イーサンとアナベルが馬車に乗り込むと、ソフィアは馬を走らせた。
アナベルの両親やアイザックたちが乗った馬車も後ろを走る。
窓から一瞬古屋敷が見えたものの、すぐに風景の一部と化した。
アナベルは、別れたばかりのヘンリーのことが頭から離れなかった。彼がなぜ蛮行を行ったのだろうかと、何日も考えたがはっきりとした答えは出ない。
だが、バーンズ家と因縁があった貴族の屋敷を選んだ事に、彼の意思が読み取れる気がするのだ。
かつてバーンズ家に遊び感覚で債務を負わせた貴族たちは、今では軒並み爵位を取り上げられている。
主人の不貞による家族崩壊、脱税による逮捕、事業や領地の経営不振による自己破産。彼らは人の不幸に付け込み私腹を肥やしていたと聞いている。身を滅ぼしたのも身から出た錆。なのだろうが、アナベルには彼らの没落の背景には、ヘンリーが関わったのだと妙な確信があった。
ならば、だ。ベルナルド家に関連した伯爵を、婚約者に選んだのも意味がある気がしてならない。
かつて、ベルナルド家との早すぎる婚約に1番渋ったのはヘンリーだ。王に贔屓にされている侯爵家ならば、家のさらなる復興の足がかりになるはずにも関わらず、である。渋っておきながらロベールと婚約解消した今、キャンベル侯爵家ではなく伯爵を選んだ理由は何か。
もしかしたら……ベルナルド家も復讐の対象だったのではないか。
確たる証拠はない上、祖父の思いなど全く慮れない。ヘンリーは常に単独で行動してきた。自身の息子であるチャーリーでさえ、一緒に過ごした時間は短い。
アナベルの婚約が決まってからはよく顔を合わせていたが、それも父に家督を譲った後はどこかに姿を消した。年に数度、手紙や贈り物が一方的に送られてくるばかりで、こちらからは連絡が取れない。関わりはほとんどなかった。
呆れるほど無愛想な人で、楽しいことなど一切しないため、思い出は全くない。特に妹たちには祖父という存在が希薄なのだ。
それでも、毎年欠かさず贈られてくるプレゼントはとても嬉しかったし、幼い頃に交わした会話のいくつかは今のアナベルを作った大事な時間であったのだ。
両親や妹たち……実際にイーサンに手を掛けたなら恨んだだろうが、結局彼自身、誰も傷つけはしなかった。
怒りよりも、悲しみや寂しさの方が強い。
理解できない、わからない、いやわかり合おうとされない。いっそ幼い頃から洗脳した方がことは容易かっただろうに、ヘンリーは未干渉という手段をとった。
もう二度と、一緒に美味しいものは食べられないのだろうか。祖母の思い出も、共有できないのか。その苦労を、彼の人生を理解できなくても、知ることすら叶わないのか。
流れていく景色を眺めながら、想いに耽っていると、イーサンが頬を拭うように指が触れた。
彼女はその時、己の目尻から涙が一筋流れていたことに気がついた。一度自覚してしまえば、勝手に涙は溢れ出す。
アナベルは静かに涙を流し続けた。
涙が止まる頃、サイドハウス・ノアに馬車はたどり着いた。森林特有の空気の冷たさが、感情で沸いた熱を落ち着かせ、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
アナベルたちの姿に、出迎えた使用人たちはとても喜び主人達に知らせに走る。
アナベルの妹、ミラとエメ一目散に抱きついてきた。二人は両親と姉の帰還を喜び、安心のあまり涙を流している。
続いてレティシアにも抱きしめられる。デービッドも帰還した全員に優しく微笑んだ。
「ご心配を、おかけいたしました」
「無事でよかったよアナベル。夫妻も、ゆっくり休みなさい。イーサン、アイザック、ソフィア、そしてカイ。危険な中よく帰ってきてくれた」
「無事に帰ってきて、本当に良かった。あぁ……!」
妹たちと夫人からの抱擁が終わると、アナベルはポーラたち使用人らに深く頭を下げられる。
「事件が起こる直前に、近くにいながら助けられず……申し訳ありませんでした!」
特にスーニーは目を腫らしていた。
