君と最後のメロディを

入院生活が始まって、一か月。

病室には、小さな電子ピアノと五線譜が置かれていた。

毎日学校が終わると、翠は真っ先に病院へ向かう。

「ただいま。」

「病院なのに?」

碧唯が笑う。

「碧唯がいる場所は、俺にとって帰る場所だから。」

「……もう。」

「そういうこと、さらっと言う。」

翠は照れ笑いを浮かべながら、椅子に座った。

「今日は新しいノート持ってきた。」

「ありがとう。」

「それと。」

カバンから一通の封筒を取り出す。

「レコード会社から返事。」

碧唯は少し緊張しながら封を開ける。

そこには――

『体調を最優先にしてください。私たちはいつでもお待ちしています。完成した作品を聴ける日を楽しみにしています。』

碧唯は目を潤ませた。

「……待ってくれるんだ。」

「うん。」

翠は優しく笑う。

「だから焦る必要ない。」

「夢は逃げない。」



その日の夕方。

「翠。」

「なに?」

「お願いがある。」

碧唯は窓の外を見つめたまま、小さく言った。

「私を……音楽室に連れて行って。」

翠は驚く。

「学校の?」

「うん。」

「あのピアノに会いたい。」

「みんなが帰った後でいい。」

「少しだけ。」

翠は迷った。

体への負担が心配だった。

でも碧唯の真剣な表情を見て、小さくうなずく。

「先生に相談してみよう。」

「本当?」

「無理はさせない。」

「約束。」

碧唯は久しぶりに、心から笑った。

「ありがとう。」



数日後。

病院の許可と学校の協力を得て、短時間だけ学校へ行けることになった。

放課後。

車椅子に乗った碧唯が、久しぶりに音楽室へ入る。

夕日に照らされたピアノは、あの日と何も変わっていなかった。

「……ただいま。」

碧唯はそっとつぶやく。

翠は車椅子をピアノの前まで押した。

「弾いてみる?」

碧唯は右手を鍵盤へ伸ばす。

少し震える指。

ゆっくり、一音だけ鍵盤を押す。

――ポーン。

音楽室に、澄んだ音が響いた。

たった一音。

それだけなのに。

碧唯の目から涙があふれた。

「まだ……。」

「音が鳴った。」

「私……。」

「まだ音楽できる。」

翠はしゃがみ込み、優しく笑った。

「当たり前。」

「碧唯から音楽はなくならない。」

「たとえ弾ける音が一つになっても。」

「その一音で、誰かを救える。」

碧唯は何度もうなずいた。

その時、夕焼けの音楽室に、一つの優しいメロディが響き始める。

翠が電子キーボードで伴奏を奏でる。

碧唯は静かに歌い始めた。

まだ完成していない新しい曲。

それでも、その歌声はまっすぐで、温かかった。

誰にも奪えないものがある。

それは、夢。

そして、人を想う心。

二人の音楽は、まだ終わらない。

むしろ――

ここから、また新しい物語が始まろうとしていた。