それから約1ヶ月。
別れたけれど、私は結局、宗吾が好きなままだった。嫌いになったから別れたわけじゃない。もともとすれ違っていて、付き合っていなかった、んだと思う。たくさんの私の名前がついた素敵な鞄。それを捨ててしまおうと思えるまでには、まだならなかった。
けど宗吾の鞄に囲まれて暮らすのはきっと、健康的じゃない。そう思って、気がつけばレンガ倉庫に向かっていた。季節はすっかり夏。宗吾と別れてから気温は可及的速やかに上昇し、ウィンドブレーカーもジャケットも無用の長物で、今の私はライトブルーのTシャツに黒のデニム。きっと宗吾と付き合っていれば、夏に合わせて5つばかり鞄が増えていたんじゃないかな。ああもう、そんな気分を振り切るためにきたのに。
入道雲がにょきにょきと立ち上る濃い青の空に、それより深い紺の海。その狭間の地平線から強い風が吹いてきて、Tシャツの裾をはためかせる。それにしても強い日差し。サングラスでも持ってくればよかったかな。そういえば週末にはクリエーターズ・マーケットをやっていると宗吾から聞いたんだ。気づけば足は自然にそちらに向いていた。
広場にはたくさんのテントブースが設えられている。思ったよりも、本格的。けど強い海風が吹き上がり、テントをがたがたと揺らしている。だからやっぱり、必要なのかも知れない。
「あれ? 実花ちゃん」
振り返れば、見知った顔があった。そのブースにはいろんな帽子が色とりどりに並んでいた。つばの広い帽子を買えば、足りるかもしれない。
「ええと、白河、さん?」
「そうそう、1回会っただけなのによく覚えてるね」
180は軽く超える上背に若いのに髪を真っ白に脱色してる。どっちかっていうとサーファーっぽいイメージであんまり手先が器用そうには見えないけれど、この帽子を造ってるのは白河さんだ。宗吾のクリエイター仲間で、一度一緒に居酒屋で飲んで、なんか暴れてた。だから忘れられるわけないんだけど、その時のことを思い出して思わず噴き出した。
「一人?」
「そう。宗吾とは結局別れちゃった」
そう呟くと、白河さんは少しだけ残念そうに眉を下げて頭を振る。そういえば長続きして欲しいって言ってたのは白河さんだった。
「実は聞いてる」
そうして私の周りを見渡した。
「誰かほかに好きな人ができたのかなって思ったから。でも多分、宗吾のせいだな」
それには何も言えなかった。宗吾のせいの気もするけれど、私のせいな気もするし。だから曖昧に頭を傾ける。もう終わった事だもの。そう、終わった。
「素敵な帽子。日差しがよけられるようなやつないかなぁ」
「ああ、今日は強いね。テントがないと真っ黒になりそうだ。これとかどう?」
そう言って渡されたのはベージュのキャペリン。外国映画の女優が被っているような、人が多いところでは邪魔になりそうなつばの広い帽子。キャップとかそんなのでよかったのに。
「実花ちゃんに似合いそう」
白河さんのそんな言葉に思わず肩を上げた。
「クリエイターの人って、似合いそうってそんな重要?」
「似合うってのは重要じゃないの? 気に入らないならこっちは?」
渡されたのはいわゆる麦わらなブーニーハットで、中程度のつばとあごの下で結ぶ紐がついている。こっちの方が今日の格好には似合いそうだ。
「似合う?」
「そう思うけど?」
「じゃあ私に似合わないのってどれ?」
「えーと、あれかな」
そう言って白河さんの指した黒のつやつやしたシルクハットを見て、本格的に吹き出した。これは燕尾服でもないと似合わないよ。そうね、似合わないのは似合わない。人でも、服でも。
「宗吾が好きなのは宗吾の鞄が似合う私、なんだよ」
そう呟けば、白河さんはやっぱり少し困ったような、顔をした。
「俺も彼女に俺の帽子が似合うと嬉しいぜ」
それはそう。うん。そうだと思う。
「白河さんは彼女と、帽子をかぶった彼女とどっちの方が好き?」
「ああ、やっぱりそれか」
白河さんは溜息を吐く。そうして奥から扇風機とパイプ椅子を持って来て、その次に小さな冷蔵庫を開ける。
「コーラでいい?」
「ありがとうございます」
なんでも出てくる。なんだか不思議だ。
「宗吾は、鞄が好きなんだよ」
「知ってます」
嫌という程。嫌になって、別れたくなるほど。私は宗吾が好きだった。今も好き。でもこのままずっと鞄の付属品だと思われるのって、辛い。
「俺はさ、エアな誰かじゃなくて具体的な誰かを思い浮かべて物を作るんだよ。例えばそうだな、今の実花ちゃんにはこんな帽子が似合うんじゃないかなって思って。でもそれは必ずしも実花ちゃんが着るわけじゃないから、もう少し汎用的っていうか、実花ちゃんっぽい人、まあ20代くらいのアクティヴめな女の人が被りそうな帽子? でもみんなが欲しがるようなものじゃない」
「それはなんとなく、わかります。そういうのが個性、っていうんですか?」
大量販売とか、ブランドとか、そういうのとは少し違う市場。刺さる人に刺さるもの。
なんとなく、最初に買った宗吾のウエストポーチを思い浮かぶ。あの水色は春の湖みたくさわやかで、なんとなく持ち歩くと気分が軽くなりそうな、そんなポーチ。
家の中にも今もある。けどつけるのはもう、憚られた。だって宗吾が好きなのは鞄の方なんだから。
「実花ちゃんは宗吾のどこが好きだったの?」
「優しくて、いい人っぽいとこ。あとなんかカワイイ」
そんな言葉はすらすら出た。今も好きだから。
「そこに宗吾の鞄は入らない?」
「入りますよ。あんな素敵な鞄を造るなんて、信じらんない」
ああ、やっぱ贈られたたくさんの鞄もいくつかは好きなんだ。押し付けられたっぽいやつはそうでもないけど、それでもどちらかというと好き。だからきっと、捨てられない。それに鞄には罪はない。名前がついてるからフリマとかにも出せない。でも着るのも何だか……嫌だ。
「宗吾は鞄が好きなんです、私より」
プシュリと手元でコーラのプルタブを開くさわやかな音がする。
「でもその鞄は、実花ちゃん専用のものだろ? それは実花ちゃんが好きなんじゃない?」
「それは……」
全てオーダーメイド。それで私に作った鞄を少し一般化して、お店に並べる鞄を造る。私にくれるのは私のためで、プロトタイプで。
「違わないよ」
「それは違わないでしょう。私じゃなければ別の人に似あう鞄を造るだけです」
「違うんだよ」



