バン! ババン、バン! バン! バン、バン! バンバンバン、ババン!
0時の鐘と共に屋敷の明かりが消え、耳が痛くなる派手な爆発音が響いた。鍵が開けられた部屋からアナベルは駆け出した。走りやすいようドレスの端を持ち上げ、走る走る走る走る走る。1階から慌ただしい声も聞こえる。微かに焦げ臭いにおいもするが、アナベルは何も振り返らずにメモの指示の通りに行動する。
イーサンからの脱出計画はシンプルで、ゴールドポイントだけ書かれていた。ただアナベルにはそれだけで十二分だ。足には自信がある。何かあっても、絶対に乗り越えてくる。部屋から出て左に曲がり、まっすぐ走る。奥から4番目の部屋に飛び込み、通路へ。先の階段は上へ。廊下を右にまっすぐ進む。1番奥の部屋。指示された場所の扉を開き飛び込んだ。
この先にさらに道が……ない。メモに書かれていたはずの道が無い。覚え間違えたのか。それとも道を間違えたのか。いや、違う!
(落ち着いて、落ち着いて……)
アナベルは謎の単語と記号を思い出しながら、何か気づけないかと部屋を見渡した。
(この部屋……狭い?)
外から見た外観からと部屋のサイズ感が壁はやけに重厚で、狭い。
アナベルは持ち得る情報を繋ぎ合わせる。ラドン家は戦後取り潰された。なら栄華を誇っていたのは戦時後まで。戦時中の建物には、地下防へ室内から逃げるように作られた、隠し通路がある。
(そういうことね……!)
アナベルは再び目の前を阻む壁に目を向けると、明らかに違和感のある柱を見つけた。力を乗せて押せば、隠し通路が現れた。画廊の主人が話してくれた通り。隠されていた通路は、一人が通れるほど狭いが、頑丈に作られていた。何年も使われていなかった空間が外からの空気を吸い込んだのか、砂埃が巻き上がる。
アナベルは埃にまみれる事も気にせず、ずんずん進む。すると鉄の梯子が掛けられている。アナベルが降りると、そこは下水路に繋がっていた。脳裏に浮かぶ地図には、この先二つ目に、梯子があるはず……あった! これだ! 細い踏ざんに足を掛けて、手で掴み登る、登る。上を向けば暗闇の中に、表情を変える衛星が満ちるように地上への穴が現れた。ぬるりと人影も現れる。
「アナベル!」
名を呼ぶ声が聞こえた。伸ばされた手に、アナベルは迷わず触れる。
声の主は引っ張り上げると、アナベルを強く抱きしめた。
五日ぶりの外は、夜といえど蒸し暑い。
目の前には、ライトグリーンの瞳がアナベルの姿を写す。
「イーサン……!」
「よかった。無事に来れて……」
その香りに包まれて。アナベルは涙が込み上げてきたが、ぐっと堪える。まだ敵地の中だ。安心はできない。
「さ、いこう」
彼に導かれて、通るのは細長く入り組んだ路地。確かにここを通れるのは女性か、子供か、彼の様に細い男性だけだ。屈強な男たちでは通れない。とにかくイーサンの手に引かれて走っていく。複雑な路地を抜けた先に、馬車がある。御者席にはソフィアが待っていた。
「今は急ぎましょう」
アイザックたちは、別の場所にもう一台用意した馬車で逃げる算段だ。サイドハウス・ノアで。アナベルたちに馬車に乗るよう促す。ソフィアは綱を握る手を挙げた。
「そこまでだ、イーサン・キャンベル」
がちゃり。
安堵の雰囲気を掻き消す、重く鈍い音が聞こえた。音がした先を見ればヘンリーがイーサンに銃を向けている。必死に追いかけてきたのだろう。汗は流れ、かなり息があがっているものの、銃口はしっかりとイーサンに向けられている。それでも確実にイーサンを撃ち抜く、その確証があった。
「動くな。動けばその瞬間コイツを撃つ」
イーサンは手を挙げ、御者席の優秀な母親の侍女に、何もしないよう今は留まるように示した。彼の目配せに、ソフィアは黙って頷く。
