パチンッ
ぱっ、と振り返る。
そこにはゴムで髪をまとめて見えた日焼けたうなじ。
ごつごつした手で髪はキャップにしまわれて、スタート台の上に彼は上がり、手足を振る。
――オン・ユア・マーク――
――セット――
――ピッ――
男子横一列、決められたように飛び込んだ。
次に水の中に飛び込む音がする。また水をかく音が聞こえて、周りが少しだけ騒がしくなる。
競泳選手を育成する我が社の日常風景は、黄色い声はなくとも、ひそひそと誰がいい、どれがいいと値踏みする声がした。
その中で一番人気なのは和多奏太くんで、確かに漆黒の襟足が伸びた黒髪、妖艶なルックス、綺麗についている筋肉など、女性たちに言わせれば、そう言うだろう。
私も、その実は、彼の襟足の先にあるうなじが好きなのだ。
我ながらニッチだなっと思うけれど、伸ばした髪をゴムで結んだ時の音が、合図に和多くんを見てしまう。
今日は弊社の方針で土曜日まで練習だ。
嫌がる人もいれば、リレーの練習に時間を費やすこともある。
私は、選手ではない。
ただのオーナーの娘で、ここにいる女子選手たちのトレーナーだ。
「みなさーん、私たちも練習ですよお」
男子に魅了されていた女子たちを引き戻して「はあい」という言葉をもらい隣接するプール前に集まる。
私はちらりと男子の、和多くんが仲間内で勝負していただろう、キャップを脱いで晒されるうなじにときめく。
なんで、こんなにもドキドキするのか分からない。
「香山さあん、ストレッチ終わったよー」
呼ばれて、肩が跳ねる。
「ははは、はいっ、じゃあ、いつも通り、身体を水に慣らすことから」
職務怠慢、職務怠慢と唱えながら、こちらに集中する。しっかりしなければ、
私だって選手を育てるトレーナーなのだ。
「はあ」
休憩時間にため息をつく。
いや、ため息をついても、これは選手たちの結果を憂いて訳ではなく。
今日もちらちらと男子を見てしまった。
しかも見やすい男子のプールが見えるところに陣取って「見えるのは仕方ないですよね」みたいな感じで。
私は和多くんが好きなのだろうか。
感情としては、うなじが好きなのだ。
あの黒髪の隙間から見える、首元からうなじにかけての『線』
これまで生きてきて初めての感情に翻弄されている。
だったら手とか背中とか分かりやすいところが好きだとよかったのに。
よりにもよって『うなじ』
しかも少し長い髪をまとめてゴムで止めた瞬間に見えるうなじなど、なんか変態だ。
そんなに悩んでいても時は過ぎて、
「――さんは、明日から身体作りでジムに直接行ってください。あとは――」
明日の日程を伝えて「おつかれさまでした」と頭を下げる。
「お疲れ様でした!」
一斉に聞こえた声に笑いかけ、さあさあ終わりだ終わりだと女子はシャワー室に入っていく。
見送ってから、最後のおさらいとして各選手のデータを見ながら、今後の方針を考える。うちは強豪とは言え、気を抜けば他に追い越されてしまう。
オリンピック選手も輩出しているのだ。気は抜けない。
床をぺたぺたと歩きながら「ん?」と気づく。
バッと見れば男子プールの方で倒れている人がいるではないか。
「きゅ、きゅ」
ポケットに入っていたスマフォを取り出したが、とりあえず、様子を見なければと寄っていくと、
「わ、和多、くん」
横向きになりながら規則的に呼吸しているところで、安心のため息をついた。
どこか怪我をしている訳でもないし、呼吸異常もない。
寝てるだけ? と手を出す。そして手は横を向いているおかげで『うなじ』に触れそうだった。
