奇跡を起こすソーダ水

 2026年12月12日、16時過ぎ。母親の夢を叶えるためなら非道な行動をする氷川幸人。夢を叶えることと、人を傷つけることは違う思想を持つ鏡幸人。2人の幸人がバチバチの状態で睨み合っている。すると氷川が——
「ここはお互い平等にやろっか?スポーツマンシップってやつ……」
 握手を求めるように手を伸ばす。
「何?お前がスポーツマンシップなんて語って……」
 ガシッ……!
「お人好し……」
 ドスッ……!
「ググッ……!?卑怯だぞ……!」
「卑怯こそ殺し合いの醍醐味……」
 ドゴッ……!
 腹部にめり込むようなパンチを喰らった上に、ブーツを履いたキックが横顔にクリーンヒット。
 ガシッ……!
「クソ……!」
 容赦なく鏡は髪を引っ張られる。
「歪んだ方が良い男じゃない?僕はこっちが好きよ」
 チュッ……
「黙れ……汚れた手を離せ……!」
 ブンッ……!
「よっと……悪いけどまともには喰らえないわね……」
「ヌゥ……!(こいつ……下手したら正面の戦いが一切通じねえぞ……!)」
 どこかに弱点はないのか?できることを考えても、氷川の身体を掴み、渾身の投げ技を決めるしか思い浮かばない。パワーなら俺の方が有利のはず!
「ハァ……!」
 過酷な脚トレで鍛え上げた突進力で一気に距離を詰める。しかし氷川は冷静に開けておいたソーダ瓶の中身を口に含む。鏡は気づいていない。
「オラァ……!」
「ブー……!」
「ウワッ……!?目が……!」
「両目もぉらい……」
 瓶に入っていたのはカプサイシン入りのソーダ水。両目に入った鏡は激痛で目を開けられなくなり、氷川が冷たく指を突き立てながら両目を奪おうとしている。
「えい……!」
 だが気配を感じ取り、両目に到達する前にバックステップ!
「ウゥ……!」
「すごいわね……?避けるなんて」
「クソ……!目が見えない……!」
「目は最後にしよっか?どこから潰されたい?」
「ウゥ……」
「日本語喋りなさいよ……」
 ドスッ……ドスッ……!
「ウワァ……!!」
 無抵抗な鏡に容赦のない打撃が加えられる。それも氷川が持つ戦闘スタイルの氷結だ。しかし氷川は、素人のはずなのに氷結を耐えていることに疑問を持ち始める。普通なら立っていられるはずがない。
「おちんちんもぉらい……!」
 ドゴッ……!
「ウゥゥ……!!」
「あぁあ……?これじゃ鏡君の素敵な彼女さんを満足させてあげられないわね?」
 あまりの激痛に潰れているような感覚に襲われ、必死で確認をしてみると幸い潰れてはいない。だがこのままじゃ何の抵抗もできずに殺されてしまう。必死で目を開けてみると、鏡はあることに気づいていた。
 ペロ……
 それはキスしようとしているのか、頻繁に唇を舐めていることだ。つまり口が開いているときは歯や舌を攻撃するチャンスではないか。この方法なら反撃を加えられるかもしれない!
「オラァ……!」
 ブンッ……!
 渾身の一撃が口を開けた氷川の歯に向かっていく。当たれば前歯が折れる威力だ。
 ドスッ……!
 当たったのか!?しかし——
「グゥゥ……!?」
 鏡の一撃は当たるどころか、握り拳を丸ごと氷川の歯で封じられている。抜こうにも歯が拳にめり込み、さらに拳から赤黒い血が流れる。だが右手以外は空いている。
 ブンッ……!
「よっと……あなたもしぶといわね?」
「はぁ……はぁ……」
「呼んでおいて申し訳ないけどさ、これ以上邪魔するなら死んでもらおっかな……硫酸を頭から被ってさ?」
 反撃に徹する鏡の体力は完全に削り切られていた。氷川が持っているのはソーダ水でも何でもない硫酸。
「あなたのイケメン人生……終了の合図よ……!」
 氷川は高らかに腕を上げて硫酸をかけようとする。しかし——
「やめて幸人……!」
 ドンッ……!
「ウッ……!?」
 幻覚が消えたのか、千尋が渾身の体当たりで硫酸を手から離させる。だが液体の一部が裸足の足にかかり、左足から湯気が出る。
「邪魔をするな……!」
 バチン……!バチン……!
