奇跡を起こすソーダ水

 2026年12月12日、12時頃。15年間離ればなれだった氷川幸人と氷川千尋は、遂に再会を果たした。汚れていて臭いがキツい千尋を躊躇いもなく抱く息子。不気味な笑みを浮かべて頬にキスをしている。千尋は一瞬で違和感を覚えたのか、喜びたくても喜べない。
「ハハハ……よかったですね……?息子さんとお会いできて……」
「……」
 単純に女の子っぽい息子を前に息をのんでいるのか、それとも息子に恐怖心を抱いているのか。鏡の目は後者のように感じた。
「……(どうしたらいいんだ……このままじゃ会話すらしないぞ……?)」
「ママ……次は僕が、ママのこと可愛がってあげよっか?」
「……うぅん……でもね幸人、ママ臭いでしょ?最初にお風呂入りたい……けどお金ない……」
「お金なら心配しなくていいわ?だって僕……前はこんな仕事していたから……」
 彼がスマホから動画と写真を見せる。それはノクターンに所属していたときの写真と、ターゲットを後ろからワイヤーで絞殺する主観映像。
「ああぁ……!幸人……!何でそんなこと……!?」
「何って……決まってんじゃない?ママを迎えに行くためよ……ほら観なさい?こっちはバラバラの肉片に……」
「うえぇ……!」
 息子にショッキングな動画を観せ続けられた千尋は嘔吐してしまう。その姿を見ていられなくなった鏡が——
「おいやめろ!」
 ドスッ……!
「ウヴゥ……!?」
「だから他人は口出さないでくれる……?ねえ行こうママ?こんな男なんて放っておいてさ……」
 鳩尾に強烈なパンチを喰らった鏡は泡を吹いている。その横で千尋は下着の上に着ていたコートを着せられ——
「言うこと聞いた方がいいと思うわ……?死にたくなかったら……ね」
「……!?」
「……!?やめろ……千尋さんを離せ……!」
「鏡さん……!助け……」
 ドスッ……!
「うぅ……!ゆき……ひと……」
 彼は軽々と千尋の身体を担いだ。鏡が覚えた違和感は間違っていなかった。氷川幸人は普通の人間ではないと。あの目……完全に母親を手にかけるつもりだ!
「うぅ……」
 だが鏡の身体にナイフトラップの毒が回り続け、さらに鳩尾を殴られた痛みから、意識を手放してしまった。

 2026年12月12日、13時前。東京都港区で殺人事件が発生。被害者の血液がポコポコと沸騰しているという。
 ウーウー……!パシャッ……パシャッ……
「お疲れ様です……」
「お疲れ……身元はわかったのか?」
「いえ……」
「幸さん!身元ならわかったっすよ!被害者は地元のスケート教室に通う村西 天(ムラニシ テン)君10歳と、お母さんの知世(トモヨ)さん38歳っす……」
 幸さん?そう呼んだ刑事の名は山波 孝之介(ヤマナミ コウノスケ)(30)。そしていかにもベテランの雰囲気を醸し出している刑事の名は、名波 幸人(ナナミ ユキヒト)(45)だ。幸人!?その疑問はさておき、本来2人は新宿区華理州警察署の刑事なのだが、港区の治安が悪化していることを重く見たため、急遽応援に呼ばれていた。
「……また子どもが殺された事件か……しかも親御さんまで」
「最悪っすね……けどとんでもないネタ掴みましたよ!同じ手口で殺害された被害者、最初の殺人事件は札幌で起きたっす。被害者全員に共通しているのは、スポーツをやっていることっす!」
 北海道全域で起きた連続殺人事件。『ブラッディソーダ殺人事件』の話は聞いていたが、幸人は別事件であると確信していた。ブラッディソーダ殺人事件の犯人は氷川凪。何かにこだわる殺人犯は、徹底的にやり方を統一し、勝手に変えたりしない。杜撰な手を使わないということ。ブラッディソーダ殺人事件の被害者は主に、アイドルのプライベートを盗撮してネットに晒そうとした者、未成年を売春させようとした者たち。そして今回——
「何の罪もない人が犠牲になっている……けど、どうしてスポーツに関係している?」
「それが最大の謎っすね……」
 ピコーン……!
「おお……きたきた……!」
「どうした?」
「明日のクリスタルミューズのコンサート!何と俺……最前列になっちゃいましたぁ!」
「何だ君も好きなのか?最近凛七と一緒に観るけど、氷川凪とか本当可愛いよな」
「それで幸さん……明日……」
「休み希望だろ?いいよ」
「ありがとうっす!」
 クリスタルミューズは若者だけでなく、中高年層にも愛されるアイドルグループ。素敵な歌声と美しいダンスは誰かに希望を与えてくれる。
「御遺体は鑑識に回してくれ……孝之介君、あとは……?」
 コソコソ……
「……」
 何かの視線を感じた彼が目を移すと、そこにいたのは遠くから監視するような影。見た瞬間に影は慌てた様子で視線を逸らした。怪しさ全開だ。
「悪い、先帰っててくれ……!」
 ダッダッダッ……!
 彼は考える間も置かず走り出した!かなり距離が離れているが、追いつけるのだろうか。その姿に孝之介は——
「おお……走り出した……」

