レディ・クロックの夏休み〜働き者の令嬢は、婚約破棄により「お休み」いたします?!〜

 アナベルは陽が上がるよりも前に目が覚めた。
 ここ三日間ずっとだ。頭の中でもやもやが残り、夢も浅く、よく寝付けないのだ。

『三日間、一人で過ごさせていただけませんか』

 夏休みも半ばを過ぎた。あと一ヶ月と少し。
 自分の中の漠然とした何かを、どうすべきか答えを出したかった。ノエが言う通り、すべてを無視して過ごすことはできる。
それでもずっと誠実に接してくれたイーサンに、思考が乱雑したまま接したくない。
 アナベルが唯一たどり着いた、己の声であった。
 侯爵夫妻は、気にせずゆっくり過ごすよう、彼女に優しく声をかけた。デービットがようやく夏休みに入ったこともあり、夫妻は泊まりで出掛け、明日までサイドハウス・ノアへ戻らない。
 イーサンも、もちろんアナベルの願いを快く受け入れた。彼は1人どこかへ外出したり、屋敷の中で過ごしているそうだ。
 屋敷に残ったイーサンとアナベルが顔を合わせないよう、変な雰囲気にならないように、キャンベル家の仲間たちは配慮してくれている。彼女たちは詳しく聞かずに普段通り接してくれた。
 美味しい食事。
 美しい庭での散歩。
 図書室で本を読んだり、蓄音機で音楽を聴いたり。
 サイドハウス・ノアに飾られた絵画の鑑賞や、部屋でベッドに寝転ぶ1人の時間。
 夕陽を眺めながらの使用人たちとの雑談。
 良い香りのする入浴時間。
 以前の自分ならば、ずっと部屋に籠っていたに違いない。この夏の思い出のおかげで、時間の過ごし方に息の抜き方を知ることができた。
 手帳に悩みや思っていることを書き出したりもした。単語を紙に書くと頭の中で乱雑した思いを視覚化でき、纏めやすい。予定を組む時と同じだ。

・イーサンの婚約者←勘違い
・イーサンに恋愛感情を抱かないといけないのに抱けない
・自分は変わらないまま。
・変わらないといけないけど行動できない。
・何に悩んでいるのか分からない。
・嫉妬、恐れ、複雑←?

 それでもクヨクヨと、頭に血が巡っていない状態が続いている。
 鬱屈とした感情が夏の暑さに溶けてしまいそうに感じたアナベルは、部屋を抜け出し中庭へ向かった。
 以前ソフィアに教えてもらったのだ。屋敷の裏には、ささやかな畑があることを。あえて何も植えられていないスペースに、休息やサボりに使用人たちが使っていると。
 当たり前だが、今は誰もいない。アナベルは土がつくことを気にせず、横になる。髪がばさりと広がり、背中からひんやりと冷たさを感じる。しっとりする土の感覚に、彼女の心は少し、落ち着いた。

「おはようございます。アナベル様」

 いると思っていなかった大男が突然現れ、驚いたアナベルは飛び起きた。心臓がドクドクと動き、痛い。
 早朝にも関わらず元気そうな私服のアイザックは、そんなアナベルに驚いたようで、大きな目をさらに見開いている。

「申し訳ありません。驚かす気はなかったのですが…」

✴︎

「驚かしたお詫びに、ぜひ」

 アナベルは、アイザックが根城にしている小屋に招かれた。
 サイドハウス・ノア敷地内には森林があり、屋敷に近いところに小屋があり、彼は普段は暮らしている。

「屋敷の部屋が片付けられなくて。ここならまだ迷惑かかりませんからね」

 小屋の中からバサリと何かが落ちる音が聞こえてきた。聞かなかったことにした方が精神的に良さそうだと、アナベルはガーデンチェアに腰掛けた。
 彼は小屋の前に作られた焚き火台に、火を起こす。鍋に入れた牛乳を温め、いくつかスパイスを加えると木ベラで混ぜ合わせる。銀コップに鍋の中身を注ぐと、最後にパウダーを振りかけアナベルに手渡した。
 たっぷり湯気の立つ熱い飲み物をアナベルは慎重にすすれば、甘いような辛いような、独特な風味と濃い牛乳の味わいのハーモニーが体中に満ちていく。