あれ、いいのかな、これ。でも、チャンスじゃない。この柔らかそうで、筋が通った硬そうな感じもする。うなじを触って――。
右手が伸びる。
瞬間、手首を掴まれて寄せられた。
「わっ」
胸板に身体をぶつけて「うう」と起き上がろうとして目を開けると、目の先には和多くんがいっぱいで、身を引こうとしても引っ張られたせいで変な体勢に、和多くんに上から押し倒しているような形だ。
「あっ」
「どうしたわけ?」
それは私が言いたい。今にもキスをしそうな距離でバリトンの声は耳に悪い。
「ねて、寝てる? 倒れているって」
ダメだ。今にもキスしそうで近い。
なんで寝てるかなんて、もうよくて、この状況がヤバい。
早く建て直さないと、と、
「右手、右、離して、起きるから」
「……よく、オレのこと見てるよね」
はいっ!? と声を出したいのに、うまく口が動かない。
「トレーナーから見ておかしなところある?」
とりあえず、今は起きたいのだが、甘い声が耳に届き。キスが。
「それは、ですね。起きるので」
ぐっと右手を掴まれる力が強くなる。
なんで、こんなことになってるんだろう、と思った瞬間。
「――んっ」
唇が重なった。でも、すぐさま離れて和多くんは私ごと持ち上げて起き上がると、
「なにか、間違った?」と挑戦的な言葉を私に言った。
「――ち」
「ち?」
「違います!」
持っていた電子パットを振りかぶり、私は止まって、こんなので殴ったら大変なことになると変に冷静になり、ぺたりと床に座り、唇を触る。
「いつもオレを見てるから。ダメだった? 香山さん、オレの好みなんだけど」
そういわれて、身体が熱くなる。
「好きだったら、こんなこともするんですか」
「……香山さん、いつも最後に点検して帰るじゃん、だから、びっくりするかもって思ったんだけど」
確かに倒れているかと思って駆け寄ったが。
「なにかあったって思ったんですよ」
絞り出した声に、和多くんは少し驚いたようで、
「ごめん。こんな試すようなことして」
「……私はあなたが好きなんじゃありません」
「じゃあ、どうして、オレを」
「あなたのうなじが好きなんです。以上。立ってください。もう閉めます」
すくっと立ち上がって、上から和多くんを睨みつけると、和多くんは慌てて立ち上がり、
「ほら、行ってください。施錠するので出入り口で待ってますから」
うっ、と詰まった顔付きの和多くんは男子用シャワー室に消えていく。
「~~っ、はあ、なにこれえ」
頭の中がパンクしている。キスされた? 好きだと思った? 急展開すぎる。
私が好きなのは和多くんのうなじなので、彼じゃない。
とりあえず閉めなければと、床を歩いて出入り口の扉前で和多くんを待つ。
だからって、ああいうことするか? 心配したのに。
いや、うなじを触ろうとしてた私も悪いのか? ぐるぐる考えていると半袖でズボンの和多くんがやってきて睨みつける。
「どうぞ」
扉を開いて促すが、和多くんは「ごめん」と口にした。
ごめんも何もないんだが、これが相思相愛でなかったら和多くんはセクハラ野郎として生きていかなければならないのだぞ? その言葉を飲み込んで、
「はい、どうぞ」と、もう一回、声をかける。
渋々といった様子で一歩前に出た和多くんが扉を掴んで、
「オレ、好きな人以外にあんなことしないから!」
とくん、と脈がうつ。
「じゃあ」と和多くんは扉をくぐっていった。
もし、間違えだったらどうするつもり?