 ダッダッダッ……!
「はぁ……はぁ……」
「逃さないぞ……!」
 幸人は一瞬でかなり距離を詰めている。何せ彼は100mを11秒で走り抜ける走力だ。
 ガシッ……!
「うっ……!」
「捕まえたっと……!」
 やはり逃げられなかった。監視していた影の正体は男性のようだが。
「さて、お前の目的……」
 シュッ……!
「よっと……」
 いきなりナイフを抜くとは。村西親子を殺したのはこいつなのか?
「ゆっくり話す気はなさそうだな?仕方ない……」
 彼は独自の戦闘スタイルを構えようとフッと息を吐く。幼い頃に極道組織で、20代に特殊警察で鍛えられた彼にとって、殺さないように手加減するのは正直簡単ではない。
「いくぞ……」
 ナイフから何やら液体が滴り落ちる。まさか毒か?
「うわぁ~……!」
 何とも一直線すぎる突き。こんなもの当たるか……
「うぅ……!?」
「……?」
 突然男が苦しみ出した。背中から血を流しているようだが、その光景に彼は目を疑う。
 シュワシュワ……
「これは……?」
 先ほどとは違う。血液が炭酸のように弾けている。
「まさかブラッディソーダ……!?」
 男を殺した者は本来姿を見せることはない。むしろ見えない。いち早く気配を察知した彼は路地裏へ迂回し、彼の迅速な行動に相手の方が遅れる。
「おい……さっきの奴を殺したのはお前だな?顔を見せろ……!」
「……」
「確かに俺は警察だ。だが、お前の回答次第では話を聞きたい。ブラッディソーダとかな……」
 シャキン……ヒュゥゥ……
「おいおい……何だよそれは……」
「……」
「やはり話さないようだな……ハァ……!」
 名波幸人が独自で編み出した戦闘スタイル、『名波流殺人拳』。触れただけで血液が弾け飛ぶなら、彼の殺人拳は発勁で心臓を破裂させる威力を誇る。
 ヒュゥゥ……!ヒュゥゥ……!
「シュッ……!」
 刃に触れないように回避し続ける。ガードは危険だろう。
「シュッ……!(相手は女性か?それに痙攣している……何だ一体?)」
 何らかの障害を抱えているのは明白だった。彼は手を掴むと、そのまま握力を込めてナイフを離させる。
 パリーン……!
「くぅ……!」
 武器を失い、脚が脱力して遂に膝をついた。そのまま被っていたマスクを剥がす。
 パサッ……
「……!?おま……ってか君は、クリスタルミューズの氷川凪……さんじゃあ〜りませんか……おお……」
「何よ……あなたもファンなの?」
「ああ……俺の彼女が……」
 一気に頭の中が整理できなくなった。トップアイドルが殺人犯?彼の知っている情報だと、『血液が炭酸のように弾け飛ぶ』事件の被害者は、前述の通りアイドルのプライベートを盗撮してネットに晒そうとした者、未成年を売春させようとした者たち。良く言えば信念を持っているように聞こえる。
「あなた名前は?」
「俺は警視庁華理州警察署の名波幸人だ。実を言うと、今俺たちは君の父親を追っている。悪いが聞かせてくれないか?」
「はぁ……!?ゆ……幸人……!?」
「そうだが……どうしたんだ?」
「何でお兄ちゃんと同じ名前なのよ……しかもお兄ちゃんくらい強いし……」
「何……氷川正信に息子がいるのか?まさか隠し子……」
「そうよ!お父さんはお兄ちゃんの存在を完全に抹消したの!女っぽく成長するのが気持ち悪いとか何か言って!挙げ句には食事にカミソリ仕込んでお兄ちゃんをケガさせたのよ!?許せない!」
「ちょっと落ち着いて……!」
 芸能人の中には『実は隠し子がいました』のような話はいくらでもある。今年の夏に撮影された兄妹のツーショット写真だが……
「ん……?これ、お兄ちゃん?」
「お兄ちゃんよ……」
「お姉ちゃん……じゃなくて?」
「だからお兄ちゃんだって……!」
 彼女より髪は少し短めで、女性らしい身体つきに加えて腹出し。おへそに近い位置に炭酸瓶と泡のようなタトゥーが確認できる。笑顔が可愛らしい。
「それより大変よ!今お父さんが命を狙っている人がいるの!悪いんだけど、手伝ってくれない!?」
「俺が!?」
「同じ幸人なんだから手伝って!拒否権なし!」
 ダッダッダッ……!
「しょうがねえな!乗りかかった船ってことで……」

