未完成のティラミス

都内にあるイタリアンレストラン、コン・ブリオのロッカールームで制服の白いシャツに着替えて内田圭太は鏡の前でもう一度全身をチェックする。切りそろえられた爪の揃う清潔な指先でそっと短い前髪を右に流すと、鏡越しの自分と目が合う。にっと口を横に開いて丁寧に磨いた歯を確認すると、もう一度右手で前髪を軽く整えた。

「気合入ってるねえ」

背後から声をかけてきたのは笹井マネージャー。
鏡には映らないその姿に圭太は驚いて思わず肩を震わせた。
スケジュールが記載されたホワイトボードを確認しながら笹井は言う。

「今日の予定は…テレビ局の撮影が入るんだっけ。智香ちゃんが来るのか」

そう言って圭太を見る笹井の視線はどこか楽しんでいるようである。

「来るのは午後からだから、昼休みに整え直したほうがいいと思うよ」
「ホール準備行ってきます!」

笹井の言葉から逃げるように慌てて、わずかに頬を赤らめたまま圭太はロッカールームを飛び出した。無香料のワックスを軽くつけて整えたはずの前髪はすでにいくらか乱れている。

智香ちゃん、と呼ばれているのは都内某テレビ局でディレクターをしている大澤智香という女性だ。
智香はオーナーシェフ石崎哲也の妻、綾乃の後輩で、何度かアシスタントディレクターとしてコン・ブリオに訪れていたことがあったが、ディレクターに昇格した現在は取材の相談や現場のとりまとめなど忙しそうにしている。

いつもジーンズにシャツかニットというカジュアルないでたちで、すっぴんかと思うような適当なメイク。初めて見た頃にボブだった髪の毛は少しずつ伸び、今では肩につく長さまで伸びた。それを撮影時にまとめる仕草ひとつでも、圭太は視線を奪われてしまうようになっていた。

いつからか彼女は副業としてコン・ブリオが週に1回公開している動画の撮影・編集に携わるようになり、店を訪れる頻度も増え、圭太と顔を合わせる機会も増えた。
たまにやってくる彼女の元気な様子に、無邪気な笑い声に、惹かれないほうが難しいと圭太は思う。

そういった圭太の心情に気づいてか気づかずか、笹井マネージャーが何気なく話題を振ったところ、どうやら彼氏らしい存在がいないことだけは確かだ。だからと言って自分がそれに一番近い存在とは全く思えないのだが、彼女が来る日はやはりいつもより気合が入ってしまう。少しでも近づきたくて、特別になりたくて。