「おいしい…」

「それは何よりです」

 アナベルの囁きに、育ての親で祖母直伝のホットミルクを褒めてもらえたアイザックはニコニコと頷いた。
 遠い故郷が懐かしくなると季節構わず作るのだ、と、彼もアナベルと同じもの飲みながら、のんびりと昔話を始めた。
 隣国との境を縁取る様に聳える山。その中腹にある小さな村での出来事だ。
 代々野鳥を狩り、それを売ることで生計を立てていた祖先の話。
 料理好きな祖母が鶏を使った料理を売り始めた小さな店は、地元では有名であること。
 子供の頃に両親を亡くしたアイザックが、祖母を手伝う内に楽しさに魅了され、料理人になると決めた夢の話。
 他の店で修行したくて頭を下げ回った若かりし頃。
 どこにも相手にされず、故郷で黙々と店の手伝いをしながら時に他国へ出かけ、料理の研究に励んでいた。
 そんなある日。

「ジャックとイーサン様の曽祖父君がいらっしゃったのです」

 アイザックは瞼を閉じた。思い出しているのだろう。10年前のあの日、ふらりとやって来た男性たち。発音に癖のなく、妙に小綺麗な服装から中・上流階級者か、王都からやって来たのだとすぐに分かった。彼らは店名物の焼き鳥のソテーやサンドウィッチ。アイザック特製の鳥のスープや付け合わせを注文した。一口、また一口。料理を口に運ぶ。物静かに食事を終えた彼ら。

『お前さん、将来の夢はあるのかい?』

 会計の際ジャックに色々と聞かれ、話を楽しむのも1つの食事の在り方だと
アイザックは素直に答えた。

『自分の店を持てたら嬉しいです』

『この店は継がないのか?』

『叔父が継ぐ事になってますから』

『そうか……なら他で修行中かい』

『いえお恥ずかしい話ですが、未熟すぎて頼ってくれる店もなく……。祖母に甘えている状態です』

『そうなのかい。おいしかったよ本当に。他の料理人に負けないぐらいさ』

 笑顔で見送ったジャックが数日後、今度は同じ年ほどの仕立ての良い上等なスーツを着た男性を連れて店に訪れた。その日は朝から雨が降り、夜になっても雲がかかり村中が薄暗かった。
 闇から現れた来訪者は見るからに上流階級者であり、村民たちの酔いを覚まし、酒代を無駄にした。 
 馬車も走っていない時間帯。雨水を含んだ道を歩いて来るしかなく、上等な革靴やズボンの端に泥がかすかについている。よく見れば拭った跡があった。店や他の客を汚さない配慮ができる人物に、アイザックは好感を持った。
 周囲の目も気にせず席についた二人はスープを注文した。 アイザックはいつも通り料理を作り、振舞った。
 一滴残らず皿を綺麗にした男性たちに、アイザックは呼ばれた。
 スーツを着た男はデービット・キャンベルと名乗った。夜に店を騒がせてしまい申し訳ないと謝り、早速本題に入った。

『君を引き抜きに来たんだ。良かったら息子の為に、食事を振舞ってくれないか』

 彼の息子は運動も、起き上がることすら難しいほど虚弱な身体。せめて栄養を摂ってほしいが、吐き戻してしまう。本人を気にして、食事を嫌厭しつつあることを。
 それでも、少しでもご飯を食べさせたい大人のエゴ。新しい料理人を、ただ美味しいだけじゃなく、優しく面白い人物を探しているのだとデービッドは説明した。
 王都で噂を聞きつけたジャックが、真実を確かめに足を運び、スープを飲んで確信した。この青年だ、と。鳥と野菜の旨みがじわりと染み渡る味わいに、澄み切った美しい水色。たった一杯のスープに全てが詰まっている。
 話を聞いた限り、癖は強いが性根の優しさが伺えた。