確かに和多くんの女子人気は高い。誰もがではないが、あんな無理やりでも、ときめいてしまったのは、私が和多くんが好きだったからだ。
いや、まてまて、うなじが好き。そっち。
「あああ、明日からどうすればいいの!」
* * *
ぼーっとしながら鍵を使ってプールの扉を開くのが日常なのだが、
「和多くん」
その前に先客がいて、ちょっとだけ睨みつけた。
「香山さん、本当に、その、オレのうなじが好きって何?」
あああ、そこ気になるよね。そう言ったもんね。
「……そのままの意味です。あなたのうなじという部位が好きなだけで和多くん自身が好きなわけじゃありません」
「でも、うなじはオレの一部だよね? ということはオレのことが好きにならない?」
「なりませんね」
鍵を持ちながら、変な合戦を繰り返すと、
「信用できないかも知れないけど、オレ、香山さん好きだよ。うなじならいくらでも見ていいから」
そう言って和多くんは後ろを向いて伸びた襟足を持ち上げて、うなじを見せてくる。
んっ、綺麗な線。
「お試しでもいいから付き合いたい、ねえ、ダメ?」
そこに「ん」と声が出そうになって飲み込んだ。
練習している時の和多くんは、こんな子犬みたいな人ではなく、猛禽類とかの部類で勝利に貪欲な印象を持つのに、今、目の前にいるのは「くーん」と言いそうだ。
「香山さん、ダメ?」
「……あの不意打ちは許せません。付き合いません」
和多くんの身体をよけて鍵を回すと、とん、と目の前に腕が、
「しつこいっ」
言ってしまい、ぱっと和多くんの顔を見る。
そこには、本当に子犬がいた。
「ごめん」
扉が開いたら、和多くんは一目散に控え室に行ってしまい「えっと」と言葉が空中分解してしまう。
いや、これくらい言わないと、あんな倒れているかと思って近づいて、不意打ちなんていけないと思う。うん、そうだ。
そして、私は和多くんのうなじが好き。
それ以外、頭でも手でも胸筋でも、どうだっていい。
「おはよーございまーす」
びくっ震えると女子選手の岬さんがいて、今の見られてなかったよね、と思いつつ笑顔を作る。
「香山さん、和多くんと付き合うんですか」
しっかり、聞かれてたあ! と言うことで私は岬さんに事の顛末を話した。
「あー、男ってなんで、こうサプライズしたら相手は喜ぶとか考えるんでしょうね。いや、男女ともにか、サプライズは悪ですよ」
サプライズだったか分からないが、
「とりあえず、和多くんは香山さんのこと好きなのは確定ですよ」
岬さんは、ふんっと言って、うなじを思い出させてくれる。
「香山さんも、うなじ好きーと思っても和多くんのうなじが好きなんですよね。恋人同士になったら見放題ですよ」
「でも、デートしたいとか、その色々したいとかないんだよ。うなじを見てたの」
そう言っているとプールサイドに和多くんが現れて、こちらを向いて見るからに、しょんぼりしている。
「あーあーあれは重傷ですね。自分のことが好きだった相手が、ただの部位好きだったという真実は耐えられますかね」
「あんな顔をしてもダメですっ、岬さんも準備してくださいっ」
「はーい」
そこから他の選手たちが入ってきて挨拶を交わす。
ちらりと、他の人のうなじを見るが、和多くんよりときめかない。
和多くんという名のうなじは、この世に二度とないのだと感じて、私も落ち込む。
しかし、だからって付き合うのは違うだろう。それじゃあ、ずっと後ろを向いててくださいって言っているようなものだ。
そして、今日も今日とて練習が始まり、厳しい中、選手たちは己の身体を駆使していく。
で、タイムウォッチやら、アドバイスやらしている間に視線を感じる。
無視、無視、無視、絶対に今日は見ないぞ、と心に決めていたのだ、が。
パチンという音がする。髪をキャップにしまい、獲物を射止めんとまっすぐ前を向いていた。
ああ、かっこいい。
つんつん
「え、はい」
「あれ、いい感じの和多くんじゃないですか」
「なにいうてうてんで」
声が混線したことで岬さんが笑う。
「恋人同士になって、すべての時間をうなじ見せるでいいじゃないですか。他のものはあとからついてきますって」
そういうものか? と頭の中で会議をする。
確かにキスはびっくりしたけど、心から嫌だとは思わなかった。ただ手段が嫌だっただけだ。
なにか中途半端に感じて、私は彼の気持ちを蔑ろにしているのではないだろうか。
今日も今日とて練習は終わり、自主練の選手の様子を見ながらデータを整理する。大会も近いし、いいコンディションで出場させてあげたい。
集中していたせいか、はっと顔を上げた時には男子のコーチが「お疲れ様です」と言った時だった。
「ああ、お疲れ様です」
「和多が残りたいと言っているので、申し訳ありませんが見てやってくれませんか」