今回の出来事はヘンリー、つまりはバーンズ家の身内争いに巻き込んでしまった。むしろアナベルが謝るべきだ。口を開こうとした彼女の手に、ポーラが何かを握らせた。見れば、魔術をかけられる前に落としたブローチであった。傷もない宝石は、主人との再会にきらりと煌めいた。
「宝石には力がございます。我々はどうやら助けられたようです。しかし次は絶対に、起こさせません。ご無事にお戻りくださり、大変嬉しゅうございます」
「……えぇ、信じるわ。私も、またみんなに会えて嬉しい」
アナベルは両手を広げる。それを合図に、女性使用人たちは身を寄せ合った。巻き込まれたオリバーや、レイモンドの若い男性使用人たちは悲鳴にも似た声をあげる
「イーサン様! 不可抗力ですから!」
「わーっっ! 離してっっっ」
「別に何も言ってないよ私は」
ナルシスやジャック、イシカワがカイの肩を叩き、健闘を褒め称えていた。
「みなさま、お部屋をご用意しております。心ゆくまでおやすみください」
いつの間にか、普段のメイド服へ着替えていたソフィアの声がホールに響く。
(あぁ、帰ってきたんだわ。本当に)
みんな無事にいる。いつも通りの光景にアナベルは、心の片隅には悲しさは残っていても、満ち足りた充実感と多幸感に包まれた。
✴︎
「あぁ、髪がすこし傷んでおりますね…!これはいけませんよ!」
『休む前に汗を流しましょう』とアナベルたちは順番に入浴を済ます。
香りの良い湯に浸かり、マッサージを施されれば、コリ残っていた緊張も解けきり、眠くなってしまった。
髪や爪、肌も念入りに手入れされ、すっかりピカピカになった。アナベルはあくびを耐えながら部屋に戻る。
ポーラたちによって整えられたアナベルの部屋。藤素材の家具に、軽やかな麻生地のカーテン。肌触りの良い真っ白なシーツや布団。目に優しい観葉植物や、色鮮やかな花々。そして、部屋は爽やかな香りに満ちている。なんと落ち着くことか。
「おねぇさま……」
アナベルが久しぶりの自室に感動していると、母親に抱っこされたミラとエメが訪れた。
「おねぇさま、一緒に寝よ?」
「かーさまも、ねよ?」
離れたくないとスカートを握る可愛い子たちを、誰が無碍にできるだろうか。
少しだけ狭いベッドに寝転び、身を寄せ合う。
心の底から疲れていたアナベルはベッドに潜り込んだ瞬間に、夢の世界へと羽ばたく。
そのまま一日、ゆっくり、ぐっすり。
……とはいかなかった。
アナベルはとても、とても美味しそうな匂いで目が覚めたからだ。
一緒に寝ていたアーニーたちも起きてしまうほど、無視できない誘惑が充満している。
時計を確かめると、朝の7時。
呼び出し鈴を鳴らせば、ポーラが部屋に来てくれた。部屋を満たす匂いについて聞けば、彼女は微妙な顔で「お疲れでなければ、ぜひ」と扉を開け放つ。
なんだ。思わせぶりな態度をとるじゃないか。
好奇心が優った四人はポーラについて行く。そこは食堂で、広いテーブルには呆れるほどの料理が並んでいた。
席には一人、イーサンがいた。汗を流してラフな格好に着替えた彼が、料理を取り分け好きなものを食べているが、すでにお腹がいっぱいなのだろう。進みが遅い。
「起きたんだね。具合はどう?」
イーサンはアナベルたちに気がつくと立ち上がった。大股に彼女たちの元へと歩み寄る。心配そうに体調を聞かれた女性たちは、しっかりと頷いた。
「全然大丈夫よ。美味しそうな匂いがしたから起きちゃって…」
「ご覧の通り。アイザックがたっっっっくさん料理を作ってるんだ」
「た」と「く」の間の溜めが全てを物語っている。アイザックも今回の事件で疲れているのではないのか?物言いたげなアナベルに、ポーラが肩をすくめ、両手を挙げている。彼女が言葉を失うほど、アイザックを誰も止めれない様子。本当に何が起こっているというのか。
気になることはあるが、それにしても、なんと空腹を刺激する香りと見た目だろうか。味も絶対に格別な美味しさに違いない。アーニーもミラ、エメですら目を輝かせて、料理に釘付けになっている。
ぐぅ……とお腹の音が鳴った。
ぐぅぅぅぅ。今度はより大きく再び鳴る。
アナベルは薄い腹を撫でる。もう我慢できない。
「…お腹、すいた」