「うぅ……!!」
 母親ですら止められない暴走ぶり。完全に目的を失っていた。夢を叶えるための作戦は失敗だと考えた氷川は——
「もういい……邪魔をするなら、ママも殺すしかないわね……」
「幸人……お願いだから目を覚まして……!ママの知っている幸人は、少なくともこんなこと……うぅ……!」
 ミキミキ……!
「黙れ……!もう首折るわ……」
「ゆき……ひと……」
 千尋の身体から力が抜けていく。
「死ね……!」
 ダッダッダッ……!
「やめろ……!」
「……?まだそんな力があるとはね……まず鏡君から殺そっか」
 千尋の首から手を放す。しかし氷川は油断しきっていた。力が抜けた母親が自分に抵抗するはずがないと。
 ゴツッ……
「痛っ……」
 後ろから来たのはげんこつ。
「幸人!やめなさい……!」
 母親からげんこつをされたのは生まれて初めてだった。あれだけ無抵抗だった母親が見せた姿に動揺してしまう。
 ガシッ……!
「捕まえたぞ……!もう逃さねえ……!」
「ウッ……!?」
 鏡のフルパワーはゴリラをも上回る。華奢な身体の氷川では必死で抵抗しても振り解けるはずもない。
 ドゴッ……!ドゴッ……!
「ウゥ……!こんなんで離れるかよ……!」
「放せ……!」
 何度も金的を喰らわせるが、多少力が緩むくらいで振り解くには至らない。
「このときを待っていたぞ……」
「……!?」
「オラァ……!」
 ゴンッ……!
「ウゥゥ……!?」
 鏡が最後の力を振り絞って喰らわせたのは、全体重を乗せた頭突き!
「もう一発だ!」
 ゴンッ……!
「ウゥゥ……!!(これ以上……喰らったら……!)」
「トドメだ……!オラァ……!」
「ウゥ……オ゛エッ……!」
 氷川が突然の嘔吐!顔面に喰らった鏡は焦って力を緩めてしまう。
「ウワッ……!何だこれ……」
「フフフ……これが本当のゲロチュウ……」
 そう。氷川は母の長期間洗えていない身体から発する臭いを利用し、吐き気を催させて吐くタイミングを見計らっていた。
 ドゴォーン……!
 氷川のネリチャギが遂に決まった。頭突きで疲弊した頭部にめり込み、ようやく鏡は仰向けに倒れ込んだ。
「ウゥ……」
「僕の勝ち……」
 2人の幸人の勝負は、氷川幸人の勝利となった。
 ドテッ……
「はぁ……はぁ……」
「なぜ……トドメを刺さない……?」
「やっぱり殺す必要はないと思ったからよ……それに、あなたにはあの可愛い女の子が待っているでしょ……?」
 氷川の方もボロボロだ。そして千尋が2人のもとへ歩み寄った。果たして何を語るのだろうか?
「幸人……ママ……見たの……ママが、ステージで輝いていた、あの頃の……」
「……?どういうことですか……?」
「だから言ったじゃない……僕はママの夢を叶えたいって……これでわかったんじゃないの?ママの本当の夢が……」
「じゃあお前……千尋さんがアイドルだったときのあれを見せるために、幻覚の何とかを飲ませたのか……?」
「他に何があるの……?」
 気づくと既に17時を過ぎていた。実に1時間も2人はぶつかり合っていた。
「ママは結局何をしたいの?」
「それは……」
「今言いなさい……僕だって遊ぶために札幌から来たわけじゃないの……」
「それは……」
「ママ……!」
「う……歌いたい……!もう一度歌いたい……!」
 遂に千尋は告白をした。それは、もう一度ステージに立って歌いたいという夢。すると鏡が突然閃いたように身体をゆっくりと起こし——
「そういえば、千尋さんの娘……お前の妹さんってクリスタルミューズの氷川凪なのか……?」
「うん……一目だけでも見れないかなって思ったんだけど、無理だよね……?」
「そこは心配ないわ……凪ちゃんもママに会いたがっているし、あの子にお願いすればママの夢だって叶えられるわ……その場合明日の東京ドームコンサートで歌うことになるけど」
「明日……!?いきなりそれは無理よ……!」
「大丈夫よ。さっき歌っている姿を見て確信したわ。奴らが言っていた10億の価値、それがママの歌声であることと、今でも失われていない歌声があるって……だから、きっと大丈夫」
 歌いたいと息子に訴えたが、長年表舞台から姿を消してホームレス生活をしていた千尋に自信なんてなかった。
「負けないでなんて 言わないけれど あなたの明日を 私は信じてる」
「……?」
「えっ……!?それ……」
