君と最後のメロディを

退院してから一週間。

碧唯は医師に言われた通り、学校へ通う日数を減らしていた。

それでも、音楽だけは諦められなかった。

放課後。

誰もいない音楽室。

「もう少しで完成なのに……。」

『君と過ごす時間』の最後のフレーズ。

あと数小節。

それだけで完成する。

碧唯は深呼吸をして、ピアノの鍵盤に手を置いた。

「……よし。」

一音目を弾く。

優しい音が響く。

二音目。

三音目。

その時だった。

「……え?」

右手の指が、止まった。

動かそうとしても、思うように動かない。

「うそ……。」

もう一度力を入れる。

それでも、小指が震えるだけだった。

「なんで……。」

今度は左手も重い。

思った場所に指が届かない。

鍵盤を押したはずなのに、音が外れる。

「違う……。」

「こんなの私じゃない……。」

焦れば焦るほど、指は言うことを聞かなくなっていく。

鉛のように重い。

ペンを持とうとしても、うまく握れない。

「いや……。」

楽譜に、一滴の涙が落ちた。

「お願い……。」

「動いてよ……。」

何度も、何度も指を動かそうとする。

でも、思い通りにはならなかった。

その時――。

ガラッ。

「碧唯。」

翠だった。

「迎えに来……。」

言葉が止まる。

ピアノの前で泣いている碧唯。

鍵盤の上で震える手。

翠は何も聞かずに駆け寄った。

「どうした?」

碧唯はゆっくりと右手を見つめる。

「……動かない。」

かすれた声だった。

「思うように……動かないの。」

翠はその手をそっと包む。

冷たく震えていた。

「さっきまで弾けてたのに……。」

「急に……。」

「音が出せなくなった。」

碧唯は声を殺して泣いた。

「私……。」

「もう曲、作れないのかな……。」

その言葉に、翠の胸が締めつけられる。

「そんなことない。」

「でも!」

碧唯は涙を流しながら首を振る。

「指が動かない作曲家なんて……。」

「夢なんて叶えられないよ……。」

翠は何も言わず、碧唯を優しく抱きしめた。

「碧唯。」

震える声で名前を呼ぶ。

「今日動かなかったからって、明日も絶対動かないって決まったわけじゃない。」

「治療もある。」

「リハビリもある。」

「だから、一人で終わりって決めるな。」

碧唯は翠の制服をぎゅっとつかむ。

「……怖い。」

「うん。」

「音楽を失うのが怖い。」

翠は涙をこらえながら微笑んだ。

「だったら。」

「動く日は一緒に弾こう。」

「動かない日は、一緒に待とう。」

「碧唯が音楽を諦めない限り、俺も諦めない。」

碧唯は泣きながら何度もうなずいた。

けれど、机の上には最後まで書けなかった楽譜が残されていた。

あと少しで完成するはずだった『君と過ごす時間』。

その最後の一ページだけが、白いままだった。