 2026年12月12日、16時頃。
「幸人……!幸人……!」
「うぅ……?」
「幸人……」
「ここは……澪?」
「病院よ……」
 鏡幸人が目を覚ますと、そこは病院だった。確かナイフで掠り傷を負い、氷川幸人に思いきり殴られて気を失った。だが意識を失ったのは月白館。誰が通報したのだ?
「何か……氷川幸人っていうメッチャ可愛い人がさ、お店に来てあなたの彼氏さん、ヤバいことに巻き込まれて病院にいるわよって教えてくれたの」
「何……!?あの野郎……どういう風の吹き回しだよ……?」
「あんな可愛らしくて名前が幸人なんて驚いたわよ……」
 通報できる人間は限られている。どう考えても氷川幸人が救急車を手配してくれたのだろう。まさか彼を必要としているのか?
「それと、氷川さんから手紙を預かったの……」
「手紙?」
 手紙を開いてみると、達筆で書かれた文章にまず息をのんだ。手紙には何て書かれているのだろうか?

——鏡君。あなたのことは目障りだと思っているけど、でも、あなたの心意気と覚悟には惚れたわ。だけどね、あなたに僕とママのことに首を突っ込む資格はない……もし突っ込むなら、次こそ命はないと思った方がいいわよ?僕はママの夢を叶えるために動いているの。あなたが夢を見届けるだけが目的なら、場所くらいは教えてあげるわ——

「……」
 夢を叶える。正直嫌な予感しかない。手紙の裏面には住所が書かれている。徒歩だと1時間はかかるが、タクシーを使えばそこまでかからない。
「うぅ……」
「動いちゃダメよ!先生から聞いたけど、肋折れているわ……」
「悪いが時間がない……今、夢を見届けられるのは俺しかいない……」
「やっぱ……止めるだけ無駄ね?」
「よくわかっているじゃないか?」
 彼は病院服からいつもの私服に着替え、ハミルトンの腕時計を着用した。腕時計は亡き母からもらった最後のプレゼント。
「ちょっと待って……!」
「ん……?」
「忘れものだよ」
「あれ?ケータイか?」
「違うわ……」
 チュッ……
「あっ……ハハハ……」
「お店は私に任せて!」