「妙な策を弄したみたいだが、小説のようにはいかないものだ。孫娘を返してもらおう」
「お断りします」
ヘンリーが舌打ちをする。乱れた前髪から、鋭い眼が2人を睨む。
「アナベル、隣の男を撃ち殺されたくはないだろう?」
ぞっと恐ろしさが込み上げ震えそうになり繋がる手を強く握れば、イーサンは彼女よりも強い力で握り返した。ふと見上げる隣の婚約者は、横顔だからか優しい目元は祖父に負けない鋭さがあった。
「ヘンリー様、身内であろうと監禁は犯罪です。まして本人の意図など関係ない婚姻など認められない。争うなら、待機させている憲兵に引き渡します」
「ハッタリはよせ小僧」
ヘンリーはせせら笑う。冷ややかに、自分と対峙しようとするひょろりとした若者を、さげずむ。イーサンが言うことが本当ならば、今すぐに憲兵を引き連れればいいのだ。この子供は、想い人をバーンズ家の今後も考えた上で、わざわざ脱出などという手を選んだのだ。まんまと引っかかった自分の耄碌さは今は脇に置く。
「そう考えるなら引けばいい」
老人の推量に、イーサンは一言で返す。長い付き合いの中でも、聞いた事の無い、冷たく、底の見えない低い声に、アナベルは隣の婚約者から目を離せない。
「欲しいならこの命くれてやる。だが確実に道連れにする。この命にかけられた思いを利用してでも、地獄の果てに必ず連れていく」
イーサンが浮かべたその表情。まるで闇から何かが見つめ返しているようであった。ひやりと冷気に体を震わせた。真夏であるのに、底冷えするような冷たさは、一体何か。対峙するヘンリーは、彼に男の面影を見た。
「……やはり、あのデービッド・キャンベルの息子か」
ヘンリーはハンマーを引く。
「だが、魂があるなら亡霊だろうと殺せる」
鈍く、乾いた音が耳に届く。鼓膜から、脳へと振動する人生で初めて聞いた音に、ヘンリーがイーサンを殺す意思を決めたのだと理解したアナベルは、一歩だけ、前に出た。イーサンと身体が重なるように。弾が自身にも当たるような位置に。
アナベルが共に撃たれる姿勢を見せ、イーサンとヘンリーは大きく動揺した。彼女の人生を壊す誘拐すら実行したヘンリー・バーンズであろうと、孫娘を撃つ覚悟まではしていなかったようだ。先程までブレが少なかった銃口が、小刻みに震え定まらなくなっている。
イーサンはアナベルの肩に触れた。彼だって最愛の人を巻き込みたくはない。
だが彼女はぴたりと体を合わせ、動こうとしなかった。
ヒヒィィィン!
場違いな嗎きと派手に回る車輪の音が、沈黙を打ち消す。
馬車から人が飛び出すと、呼び止める声も聞かず、イーサンとアナベルを庇うようにヘンリーの前に立ちはだかった。
「……何しにきた。小僧の逃げ道をわざわざ潰してたのか」
「このままでは貴方が彼を殺してしまう。だから来ました」
二人を庇うのはアナベルの父チャーリーだ。やってきた馬車はアナベルの両親とアイザックのために用意されたもの。娘と夫の元に駆けつけようとするアーニーは、アイザックの後ろで引き留められている。
「それがなんだ。お前には関係がないだろう。代わりにお前たちが撃たれても何も価値がない。どけ」
「イーサンの意志は変わりません。アナベルの覚悟を見たでしょう?もうやめてください」
いつでも球を発射できる銃を横に振る。それでもチャーリーは退こうとしない。
「大事な子供たちを守らない親がどこにいますか。今更と言われようと。貴方だってそうでしょう?」
「……無駄口を叩くな。どけ」
「閉じません。退きません。さっさと引けば良いのです。お父様……分かっているのでしょう? それは貴方のものだ」
チャーリーの言葉に、ヘンリーが目を剥いた。唇をワナワナと振るわす。緊張の糸が一気に張り詰め、今にも切れてしまいそうだ。