えええと思いながら「はい、分かりました」と答える。
残りたい理由は何か、本当に練習か、それとも。
「香山さん」
聞こえてきた声に顔を上げる。そこに最初の子犬はいなくて、
「計ってください。次の大会、自己ベスト出したいんで」
あれ、と思う。目が、岬さんの言う通り、なにかを狙わんとする瞳だ。
「うん、分かった」
ぱちん、と音がする。髪をしまってうなじが見えて、岬さんの言った通りの猛禽類の瞳が前を見据えている。
機械を弄って、
――オン・ユア・マーク――
――セット――
――ピッ――
ばざんっと水に潜っていく。種目はスクロール。腕が交互に上がり、蹴りは強く。前へ前へと進んでいく。端まで行ってターン。こちらに戻ってくる。
ぱしん、と壁を叩いたと同時にタイムウォッチを押すと、いつもより少し低いくらいで、
「くっ」
そ、と言いそうになったのか口を塞いで私を見る。
「いいじゃん、悪口でも。そんな強気が次に繋がるわけだし。焦りは禁物だけど」
キャップとゴーグルを取って私を見上げる。
「はいっ」
取ったら、くるりと向いてうなじを見せてきた。
私は、それが面白くて、そんなにも必死で、なんか楽しくて、
「あははは、はは、きゅう、に、はは、なに」
「見たいと思って! 触ってもいいですよ!」
なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。うなじだけが好きだとか、本当は違うよね。
「ねえ、和多くん」
そう言いながら、うなじを触る。
「私ね、きみが髪をまとめるパチンていう音が好きなの。そして髪をキャップに入れてゴーグルをする前の目が好き。で、見えるうなじが好き」
「香山さん?」
「まだ身体の一部だけしか好きじゃないけど、それでいいなら付き合おうか」
「やっ」
たーという言葉を飲み込んだ和多くんは、真剣な表情で、
「よろしくお願いします!」と子犬の顔になった。
そして、ざばんとプールから身体を出すと、私を抱きしめながら、
「オレは香山さんの目が好きです。優しい目が好きです。大好きです」
子犬を撫でながら、少しだけ上体を離して、ちょっとしたキスをしたあと、おでこを当てて、くすくすと笑い合った。
こんなに大きくて、こんなに頑張り屋で、やるときはやる、でも子犬な彼が私は『好きになってしまったのだ』
「あ、でも、だいたいの時間半分はうなじ見せてね」
「えーっ!?」
プールに響く声に、また私は笑ってしまった。
ぱっ、と振り返る。
そこにはゴムで髪をまとめて見えた日焼けたうなじ。
ごつごつした手で髪はキャップにしまわれて、スタート台の上に彼は上がり、手足を振る。
――オン・ユア・マーク――
――セット――
――ピッ――
男子横一列、決められたように飛び込んだ。
次に水の中に飛び込む音がする。また水をかく音が聞こえて、周りが少しだけ騒がしくなる。
競泳選手を育成する我が社の日常風景は、黄色い声はなくとも、ひそひそと誰がいい、どれがいいと値踏みする声がした。
その中で一番人気なのは和多奏太くんで、確かに漆黒の襟足が伸びた黒髪、妖艶なルックス、綺麗についている筋肉など、女性たちに言わせれば、そう言うだろう。
私も、その実は、彼の襟足の先にあるうなじが好きなのだ。
我ながらニッチだなっと思うけれど、伸ばした髪をゴムで結んだ時の音が、合図に和多くんを見てしまう。
今日は弊社の方針で土曜日まで練習だ。
嫌がる人もいれば、リレーの練習に時間を費やすこともある。
私は、選手ではない。
ただのオーナーの娘で、ここにいる女子選手たちのトレーナーだ。
「みなさーん、私たちも練習ですよお」
男子に魅了されていた女子たちを引き戻して「はあい」という言葉をもらい隣接するプール前に集まる。
私はちらりと男子の、和多くんが仲間内で勝負していただろう、キャップを脱いで晒されるうなじにときめく。
なんで、こんなにもドキドキするのか分からない。
「香山さあん、ストレッチ終わったよー」
呼ばれて、肩が跳ねる。
「ははは、はいっ、じゃあ、いつも通り、身体を水に慣らすことから」
職務怠慢、職務怠慢と唱えながら、こちらに集中する。しっかりしなければ、
私だって選手を育てるトレーナーなのだ。
「はあ」
休憩時間にため息をつく。
いや、ため息をついても、これは選手たちの結果を憂いて訳ではなく。
今日もちらちらと男子を見てしまった。
しかも見やすい男子のプールが見えるところに陣取って「見えるのは仕方ないですよね」みたいな感じで。
私は和多くんが好きなのだろうか。
感情としては、うなじが好きなのだ。
あの黒髪の隙間から見える、首元からうなじにかけての『線』
これまで生きてきて初めての感情に翻弄されている。
