奇跡を起こすソーダ水

 2026年12月13日、20時過ぎ。東京ドームではクリスタルミューズのコンサートが終演し、観客たちはウキウキの表情で会場の外へ出ていた。一方、関係者出入口からは、クリスタルミューズとして夢を守った氷川凪と、再び夢を取り戻した氷川千尋が手をつなぎながら現れた。
「ママ!凪ちゃん!思ったより早かったじゃない?大丈夫なの?」
 そこには幸人が待っていた。凪も私服に着替えている。
「お兄ちゃん!何か皆が今日はママとゆっくりしなって言ってくれてさ、先に出てきちゃった!」
「本当に、凪たちは優しいわね……」
「当たり前よ。だって凪ちゃんを支えてくれている方々だもん」
「そんなに褒めないでよ?私じゃなくて、皆が優しいだけだから……」
 凪にはどこか後ろめたさがあった。ブラッディソーダ殺人事件の犯人であること、メンバーの知らないところで裏社会の人間と戦ってきたこと。手を汚している時点で、私は悪魔……先ほどまで見せた彼女の顔は、紛れもなくアイドルとしての氷川凪の顔。それだけは事実だ。彼女はハンカチで鼻を押さえ、鼻をすすると——
「じゃあ……私もママもお疲れだけど、今日は思う存分楽しんじゃおっか!?」
「ええ……?お疲れなのは僕もなのになあ……」
「忘れていたわ!じゃあ今日は、親子水入らずじゃない?」
「でも今から楽しむって……どこかあるの?」
「やっぱりお腹空いたらあそこよ」
 千尋はまだ回復しきってはいないものの、人並み程度の食事は摂れるだろう。
「お兄ちゃん……あそこと言えば?じゃあここは、せーのっ……」
「吉野家!」

 3人が最初に向かった目的地は、近くの吉野家だった。千尋はタブレットを使った注文方法に驚いている。
「ママは何食べたい?今は色んな丼にトッピングがあるわよ」
「えっ……今注文って、これでやるの……?」
 千尋はホームレスになってから飲食店で食事をしたことがなかった。結局タブレットでは食べたいものをうまく探せず、卓上のメニュー表を確認する。そして——
「このおろしの牛丼……並盛でいっかな……」
「了解!」
 千尋は鬼おろしポン酢牛丼並盛、凪は牛焼肉丼並盛と豚汁、そして幸人は——
「すごい量……ね?」
 肉だく牛丼超特盛に豚汁。
「やっぱり牛丼には紅生姜!いただきます!」
「い……いただきます……!」
「いただきます!」
 ガツガツガツ……
「え……食べやすくて美味しい……吉野家なんてもう何年ぶりかしら……」
「美味しいでしょ?私もついつい食べちゃうのよ」
「安いのも昔から変わらないわね。ねえ幸人……って幸人……!?」
 ガツガツガツ……!
「うんうん……ああ美味しい……!あっ!ごめんね何の話だった?」
「いや……幸人は可愛いね」
「何よいきなり……?」
 28歳になり、好きなものを美味しそうに食べる息子がたまらなく可愛い。次第にある想いが芽生えた。
「幸人……」
「なあに?」
「ええっと……うぅ……ごめんね、何でもないわ……」
 千尋が言いたがっている内容は何だろうか。
「これからは何でも僕に言ってね?」
「うん……」
 息子と再会してまだ1日しか経っていないにも関わらず、叶えたい夢を思い出すキッカケを作ってくれた上、女性としての尊厳も取り戻せた。これ以上甘えるのはやはり申し訳なくなる。
「ふう食べた……じゃあ今日は私が奢るわ」
「いやいや僕が奢るわ!凪ちゃんは出世払いでさ!」
「私出世したんだけどな……」
 吉野家でお腹いっぱいになった3人は幸人の奢りで会計を済ませると、店を出て次はどこへ行きたいか話し合う。
「今日はさ……幸人と凪と一緒に、お酒飲んでいっぱいお話したい!凪はお酒飲める?」
「飲めるわ!」
「幸人は行きたいとこある?」
「僕は大丈夫よ。何たって今日の主役は、ママと凪ちゃんだから!」
 外に出て買い物やゲームセンターで遊ぶことも楽しいが、家族でまったりしながらの宅飲みがシンプルで楽しい。意見が一致してすぐにドン・キホーテでお酒を買い込み、そのまま近くのホテルアーバンステイ麻布へチェックインをした。