『必ず花が咲く。あんたの今の才能は、有名を馳せている料理人と遜色ない。むしろ越せる』

『私たちの持つ技術もツテも使い、君が望む料理人になれるよう尽力を惜しまない。どうか力を貸してくれないだろうか』

 二人は頭を深く下げた。
 たった一人、それも田舎で燻る男にかけられている期待は大きすぎる気がしたが、アイザックは頷いた。祖母らに背中を押してもらったのもあるが、料理や食事は至高の喜びだ。ご飯が食べられないなど人生は楽しくはない。できることは些細かもしれないが自分の料理で笑顔になるきっかけになるのなら。
 田舎の青年は故郷を離れ、サイドハウス・ノアで働くことになった。
 紹介されたイーサンの姿に、アイザックは言葉を失った。目の前にいるのは美しいだけの、骨格に皮が張っている人形だ。すぐに消えてしまう危うさを纏っている。
 デービッドに聞いていた通り。少しでも食べれば戻す。それでも栄養を少し摂れれば身体を作る。無理やりは禁物だが、それでも少しずつ……。

『きょうはいいや。はいちゃう。わるいよ』

 そんな少しも、幼いイーサンは拒否を示す。
 別に気にはしないと諭しても、身体は食事からでしか作られないと説明しても彼は優しく微笑むばかりで食器を並べることを許さなかった。
 申し訳ないと謝る子供に、いかにして食事を摂らせるか。食べたいと思わせるか。偏食であった方がまだ簡単であっただろう。
 自身が持ち得る知識や技術では到底敵わず、ツテというツテを駆使し、料理家から探検家といったあらゆる者の協力を得ながら、悩む日々。呑気な性格も発揮されないほど、余裕がなくなっていく。イーサンが突然2年近く寝込み、途中死にかけた時は心が折れる寸前にまで精神は追い込まれた。
 幸いにも体調を回復させたイーサンに安堵しつつ、再び苦戦しながら食事に工夫を凝らした。
 毎日の積み重ねにより、出会った当初よりもいくばくか元気になったたが問題はなかなか改善されない。
 悩みに明け暮れるアイザックたちに、突然道が開かれた。
 アナベル・バーンズとの出会いによって、幼い彼は食事や料理についての意識を改めたのだ。
 一口でも多く料理を食べるようになった。食べる量が増えるほど健康な体に近づいていく。外で遊べるようになり、すぐに体調を崩さない。新しい場所へと出かけられ、学園にも通うことができた。
 屋敷の雰囲気も変わっていった。常に緊張と沈んだ気持ちで覆われた暗い雰囲気が消え去った。笑顔が増え、会話には冗談が混ざり軽やかだ。
 使用人にとっても、とても働きやすくなった。
 アナベル・バーンズによって、イーサン・キャンベルは救われた。
キャンベル家で働く使用人にとっても、アナベルは救いの人であったのだ。


「それは間違った認識だわ」

 話を聞いていたアナベルの口からこぼれ出たのは否定の言葉。長椅子の上で膝を抱え、身体を小さくしている。アイザックはアナベルを救世主と表現したが、 どう考えても彼らの尽力でイーサンの命は救われた。自分はきっかけに過ぎない。
 アナベルの指摘に、顔を上げ木々を合間から覗く空を見上げるアイザックは「それはそうです。それでも」と続ける。

『食べる笑顔が素敵だったから』

 茶話会で食事を堪能するアナベルはとても美しい笑顔なのだ。幼いイーサンがこっそり教えてくれた、その言葉にはっとした。思い出した。
 美味しい料理を食べると自然に溢れる笑顔。
 その時間の多幸感。
 風を受けながら食べる、みんなで共有する面白さ。
 自分も体験した、楽しい記憶。
 イーサンに食べてもらうばかりに気を取られ、食事を楽しむことを後回しにしてしまった。
 それこそ、自分がサイドハウス・ノアに呼ばれた意味であるのに。もっと早くに思い出していれば、彼に楽しい時間を増やせたかもしれない。