だったら手とか背中とか分かりやすいところが好きだとよかったのに。
よりにもよって『うなじ』
しかも少し長い髪をまとめてゴムで止めた瞬間に見えるうなじなど、なんか変態だ。
そんなに悩んでいても時は過ぎて、
「――さんは、明日から身体作りでジムに直接行ってください。あとは――」
明日の日程を伝えて「おつかれさまでした」と頭を下げる。
「お疲れ様でした!」
一斉に聞こえた声に笑いかけ、さあさあ終わりだ終わりだと女子はシャワー室に入っていく。
見送ってから、最後のおさらいとして各選手のデータを見ながら、今後の方針を考える。うちは強豪とは言え、気を抜けば他に追い越されてしまう。
オリンピック選手も輩出しているのだ。気は抜けない。
床をぺたぺたと歩きながら「ん?」と気づく。
バッと見れば男子プールの方で倒れている人がいるではないか。
「きゅ、きゅ」
ポケットに入っていたスマフォを取り出したが、とりあえず、様子を見なければと寄っていくと、
「わ、和多、くん」
横向きになりながら規則的に呼吸しているところで、安心のため息をついた。
どこか怪我をしている訳でもないし、呼吸異常もない。
寝てるだけ? と手を出す。そして手は横を向いているおかげで『うなじ』に触れそうだった。
あれ、いいのかな、これ。でも、チャンスじゃない。この柔らかそうで、筋が通った硬そうな感じもする。うなじを触って――。
右手が伸びる。
瞬間、手首を掴まれて寄せられた。
「わっ」
胸板に身体をぶつけて「うう」と起き上がろうとして目を開けると、目の先には和多くんがいっぱいで、身を引こうとしても引っ張られたせいで変な体勢に、和多くんに上から押し倒しているような形だ。
「あっ」
「どうしたわけ?」
それは私が言いたい。今にもキスをしそうな距離でバリトンの声は耳に悪い。
「ねて、寝てる? 倒れているって」
ダメだ。今にもキスしそうで近い。
なんで寝てるかなんて、もうよくて、この状況がヤバい。
早く建て直さないと、と、
「右手、右、離して、起きるから」
「……よく、オレのこと見てるよね」
はいっ!? と声を出したいのに、うまく口が動かない。
「トレーナーから見ておかしなところある?」
とりあえず、今は起きたいのだが、甘い声が耳に届き。キスが。
「それは、ですね。起きるので」
ぐっと右手を掴まれる力が強くなる。
なんで、こんなことになってるんだろう、と思った瞬間。
「――んっ」
唇が重なった。でも、すぐさま離れて和多くんは私ごと持ち上げて起き上がると、
「なにか、間違った?」と挑戦的な言葉を私に言った。
「――ち」
「ち?」
「違います!」
持っていた電子パットを振りかぶり、私は止まって、こんなので殴ったら大変なことになると変に冷静になり、ぺたりと床に座り、唇を触る。
「いつもオレを見てるから。ダメだった? 香山さん、オレの好みなんだけど」
そういわれて、身体が熱くなる。
「好きだったら、こんなこともするんですか」
「……香山さん、いつも最後に点検して帰るじゃん、だから、びっくりするかもって思ったんだけど」
確かに倒れているかと思って駆け寄ったが。
「なにかあったって思ったんですよ」
絞り出した声に、和多くんは少し驚いたようで、
「ごめん。こんな試すようなことして」
「……私はあなたが好きなんじゃありません」
「じゃあ、どうして、オレを」
「あなたのうなじが好きなんです。以上。立ってください。もう閉めます」
すくっと立ち上がって、上から和多くんを睨みつけると、和多くんは慌てて立ち上がり、
「ほら、行ってください。施錠するので出入り口で待ってますから」
うっ、と詰まった顔付きの和多くんは男子用シャワー室に消えていく。
「~~っ、はあ、なにこれえ」
頭の中がパンクしている。キスされた? 好きだと思った? 急展開すぎる。
私が好きなのは和多くんのうなじなので、彼じゃない。
とりあえず閉めなければと、床を歩いて出入り口の扉前で和多くんを待つ。
だからって、ああいうことするか? 心配したのに。
いや、うなじを触ろうとしてた私も悪いのか? ぐるぐる考えていると半袖でズボンの和多くんがやってきて睨みつける。
「どうぞ」
扉を開いて促すが、和多くんは「ごめん」と口にした。
ごめんも何もないんだが、これが相思相愛でなかったら和多くんはセクハラ野郎として生きていかなければならないのだぞ? その言葉を飲み込んで、
「はい、どうぞ」と、もう一回、声をかける。
渋々といった様子で一歩前に出た和多くんが扉を掴んで、
「オレ、好きな人以外にあんなことしないから!」
とくん、と脈がうつ。
「じゃあ」と和多くんは扉をくぐっていった。
もし、間違えだったらどうするつもり?