「私たちには関係がなくなったもの。貴方のおかげで。だから、アナベルに…貴方の孫たちには関係がない」
チャーリーはヘンリーと対峙したまま動かない。侮蔑も軽蔑もない。ただただ真っ直ぐ、父親を見据えている。
「負うならば、貴方の息子である私が負います」
短いような長いような、時間が流れた。
「あと少しで……」
夏の体にまとわりつく暑さよりも重々しい沈黙に沈む、小声でヘンリーが呟く。
「あと、少しで……!」
内側から毒を漏らすように呻いたヘンリーは、拳銃を改めて構え…そのまま下ろした。
「………………………………もういい。アレを敵に回すほどの利益はない」
ヘンリーは踵を返し、路地の闇へと溶けて行く。
「父さん!」
「おじいさま…」
たまらずヘンリーの名を呼ぶも、家族の呼びかけに振り向きもせず彼は闇に姿を消した。
「チャーリー様……」
チャーリーは振り向くと、イーサンに笑いかける。悲しい色を浮かべている彼は頷いた。
「すまないね。逃げ道を作ってくれたのに来てしまって。今回の事件も、本当に迷惑をかけてしまった。アナベルも……アナベル?」
アナベルの力が抜けて行く体を、イーサンが、チャーリーが、そして馬車で一連の流れを心臓を酷く痛めていたアーニーが駆けつけ支えても、アナベルは座り込んでしまった。
「もうあんなことはやめて。貴方がいないなら……逃げたって意味ないわ。お父様も、お母様もよ」
イーサンの肩に額を当てるアナベルの、彼女の消えそうな切実な言葉に、彼は体を寄せる。
「……うん。そうだね」
両親に優しく頭を撫でられ、アナベルは張っていた緊張が緩む。思わず涙腺が緩む。イーサンは柔らかく抱きしめた。
「はあ肝が冷えた……」
馬車からぬっと男が現れた。ヘンリーの周りに控えていた男たちと同じ格好であったためにアナベルは一瞬身構えたが、その声も顔はよく知る人物であった。
「………
…カイ?」
名前を呼ばれた、アイザックと歳の近い男は歯を見せニヤリと笑った。
「どうもお久しぶりです。積もり積もる話はありますが、とにかく今は離れましょう」
ヘンリーが去っても、他の男たちが追ってくるかもしれない。カイがここにいる理由は気になるところではあるが、今は彼が言う通り、ここから離れるべきだ。
「ノアに帰ろう。アナベル」
「えぇ。帰りましょう」
イーサンに手を引かれ、両親に支えられながらアナベルは立ち上がった。
0時の鐘と共に屋敷の明かりが消え、耳が痛くなる派手な爆発音が響いた。鍵が開けられた部屋からアナベルは駆け出した。走りやすいようドレスの端を持ち上げ、走る走る走る走る走る。1階から慌ただしい声も聞こえる。微かに焦げ臭いにおいもするが、アナベルは何も振り返らずにメモの指示の通りに行動する。
イーサンからの脱出計画はシンプルで、ゴールドポイントだけ書かれていた。ただアナベルにはそれだけで十二分だ。足には自信がある。何かあっても、絶対に乗り越えてくる。部屋から出て左に曲がり、まっすぐ走る。奥から4番目の部屋に飛び込み、通路へ。先の階段は上へ。廊下を右にまっすぐ進む。1番奥の部屋。指示された場所の扉を開き飛び込んだ。
この先にさらに道が……ない。メモに書かれていたはずの道が無い。覚え間違えたのか。それとも道を間違えたのか。いや、違う!
(落ち着いて、落ち着いて……)
アナベルは謎の単語と記号を思い出しながら、何か気づけないかと部屋を見渡した。
(この部屋……狭い?)
外から見た外観からと部屋のサイズ感が壁はやけに重厚で、狭い。
アナベルは持ち得る情報を繋ぎ合わせる。ラドン家は戦後取り潰された。なら栄華を誇っていたのは戦時後まで。戦時中の建物には、地下防へ室内から逃げるように作られた、隠し通路がある。
(そういうことね……!)
