もう夕方ですが、まだ暑いですわね。
お上りさんは帰省中です。
涼やかな曲を聴き、扇風機も出してもらいましたが、汗は出ます。
電気ストーブのように、青い光線を出して体を冷やしてくれる機械を、誰か開発してほしいですわ。
さすがのお上りさんにも無理ですわね。
「機械は専門外」とご自分で認めるほどですもの。
お上りさんは本日夕刻帰って来られるご予定です。
戻られたら、浅草にご一緒するお約束もいたしました。
今から楽しみですわ。
コンコン
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ」
「お上りさん!」
「お嬢さん」
相変わらず、すーん、とした顔ですわね。
ふふ。
「これを」
湯の花まんじゅう?
「群馬県の伊香保の銘菓です。明治43年伊香保温泉の老舗菓子店・勝月堂が考案したとされていて、全国の『温泉まんじゅう』の元祖と言われています。『湯の花』は温泉成分が結晶になったものです。一番有名な特徴ですが、湯の花まんじゅうは茶色い皮。これは伊香保温泉の源泉である『黄金の湯』の茶褐色を元に作られたためで、皮には黒糖などが使われ、温泉の色を表現しており、つまり」
「な、なるほど。元祖・温泉まんじゅう、ですのね、分かりましたわ。ありがとうございます。皆で頂きますわ」
お上りさんのおかえりですわ。
◇ ◇ ◇
さあ、いよいよです。
本日は、もう決まっていますの。
淡い水色のワンピース。
夏用のニットカーディガン。
ワンピースと同じ色のトークハット。
帽子と襟のリボンがゆるく巻かれているのが、おしゃれですわ。
ま!
お外は暑いですわ。
日傘は持って行きませんと。
お上りさんが玄関に立っていましたわ。
暑いですものね。
あら?
またお洋服が違います。
夏用のサマーウールジャケット。
綿の開襟シャツ。
サマーウールのスラックス。
革靴。
お上りさんは一度もわたくしのお洋服を、お褒めになったことはありません。
お洋服は誰か、女性の方とお選びになっているはずです。
「お上りさん。外出着はどなたかと選んでらっしゃるの?」
「母と姉です」
まあ!
「僕は服に興味がないので、母と姉が自分の服を買いに行く時に、僕の分も買って来るのですよ」
「でも、今回は下宿に来られたのでしょう?お勉強するために来られたのなら、上質なお洋服はこれほど用意しなくても、よろしいのではなくって?」
「男爵様のお屋敷に下宿が決まった時に母から『ご令嬢がいらっしゃいます』と言われました。母も姉も外出が好きなので、こうなることを見越して、季節に合う洋服を揃えて下さったのでしょう」
まあ!
ふふ。わたくしの華やかな装いでも、お上りさんが恥をかかぬよう、お母様とお姉様がご配慮して下さったのね。
「そうでしたの。謎が解けてスッキリしました。浅草へ参りましょう」
お上りさんの首元に汗が流れて。
ま!
わたくしとしたことが!
……。
(肌を少し見せるのよ)
あのお友達の助言は、こういう意味でしたのね。
3月に半袖が寒いのは当たり前ですわ。
誰にも見つかっていないのが幸いです。
穴があったら入りたい。
◇ ◇ ◇
市電の中も暑いですわ。
「お上りさん。電気ストーブのように、青い光線が出る冷房器具はないのでしょうか」
「赤い…光線?……。冷房器具に用いることができるかわかりませんが、ラジウムを使った夜行塗料は、淡く青緑の光を出します。正確に言いますと、青緑色に光るのは硫化亜鉛で、ラジウムはその発光を引き起こす役目ですね」
そうでしたわ…。
科学と物理が不得意とは、おっしゃられていませんでした。
しかし。
「ラジウム。わたくし授業で習いましたわ!マリー・キュリーさんが発見した元素でしたわね。ノーベル賞も受賞された方」
「はいそうです。ロシア帝国支配下のポーランド・ワルシャワ生まれ。本名は マリア・スクウォドフスカ。女性が大学へ進学しにくい時代だったため、フランスへ留学。パリで物理学者のピェール・キュリーと結婚しました」
まだ、大丈夫です。
「1898年。ウラン鉱石を研究していて『ウランを取り除いた後の鉱石の方が、なぜか放射線が強い』という矛盾に気付き、『まだ未知の元素がある』と考えました。そこから膨大な鉱石を精製し、ポロニウム、ラジウムを発見しました。当時としては歴史を変える大発見でした」
歴史につながってしまいましたわ!
