レディ・クロックの夏休み〜働き者の令嬢は、婚約破棄により「お休み」いたします?!〜

 嫌でも精神に組み込まれた体内時計は、はっきりと時間を示す。
 朝の九時を迎えたと。

 扉をノックする音と、アナベルに起床を促す声がかかる。
 結局一睡もできなかったアナベル。三日間ろくに寝ていないために、鏡に映る姿は酷いものだった。いつもなら隈が、くすみがと身だしなみに気を使うが、彼女にはそんな気力すら残っていない。暗い顔を見つめるしかしないアナベルの様子は、夏の輝きを通り過ぎて、命すら消えた亡霊のようだ。

「失礼します」

 男がワゴンを引いて朝食を運び、料理をテーブルに並べていく。

(……?)

 その後ろ姿に、何故か見覚えがあった。男は手際良く食事をテーブルに並べていくと、執拗にお盆の1箇所を撫でた。

(なに?)

 男は入ってきた時同様、頭を下げると部屋の扉を閉めた。アナベルは急いで運ばれてきた食事を確かめる。
 男が最後に触れていた場所には、ナプキンの上にカトラリーが置かれており、その下に別の紙が挟まっていた。
 アナベルはゆっくり抜き取る。確かめると、屋敷の間取りに矢印、時刻。そばには謎の”G”と、細長い四角に囲まれた一つ大きな四角の記号。そして短くメッセージが書かれていた。

──同日ご両親もこちらで救出する。
  妹くん達は無事。

「ぁっ」

 歓喜の声が漏れそうになり、アナベルは慌てて口元を抑える。それでも心のそこから湧く喜びは抑えられず、身体を震わせた。
 イーサンの字だ。見紛うはずもない。間違えるはずがない。この7年間、近くで何度も見てきた彼の字だ。
 ならば食事を運んできたあの男。イーサンの身近に、他の黒服の中に紛れこめるほど背が高く、体格に恵まれた男性は1人しかいない。

(あぁ、イーサン……!)

 遠くにいるイーサンが、アナベルの折れた心を直して、力を与えてくれる。
 彼女は書かれた内容を何度も目でなぞり、記憶に収める。間違いなく覚えると、紙を細かく破り飲み込んだ。万が一事前にばれてしまえば脱出は困難だ。こんなに安心した瞬間はない。思わず涙が出そうになり、グッと堪えた。呼吸を繰り返し、落ち着かせる。

(大丈夫、大丈夫、大丈夫)

 安心の呪いをアナベルは繰り返した。

(私には信頼できる彼らがいるのだもの)

 あとは自分次第だ。アナベルは朝食を摂るために席についた。食べなければ力が出ない。
 相変わらず味はしないが、一口分ずつ運び、噛み締めて飲み込む。
 急に元気を取り戻しても違和感があるだろうと、アナベルはしおらしい態度で食事を摂るのだった。

✴︎


 監禁生活四日目。
 今日も今日とて優秀な体内時計は働く。五時に目が覚める。窓から差し込む、快晴の光。
 今夜は脱出だ。
 イーサンたちが迎えに来るとはいえ、気を抜いてはいけない。なにより、アナベル自身に何かあってはいけない。
 作戦を実行し、動き、逃げるための体は、己のもの。いざとなった時に働かせる脳みそも、己のもの。
 今朝の内に準備体操として静かに体を伸ばし、三食を厳かにしっかり食べて。ベッドの中に潜り絶望するふりをして、昼寝で体力を少しでも戻す。
 出来る事をどんなに些細なことでも、取り組む。アナベルにとって、1番身に染みているやり方だ。

(大丈夫)
(大丈夫)
(大丈夫)

 サイドハウス・ノアの自室を、家族との思い出を、夏休みの出来事を思い出し、心を何度も落ち着かせる。
 一日の時間は同じであるのに、今はやけに長く感じる。一ヶ月、あるいは数十十年が経ったかのようにも錯覚する。
 チク、タク、チク、タク。
 時計の針が回る、巡る、追いついてくる。
 アナベルは根気よく”その時”を待つ。

 チク、タク、チク、タク、チク、タク、チク、タク。
 ポーン。

 バン! ババン、バン!

 アナベルが運命から逃げ出す時を告げる音が、屋敷に響き渡った。