ー夕闇会へのご招待
明日十六時より中庭にて夕闇会を開きます。
ぜひオレンジ色のアイテムを身につけてお越しください。
アナベル・バーンズ
厚く切られたトーストに、スクランブルエッグやベーコン、サラダのプレート。サイドには玉ねぎのスープとスパイスが効いたホットミルクが運ばれたイーサンの部屋には、嗅ぐだけで心が踊る、良い香りで充満している。
朝食を取ろうと窓際の小テーブルの椅子に腰を下ろした彼に、アイザックは銀トレイを恭しく差し出す。
そこには一通の招待状があった。紺色からオレンジ色のグラデーションがかかった用紙に、金色の蝋で封がされている。まるで星や惑星が輝く夜空のように美しいが、お洒落な手紙を送ってくる相手に心当たりはない。首を傾げながら中身を確かめたイーサンの、まだ少し残っていた眠気が吹き飛んだ。
アナベルからの誘いの手紙だ。
両親は一昨日から明日の晩まで不在であるから、イーサンのみの参加だ。話すことがある。そんな意志がつよく伝わってくる。ほんの少し恐れもあるが嬉しさも湧いてくる。
アナベルに三日ぶりに会える。
それだけでつい頬が緩んでしまう。
湯気が漂う食事を冷ましてはいけないと食べ始めるも、夕闇会で頭の中はいっぱいだ。
(贈り物はあった方がいいな)
イーサンは庭師たちに部屋に来るよう伝えて欲しいとアイザックに言えば、すでに二人は準備を終えて待っていると言われた。
なるほど。夕闇会の件は屋敷全体に伝わり、使用人たちはアナベルと準備に取り掛かっているのだろう。イーサンの行動も、長年思いを拗らせ相談に乗ってきた彼らには考えなど筒抜けであった。イーサンは苦笑いをこぼしながら、小さなトマトを口の中に放り込んだ。甘く、果汁がいっぱいに口に広がる。
「坊ちゃん。逸る気持ちもわかりますが、ゆっくりお召し上がりくださいね」
「うん。後でスープのおかわりももらおうかな」
これから大切な用事で出かけるのだ。暑さに負けてへばっては彼女が喜ぶ物を選べない。
「おかわり」の言葉にアイザックはパッと笑顔を咲かせるのであった。
✴︎
「いい夕方ねイーサン。とはいっても少し早いのだけど」
翌日は少し雲に覆われていたが次第に晴れ、夕方を迎えた今は、夜の色を滲ませる黄金の美しい夕方を迎えた。
ゴーンと時刻を告げる、鐘の音が響く。
招待状と山百合の花のブーケを持って、夕闇会が開かれるバルコニーに出向いたイーサン。ポケットのスカーフやカフスボタン、靴下に取り入れたドレスコードのオレンジ色が、白のシャツと紺色のジャケットによってよく映えている。
彼を迎えたアナベルはシックな紺色のワンピースで、胸元で結ばれたスカーフと、髪をまとめているオレンジ色の大きなリボンと相まって可愛らしい装いだ。メイクにも似た色が使われており、陽光を受けキラキラと目元が輝いていた。
アナベルは花束を受け取ると、テーブルの真ん中に飾った。可愛らしいオレンジ色の花が飾られ、場の華やかさが増す。
丸テーブルには飲み物の入ったガラスのポットに同じデザインのカップ、星型のお菓子やセイボリーが並んでいる。
「可愛らしいわよね。皆んなに手伝ってもらったの」
彼女は屋敷に向かって手を振った。見ればアイザックやポーラたちが手を振り返している。彼らは2人の元に来る気配はない。
アナベルに促され席に座ると、彼女はティーカップに紅茶を注ぎはじめた。星型にくり抜かれたフルーツがカップに移る。ふわりと甘い香りが立つ。
二人っきりのハイティーが始まった。
「突然誘ってしまいごめんなさい。来てくれてありがとう」
「君からの誘いは断らないよ。何よりすごく楽しみにしてたんだ」
果汁がたっぷり染み出したルイボスティーであった。イーサンの好みに合わせて、ヴィハーンがアレンジしてくれた紅茶。
「それはよかった」
準備中も一人ひとり、 イーサンの事を聞いた。彼がどんなことを思い、この十数年を生きてきたのか。彼らは長くキャンベル家に仕えている。そして恋心を応援してきた。彼らから見た、イーサンを、アナベルは教えて貰った。
「色んな人から話を聞いたわ。けど、貴方からはまだきちんと聞いたことなかったから」