「彼女は史上初めて、1903年ノーベル物理学賞、1911年ノーベル化学賞を受賞。異なる分野で二度ノーベル賞を受賞した最初の人物です」
「ええ。マリー・キュリーさんは女性初のノーベル賞受賞者。そして2度の受賞、さらに異なる分野での受賞は男女問わず、人類初の偉業を成し遂げた方ですわ」
やりましたわ!
お上りさんの会話に乗れました。
都会の女、完成です。
そういえば。
「旦那様のピェール・キュリーさんはどうされましたの?」
「ピェール・キュリーは、1回目のノーベル物理学賞を受賞後、確か…3年後に交通事故死されました」
まあ!そんな。
「では、マリー・キュリーさんは2度目のノーベル賞は旦那様のお支えなしで、ご自分の力で…」
なんとお強い女性なのでしょう。
わたくしでしたら、研究をやめてしまったかもしれません。
もしかしたら、お二人の夢だったからこそ、あの方は続ける道を歩んだ。
悲しくないはずが、ないですもの。
「1914年第一次世界大戦開始後。彼女は移動式X線撮影車を開発・普及させました。前線へ赴き、負傷兵の骨折や銃弾の位置を調べるために使われ、数多くの命を救ったとされています。つまり、ラジウムを発見した科学者でありながら、戦争では『人を助けるため』に放射線技術を活用した、素晴らしい女性物理学者・科学者です」
ああ…。わたくし、泣きそうです。
自分の心身より、他者のために。
きっと、旦那様との約束だったのですわ。
旦那様がご覧になっている、と。
「今では『放射線にはまだ未知の可能性がある』とされ、医療、美容、科学、様々な分野で活用されています」
「彼女が、いえ、ご夫婦で発見したラジウムが新しい未来を照らしてくれますわね」
「ええ。そろそろ浅草ですね」
「まあ、あっと言う前でしたわね。参りましょう」
◇ ◇ ◇
浅草の仲見世。
人通りが減りましたわね。
子どもの頃、お父様とお母様と来た時の賑わいを、お上りさんにもご覧になって欲しかったですわ。
しかし、わたくしが暗い顔ではいけません。
「さあ、お上りさん。ここが浅草です。どうですか?」
「628年…」
え?
お待ちになって。
1300年ありますわ。
ここは、八月の炎天下の浅草ですのよ。
「お、お上りさん。わたくし汗をかいてしまいましたの。境内の木陰を歩きませんか?」
「あ、すみませんでした」
ふう、危なかったですわ。
でも、どうしましょう。
1300年の歴史を語られるのでしょうか?
「わたしの祖父はよく、『浅草寺の雷門はな、でっかい赤提灯と、雷神風神様のご立派な像があったんだ』と申しておりました」
女中さん!
「では、1865年の田原町大火で焼けた雷門の、前の世代の方ですね」
「え、ええ…。左様でございます」
……その火災は。
「お、お上りさん」
「はい」
「仲見世のお店で、そろそろお昼にしませんか?」
◇ ◇ ◇
大黒家天麩羅。
浅草はここ、と決めていましたのに。
心を乱してしまいました。
⸻お嬢様。
仲居さんに椅子とお水をご用意して頂きました。
⸻あなたのせいではありませんわ。
お上りさんがいつも通りなのが、幸いです。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
「お、お嬢さん!?」
お上りさんごめんなさい。
もう少し、お付き合い頂けませんか?
「そ、そちらは!」
ええ、承知しておりますわ。
ご令嬢が行ってはならない。
知ってはならない。
女の悲劇の地、ですもの。
「こちらは新吉原の大門。今も遊女の方がいらっしゃいます」
わたくしが来れるのは、この門の前まで。
「田原町大火は新吉原にも延焼。1911年の大火災で、新吉原も大門もほぼ全焼いたしました」
お上りさんはうつむかれました。
ご存知ですわよね。
お上りさんが本気で驚かれた声を、わたくし初めて聞きました。
「ここで起きたことは、悲劇以外のなにものでもありませんわ。……お上りさんは、どう思われますか?」
「……見えにくくなっただけだと思います」
偽りのないお答えです。
わたくしも、そう思います。
暑くなってきましたわね。
いえ、もう少しだけ、これくらい。
ふしだらな令嬢と思われたでしょうか?