確かに和多くんの女子人気は高い。誰もがではないが、あんな無理やりでも、ときめいてしまったのは、私が和多くんが好きだったからだ。
いや、まてまて、うなじが好き。そっち。
「あああ、明日からどうすればいいの!」
* * *
ぼーっとしながら鍵を使ってプールの扉を開くのが日常なのだが、
「和多くん」
その前に先客がいて、ちょっとだけ睨みつけた。
「香山さん、本当に、その、オレのうなじが好きって何?」
あああ、そこ気になるよね。そう言ったもんね。
「……そのままの意味です。あなたのうなじという部位が好きなだけで和多くん自身が好きなわけじゃありません」
「でも、うなじはオレの一部だよね? ということはオレのことが好きにならない?」
「なりませんね」
鍵を持ちながら、変な合戦を繰り返すと、
「信用できないかも知れないけど、オレ、香山さん好きだよ。うなじならいくらでも見ていいから」
そう言って和多くんは後ろを向いて伸びた襟足を持ち上げて、うなじを見せてくる。
んっ、綺麗な線。
「お試しでもいいから付き合いたい、ねえ、ダメ?」
そこに「ん」と声が出そうになって飲み込んだ。
練習している時の和多くんは、こんな子犬みたいな人ではなく、猛禽類とかの部類で勝利に貪欲な印象を持つのに、今、目の前にいるのは「くーん」と言いそうだ。
「香山さん、ダメ?」
「……あの不意打ちは許せません。付き合いません」
和多くんの身体をよけて鍵を回すと、とん、と目の前に腕が、
「しつこいっ」
言ってしまい、ぱっと和多くんの顔を見る。
そこには、本当に子犬がいた。
「ごめん」
扉が開いたら、和多くんは一目散に控え室に行ってしまい「えっと」と言葉が空中分解してしまう。
いや、これくらい言わないと、あんな倒れているかと思って近づいて、不意打ちなんていけないと思う。うん、そうだ。
そして、私は和多くんのうなじが好き。
それ以外、頭でも手でも胸筋でも、どうだっていい。
「おはよーございまーす」
びくっ震えると女子選手の岬さんがいて、今の見られてなかったよね、と思いつつ笑顔を作る。
「香山さん、和多くんと付き合うんですか」
しっかり、聞かれてたあ! と言うことで私は岬さんに事の顛末を話した。
「あー、男ってなんで、こうサプライズしたら相手は喜ぶとか考えるんでしょうね。いや、男女ともにか、サプライズは悪ですよ」
サプライズだったか分からないが、
「とりあえず、和多くんは香山さんのこと好きなのは確定ですよ」
岬さんは、ふんっと言って、うなじを思い出させてくれる。
「香山さんも、うなじ好きーと思っても和多くんのうなじが好きなんですよね。恋人同士になったら見放題ですよ」
「でも、デートしたいとか、その色々したいとかないんだよ。うなじを見てたの」
そう言っているとプールサイドに和多くんが現れて、こちらを向いて見るからに、しょんぼりしている。
「あーあーあれは重傷ですね。自分のことが好きだった相手が、ただの部位好きだったという真実は耐えられますかね」
「あんな顔をしてもダメですっ、岬さんも準備してくださいっ」
「はーい」
そこから他の選手たちが入ってきて挨拶を交わす。
ちらりと、他の人のうなじを見るが、和多くんよりときめかない。
和多くんという名のうなじは、この世に二度とないのだと感じて、私も落ち込む。
しかし、だからって付き合うのは違うだろう。それじゃあ、ずっと後ろを向いててくださいって言っているようなものだ。
そして、今日も今日とて練習が始まり、厳しい中、選手たちは己の身体を駆使していく。
で、タイムウォッチやら、アドバイスやらしている間に視線を感じる。
