奇跡を起こすソーダ水

 2026年12月12日、13時頃。氷川幸人と鏡幸人の襲撃から逃れた氷川正信は、自身が所有する庭園にいた。なぜ札幌にいるはずの息子が東京にいるのか理解ができなかった。おそらく雇っているアラクネのクロエか誰かが情報を漏らしたのだろう。そんなとき——
 しん……しん……
「お呼びでしょうか?正信様……」
「よく来てくれた。感謝するよ……」
 現れたのは焦げ茶色のスーツを着こなす眼鏡の男性。高身長だがかなりの細身。
「早速で悪いんだが、君に始末してもらいたい人間が3人いる」
 正信にとって人生における邪魔な人間。まず一人目は氷川幸人で確定だ。そして残るは、娘の氷川凪と、『目障りな幸人』と呼ぶ鏡幸人だ。凪のことは確かに可愛がっていたが、幸人の味方をした時点で目障りに思っていた。アイドルになんかなりやがって……!それどころか自分を愛してくれるどころか、あいつは気持ち悪い兄貴を愛した。
「正信様のお子さんについては、私もよく存じております。ですが、この鏡幸人は何者でしょう?」
「いや、同じ名前を持った素人だ。ただ喧嘩自慢ってだけのな……」
 正信の唇が少しだけ震えている。『素人』と呼んでいるが、実際は常人離れした強さを目の当たりにしている。幸人の名前はどうして嫌な男ばかりなのか。
「この3人を殺したら報酬は倍払おう。まあ君なら余裕だろう……神代怜士」
「ええ……私、神代怜士の毒牙にかかったら、誰も逃げられません」
 正信が隠していた『最終兵器』というのはまさしくこの男。名前は神代 怜士(カミシロ レイジ)。裏社会を支配し、表社会から存在を消し去る『エクリプス』の総帥だ。組織を構成している人数は極めて少ないが、神代の持つカリスマ性で数多の組織を味方につけているため、規模は非常に大きい。
 ザワザワ……!
「おっと……噂をすればお客さんのようですね?」
 ドッドッドッ……!
 重い足音を立てて数名の来客が訪れる。
「氷川正信!大人しく降伏するんだ!」
 正信の身柄を探している捜査員だ。奴は殺人罪に加え監禁罪、傷害罪など多くの大罪を犯している。捕まらないために裏社会の人間を雇うのは基本中の基本。
「大人しく跪け!」
「神代君、肩慣らしにはちょうどいいんじゃないか?」
「ええ……ちょうどお腹空いてきたところですね」
 神代はゆっくりと捜査員に向かって歩み寄る。
「止まれ!」
「撃つ気ならさっさと撃たなきゃ……ダメじゃないかい?」
 バンバーン……!フワッ……
「どこ行った……!?」
 シュッ……スパッ……
「見つけた……」
 ポトッ……!
 神代はいつの間にかナイフで首を切っていた。切ってから数秒して首が地面に落ちていく。
「何なんだあのナイフ……!?ナイフに気をつけるんだ……!」
 バンバンバーン……!
 捜査員の連射ですら一切掠らない。
 スパッ……スパッ……!
 あっという間に捜査員の首が落ち続ける。まるで庭園の石に同化しているようだ。最後に残った捜査員は震えながら抗っている。
 ガシッ……!
「うぅ……!?」
「君の誇りだけは認めるよ。けど無駄だったようだね?」
 捜査員は片手で持ち上げられ、そのまま庭園の石に頭から叩きつけられる。
 ゴシャ……!
 頭が爆弾のように弾け飛び、血がジャムのように飛び散った。神代に抗った捜査員はエリート中のエリートだ。その捜査員すら無傷で皆殺しにした神代怜士は一体何者だ?
 シャラシャラ……ゴク……
 神代はサプリメントだけで栄養補給している。そして——
「まだ食べ足りないですね……」
「そうか。なら3人を殺して腹いっぱいになれそうか?」
「いえ……それはどうでしょう?足りないかもしれませんね……」
「デザートにするなら千尋にしておけ……好きなだけ獲物は用意してやる」
「最高です」
 そう。神代怜士は殺戮を『食事』と称している。人を殺すことに満腹感を得ており、サプリメントでしか栄養補給しない。
「そうだ。前菜を用意しておいたぞ」
「ほう……!前菜ですか?一体誰でしょう……?」
「それはな、うちの選手だ……」

 2026年12月12日、14時前。
 ダッダッダッ……!