アナベルは再び目の前を阻む壁に目を向けると、明らかに違和感のある柱を見つけた。力を乗せて押せば、隠し通路が現れた。画廊の主人が話してくれた通り。隠されていた通路は、一人が通れるほど狭いが、頑丈に作られていた。何年も使われていなかった空間が外からの空気を吸い込んだのか、砂埃が巻き上がる。
アナベルは埃にまみれる事も気にせず、ずんずん進む。すると鉄の梯子が掛けられている。アナベルが降りると、そこは下水路に繋がっていた。脳裏に浮かぶ地図には、この先二つ目に、梯子があるはず……あった! これだ! 細い踏ざんに足を掛けて、手で掴み登る、登る。上を向けば暗闇の中に、表情を変える衛星が満ちるように地上への穴が現れた。ぬるりと人影も現れる。
「アナベル!」
名を呼ぶ声が聞こえた。伸ばされた手に、アナベルは迷わず触れる。
声の主は引っ張り上げると、アナベルを強く抱きしめた。
五日ぶりの外は、夜といえど蒸し暑い。
目の前には、ライトグリーンの瞳がアナベルの姿を写す。
「イーサン……!」
「よかった。無事に来れて……」
その香りに包まれて。アナベルは涙が込み上げてきたが、ぐっと堪える。まだ敵地の中だ。安心はできない。
「さ、いこう」
彼に導かれて、通るのは細長く入り組んだ路地。確かにここを通れるのは女性か、子供か、彼の様に細い男性だけだ。屈強な男たちでは通れない。とにかくイーサンの手に引かれて走っていく。複雑な路地を抜けた先に、馬車がある。御者席にはソフィアが待っていた。
「今は急ぎましょう」
アイザックたちは、別の場所にもう一台用意した馬車で逃げる算段だ。サイドハウス・ノアで。アナベルたちに馬車に乗るよう促す。ソフィアは綱を握る手を挙げた。
「そこまでだ、イーサン・キャンベル」
がちゃり。
安堵の雰囲気を掻き消す、重く鈍い音が聞こえた。音がした先を見ればヘンリーがイーサンに銃を向けている。必死に追いかけてきたのだろう。汗は流れ、かなり息があがっているものの、銃口はしっかりとイーサンに向けられている。それでも確実にイーサンを撃ち抜く、その確証があった。
「動くな。動けばその瞬間コイツを撃つ」
イーサンは手を挙げ、御者席の優秀な母親の侍女に、何もしないよう今は留まるように示した。彼の目配せに、ソフィアは黙って頷く。
「妙な策を弄したみたいだが、小説のようにはいかないものだ。孫娘を返してもらおう」
「お断りします」
ヘンリーが舌打ちをする。乱れた前髪から、鋭い眼が2人を睨む。
「アナベル、隣の男を撃ち殺されたくはないだろう?」
ぞっと恐ろしさが込み上げ震えそうになり繋がる手を強く握れば、イーサンは彼女よりも強い力で握り返した。ふと見上げる隣の婚約者は、横顔だからか優しい目元は祖父に負けない鋭さがあった。
「ヘンリー様、身内であろうと監禁は犯罪です。まして本人の意図など関係ない婚姻など認められない。争うなら、待機させている憲兵に引き渡します」
「ハッタリはよせ小僧」
ヘンリーはせせら笑う。冷ややかに、自分と対峙しようとするひょろりとした若者を、さげずむ。イーサンが言うことが本当ならば、今すぐに憲兵を引き連れればいいのだ。この子供は、想い人をバーンズ家の今後も考えた上で、わざわざ脱出などという手を選んだのだ。まんまと引っかかった自分の耄碌さは今は脇に置く。
「そう考えるなら引けばいい」
老人の推量に、イーサンは一言で返す。長い付き合いの中でも、聞いた事の無い、冷たく、底の見えない低い声に、アナベルは隣の婚約者から目を離せない。
「欲しいならこの命くれてやる。だが確実に道連れにする。この命にかけられた思いを利用してでも、地獄の果てに必ず連れていく」
イーサンが浮かべたその表情。まるで闇から何かが見つめ返しているようであった。ひやりと冷気に体を震わせた。真夏であるのに、底冷えするような冷たさは、一体何か。対峙するヘンリーは、彼に男の面影を見た。
「……やはり、あのデービッド・キャンベルの息子か」
ヘンリーはハンマーを引く。
「だが、魂があるなら亡霊だろうと殺せる」
鈍く、乾いた音が耳に届く。鼓膜から、脳へと振動する人生で初めて聞いた音に、ヘンリーがイーサンを殺す意思を決めたのだと理解したアナベルは、一歩だけ、前に出た。イーサンと身体が重なるように。弾が自身にも当たるような位置に。
アナベルが共に撃たれる姿勢を見せ、イーサンとヘンリーは大きく動揺した。彼女の人生を壊す誘拐すら実行したヘンリー・バーンズであろうと、孫娘を撃つ覚悟まではしていなかったようだ。先程までブレが少なかった銃口が、小刻みに震え定まらなくなっている。
イーサンはアナベルの肩に触れた。彼だって最愛の人を巻き込みたくはない。
だが彼女はぴたりと体を合わせ、動こうとしなかった。
ヒヒィィィン!