いえ。
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありません。帰りましょう」
自然な笑顔。
の、つもりでした。
今日はお上りさんの方が、優しい微笑みでしたわ。
お上りさんは帰省中です。
涼やかな曲を聴き、扇風機も出してもらいましたが、汗は出ます。
電気ストーブのように、青い光線を出して体を冷やしてくれる機械を、誰か開発してほしいですわ。
さすがのお上りさんにも無理ですわね。
「機械は専門外」とご自分で認めるほどですもの。
お上りさんは本日夕刻帰って来られるご予定です。
戻られたら、浅草にご一緒するお約束もいたしました。
今から楽しみですわ。
コンコン
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ」
「お上りさん!」
「お嬢さん」
相変わらず、すーん、とした顔ですわね。
ふふ。
「これを」
湯の花まんじゅう?
「群馬県の伊香保の銘菓です。明治43年伊香保温泉の老舗菓子店・勝月堂が考案したとされていて、全国の『温泉まんじゅう』の元祖と言われています。『湯の花』は温泉成分が結晶になったものです。一番有名な特徴ですが、湯の花まんじゅうは茶色い皮。これは伊香保温泉の源泉である『黄金の湯』の茶褐色を元に作られたためで、皮には黒糖などが使われ、温泉の色を表現しており、つまり」
「な、なるほど。元祖・温泉まんじゅう、ですのね、分かりましたわ。ありがとうございます。皆で頂きますわ」
お上りさんのおかえりですわ。
◇ ◇ ◇
さあ、いよいよです。
本日は、もう決まっていますの。
淡い水色のワンピース。
夏用のニットカーディガン。
ワンピースと同じ色のトークハット。
帽子と襟のリボンがゆるく巻かれているのが、おしゃれですわ。
ま!
お外は暑いですわ。
日傘は持って行きませんと。
お上りさんが玄関に立っていましたわ。
暑いですものね。
あら?
またお洋服が違います。
夏用のサマーウールジャケット。
綿の開襟シャツ。
サマーウールのスラックス。
革靴。
お上りさんは一度もわたくしのお洋服を、お褒めになったことはありません。
お洋服は誰か、女性の方とお選びになっているはずです。
「お上りさん。外出着はどなたかと選んでらっしゃるの?」
「母と姉です」
まあ!
「僕は服に興味がないので、母と姉が自分の服を買いに行く時に、僕の分も買って来るのですよ」
「でも、今回は下宿に来られたのでしょう?お勉強するために来られたのなら、上質なお洋服はこれほど用意しなくても、よろしいのではなくって?」
「男爵様のお屋敷に下宿が決まった時に母から『ご令嬢がいらっしゃいます』と言われました。母も姉も外出が好きなので、こうなることを見越して、季節に合う洋服を揃えて下さったのでしょう」
まあ!
ふふ。わたくしの華やかな装いでも、お上りさんが恥をかかぬよう、お母様とお姉様がご配慮して下さったのね。
「そうでしたの。謎が解けてスッキリしました。浅草へ参りましょう」
お上りさんの首元に汗が流れて。
ま!
わたくしとしたことが!
……。
(肌を少し見せるのよ)
あのお友達の助言は、こういう意味でしたのね。
3月に半袖が寒いのは当たり前ですわ。
誰にも見つかっていないのが幸いです。
穴があったら入りたい。
◇ ◇ ◇
市電の中も暑いですわ。
「お上りさん。電気ストーブのように、青い光線が出る冷房器具はないのでしょうか」
「赤い…光線?……。冷房器具に用いることができるかわかりませんが、ラジウムを使った夜行塗料は、淡く青緑の光を出します。正確に言いますと、青緑色に光るのは硫化亜鉛で、ラジウムはその発光を引き起こす役目ですね」
そうでしたわ…。
科学と物理が不得意とは、おっしゃられていませんでした。
しかし。
「ラジウム。わたくし授業で習いましたわ!マリー・キュリーさんが発見した元素でしたわね。ノーベル賞も受賞された方」
「はいそうです。ロシア帝国支配下のポーランド・ワルシャワ生まれ。本名は マリア・スクウォドフスカ。女性が大学へ進学しにくい時代だったため、フランスへ留学。パリで物理学者のピェール・キュリーと結婚しました」
まだ、大丈夫です。
「1898年。ウラン鉱石を研究していて『ウランを取り除いた後の鉱石の方が、なぜか放射線が強い』という矛盾に気付き、『まだ未知の元素がある』と考えました。そこから膨大な鉱石を精製し、ポロニウム、ラジウムを発見しました。当時としては歴史を変える大発見でした」
歴史につながってしまいましたわ!
