俺が誘ったから」
「それも最初から予約していたんですよね」
「うん」
「やっぱり策士です」
「悪役寄り?」
「かなり」
理久は嬉しそうに笑った。
「それ、けっこう気に入ってる」
「褒めていません」
「知ってる」
帰り道。
店を出ると、夜風が少し涼しかった。
タクシーを待つ間、美月はピアスの入ったケースをバッグの中で確認した。
ピアスは返ってきた。
目的は達成した。
それなのに、借りは減っていない。
むしろ、増えた気がする。
美月は小さく呟いた。
「……お礼、全然できていない」
隣で理久が、少しだけ楽しそうに言う。
「じゃあ、また会えるね」
美月は思った。
うわ。
そこに繋げるためだったのか。
完全に、理久のペース。
藤崎理久、やっぱりかなりのやり手だ。
タクシーが来る。
理久は自然に扉を開け、美月を先に乗せる。
その動きすら、あまりにも自然で腹立たしい。
美月は席に座りながら言った。
「次は、私が店を選びます」
理久は少しだけ目を細めた。
「うん。楽しみにしてる」
「普通のお店です」
「分かってる」
美月は疑わしげに理久を見た。
「その顔は、分かっていない顔です」
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
理久は笑った。
美月は窓の外へ視線を向けた。
ピアスは戻った。
でも、次の約束ができてしまった。
そしてもっと困ったことに。
なぜ自分なのか。
その答えを、少しだけ聞いてしまった。
美月は、夜の街を見ながら思った。
もう、ただのモテ医者とは言えない。
この人は、かなり面倒で、かなりずるい。
そしてたぶん。
少しだけ、本気だ。