ライトブルーの瞳が、こちらを射抜くように見つめてくる。その瞳にも焦がれてきた。
「私のこと、いつから好きだったの?」
イーサンは頷いた。そして瞼を閉じた彼は、ゆっくり少し長くなる、と前置きして隠すことなく話し始めた。
✴︎
寝たきりの、幼いイーサンに起こった運命の話。まずは八歳を迎えたことだ、と彼は笑う。
原因不明の虚弱体質は、生まれる前から一秒先の生死を左右してきた。
無事に産まれても常に身体のどこがが痛く重い。五歳の時には突然倒れ、一度死神の手を取ったこともあった。両親を始め、様々な人の死力を尽くされた命。とても大切にされている自覚はあるものの、辛い身体を抱えていると偶に流れに身を任せたくなる。言ってはいけないわがままで、アイザックたちに酷い苦労をかけてしまったことを今でも後悔していると、イーサンは目を伏せる。
毎日、毎日。とにかく生きた日々の、決して忘れない一日。
珍しく朝から具合が良かった日であったと彼は笑う。
難しい顔を浮かべている皆に、息抜きをして欲しくて。少し無理を言い、母親が呼ばれていた茶話会にー取引先の奥方の誕生日パーティーー参加した。最初はぎこちない顔を浮かべていた母親が、時間が経つにつれて明るさが取り戻されていく。嬉しかった。申し訳なかった。
しばらくは問題なかったが、徐々に身体にだるさを感じた。早速、母の楽しい気持ちに水を差したくなく、茂みに身を潜めた。身体を抱きしめて、痛みが過ぎ去るのを待っていると、茂みの向こうで気配がした。食事が並ぶテーブルがあるから誰か取りに来たのだろう。その内いなくなる、と思っていたが一向に気配はなくならない。興味が出た小さなイーサンは、そっと葉の隙間からのぞきこんだ。
その先にいた女の子。チョコレート色の髪をひとつ結びにして、水色のふんわりとしたドレスを身に纏っていた。アナベルであった。小さな身体をさらに隠すようにして、テーブルに張り付いている。一瞬、ぐんと背を伸ばすと目の前のアラカルトをさっと手に取る。すぐに屈んだ。ぱく、と一口。豪快に噛み付いた。
美味しそうに、嬉しそうに、幸せそうにご飯を食べるアナベルに心が奪われた。声をかけようか。いや隠れているなら誰にもバレたくないかもしれない。迷っているうちに、小さなアナベルは立ち去ってしまった。
「あの時は心底後悔したよ」
人並みから探す元気はなく、イーサンはアナベルが食べていた料理を一つ手に取り、食べた。子供でも美味しいと思える料理だったがアイザックなら、もっと美味しく作るだろう。その時初めて、屋敷で振る舞われる料理がどれほど美味しいものなのか、きちんと知らずに過ごしていたと気付かされた。帰ってからは食材からいかに手間暇をかけられて作られているのかも知り、意識を改め1口でも料理を食べることにした。
一年かけて、一皿分は食べ切れるようになり、半日は動けるようになったある夜。母親と夜会に出かけた際、また偶然にアナベルが参加していた。金髪の女性の後ろに済ました顔で立ち、パーティー主催者の夫人に声をかけている。
アナベルを見かけた瞬間。人生で初めて高揚した。胸がワクワクと弾み、嬉しさが込み上げてくる。今度こそ『初めまして』と声をかけよう。名前も知りたい。仲良くなれるかな。
期待を抱くイーサンの耳に、彼女の名と、彼女が誰かの婚約者である言葉が届いた。己の中で反響した。
「初めて恋を知った。同時に失恋の痛みも味わったけどね」
どうにも出来ない状況だ。
涙が流れそうになるのを堪えるため、イーサンはこそこそと逃げ回った。存在を潜めてパーティーを過ごす。
会場では我慢した涙も帰り道で耐えれず、ぼろぼろと溢れて止まらない。
身体がどんなに痛く辛くても泣いたことはなかったイーサンに、レティシアも使用人たちもひどく動揺してた。
止めたくても止めることができず、部屋に篭った。兎に角も涙を流した。気にしないで、放っておいて。必ず泣き止むから。
泣き止まないといけない。だって叶わない恋だもの。諦めないと、そう思う度に涙が溢れる。
しばらくすると帰宅した父デービッドが部屋に入って来た。布団に篭るイーサンのそばに腰をかけた。