「あぁ待ってたよ。さあ、一緒に食べよう!」
アナベルの両親やアイザックたちが乗った馬車も後ろを走る。
窓から一瞬古屋敷が見えたものの、すぐに風景の一部と化した。
アナベルは、別れたばかりのヘンリーのことが頭から離れなかった。彼がなぜ蛮行を行ったのだろうかと、何日も考えたがはっきりとした答えは出ない。
だが、バーンズ家と因縁があった貴族の屋敷を選んだ事に、彼の意思が読み取れる気がするのだ。
かつてバーンズ家に遊び感覚で債務を負わせた貴族たちは、今では軒並み爵位を取り上げられている。
主人の不貞による家族崩壊、脱税による逮捕、事業や領地の経営不振による自己破産。彼らは人の不幸に付け込み私腹を肥やしていたと聞いている。身を滅ぼしたのも身から出た錆。なのだろうが、アナベルには彼らの没落の背景には、ヘンリーが関わったのだと妙な確信があった。
ならば、だ。ベルナルド家に関連した伯爵を、婚約者に選んだのも意味がある気がしてならない。
かつて、ベルナルド家との早すぎる婚約に1番渋ったのはヘンリーだ。王に贔屓にされている侯爵家ならば、家のさらなる復興の足がかりになるはずにも関わらず、である。渋っておきながらロベールと婚約解消した今、キャンベル侯爵家ではなく伯爵を選んだ理由は何か。
もしかしたら……ベルナルド家も復讐の対象だったのではないか。
確たる証拠はない上、祖父の思いなど全く慮れない。ヘンリーは常に単独で行動してきた。自身の息子であるチャーリーでさえ、一緒に過ごした時間は短い。
アナベルの婚約が決まってからはよく顔を合わせていたが、それも父に家督を譲った後はどこかに姿を消した。年に数度、手紙や贈り物が一方的に送られてくるばかりで、こちらからは連絡が取れない。関わりはほとんどなかった。
呆れるほど無愛想な人で、楽しいことなど一切しないため、思い出は全くない。特に妹たちには祖父という存在が希薄なのだ。
それでも、毎年欠かさず贈られてくるプレゼントはとても嬉しかったし、幼い頃に交わした会話のいくつかは今のアナベルを作った大事な時間であったのだ。
両親や妹たち……実際にイーサンに手を掛けたなら恨んだだろうが、結局彼自身、誰も傷つけはしなかった。
怒りよりも、悲しみや寂しさの方が強い。
理解できない、わからない、いやわかり合おうとされない。いっそ幼い頃から洗脳した方がことは容易かっただろうに、ヘンリーは未干渉という手段をとった。
もう二度と、一緒に美味しいものは食べられないのだろうか。祖母の思い出も、共有できないのか。その苦労を、彼の人生を理解できなくても、知ることすら叶わないのか。
流れていく景色を眺めながら、想いに耽っていると、イーサンが頬を拭うように指が触れた。
彼女はその時、己の目尻から涙が一筋流れていたことに気がついた。一度自覚してしまえば、勝手に涙は溢れ出す。
アナベルは静かに涙を流し続けた。
涙が止まる頃、サイドハウス・ノアに馬車はたどり着いた。森林特有の空気の冷たさが、感情で沸いた熱を落ち着かせ、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
アナベルたちの姿に、出迎えた使用人たちはとても喜び主人達に知らせに走る。
アナベルの妹、ミラとエメ一目散に抱きついてきた。二人は両親と姉の帰還を喜び、安心のあまり涙を流している。
続いてレティシアにも抱きしめられる。デービッドも帰還した全員に優しく微笑んだ。
「ご心配を、おかけいたしました」
「無事でよかったよアナベル。夫妻も、ゆっくり休みなさい。イーサン、アイザック、ソフィア、そしてカイ。危険な中よく帰ってきてくれた」
「無事に帰ってきて、本当に良かった。あぁ……!」
妹たちと夫人からの抱擁が終わると、アナベルはポーラたち使用人らに深く頭を下げられる。
「事件が起こる直前に、近くにいながら助けられず……申し訳ありませんでした!」
特にスーニーは目を腫らしていた。