場違いな嗎きと派手に回る車輪の音が、沈黙を打ち消す。
馬車から人が飛び出すと、呼び止める声も聞かず、イーサンとアナベルを庇うようにヘンリーの前に立ちはだかった。
「……何しにきた。小僧の逃げ道をわざわざ潰してたのか」
「このままでは貴方が彼を殺してしまう。だから来ました」
二人を庇うのはアナベルの父チャーリーだ。やってきた馬車はアナベルの両親とアイザックのために用意されたもの。娘と夫の元に駆けつけようとするアーニーは、アイザックの後ろで引き留められている。
「それがなんだ。お前には関係がないだろう。代わりにお前たちが撃たれても何も価値がない。どけ」
「イーサンの意志は変わりません。アナベルの覚悟を見たでしょう?もうやめてください」
いつでも球を発射できる銃を横に振る。それでもチャーリーは退こうとしない。
「大事な子供たちを守らない親がどこにいますか。今更と言われようと。貴方だってそうでしょう?」
「……無駄口を叩くな。どけ」
「閉じません。退きません。さっさと引けば良いのです。お父様……分かっているのでしょう? それは貴方のものだ」
チャーリーの言葉に、ヘンリーが目を剥いた。唇をワナワナと振るわす。緊張の糸が一気に張り詰め、今にも切れてしまいそうだ。
「私たちには関係がなくなったもの。貴方のおかげで。だから、アナベルに…貴方の孫たちには関係がない」
チャーリーはヘンリーと対峙したまま動かない。侮蔑も軽蔑もない。ただただ真っ直ぐ、父親を見据えている。
「負うならば、貴方の息子である私が負います」
短いような長いような、時間が流れた。
「あと少しで……」
夏の体にまとわりつく暑さよりも重々しい沈黙に沈む、小声でヘンリーが呟く。
「あと、少しで……!」
内側から毒を漏らすように呻いたヘンリーは、拳銃を改めて構え…そのまま下ろした。
「………………………………もういい。アレを敵に回すほどの利益はない」
ヘンリーは踵を返し、路地の闇へと溶けて行く。
「父さん!」
「おじいさま…」
たまらずヘンリーの名を呼ぶも、家族の呼びかけに振り向きもせず彼は闇に姿を消した。
「チャーリー様……」
チャーリーは振り向くと、イーサンに笑いかける。悲しい色を浮かべている彼は頷いた。
「すまないね。逃げ道を作ってくれたのに来てしまって。今回の事件も、本当に迷惑をかけてしまった。アナベルも……アナベル?」
アナベルの力が抜けて行く体を、イーサンが、チャーリーが、そして馬車で一連の流れを心臓を酷く痛めていたアーニーが駆けつけ支えても、アナベルは座り込んでしまった。
「もうあんなことはやめて。貴方がいないなら……逃げたって意味ないわ。お父様も、お母様もよ」
イーサンの肩に額を当てるアナベルの、彼女の消えそうな切実な言葉に、彼は体を寄せる。
「……うん。そうだね」
両親に優しく頭を撫でられ、アナベルは張っていた緊張が緩む。思わず涙腺が緩む。イーサンは柔らかく抱きしめた。
「はあ肝が冷えた……」
馬車からぬっと男が現れた。ヘンリーの周りに控えていた男たちと同じ格好であったためにアナベルは一瞬身構えたが、その声も顔はよく知る人物であった。
「………
…カイ?」
名前を呼ばれた、アイザックと歳の近い男は歯を見せニヤリと笑った。
「どうもお久しぶりです。積もり積もる話はありますが、とにかく今は離れましょう」
ヘンリーが去っても、他の男たちが追ってくるかもしれない。カイがここにいる理由は気になるところではあるが、今は彼が言う通り、ここから離れるべきだ。
「ノアに帰ろう。アナベル」
「えぇ。帰りましょう」
イーサンに手を引かれ、両親に支えられながらアナベルは立ち上がった。

