ひまわりが咲く場所で(続)

by瑠唯

「……気が向いたらな。早く着替えて帰れ、バカ」


そう吐き捨てて医局を飛び出したものの、廊下に出た途端、俺は深くため息をついて壁に頭を打ち付けた。


(何が『気が向いたら』だ、俺のバカが)


熱くなっていく顔を隠すように前髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。白衣のポケットの中で、あのネイビーとキャメルの星のキーホルダーが、歩くたびに小さく音を立てていた。


七瀬梨衣。

あの路地裏で泣きそうな顔をして笑っていた少女。そして、かつてこの場所で俺の目の前から永遠に消えてしまった、川上莉緒。

姿かたちは違う。声のトーンだって少し高い。梨衣には莉緒だった頃の記憶なんてひとかけらもないこと
も分かっている。
けれど、彼女が何かに怯えるように完璧な作り笑いを浮かべる瞬間や、ふとした瞬間に見せる真っ直ぐな瞳は、どうしてもあの夏の日々を思い出させた。

医局のデスクに戻り、カルテの整理を再開しようとするが、文字が全く頭に入ってこない。

『今度、体調管理のお礼に、何か美味しいものでもご馳走させてください!』

嬉しそうに目を輝かせて言った彼女の顔が、網膜の裏に焼き付いて離れなかった。

莉緒を救えなかったあの日から、俺の時間は半分止まったようなものだった。誰かを救うための医者という肩書きも、自分を縛り付けるための免罪符に過ぎなかったのかもしれない。

だが、梨衣が目の前に現れてから、止まっていた秒針が狂ったように進み始めているのを感じる。

「……ご馳走させるわけねえだろ。女に」

誰もいない医局で、ポツリと独り言が溢れた。

もし本当に食事に行くのだとしたら、店を選ぶのも、金を払うのも俺の役目だ。あいつはまだ入ったばかりのひよっこ看護師なんだから。

「相葉先生、次の回診の準備できました!」

ドアの向こうから、木下先輩のハキハキとした声が聞こえる。

俺は小さく息を吐き出し、パチンとカルテのホルダーを閉じた。星のキーホルダーの感触をもう一度だけ確かめてから、立ち上がる。

(今度こそ、絶対に手放さねえ)

あの日、手術室の前で果たせなかった約束。形を変えて戻ってきた彼女の笑顔を、今度は俺がこの手で、医者として、一人の男として、死ぬ気で守り抜いてみせる。

冷徹な医師の仮面をもう一度被り直し、俺は医局のドアを開けた。