「なあ?随分走ったけどここって、練習場じゃないか?」
「そうよ!おそらくお父さんは自分の選手ですら狙っているわ!」
 幸人の名を持つ名波幸人は、氷川凪の誘導のもと走り続け、辿り着いた先は野球の練習場だった。
 クラクラ……ドテッ……
「おい大丈夫か?」
「ちょっと脚に力が入りにくいだけ……」
「でも東京ドーム公演って明日だよな……?他人が口出しするわけじゃないけど、こんなんで大丈夫なのか?」
「それは何とかするしかないわよ……」
「明日、俺の彼女と後輩が楽しみにしてんだ……」
「じゃあ尚更頑張るしかないわね……!」
 立ち上がった彼女は練習場の扉を開ける。中にいたのはグレイシャーズ4番打者のバンディッド悠介と、先発投手の篠田 翔真(シノダ ショウマ)(32)。
「凪さん……!?どうしてこんなとこまでわざわざ……どうぞどうぞ!」
 凪と悠介はバラエティ番組で共演したことがあり、お互い顔が利く。当然監督の娘であることも知っている。
「そちらのお方は?」
「この人は刑事さんの名波幸人さんよ」
「あれ……お兄さんと同じ名前……?」
「何かこの凪ちゃんが物騒な話をするもんだからな……警察として放っておけなかったんだ。ところで、君サーモンズからグレイシャーズに行ったんだな?俺サーモンズファンだったのに……」
「そうなんですか!?いやぁ……何か悔しいな……」
 札幌を拠点としている悠介たちが港区にいる理由は、数日後に放送される『俺たちのスポーツ頂上決戦!』に出演を控えているためである。
「でも凪さん、わざわざどうしたんですか?明日コンサートのはずなのに……」
「実は2人に言っておかなきゃいけないことがあるの……」
 彼女はグレイシャーズの監督、氷川正信がしてきた悪の所業を全て暴露した。ホワイトアスターの事務所爆破から藤宮玲奈の殺害の証拠写真、幼少期に書いていた兄への虐待日記などを見せた。
「……」
「黙っててごめんなさい……やっぱり、あなたたちの監督であることには変わりないと言い聞かせて黙っていたけど、そのせいで多くの犠牲が生まれちゃったの……私の責任よ……」
「実は……俺たちも監督のことは前々からおかしいって思っていたんですよ……」
「えっ……?」
「この写真なんですけど……」
 それは3日前に氷川幸人によって壊滅させられた『ネクロス』の写真。練習場に落ちていたらしいが、一見すると普通の野球チーム。だが問題なのはその中身。血塗られた高校球児のユニフォームが飾られているのだ。
「何か……色んなことを手がけているのは知ってんですけど、けっこうヤバそうな人と関わっているって……他の選手も目撃しています」
「そう……でもこの野球チームはね、お兄ちゃんに潰されたわ……」
「ええっ……!?てかお兄さんって何されている方なんですか?」
「それは聞かない約束でしょ?まあサービス……」
 彼女がサービスと称して見せたのは夏に撮影したツーショット写真。笑顔でピースしている。
「うっわ!これお兄さんですか!?めちゃめちゃ綺麗ですね……!」
「すげえ……おへそのとこにタトゥー入ってる……!格好良い……!」
「はい終了……!」
 見せることは別に恥ずかしいことではない。兄は自分なりに努力してここまで生きてきた、誰よりも強い存在なのだから。『自分でプロデュースするのすごい』とよく褒められるが、ただ自分が作りたかったアイドルをエゴで作っただけなのだから。そう考えていた。すると名波が——
「……?待てっ……!近くに誰かいるぞ……」
「どうしました……?」
「しっ……!」
 何者かの気配。背中に悪寒が走る。名波と凪は気づいているが、選手の2人は言われた通り静かにするしかない。
 コロコロ……
「あれ?何でこんなとこに球が……」
 誰もいないはずの所からひとりでに球が転がってきた。当然野球選手なら反射的に球を拾おうと動いてしまう。悠介が立ち上がって球へ向かうと——
 ピピピ……
「……!?待てっ!戻れっ……!」
 名波が微かな起動音を聴き取り、転がった球が爆弾だと見抜く。だが明らかにタイミングが間違っていたのか、悠介より3m以上離れている距離で——
 ドカーン……!
