『アナベル』
声が聞こえた。暗闇から、柔らかな笑顔と細められたライトグリーンの瞳が浮かび上がる。
(イーサン……)
いかに自分が幸せだったのか。アナベルは痛感する。想う人がいて、大切に思ってくれる人々がいてくれた。
アナベルの感情は、徐々に鈍くなっていく。
三日目はあっという間に過ぎた。
なぜならアナベルは何もせず、ずっとベッドに潜り込んでいたからだ。食事も一切取らずに、ただ息を繰り返していた。
眠れるわけもなく時間ばかりが経っていく。灯りもつけていない部屋は真っ暗になっていた。
ギィィィ。
立て付けの悪い扉が音を立てながら、開く音がした。
「お前はもう少し、落ち着きを得たと思っていたがな」
訪れたのは、アナベルを絶望に突き落としている人物、ヘンリーだ。コツコツと、杖をつく音も耳に届く。アナベルは体を起こした。ヘンリーはゆっくり移動すると、椅子に腰を下ろした。
「……おじいさま、教えてください。なぜ私を無理矢理嫁がせようとするのです」
「どんな理由があれど、お前は家の名誉のために生きる義務がある。そのために、ベルナルド家に耐えてきたのだろう。その辛苦を、たかが浮気相手の妊娠程度で全て無駄にすると言うのか」
ヘンリーの声は、底の見えない洞穴に住まう熊のよう。いっそ物語であれば良い。現実逃避しようにも、今自分が逃げ出すことすらできぬ身であることは紛れもない事実。それでもアナベルは問わずにいられない。なぜこんな事をするのか。一体何が目的か。何を求められているのか。少しでも納得する材料が欲しいのだ。
しかしヘンリーの返答はアナベルを満足させるものではなかった。ベルナルド家も、元婚約者の浮気も、今は関係ないはずなのに。
「聞いても答えてくださらないのですね。貴方が一体何を思い、こんな蛮行をする羽目になったのか」
蛮行、の単語にヘンリーは口元を歪ませたのが、外からの白い明かりで見えた。笑っているような、怒っているようにも受け取れる複雑な表情であった。
「言ったらこちらに協力すると?」
「それはあり得ません。私は…ルロワ伯爵には嫁ぎたくありません」
アナベルはキッパリと断レバ、ヘンリーは忌々しげに顔を歪ませる。青白い彫りの深い顔つきも相まって、まるで蝋人形を思わせる。人形にも魂は宿るが、彼は呪いの類に違いない。
「私は知りました。イーサンと婚約し、ここに来て…私だって愛されて、愛する時間を過ごせることを知りました。家の繁栄だけでなく得たいものがあるのです。貴族として、成り上がりとして、アナベル・バーンズは一人の人間として生きたい。未来のためだけじゃなく、私は、今の幸せも願い、もがきたいのです」
アナベルの独白に、「幸せ、か」とヘンリーは呟いた。
「アナベル、お前の幸せとはなんだ」
「今はまだ、分かりません。けど伯爵と結婚することだけは違います」
「遊び呆けて脳が溶けたようだな」
間を置かずに言い放った、その声の苛立ちに、天を睨む祖父の眼光に、アナベルの心にわずかに残っていた希望は完全に打ち壊される。
「努力し続けることこそが、お前の生き抜き方ではなかったのか。それに幸せは環境を求めるのではなく、環境の中で幸せを見つける物だ。子供の戯言に自分を見失うな」
ヘンリーは立ち上がるとアナベルに背を向け、扉に歩いていく。
アナベルは項垂れ、綺麗な髪は乱雑にシーツに広がる。彼女の視界には、真っ白な布の海しか映らない。
カツン、カツン。彼が突く杖の音だけが軽快に響く。
「キャンベル家にも手は回してある。助けは来ないぞ」
「……しっています」
予想は付いていた。イーサンたちが離れてすぐの出来事。彼らが呼ばれたのは、ヘンリーの仕業に間違いないと。優秀な使用人たちでさえ、立ち去るアナベルに気が付かなかったのだ。奇跡でも起こらない限り、ひっそりと知らぬ男に嫁ぐ。
アナベルは顔を覆い、視界は暗闇に覆われる。
「ピンチの時に王子は来ない。魔法使いも。諦めこそ人生を生きやすくするコツだと、ベルナルド家で学んだだろうが」
そう言い残すと、ヘンリーは部屋から出て行った。
入れ替わるように、男が食事を持って部屋に入って来る。料理を並べ終えると、深々と頭を下げた。
「『せめて顔色だけでも整えておけ』とのことです。失礼します」
開かれた時同様、閉じる時も。立て付けの悪い鈍い、不気味な音が鳴る。
ガチャン。
そして重く、無機質な鍵がかけられる音が、アナベルにはやけに大きく聞こえてきた。
アナベルは力無く立ち上がると、目の前にあった物を口に運ぶ。
何も味を感じないそれを、ただ咀嚼し、彼女は飲み込むのであった。