「彼女は史上初めて、1903年ノーベル物理学賞、1911年ノーベル化学賞を受賞。異なる分野で二度ノーベル賞を受賞した最初の人物です」
「ええ。マリー・キュリーさんは女性初のノーベル賞受賞者。そして2度の受賞、さらに異なる分野での受賞は男女問わず、人類初の偉業を成し遂げた方ですわ」
やりましたわ!
お上りさんの会話に乗れました。
都会の女、完成です。
そういえば。
「旦那様のピェール・キュリーさんはどうされましたの?」
「ピェール・キュリーは、1回目のノーベル物理学賞を受賞後、確か…3年後に交通事故死されました」
まあ!そんな。
「では、マリー・キュリーさんは2度目のノーベル賞は旦那様のお支えなしで、ご自分の力で…」
なんとお強い女性なのでしょう。
わたくしでしたら、研究をやめてしまったかもしれません。
もしかしたら、お二人の夢だったからこそ、あの方は続ける道を歩んだ。
悲しくないはずが、ないですもの。
「1914年第一次世界大戦開始後。彼女は移動式X線撮影車を開発・普及させました。前線へ赴き、負傷兵の骨折や銃弾の位置を調べるために使われ、数多くの命を救ったとされています。つまり、ラジウムを発見した科学者でありながら、戦争では『人を助けるため』に放射線技術を活用した、素晴らしい女性物理学者・科学者です」
ああ…。わたくし、泣きそうです。
自分の心身より、他者のために。
きっと、旦那様との約束だったのですわ。
旦那様がご覧になっている、と。
「今では『放射線にはまだ未知の可能性がある』とされ、医療、美容、科学、様々な分野で活用されています」
「彼女が、いえ、ご夫婦で発見したラジウムが新しい未来を照らしてくれますわね」
「ええ。そろそろ浅草ですね」
「まあ、あっと言う前でしたわね。参りましょう」
◇ ◇ ◇
浅草の仲見世。
人通りが減りましたわね。
子どもの頃、お父様とお母様と来た時の賑わいを、お上りさんにもご覧になって欲しかったですわ。
しかし、わたくしが暗い顔ではいけません。
「さあ、お上りさん。ここが浅草です。どうですか?」
「628年…」
え?
お待ちになって。
1300年ありますわ。
ここは、八月の炎天下の浅草ですのよ。
「お、お上りさん。わたくし汗をかいてしまいましたの。境内の木陰を歩きませんか?」
「あ、すみませんでした」
ふう、危なかったですわ。
でも、どうしましょう。
1300年の歴史を語られるのでしょうか?
「わたしの祖父はよく、『浅草寺の雷門はな、でっかい赤提灯と、雷神風神様のご立派な像があったんだ』と申しておりました」
女中さん!
「では、1865年の田原町大火で焼けた雷門の、前の世代の方ですね」
「え、ええ…。左様でございます」
……その火災は。
「お、お上りさん」
「はい」
「仲見世のお店で、そろそろお昼にしませんか?」
◇ ◇ ◇
大黒家天麩羅。
浅草はここ、と決めていましたのに。
心を乱してしまいました。
⸻お嬢様。
仲居さんに椅子とお水をご用意して頂きました。
⸻あなたのせいではありませんわ。
お上りさんがいつも通りなのが、幸いです。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
「お、お嬢さん!?」
お上りさんごめんなさい。
もう少し、お付き合い頂けませんか?
「そ、そちらは!」
ええ、承知しておりますわ。
ご令嬢が行ってはならない。
知ってはならない。
女の悲劇の地、ですもの。
「こちらは新吉原の大門。今も遊女の方がいらっしゃいます」
わたくしが来れるのは、この門の前まで。
「田原町大火は新吉原にも延焼。1911年の大火災で、新吉原も大門もほぼ全焼いたしました」
お上りさんはうつむかれました。
ご存知ですわよね。
お上りさんが本気で驚かれた声を、わたくし初めて聞きました。
「ここで起きたことは、悲劇以外のなにものでもありませんわ。……お上りさんは、どう思われますか?」
「……見えにくくなっただけだと思います」
偽りのないお答えです。
わたくしも、そう思います。
暑くなってきましたわね。
いえ、もう少しだけ、これくらい。
ふしだらな令嬢と思われたでしょうか?
いえ。
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありません。帰りましょう」
自然な笑顔。
の、つもりでした。
今日はお上りさんの方が、優しい微笑みでしたわ。