「……!?ば……爆発した……!?」
 被弾していなくても爆風はすさまじく、人工芝が焼け焦げる。
 しん……しん……
「誰だ?インテリ眼鏡……には見えねえな?」
 人工芝に革靴で現れる眼鏡の男。だが細い身体で男性の死体を担いでいる。
「あなた……お父さんの差し金ね?」
「察しがいいですね?さすが、正信様の娘さん……」
「凪ちゃん、やっぱり君のパパはスポーツ選手とか学生を狙っているのか?」
「そうよ。お父さんは自分にとって最高のチームを作るために、気に入らない人を殺し続けている……おそらく悠介さんを狙ったのは、計画の露見を恐れたせいよ」
 そう。奴は氷川正信が仕向けた最終兵器、神代怜士。肩に担いでいる死体の正体は警察官だ。
「貴様……よくも俺の仲間を殺したな」
「私はいつもお腹空いているんですよ……前菜が食べれると思って行ってみたら、メインディッシュの一人がいますね……そこのおじさんは誰でしょう?」
「俺か?俺は華理州署の名波幸人だ」
「ほう……幸人!これはもう、あなたもメインディッシュに入れたいですね!」
 凪はもうフリーズエレメントを持っていない。脚が痙攣する中での戦闘に緊張が走る。
「凪ちゃん、無茶するなよ……」
「大丈夫よ……」
 名波が強敵を相手にするのはちょうど1年ぶり。45歳になって身体的に弱っているのではないかという問いは、ハッキリ言って違う。だが想像以上に神代から血生臭い匂いがする。
「(凪ちゃんをどうにか逃がして、バンディッドたちを守らないと……!)」
 明日コンサートを控えている彼女に傷をつけさせるわけにはいかない。ただでさえ激しい振り付けが多いクリスタルミューズだ。
「脚が震えていますね?氷川凪さん」
「クゥ……」
 ビュゥン……!
「待て凪ちゃん!」
「私を舐めるな!」
 彼女は武器を持たず、拳を強く握って突っ込む。彼女の中にある焦りとは、戦ってでも脚を治さなければならないこと、そしてコンサートを邪魔する存在を一人でも排除しなければならないこと。
 ブンッ……!
「さすがは疾い……ですがアイドルでは私に通用しませんね……」
 ドゴォ……!
「ガホ……!」
「凪ちゃん!」
「凪さん……!」
 悠介と翔真も神代の異様なオーラを感じ取っていたが、それ以上に凪の戦闘力、めり込むような蹴りを喰らう姿に驚いている。
 ビュゥン……!
「俺も混ぜてもらおうか!」
 いくらプロの殺し屋でも名波流殺人拳ならひとたまりもないはず。まずは一直線の発勁。
 シュッ……!
「当たりませんねぇ!」
 だが名波は読んでいた。神代は横に回避するのではなく、真後ろにバックステップをすると。
「これならどうだ……」
 ピカ……
 名波は密かにスマホの画面を真っ暗にした状態で、練習場を照らす明かりを反射させる。
「うっ……!」
 効いた!目眩ましが成功したときが一番のチャンス。一気に距離を詰めて必殺の発勁を発動。これで勝負ありと思われた。
「うっそ……」
 シュッ……!