声が聞こえた。暗闇から、柔らかな笑顔と細められたライトグリーンの瞳が浮かび上がる。
(イーサン……)
いかに自分が幸せだったのか。アナベルは痛感する。想う人がいて、大切に思ってくれる人々がいてくれた。
アナベルの感情は、徐々に鈍くなっていく。
三日目はあっという間に過ぎた。
なぜならアナベルは何もせず、ずっとベッドに潜り込んでいたからだ。食事も一切取らずに、ただ息を繰り返していた。
眠れるわけもなく時間ばかりが経っていく。灯りもつけていない部屋は真っ暗になっていた。
ギィィィ。
立て付けの悪い扉が音を立てながら、開く音がした。
「お前はもう少し、落ち着きを得たと思っていたがな」
訪れたのは、アナベルを絶望に突き落としている人物、ヘンリーだ。コツコツと、杖をつく音も耳に届く。アナベルは体を起こした。ヘンリーはゆっくり移動すると、椅子に腰を下ろした。
「……おじいさま、教えてください。なぜ私を無理矢理嫁がせようとするのです」
「どんな理由があれど、お前は家の名誉のために生きる義務がある。そのために、ベルナルド家に耐えてきたのだろう。その辛苦を、たかが浮気相手の妊娠程度で全て無駄にすると言うのか」
ヘンリーの声は、底の見えない洞穴に住まう熊のよう。いっそ物語であれば良い。現実逃避しようにも、今自分が逃げ出すことすらできぬ身であることは紛れもない事実。それでもアナベルは問わずにいられない。なぜこんな事をするのか。一体何が目的か。何を求められているのか。少しでも納得する材料が欲しいのだ。
しかしヘンリーの返答はアナベルを満足させるものではなかった。ベルナルド家も、元婚約者の浮気も、今は関係ないはずなのに。
「聞いても答えてくださらないのですね。貴方が一体何を思い、こんな蛮行をする羽目になったのか」
蛮行、の単語にヘンリーは口元を歪ませたのが、外からの白い明かりで見えた。笑っているような、怒っているようにも受け取れる複雑な表情であった。
「言ったらこちらに協力すると?」
「それはあり得ません。私は…ルロワ伯爵には嫁ぎたくありません」
アナベルはキッパリと断レバ、ヘンリーは忌々しげに顔を歪ませる。青白い彫りの深い顔つきも相まって、まるで蝋人形を思わせる。人形にも魂は宿るが、彼は呪いの類に違いない。
「私は知りました。イーサンと婚約し、ここに来て…私だって愛されて、愛する時間を過ごせることを知りました。家の繁栄だけでなく得たいものがあるのです。貴族として、成り上がりとして、アナベル・バーンズは一人の人間として生きたい。未来のためだけじゃなく、私は、今の幸せも願い、もがきたいのです」
アナベルの独白に、「幸せ、か」とヘンリーは呟いた。
「アナベル、お前の幸せとはなんだ」
「今はまだ、分かりません。けど伯爵と結婚することだけは違います」
「遊び呆けて脳が溶けたようだな」
間を置かずに言い放った、その声の苛立ちに、天を睨む祖父の眼光に、アナベルの心にわずかに残っていた希望は完全に打ち壊される。
「努力し続けることこそが、お前の生き抜き方ではなかったのか。それに幸せは環境を求めるのではなく、環境の中で幸せを見つける物だ。子供の戯言に自分を見失うな」
ヘンリーは立ち上がるとアナベルに背を向け、扉に歩いていく。
アナベルは項垂れ、綺麗な髪は乱雑にシーツに広がる。彼女の視界には、真っ白な布の海しか映らない。
カツン、カツン。彼が突く杖の音だけが軽快に響く。
「キャンベル家にも手は回してある。助けは来ないぞ」
「……しっています」
予想は付いていた。イーサンたちが離れてすぐの出来事。彼らが呼ばれたのは、ヘンリーの仕業に間違いないと。優秀な使用人たちでさえ、立ち去るアナベルに気が付かなかったのだ。奇跡でも起こらない限り、ひっそりと知らぬ男に嫁ぐ。
アナベルは顔を覆い、視界は暗闇に覆われる。
「ピンチの時に王子は来ない。魔法使いも。諦めこそ人生を生きやすくするコツだと、ベルナルド家で学んだだろうが」
そう言い残すと、ヘンリーは部屋から出て行った。
入れ替わるように、男が食事を持って部屋に入って来る。料理を並べ終えると、深々と頭を下げた。
「『せめて顔色だけでも整えておけ』とのことです。失礼します」
開かれた時同様、閉じる時も。立て付けの悪い鈍い、不気味な音が鳴る。
ガチャン。
そして重く、無機質な鍵がかけられる音が、アナベルにはやけに大きく聞こえてきた。
アナベルは力無く立ち上がると、目の前にあった物を口に運ぶ。
何も味を感じないそれを、ただ咀嚼し、彼女は飲み込むのであった。