「北風にKissして、の歌詞。思い出した?あとは、うまく笑えない夜があっても あなたの夢なら きっと消えない」
「うぅ……!ぐすん……」
「どうしたのよ?ママが歌っていたんじゃない?」
「いや……まさか幸人から、歌が聴けるなんて思わなかったから……!」
 千尋は思い出した。『北風にKissして』は単なるヒット曲じゃない。大勢のファンに届ける応援ソングであることを。すると——
 ギュッ……
「ママ……今までごめんなさい……僕、本当は自分の強さを誇示したかっただけだった……単なる自己満足だった……」
「幸人……」
「氷川……」
「だから、僕はママをもう一度ステージに立たせる……一つのキッカケが、ソーダ水のように夢だってシュワッて弾けるはずだから……」
 母の夢は自分の夢でもある。これまで多くの人の夢を守ってきた氷川幸人は、零度開業以来の夢を持った。
「うっ……!ゲロ臭い……」
「そういえば……俺の顔にもかけてくれたな……!?」
「それは悪かったわね……じゃあやるべきことは一つ……今日は帰ろ?」
 今日くらいは母の背中を洗ってあげたい。28歳の息子が母親と風呂に入るのは気持ち悪いが、15年間会えていなかったのだから、今日だけは許してほしい。
「なら俺は帰るよ……氷川!ママをもう傷つけるんじゃねえぞ……?」
「もうしないわよ。まあこれは男同士の約束ね……」
 男同士の約束を結んだ2人の幸人。何とも良いとは言えない関係だが、戦いによって絆は結ばれているだろう。
「ねえママ……」
「ん……?」
「手、つないでいいかな?」
 ギュッ……!
「当たり前じゃん!」

 2026年12月12日、18時頃。『ホテルアーバンステイ麻布』では、氷川親子が全裸で浴室にいた。15年ぶりに見る息子の身体は、全身脱毛しているのか非常に綺麗で、女性のように美しい裸体だった。それに比べて私は、毛むくじゃら……
「これでママも綺麗になれるわよ。僕に任せて……!」
 ゴシゴシ……シャー……
 ママの方がもっと綺麗よ……でも、やっぱり凪ちゃんには負けるかな?そんな凪ちゃんは僕の方が綺麗って言うけど……
「さあ……綺麗になったわ!」
「ありがとう……!でも、気づいたらもう58歳になっちゃった……今さら歌えるのかな?」
「それはわからないわ。少なくとも、僕が作るソーダ水を飲んだ人は、皆奇跡を起こしたわ……」
 カランカラン……シュワシュワ……
「まずはこの1杯……」
 持参したソーダ水で作る芋焼酎のソーダ割り。
「……」
「心配しないで……何も入っていないわ」
 ゴク……
「炭酸強い……!」
「強すぎる炭酸が入ってた……」
「でも、ちょうどいい濃さで美味しい……」
「よかった。じゃあ僕も……はい乾杯」
 チン……ゴクゴク……
 強炭酸すらゴクゴク飲む幸人。
「そうだ、足貸して……」
「えっ……」
「硫酸……かかっちゃったから」
 彼は母の左足を優しく持ち、そのまま包帯を巻いた。それ以上に両足は、長年の裸足ホームレス生活のせいで真っ赤になっている。
「明日、14時にはコンサートが始まるわ……だから遅くても11時には凪ちゃんと合流するわ……」
「でも、いくら凪に頼んだところでママが出れるの?」
「クリスタルミューズは凪ちゃんプロデュースよ。凪ちゃんの力なら大丈夫」
「ええ……?凪ってプロデュースもやってんの?ヤバッ……」
「それに比べて僕は……暗殺者で、小さいBARを経営しているだけ……」
「立派だわ……私の自慢ってわけじゃないけど、幸人だって、あの悪魔のような父親に負けなかったんだから……」
「まだよ……ママの夢を叶えても、僕にはまだやることがある……暗殺者の僕として……」
 フワッ……
 彼は立ち上がる。今日くらいゆっくりしてもいいのにと思う千尋だが——
 ドサッ……!
「わっ……!?どうしたのいきなり!」
 何と勢い良く飛び乗るようにベッドに押し倒された。
「今日はママの独り占め券があった……独り占めさせてもらうわよ?」
「もう……困った子ね?いいわよ……」
「ヤッター!」
 母と笑い合うなんて何年ぶりだろうか。彼はこれまでの想いを解放するように甘えまくっている。ずっと会いたかった……だが、息子としてできることはまだやり切っていない。
「幸人……チューは痛いって!」
「ごめんね……嬉しくなっちゃって」
 しかし、彼はまだ知らなかった。氷川正信が、とんでもない『最終兵器』を隠していることを。