「……!?」
 神代は目眩ましに慣れすぎていた。見えないようなスピードのナイフ攻撃に驚く名波は何とか回避したものの、手首の筋すれすれを掠める。
「危ねえじゃねえかよ……」
 ポトポト……
 数cm深かったら右手は死んでいただろう。緑色のワイシャツが血で赤黒く染まる。
「(ナイフを忍ばせていた気配がなかった……スーツに何を隠しているんだ?)」
 スーツの中に銃を隠していたらより厄介だ。凪と神代の距離は離れているが、いつ殺されるかわからない。
「凪ちゃん、バンディッドたちを連れて逃げろ!」
「何言ってんのよ!私はまだ戦えるわ!」
「幸人の命令なら……」
 バーン……!
「ウグゥ……!」
 やはり銃を隠し持っていたか。凪へ放たれた弾丸を身体でガード。脇腹を貫通した。
「デザートイーグルかよ……」
「名波……!?」
「行け……!幸人の命令なら聞けるだろ?それに彼女……いや、皆に夢を届けてくれ……!」
「逃がしませんよ……」
「おいインテリ眼鏡!俺もメインディッシュだと言ったよな?やるなら俺を先に召し上がれよ?」
 名波は自らをメインディッシュだと名乗り出た。獲物から先に食いに来てもらうほど美味しいチャンスはないだろう。だが右手と脇腹の出血が止まらない。しかし——
「やっぱりあなたは私のメインディッシュにはなりません……それにこんな状態じゃ、食べ足りなそうですから」
「逃げんのか……?」
 凪たち3人は練習場の駐車場に停まっていた悠介の車で逃げた。
「お腹いっぱいになるなら幸せになった瞬間を崩すときがよさそうですね!ですがあなたのことは気に入りました……お近づきの印にとっておきの相手を用意しました。相楽!」
 しん……しん……
「ちょうど私の部下もお腹空かせていまして……獲物になってください」
 神代の号令によって現れたのは、エクリプスの幹部である相楽 蒼生(サガラ ソウセイ)
「なら退屈しないで済みそうだな?でも覚えておけ……夢を持った凪ちゃんは誰よりも強いってな……」
「それは楽しみですね!強くなればなるほど美味しい……せいぜい待っていますよ……相楽、殺れ……」
「仰せのままに……」
 相楽蒼生は神代より少し太った体型。手負いの彼に勝って満腹になれるのだろうか?まあ……食われるつもりはないが。
 スッ……
 名波幸人と殺人を『食事』と称するエクリプス。こんなイカれた思想を持った奴を生かしてはおけない。貧血を起こしそうで視界はクラクラ。早めに戦闘を終わらせたいところだ。
「お前も人の夢を潰そうとするなら、正義の刑事名波幸人が許さねえぜ……」
「あなたこそ、私たちの食事を邪魔するなら肉になってもらいますよ……」
「いいぜ……来いよ」
 相楽はまだ20代だろう。血走ったような目で突っ込んでくる。
 コテッ……
「うわっ……!?」
 まさか足元を注意しないとは。名波は軽く一回転して足を引っかけ、その拍子に顔面からこける。
 ドサッ……!
「人工芝なら、顔面スライディングも痛くないよな?」
「くぅ……!?」
「来い……」
「うわぁ〜……!」
 ブンッ……ブンッ……
 スピードは良いが表情を見れば軌道など全て見える。こうなれば——
 ドスッ……!
 何と額にわざと拳を受けた!さすがの名波でも頭から血を流す。しかし——
 ボキボキ……!
「うわぁ……!な……何が……!?」
 パンチをした右手が砕ける音を立てて粉砕骨折。彼の頭は金剛石並みに硬い。
「鍛錬不足だな……」
 そして相楽の心臓部に彼の右手が迫る。そしてフルパワーを込め——
「ハァ—……!」
 ドガァーン……!
 名波流殺人拳の一撃を喰らった相楽蒼生は、数m吹き飛んでいき、心臓が爆発音を立てて息絶えた。
 ポトポト……
「ふぅ……やっぱり戦いからは引退した方がいいかもしんないな……」
 一人の命を奪ってしまったが、名波は幼い頃から極道とつるんだ時点で覚悟はできている。今は早いとこ帰って傷の手当てをしてもらおう。
「凪ちゃん……夢のステージ、楽しみにしているぜ……」
 名波幸人の出番はここで終わりにしておこう。今は夢の舞台を影から応援したい。