今回の出来事はヘンリー、つまりはバーンズ家の身内争いに巻き込んでしまった。むしろアナベルが謝るべきだ。口を開こうとした彼女の手に、ポーラが何かを握らせた。見れば、魔術をかけられる前に落としたブローチであった。傷もない宝石は、主人との再会にきらりと煌めいた。
「宝石には力がございます。我々はどうやら助けられたようです。しかし次は絶対に、起こさせません。ご無事にお戻りくださり、大変嬉しゅうございます」
「……えぇ、信じるわ。私も、またみんなに会えて嬉しい」
アナベルは両手を広げる。それを合図に、女性使用人たちは身を寄せ合った。巻き込まれたオリバーや、レイモンドの若い男性使用人たちは悲鳴にも似た声をあげる
「イーサン様! 不可抗力ですから!」
「わーっっ! 離してっっっ」
「別に何も言ってないよ私は」
ナルシスやジャック、イシカワがカイの肩を叩き、健闘を褒め称えていた。
「みなさま、お部屋をご用意しております。心ゆくまでおやすみください」
いつの間にか、普段のメイド服へ着替えていたソフィアの声がホールに響く。
(あぁ、帰ってきたんだわ。本当に)
みんな無事にいる。いつも通りの光景にアナベルは、心の片隅には悲しさは残っていても、満ち足りた充実感と多幸感に包まれた。
✴︎
「あぁ、髪がすこし傷んでおりますね…!これはいけませんよ!」
『休む前に汗を流しましょう』とアナベルたちは順番に入浴を済ます。
香りの良い湯に浸かり、マッサージを施されれば、コリ残っていた緊張も解けきり、眠くなってしまった。
髪や爪、肌も念入りに手入れされ、すっかりピカピカになった。アナベルはあくびを耐えながら部屋に戻る。
ポーラたちによって整えられたアナベルの部屋。藤素材の家具に、軽やかな麻生地のカーテン。肌触りの良い真っ白なシーツや布団。目に優しい観葉植物や、色鮮やかな花々。そして、部屋は爽やかな香りに満ちている。なんと落ち着くことか。
「おねぇさま……」
アナベルが久しぶりの自室に感動していると、母親に抱っこされたミラとエメが訪れた。
「おねぇさま、一緒に寝よ?」
「かーさまも、ねよ?」
離れたくないとスカートを握る可愛い子たちを、誰が無碍にできるだろうか。
少しだけ狭いベッドに寝転び、身を寄せ合う。
心の底から疲れていたアナベルはベッドに潜り込んだ瞬間に、夢の世界へと羽ばたく。
そのまま一日、ゆっくり、ぐっすり。
……とはいかなかった。
アナベルはとても、とても美味しそうな匂いで目が覚めたからだ。
一緒に寝ていたアーニーたちも起きてしまうほど、無視できない誘惑が充満している。
時計を確かめると、朝の7時。
呼び出し鈴を鳴らせば、ポーラが部屋に来てくれた。部屋を満たす匂いについて聞けば、彼女は微妙な顔で「お疲れでなければ、ぜひ」と扉を開け放つ。
なんだ。思わせぶりな態度をとるじゃないか。
好奇心が優った四人はポーラについて行く。そこは食堂で、広いテーブルには呆れるほどの料理が並んでいた。
席には一人、イーサンがいた。汗を流してラフな格好に着替えた彼が、料理を取り分け好きなものを食べているが、すでにお腹がいっぱいなのだろう。進みが遅い。
「起きたんだね。具合はどう?」
イーサンはアナベルたちに気がつくと立ち上がった。大股に彼女たちの元へと歩み寄る。心配そうに体調を聞かれた女性たちは、しっかりと頷いた。
「全然大丈夫よ。美味しそうな匂いがしたから起きちゃって…」
「ご覧の通り。アイザックがたっっっっくさん料理を作ってるんだ」
「た」と「く」の間の溜めが全てを物語っている。アイザックも今回の事件で疲れているのではないのか?物言いたげなアナベルに、ポーラが肩をすくめ、両手を挙げている。彼女が言葉を失うほど、アイザックを誰も止めれない様子。本当に何が起こっているというのか。
気になることはあるが、それにしても、なんと空腹を刺激する香りと見た目だろうか。味も絶対に格別な美味しさに違いない。アーニーもミラ、エメですら目を輝かせて、料理に釘付けになっている。
ぐぅ……とお腹の音が鳴った。
ぐぅぅぅぅ。今度はより大きく再び鳴る。
アナベルは薄い腹を撫でる。もう我慢できない。
「…お腹、すいた」
「あぁ待ってたよ。さあ、一緒に食べよう!」