『初恋の子がいたんだね?』
なんでも見通す父には、イーサンの状況はお見通しであった。ますます涙が流れる息子に、デービッドは優しく言葉をかけた。
『すぐに思いを消さなくていい。大人でも難しいことだ。今の気持ちを大切にしなさい』
『それでも。もしきえなかったら……?』
『……チャンスを待ちなさい。イーサン。世の中どうしょうもない事がある。けどね、よく見れば綻びがあるんだよ』
父の妙な言い分に、イーサンは布団から顔を出した。いつも通り落ち着き払った父親な姿があった。慰める為に嘘を言っている気配はない。
『……どういういみですか?』
首を傾げる息子に、彼は淡々と紡ぐ。
『もう少し先、必ずお前が彼女の隣に立てる
チャンスが来る。だから今は磨きなさい』
よく学ぶこと。よく食べ、力をつけること。美しさと気品を身につけること。なにより必要以上に嘘や見栄を張らないこと。そして”イーサンを大切にすること。
『チャンスが来た時、あの子が選ぶ男性になりなさい』
意味がわからず目を丸くしているイーサンに、デービッドは優しく頭を撫でた。
『まだこの話は早い。もう少し大きくなったら必ず話す。だから今夜は存分に泣いて、明日から励みなさい。だが無茶はしないようにね』
『……はい』
突拍子もない内容だったが、話しているうちに気持ちは落ち着き涙も止まった。
部屋の外で心配している母たちに顔を見せるといえば抱えられ、部屋を出た。
話は聞こえていたようで、皆穏やかな笑顔を浮かべていた。母親に赤くなった目元を拭われる。
『まずは出会うことからね。久しぶりにキャンベル家でパーティーでも開きましょう?きっと楽しい日になるわ』
彼女の提案に使用人たちも次々と案に乗る。
もう随分パーティーを開く事はなかった。暗い雰囲気も消え、楽しさを求め始めていた。何よりイーサンと初恋相手の出会いの場になるパーティーに、気合いが入らない訳がない。
両親たちの励ましに元気をもらい、まずは彼女と友達になるために体力作りが始まる。イーサンの新たな目標に、一層気合を入れて皆協力してくれた。時間をかけて一食分は食べ切れるようになり、寝込むことも少なくなった。
一年はあっという間に過ぎていく。
約束通り、両親が開いてくれたパーティーでようやくアナベルと出会うことができた。まさかのトラブルとハプニングに見舞われ、思い描いていた出会い方ではなかったけれど。
兎に角アナベルと知り合うことができたのだ。
招待客から知人、そして友達へ。
交流が増えるほど、ますます惹かれていく。
耳に馴染む落ち着いた声。
満面な笑顔。
好奇心旺盛で、負けず嫌いな性格。
外でずっと遊べる元気。
魅せられて、魅せられて。結局アナベルへの恋心は消せなかった。
すると父親が言った言葉が気になってくる。
『チャンスが来た時、あの子が選ぶ男になりなさい』
可愛く素敵な女の子に、この先チャンスが来るような出来事が起こると言うのか。
どうしても信じられなかった。
未来、彼女がロベールとそのまま結婚したら? 自分はどうするべきか。いや、どうありたいか。
『彼女にとって1番信頼がおける人になろう』
未来がどうなるか先に、まずはアナベル・バーンズにとって信頼される人に。何かあっても彼女の助けになれる人間になりたい。
見習うべき人々は自分の周りには沢山いた。彼らの振る舞いを学び、勉学も怠らず知見を広げる。
無理はできないから一歩ずつ。自分らしく。
誠実に、謙虚に、真面目に。
いつからかアナベルから他の人には話していないような相談を受けるようになった。彼女にとって助けになっている人間になっているのは嬉しかった。
それでも、結局本質的に助けることはできなかった。目指しても理想の自分になれないのだと痛感しながら日々を生きる。
長いようで、短い十一年。
ロベールは浮気相手であったミシェル・ラッセルを妊娠させた。
ベルナルド家はアナベルとの婚約を破棄。
アナベルは新しい婚約者を探すことになった。
最愛の彼女の、隣に立つ最後の機会。
望んでいたけれど、叶ってほしくもなかったチャンスが本当に来た。