「貴女に思い出されたのです。食事は楽しむ物だということを。食べることが好きな貴女だから。幸せと感じる貴女だからこそ。ありがとうございます」

「そんな偶然で…貴女たちに感謝されるなんて」

「加えて、です。キャンベル家の人たちは単にイーサン様を救った人物だからと貴女を慕っている訳ではありませんよ」

 名前を覚えてくれる。
 料理を美味しそうに食べてくれる。
 人として接してくれる。
 感謝を伝えてくれる。
 キャンベル家で働いていると当たり前に享受しているが、それは場所や相手によって一変する。他の家の使用人でも丁寧に接してくれるアナベルの行いに、使用人たちは親愛を抱いているのだ。

「どれも私には普通のことよ?特別感謝されることじゃないわ…!」

 アナベルは声を荒げた。怒りを孕んだそれは、静かに森林に響き渡る。
 その声に驚いたであろう鳥が羽ばたく音が聞こえてくる。バサバサバサ……。

「苦しいですか?重いですか?アナベル様。私は今一方的に話しております。貴女の気持ちを無視して」

 アナベルと対面するアイザックは、一切詫びない様子で、なんならにんまり笑い、話し続ける。

「しかし伝えねばならぬときにきちんと伝えなけばタイミングは全て失われてしまいます。だから今は聞いていただく他にございません。ま、本当はタイミングや演出ができれば1番なんですがね!」

 子供のような屈託のないアイザックの笑顔に、アナベルは何も言えなくなってしまった。
 昂った気持ちは、一気に萎んでいく。

「アナベル様。貴女様には足らないものがございますね。それはもっと根本的、技術や能力よりも大切なもの。アナベル・バーンズを愛するための栄養素が」

 思ってもいなかった言葉に、アナベルは固まってしまう。
 アイザックは1度柔らかく微笑むと足を組み、マグカップにミルクを注ぎ直すと優雅に飲み始めた。
 彼の話はこれで終わりだ。
 すっかり気持ちが沈み込んでしまったアナベルは、長椅子に座りなおすと頭ごと膝を抱えたのであった。
 沈黙が、流れる。
 パチパチと弾ける火花に、鳥たちの声が聞こえ始めた。風が吹き揺れる枝葉の軽い音も混じる。

(イーサンはどうしているかしら)

 陽が昇っても朝早い時間。まだ寝ているだろう彼の顔が浮かぶ。
 何故イーサンから話を聞きたくなかったのか、ようやく理解した。彼の純粋な思いを受け取った時、自分がどんな感情や思いを抱くのか知るのが怖いのだ。分不相応なら、まだ良い方かもしれない。
 何も変わらなかったら。真逆の感情を抱いてしまったら。
 ギジリと椅子が音を立てた。アナベルの心から出た軋みのようであった。
(それでも)
 使用人たち、エロイーズ、マリアンヌ、ビジュー、ノア。そしてアイザックの話を聞いた今。イーサンは一体何を語るのか。聞かなければならない。知らないといけない。
 アナベルは腹を括った。
 顔をあげ、佇まいを正すとアイザックの方へ身体を向けた。

「ねぇアイザック」

「はい」

 アイザックは彼女の方へ顔を向ける。朝の日差しを浴びる穏やかなアイザックの表情は、どことなくイーサンと似ている気がした。

「さっきは声を荒げてごめんなさい。その…手伝ってくれないかしら」

 自分だけでは、何もできない。信じられる者たちの協力が必要だ。
 アナベルにアイザックは力強く頷いた。

「ええ、もちろん。もちろんですとも」

「その為の我々です」