 2026年12月13日、21時過ぎ。
「ハハハハハ……!」
「もうやだったら……!お兄ちゃん相変わらずジュエルハートのマネうますぎるんだから……!」
「癒しの緑、ジュエルペリドット!」
 普段は酒に強すぎる幸人だが、今日はいつもより早く酔っている。ジュエルハートのモノマネと、かつて結婚していた話に花を咲かせる。
「可愛い子じゃん!?どうして別れちゃったの?」
「外を歩いていたら姉妹にしか見られなくてさ、色々あって別れちゃったんだけど、今も仲良いわよ!」
「でもお兄ちゃんに子どもができたら、誰がママなのかわからなくなりそうよね!」
 本当なら離婚したくはなかった。だが当然元暗殺者である事実は明かせず、茜の安全を守るための離婚でもあった。普通の会社員として生きていった方がいい。
「はあ!楽しくてもうお腹いっぱい……!」
「最高!夢を叶えた後のお酒ってマジ美味しい……!」
「スー……スー……」
「ママは寝ちゃったわね……」
「それくらい幸せってことよ」
 千尋は先に寝ていた。もっと話したいところではあったが、楽しいトークは最後の戦いを済ませてからの方がいい。すると先ほどまでの楽しい話から一変し、幸人と凪は重い話をし始める。
「凪ちゃん……明日ママを1日お願いできる?」
「できるけど、どうして?」
「奴は氷華殿にいると思うの……明日僕が蹴りをつける……だから僕だけが……」
「私も行くわ……」
「凪ちゃん……!?ダメよ、凪ちゃんはもう人を殺す必要はないわ……!アイドルとして皆に夢を届けなきゃ……!」
「私はね……ずっと前からパパのことが許せなかったのよ……!あのときの私は小さくてどうにもならなかった。お兄ちゃんを守れなかった……!これは使命じゃなくて、私が私……氷川凪としてあり続けるためのことなの……!」
 実を言えば力を借りたい。氷華殿には神代怜士もいるはずだ。それに中身は小心者の氷川正信。神代以外にも強敵を従えていることが予想される。
「たとえママ、仲間たちが止めても私は行くわ。あの外道を屠らない限り、私はアイドルでいられない……それは私の仲間だってそうよ……」
「そう……」
「それにね……名波幸人っていうちょっとイケオジ刑事さんと会ってね、『皆に夢を届けてくれ』って言われたの。要するに、奴と決着をつけることはセットだから」
「幸人……」
 彼はなぜか同じ名前を聞いても驚いていない。
「驚かないのね?」
「まあね……フフフ……」
 彼は笑いを堪えていた。彼は既に別の幸人と出会い、一度拳を交えている。名波幸人か……その人も顔立ちが似ているのではないかと気にはなる。
「まあ私も行くってことは変わらないから……!明日のためにもう寝るわ……」
 眠くなった凪は母が眠るベッドの中に入る。
「私はお兄ちゃんと違って寝相悪くないから!今日は私がママと寝ちゃお……」
 布団に入った凪は、すぐに寝息を立てて眠りに就いた。
「寝ちゃった……明日二日酔い大丈夫かな?」
 続いて彼は離れたベッドに横たわり、大の字になるように眠るのだった。

 2026年12月14日、10時頃。15年ぶりに家族の楽しい夜を過ごした幸人、凪、千尋はホテルのチェックアウトを済ませる。幸人と凪は最終決戦の地である氷華殿に向かうのだが、母は一緒に連れて行くわけにはいかない。一人にしておくことも不安だ。静香は入院中で頼ることはできない。どうした方がいいか結論が出せない兄妹だが——
 コツ……コツ……
「まさか俺を置いて行くわけじゃ……ねえよな?」
「か……鏡さん……!?」
「千尋さん!」
「ん……ちょっと待って……お知り合いですか?」
 お兄ちゃんは驚いていない。ママは名前を呼び合って驚いている。いやこの人は誰よ……!?
「凪ちゃん、紹介するわね。彼は鏡幸人君よ」
「どひゃ~……!?ゆゆゆ……幸人……!?」
「はい!いやあ……ですがリアルタイムであの氷川凪さんにお会いできるなんて、本当に信じられません……!後でサインでももらおっかな……」
 一昨日は名波幸人と出会い、たった今鏡幸人と出会った。兄と同じ名前の男性がまだいるのかと驚く。それだけならまだいいのだが、どことなく顔立ちが似ているのは、偶然なのだろうかと疑わずにはいられない。
「昨日テレビで観させていただきました。千尋さんの声、本当に美しかったです。凪さんも最高でしたよ。彼女もテンション上がってお客様と盛り上がっちゃうし……」
 昨日の公演は全国で生中継されていた。テレビが置かれている飲食店はさぞ賑やかだった。
「氷川……あんたこれから、氷華殿に行くんだろ?」
「フフフ……さすが凄まじい執念ね?」
「あんたの親父さんにはイジメられたもんでな……それに氷華殿にはあのバケモノもいる。あんた一人じゃ無理だ」
 鏡は幸人と拳を交えた後、仕事の合間に少しでも多くの鍛錬を重ね、氷川正信に一矢報いることを考えていた。そして裏社会の情報屋を使い、奴が氷華殿にいること、氷川幸人が向かうはずであることを知った。
「俺も行く。2人の幸人、戦力として十分だろ?」
「なら心強いわね?でもね、行くのはもう一人いるわ……」
「もう一人?後から合流するのか?」
「もう目の前にいるじゃない?」
 幸人が目配せをした先は凪だ。目が合った途端——
「はっ……?まさか、凪さん?」
「うん……私も行くわ。理由はあなたと同じようなものよ」
「えええーー……!?」
 凪が3人目の幸人に出会ったことについて驚いた後は、鏡がアイドルであるはずの凪が最終決戦に向かうことに驚いた。
「澪さんだっけ?今鏡君のお店にいるかしら?」
「今日は定休日だからな。多分録画した(昨日の公演)やつでも観てゆっくりしているだろう」
 ニコッ……
「悪いんだけどさ、澪さんにママを預けられるかな?」
「お安い御用だ……店名を知らないのか?」
「店名……空白だったかしら?」
「余白だ!余白だから無理せず安心していいんだよ」
「そういえば余白だったわね。悪かったわ……」