明日十六時より中庭にて夕闇会を開きます。
ぜひオレンジ色のアイテムを身につけてお越しください。
アナベル・バーンズ
厚く切られたトーストに、スクランブルエッグやベーコン、サラダのプレート。サイドには玉ねぎのスープとスパイスが効いたホットミルクが運ばれたイーサンの部屋には、嗅ぐだけで心が踊る、良い香りで充満している。
朝食を取ろうと窓際の小テーブルの椅子に腰を下ろした彼に、アイザックは銀トレイを恭しく差し出す。
そこには一通の招待状があった。紺色からオレンジ色のグラデーションがかかった用紙に、金色の蝋で封がされている。まるで星や惑星が輝く夜空のように美しいが、お洒落な手紙を送ってくる相手に心当たりはない。首を傾げながら中身を確かめたイーサンの、まだ少し残っていた眠気が吹き飛んだ。
アナベルからの誘いの手紙だ。
両親は一昨日から明日の晩まで不在であるから、イーサンのみの参加だ。話すことがある。そんな意志がつよく伝わってくる。ほんの少し恐れもあるが嬉しさも湧いてくる。
アナベルに三日ぶりに会える。
それだけでつい頬が緩んでしまう。
湯気が漂う食事を冷ましてはいけないと食べ始めるも、夕闇会で頭の中はいっぱいだ。
(贈り物はあった方がいいな)
イーサンは庭師たちに部屋に来るよう伝えて欲しいとアイザックに言えば、すでに二人は準備を終えて待っていると言われた。
なるほど。夕闇会の件は屋敷全体に伝わり、使用人たちはアナベルと準備に取り掛かっているのだろう。イーサンの行動も、長年思いを拗らせ相談に乗ってきた彼らには考えなど筒抜けであった。イーサンは苦笑いをこぼしながら、小さなトマトを口の中に放り込んだ。甘く、果汁がいっぱいに口に広がる。
「坊ちゃん。逸る気持ちもわかりますが、ゆっくりお召し上がりくださいね」
「うん。後でスープのおかわりももらおうかな」
これから大切な用事で出かけるのだ。暑さに負けてへばっては彼女が喜ぶ物を選べない。
「おかわり」の言葉にアイザックはパッと笑顔を咲かせるのであった。
✴︎
「いい夕方ねイーサン。とはいっても少し早いのだけど」
翌日は少し雲に覆われていたが次第に晴れ、夕方を迎えた今は、夜の色を滲ませる黄金の美しい夕方を迎えた。
ゴーンと時刻を告げる、鐘の音が響く。
招待状と山百合の花のブーケを持って、夕闇会が開かれるバルコニーに出向いたイーサン。ポケットのスカーフやカフスボタン、靴下に取り入れたドレスコードのオレンジ色が、白のシャツと紺色のジャケットによってよく映えている。
彼を迎えたアナベルはシックな紺色のワンピースで、胸元で結ばれたスカーフと、髪をまとめているオレンジ色の大きなリボンと相まって可愛らしい装いだ。メイクにも似た色が使われており、陽光を受けキラキラと目元が輝いていた。
アナベルは花束を受け取ると、テーブルの真ん中に飾った。可愛らしいオレンジ色の花が飾られ、場の華やかさが増す。
丸テーブルには飲み物の入ったガラスのポットに同じデザインのカップ、星型のお菓子やセイボリーが並んでいる。
「可愛らしいわよね。皆んなに手伝ってもらったの」
彼女は屋敷に向かって手を振った。見ればアイザックやポーラたちが手を振り返している。彼らは2人の元に来る気配はない。
アナベルに促され席に座ると、彼女はティーカップに紅茶を注ぎはじめた。星型にくり抜かれたフルーツがカップに移る。ふわりと甘い香りが立つ。
二人っきりのハイティーが始まった。
「突然誘ってしまいごめんなさい。来てくれてありがとう」
「君からの誘いは断らないよ。何よりすごく楽しみにしてたんだ」
果汁がたっぷり染み出したルイボスティーであった。イーサンの好みに合わせて、ヴィハーンがアレンジしてくれた紅茶。
「それはよかった」
準備中も一人ひとり、 イーサンの事を聞いた。彼がどんなことを思い、この十数年を生きてきたのか。彼らは長くキャンベル家に仕えている。そして恋心を応援してきた。彼らから見た、イーサンを、アナベルは教えて貰った。
「色んな人から話を聞いたわ。けど、貴方からはまだきちんと聞いたことなかったから」
