未完成のティラミス

そのとき「次の料理にあわせてこちらを」と声をかけてきたのは、見慣れた顔の内田圭太だった。

圭太は、ピシッとクリーニングから帰ってきたばかりの真っ白いシャツを着て、爽やかな笑顔を見せていた。ワインボトルを抱く手は、シェフとは違うけれど、大切な料理を届ける清潔で美しい手をしていた。
その笑顔も、まるでシチリアの太陽を浴びたような明るさと清々しさ。
コン・ブリオにふさわしいスタッフ…と思った瞬間だった。

「あれ、智香さん?!」

圭太は目を丸くし、休憩時のモードの口調になって、驚いている様子が表情に、そして動揺している様子が指先までも含めた全身に現れていた。

「す、すみません!雰囲気が全然違ったんで驚いちゃって!」

智香は思わず呆れたような顔を浮かべてしまった。
正直というか、素直というか、なんというか。

先ほどまでの上質な雰囲気が崩れていく。それでも、ある意味正しいリアクションでもあった。智香自身も中身なんか変わらなくて、ただただ見かけだけかっこつけているだけなのだ。
招待でもしてもらわなければ一流レストランのディナーなど行けない。金額とかそういうことだけでなく、分不相応というやつ。

ふと智香が見ると、グラスには大人びた口紅の赤い色が跡をつけていた。きっと唇の色が薄くなったぶん、今の自分は少し幼い顔になっているだろう。
そんな智香の心情など何も気づいていない圭太はワインを注ぎながら言った。

「あの、変って意味じゃないですよ!すごく、ええと、すごくいい感じです!ごゆっくりお楽しみください!」

そうして彼はやや騒がしい足取りで厨房のほうに去って行った。ワイングラスには、なみなみと注がれた澄んだ黄金色の液体がまだ揺れていた。
その一口目を味わっていると、プリモピアットを右手に持ちながら少し笑って現れたのはオーナーシェフだった。

「ようこそ、コン・ブリオへ」
「石崎シェフ!今夜はお招きいただきありがとうございます!」

元気よく挨拶する智香にシェフが笑った。

「あのあとは、ゆっくり休めたかい?」
「はい!賄いの時間を狙ったんですけど、寝すぎちゃって。すみません、ディナータイムにおじゃましてしまいました」
「いや、仕事中には味わえないものもたくさんあるだろうから、楽しんで行って。ワインも好きなだけどうぞ」

そう言って、石崎シェフがテーブルに置いて行った旬の鮭ときのこを使ったパスタを口に運ぶ。オイルのコクのある味わいは、先ほど圭太が注いでくれたシャルドネと相性のよい1品だった。料理にあわせて選んで注いでくれた一杯のグラスワイン。智香の手元でたゆたう淡いゴールドの液体が店内のあたたかいライトで柔らかく光っていた。

確かに、収録や撮影、打合せ等で訪れているときには味わうことができない。この空気も、なにもかも。

料理から視線を店内に向けると、笹井マネージャーが新しく来店した老夫婦を席に案内していて、厨房の奥のカウンターからは粕谷君が湯気の立つ真っ赤なトマトのパスタを差し出していたり、そしてそれを大事そうに両手で持って、ゆっくりと客席に向かう内田圭太がいた。
そのとき智香は石崎シェフの言葉を思い出していた。

「うちのスタッフも必死なんだ」

予定外のスケジュールに徹夜したり、寝すぎたりするテレビマンだけでなく、今日一日を全うするために、自分の仕事と向き合っている人たち、すべて。

もう一度視界に入る、若い彼。どこか慌ただしい素振りながらも、明るい顔つきで料理の説明をして、鳴り響く電話に出て、次の料理を運んで、ちょっとグラスを落としそうになりながらも笑って、楽しげに動き回る圭太を見ながら、‘未完成な仲間’と智香は思った。
そしてまた明日からも頑張ろう、とも。