 同時刻。氷川幸人は事務所のような場所に母親を監禁していた。薄暗くて寒く、さらに息子の異様な殺気に心まで冷えていく。
「……幸人……どうしちゃったのよ……ゴホゴホ……!」
「さあできたわよ……!いっぱい食べなさい?」
 差し出された料理は見るからに味の濃そうな明太子パスタにチーズリゾット。いきなり濃い味のものを食べられるはずがない。
「ありがとね……でも、今のママじゃ食べれ……ぐぐ……!?」
「何言ってんのよ……食べなさい?」
「熱い……熱い……!」
「飲み込みなさい……」
 ゴクン……!
「ゴホ……!ゴホ……!」
「何吐き出してんのよ……」
「食べられません……やめてください……!」
「あっそう……じゃあ口移しがいいかしら?」
「ああ……」
 どこで育て方を間違ってしまったのだろうか?けど、何もかも私が悪いんだ!私は夫の恐怖に怯えて、この子を守れなかった。いや、守ろうとしなかった!殺したいくらい憎んでいるのは痛いほどわかる。けれど、こんな形はあんまりよ……!
「僕はずっとママのこと愛していたんだよ?でも、ママは僕を守ってくれないからさ、僕の味方は凪ちゃんしかいなかった……」
「凪は、あなたがこんなことして……褒めると思うの……!?」
「多分……褒めないわ……」
「じゃあ何でこんなことするのよ……!?」
「今の僕にあるのは、ママを愛したい想いと、殺意よ……僕を守らなかった罪は重い」
 息子になら殺されてもいい。けど苦しみたくない……!怖がる暇もなく、彼は懐からソーダ瓶を取り出した。一体何が入っている?
「殺す前に……ママにはこれを飲んでもらうわ……」
「嫌だ……やめてよ……やめてください……!」
 情けないことはわかっている。千尋は額を擦りつけながら必死に土下座をした。
 バチンッ……!
「痛い……!」
「黙れ……飲め……!」
 千尋は必死で口を閉じようとするが、元暗殺者の力に敵うはずもなくソーダ水を一気飲みさせられる。炭酸の強さに白目を剥いてしまう。すると——
 バァン……!
「千尋さん……!?お前何やってんだ……!!」
「フフフ……やっぱり来たのね?さすが、僕と同じ名前を持っているだけあるわね?」
「何ふざけたこと言ってんだ……!?お前、千尋さんを殺すつもりなんだろ……!?」
 バタン……
 千尋はうつ伏せに倒れ込んだ。毒入りのソーダ水を飲まされたのか?
 ピク……
 まだ生きている……だが千尋から出る言動に鏡は目を疑うことになる。
 フワッ……
「千尋さん……!」
「ああ……!ああ……!あの頃の私……!北風にKissして、あなたに届け……」
 何もない天井に向かって手を伸ばし、何かを見ているように歌い始める。Aurora Kissの名曲、『北風にKissして』を。
「ハハハハハハ……!やっぱり僕の思った通りね!」
「何をした?」
「簡単よ。幻覚誘発剤……見るものによっては絶望して自ら命を絶ったり、生きたいという渇望が生まれる……けど見た感じ、後者に近いかしら?」
「お前、何で自分のママにこんなことができるんだ……夢を叶えたいならもっと別のやり方があるだろ!?」
「ないわ……これが一番手っ取り早い。毒を持って毒を制す……」
 やはりどれだけ言っても氷川は聞く耳を持たない。こうなったら、鏡がやることは一つしかない。
 スッ……!
「何のつもり?僕と殺っても死ぬだけなのに?」
「そんなもの、やってみなければわからない……お前は、一度ぶん殴らねえと気が済まねえわ……」
「面白いじゃない……?じゃあ僕はあなたが死ぬところ、きちんと動画に撮っておくわね……」
「好きにしろ……俺はお前をここで止める……!」
 氷川幸人と鏡幸人。遂に2人の幸人がぶつかり合ってしまうのか?元暗殺者と民間人。名前は同じでも、生き方と能力は全く違う。それでも2人に共通しているものは、信念だった。
「いくぞ……氷川!」
「鏡君……邪魔するならもう許さないんだし……!」
 こうして、2人の幸人の壮絶な戦いが幕を開けた。