ライトブルーの瞳が、こちらを射抜くように見つめてくる。その瞳にも焦がれてきた。
「私のこと、いつから好きだったの?」
イーサンは頷いた。そして瞼を閉じた彼は、ゆっくり少し長くなる、と前置きして隠すことなく話し始めた。
✴︎
寝たきりの、幼いイーサンに起こった運命の話。まずは八歳を迎えたことだ、と彼は笑う。
原因不明の虚弱体質は、生まれる前から一秒先の生死を左右してきた。
無事に産まれても常に身体のどこがが痛く重い。五歳の時には突然倒れ、一度死神の手を取ったこともあった。両親を始め、様々な人の死力を尽くされた命。とても大切にされている自覚はあるものの、辛い身体を抱えていると偶に流れに身を任せたくなる。言ってはいけないわがままで、アイザックたちに酷い苦労をかけてしまったことを今でも後悔していると、イーサンは目を伏せる。
毎日、毎日。とにかく生きた日々の、決して忘れない一日。
珍しく朝から具合が良かった日であったと彼は笑う。
難しい顔を浮かべている皆に、息抜きをして欲しくて。少し無理を言い、母親が呼ばれていた茶話会にー取引先の奥方の誕生日パーティーー参加した。最初はぎこちない顔を浮かべていた母親が、時間が経つにつれて明るさが取り戻されていく。嬉しかった。申し訳なかった。
しばらくは問題なかったが、徐々に身体にだるさを感じた。早速、母の楽しい気持ちに水を差したくなく、茂みに身を潜めた。身体を抱きしめて、痛みが過ぎ去るのを待っていると、茂みの向こうで気配がした。食事が並ぶテーブルがあるから誰か取りに来たのだろう。その内いなくなる、と思っていたが一向に気配はなくならない。興味が出た小さなイーサンは、そっと葉の隙間からのぞきこんだ。
その先にいた女の子。チョコレート色の髪をひとつ結びにして、水色のふんわりとしたドレスを身に纏っていた。アナベルであった。小さな身体をさらに隠すようにして、テーブルに張り付いている。一瞬、ぐんと背を伸ばすと目の前のアラカルトをさっと手に取る。すぐに屈んだ。ぱく、と一口。豪快に噛み付いた。
美味しそうに、嬉しそうに、幸せそうにご飯を食べるアナベルに心が奪われた。声をかけようか。いや隠れているなら誰にもバレたくないかもしれない。迷っているうちに、小さなアナベルは立ち去ってしまった。
「あの時は心底後悔したよ」
人並みから探す元気はなく、イーサンはアナベルが食べていた料理を一つ手に取り、食べた。子供でも美味しいと思える料理だったがアイザックなら、もっと美味しく作るだろう。その時初めて、屋敷で振る舞われる料理がどれほど美味しいものなのか、きちんと知らずに過ごしていたと気付かされた。帰ってからは食材からいかに手間暇をかけられて作られているのかも知り、意識を改め1口でも料理を食べることにした。
一年かけて、一皿分は食べ切れるようになり、半日は動けるようになったある夜。母親と夜会に出かけた際、また偶然にアナベルが参加していた。金髪の女性の後ろに済ました顔で立ち、パーティー主催者の夫人に声をかけている。
アナベルを見かけた瞬間。人生で初めて高揚した。胸がワクワクと弾み、嬉しさが込み上げてくる。今度こそ『初めまして』と声をかけよう。名前も知りたい。仲良くなれるかな。
期待を抱くイーサンの耳に、彼女の名と、彼女が誰かの婚約者である言葉が届いた。己の中で反響した。
「初めて恋を知った。同時に失恋の痛みも味わったけどね」
どうにも出来ない状況だ。
涙が流れそうになるのを堪えるため、イーサンはこそこそと逃げ回った。存在を潜めてパーティーを過ごす。
会場では我慢した涙も帰り道で耐えれず、ぼろぼろと溢れて止まらない。
身体がどんなに痛く辛くても泣いたことはなかったイーサンに、レティシアも使用人たちもひどく動揺してた。
止めたくても止めることができず、部屋に篭った。兎に角も涙を流した。気にしないで、放っておいて。必ず泣き止むから。
泣き止まないといけない。だって叶わない恋だもの。諦めないと、そう思う度に涙が溢れる。
しばらくすると帰宅した父デービッドが部屋に入って来た。布団に篭るイーサンのそばに腰をかけた。