無視、無視、無視、絶対に今日は見ないぞ、と心に決めていたのだ、が。
パチンという音がする。髪をキャップにしまい、獲物を射止めんとまっすぐ前を向いていた。
ああ、かっこいい。
つんつん
「え、はい」
「あれ、いい感じの和多くんじゃないですか」
「なにいうてうてんで」
声が混線したことで岬さんが笑う。
「恋人同士になって、すべての時間をうなじ見せるでいいじゃないですか。他のものはあとからついてきますって」
そういうものか? と頭の中で会議をする。
確かにキスはびっくりしたけど、心から嫌だとは思わなかった。ただ手段が嫌だっただけだ。
なにか中途半端に感じて、私は彼の気持ちを蔑ろにしているのではないだろうか。
今日も今日とて練習は終わり、自主練の選手の様子を見ながらデータを整理する。大会も近いし、いいコンディションで出場させてあげたい。
集中していたせいか、はっと顔を上げた時には男子のコーチが「お疲れ様です」と言った時だった。
「ああ、お疲れ様です」
「和多が残りたいと言っているので、申し訳ありませんが見てやってくれませんか」
えええと思いながら「はい、分かりました」と答える。
残りたい理由は何か、本当に練習か、それとも。
「香山さん」
聞こえてきた声に顔を上げる。そこに最初の子犬はいなくて、
「計ってください。次の大会、自己ベスト出したいんで」
あれ、と思う。目が、岬さんの言う通り、なにかを狙わんとする瞳だ。
「うん、分かった」
ぱちん、と音がする。髪をしまってうなじが見えて、岬さんの言った通りの猛禽類の瞳が前を見据えている。
機械を弄って、
――オン・ユア・マーク――
――セット――
――ピッ――
ばざんっと水に潜っていく。種目はスクロール。腕が交互に上がり、蹴りは強く。前へ前へと進んでいく。端まで行ってターン。こちらに戻ってくる。
ぱしん、と壁を叩いたと同時にタイムウォッチを押すと、いつもより少し低いくらいで、
「くっ」
そ、と言いそうになったのか口を塞いで私を見る。
「いいじゃん、悪口でも。そんな強気が次に繋がるわけだし。焦りは禁物だけど」
キャップとゴーグルを取って私を見上げる。
「はいっ」
取ったら、くるりと向いてうなじを見せてきた。
私は、それが面白くて、そんなにも必死で、なんか楽しくて、
「あははは、はは、きゅう、に、はは、なに」
「見たいと思って! 触ってもいいですよ!」
なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。うなじだけが好きだとか、本当は違うよね。
「ねえ、和多くん」
そう言いながら、うなじを触る。
「私ね、きみが髪をまとめるパチンていう音が好きなの。そして髪をキャップに入れてゴーグルをする前の目が好き。で、見えるうなじが好き」
「香山さん?」
「まだ身体の一部だけしか好きじゃないけど、それでいいなら付き合おうか」
「やっ」
たーという言葉を飲み込んだ和多くんは、真剣な表情で、
「よろしくお願いします!」と子犬の顔になった。
そして、ざばんとプールから身体を出すと、私を抱きしめながら、
「オレは香山さんの目が好きです。優しい目が好きです。大好きです」
子犬を撫でながら、少しだけ上体を離して、ちょっとしたキスをしたあと、おでこを当てて、くすくすと笑い合った。
こんなに大きくて、こんなに頑張り屋で、やるときはやる、でも子犬な彼が私は『好きになってしまったのだ』
「あ、でも、だいたいの時間半分はうなじ見せてね」
「えーっ!?」
プールに響く声に、また私は笑ってしまった。