 数分後。余白の上階にある鏡幸人の自宅では、恋人の夢野澪がクリスタルミューズのミュージックビデオを視聴していた。
「うう……!やっぱ最高!」
 ガチャ……
「うん?帰ってきたかな……?よいしょ……」
 恋人を迎えるために一旦再生を止めて階段を降りる。
「あなたおか……え……り……!?」
「お邪魔します……」
「あなたは確か……氷川幸人さんで、その隣ってまさか……!?」
「(ここはやるか……)はぁ~い!あなたの夢とハート、シュワっと弾けさせちゃうぞ!クリスタルミューズの氷川凪です!」
 ゴトッ……
 ポカンと口を開ける澪。そして全身の力が抜けてスマホを落とす。
「嘘でしょ……本物……!?キャー……!!」
 澪はすっぴんであることをすっかり忘れてはしゃぐ。無理もないだろう。推しキャラが目の前にいるのだから。嬉しすぎて涙が出る始末だ。
「ヤバいヤバいヤバい……!私、凪ちゃんのファンなんです!握手と……すみませんサインいいですか!?」
「そこまで嬉しい顔されると私も嬉しくなっちゃいます!はいじゃあ……」
 ギュッ……!
 澪はまだ握手会に行ったことがなかった。開催場所が北海道で、まだ東京で開催されたことがなかったため無理もないだろう。
「こうなると思ったよ……」
「凪ちゃんは幸せね」
「サインいっぱいもらっちゃった……!これ一生の宝物にします!」
 興奮しすぎて息が切れている。
「でも……どうして幸人が凪ちゃんと一緒にいるの?」
「それは、あれだよ……」
「ああ……」
 鏡が言う『あれ』とは、大体戦いなどの厄介事を指す意味だ。するともう一人の存在に気づく。
「あなたは、昨日凪ちゃんのお母さんって仰っていた、氷川千尋さんですか……?」
「そうよ。この人が私のママ。それで澪ちゃんにお願いがあるの」
「言って言って!何でも言って!」
「ママを1日預かってほしいの」
 果たして澪の答えは——
「もちろん大丈夫よ!ああ……私、夢野澪と言います!よろしくお願いします!」
「お世話になります……」
 澪は26歳で千尋は58歳。凪より1歳上だが、よく見ると娘に似ている澪を前にして、甘えてしまうのではないかと思ってしまう。
「そういうことで澪、頼むな」
「息子の僕からもお願いしますわ」
「む……息子さん!?あっ……!凪ちゃんのお兄様だからこんなに綺麗なんですね!」
「じゃあママ……私たちはこれで行ってくるね。澪ちゃん、せっかくだし……あれやる?」
「やる!」
「せーのっ……」
——あなたの夢とハート、シュワっと弾けさせちゃうぞ!クリスタルミューズ!——
 この思い出は墓まで持っていきたい。そして、たとえ小さな夢でも、叶えたいことを考えようという気持ちになった。
「じゃあな澪……なるべく、今日中には帰るよ」
「気をつけてね!ええっと……幸人さんも、彼を助けてくれてありがとうございました!」
「なあに……僕は奇跡を起こすキッカケを作っただけよ」
「じゃあ澪ちゃん!これからも応援してね!」
「もちろんよ凪ちゃん!ありがとう!」
 去りゆく3人の背中に向かって、澪は深々と頭を下げた。
「千尋さん!よかったら一緒に、クリスタルミューズのPVとか観ませんか!?」
「娘の……それって、ライブもあるの……?」
「たっくさんありますよ!」
「観たい……!」
「珈琲淹れるから!何か飲みます?いっぱいありますから遠慮しないでください」
「カフェオレ……」
「わかりました!」
 2人の幸人と一人のアイドル。3人の戦士が最終決戦に向かう中、澪と千尋は温かい珈琲を飲みながら、クリスタルミューズの動画を観るのだった。