『初恋の子がいたんだね?』
なんでも見通す父には、イーサンの状況はお見通しであった。ますます涙が流れる息子に、デービッドは優しく言葉をかけた。
『すぐに思いを消さなくていい。大人でも難しいことだ。今の気持ちを大切にしなさい』
『それでも。もしきえなかったら……?』
『……チャンスを待ちなさい。イーサン。世の中どうしょうもない事がある。けどね、よく見れば綻びがあるんだよ』
父の妙な言い分に、イーサンは布団から顔を出した。いつも通り落ち着き払った父親な姿があった。慰める為に嘘を言っている気配はない。
『……どういういみですか?』
首を傾げる息子に、彼は淡々と紡ぐ。
『もう少し先、必ずお前が彼女の隣に立てる
チャンスが来る。だから今は磨きなさい』
よく学ぶこと。よく食べ、力をつけること。美しさと気品を身につけること。なにより必要以上に嘘や見栄を張らないこと。そして”イーサンを大切にすること。
『チャンスが来た時、あの子が選ぶ男性になりなさい』
意味がわからず目を丸くしているイーサンに、デービッドは優しく頭を撫でた。
『まだこの話は早い。もう少し大きくなったら必ず話す。だから今夜は存分に泣いて、明日から励みなさい。だが無茶はしないようにね』
『……はい』
突拍子もない内容だったが、話しているうちに気持ちは落ち着き涙も止まった。
部屋の外で心配している母たちに顔を見せるといえば抱えられ、部屋を出た。
話は聞こえていたようで、皆穏やかな笑顔を浮かべていた。母親に赤くなった目元を拭われる。
『まずは出会うことからね。久しぶりにキャンベル家でパーティーでも開きましょう?きっと楽しい日になるわ』
彼女の提案に使用人たちも次々と案に乗る。
もう随分パーティーを開く事はなかった。暗い雰囲気も消え、楽しさを求め始めていた。何よりイーサンと初恋相手の出会いの場になるパーティーに、気合いが入らない訳がない。
両親たちの励ましに元気をもらい、まずは彼女と友達になるために体力作りが始まる。イーサンの新たな目標に、一層気合を入れて皆協力してくれた。時間をかけて一食分は食べ切れるようになり、寝込むことも少なくなった。
一年はあっという間に過ぎていく。
約束通り、両親が開いてくれたパーティーでようやくアナベルと出会うことができた。まさかのトラブルとハプニングに見舞われ、思い描いていた出会い方ではなかったけれど。
兎に角アナベルと知り合うことができたのだ。
招待客から知人、そして友達へ。
交流が増えるほど、ますます惹かれていく。
耳に馴染む落ち着いた声。
満面な笑顔。
好奇心旺盛で、負けず嫌いな性格。
外でずっと遊べる元気。
魅せられて、魅せられて。結局アナベルへの恋心は消せなかった。
すると父親が言った言葉が気になってくる。
『チャンスが来た時、あの子が選ぶ男になりなさい』
可愛く素敵な女の子に、この先チャンスが来るような出来事が起こると言うのか。
どうしても信じられなかった。
未来、彼女がロベールとそのまま結婚したら? 自分はどうするべきか。いや、どうありたいか。
『彼女にとって1番信頼がおける人になろう』
未来がどうなるか先に、まずはアナベル・バーンズにとって信頼される人に。何かあっても彼女の助けになれる人間になりたい。
見習うべき人々は自分の周りには沢山いた。彼らの振る舞いを学び、勉学も怠らず知見を広げる。
無理はできないから一歩ずつ。自分らしく。
誠実に、謙虚に、真面目に。
いつからかアナベルから他の人には話していないような相談を受けるようになった。彼女にとって助けになっている人間になっているのは嬉しかった。
それでも、結局本質的に助けることはできなかった。目指しても理想の自分になれないのだと痛感しながら日々を生きる。
長いようで、短い十一年。
ロベールは浮気相手であったミシェル・ラッセルを妊娠させた。
ベルナルド家はアナベルとの婚約を破棄。
アナベルは新しい婚約者を探すことになった。
最愛の彼女の、隣に立つ最後の機会。
望んでいたけれど、叶ってほしくもなかったチャンスが本当に来た。

