「ご機嫌よう、と言いたいが。カフェで見かけた時よりも優れなさそうだね。アナベル・バーンズ」
子供達が夏休みに入り随分と経った今日、ようやく諸々にひと段落付けたイーサンの父、デービッドがサイドハウス・ノアに来た。
馬車からはデービットとナルシス、そして気だるけなスーツ姿の男性も降りてきた。
客の名前はノエ・ルメール男爵。夏休み前、イーサンに誘われたカフェで顔を合わせた男性客だ。デービッドとは腐れ縁である一歳年上のノエは、お互いが予定が合えば外でお茶をしばきながら雑談し、男爵がお土産を持って気ままにキャンベル家に来ることも、さらに家族ぐるみで遊ぶこともある。
イーサンにとっても、彼は生まれてから面倒を良く見てくれた。彼が聞かせてくれた、ノエとの思い出話は優しさが溢れるエピソードばかり。聞く側も幸せになってくるものであった。
アナベルもよくキャンベル家で彼と会い、パーティーでもよくキャンベル家族と過ごす姿を目撃しているため、イーサンのおじさん、としての印象が強い。
故にイーサンと婚約してからは初めて顔を合わす彼に、挨拶をしようとアナベルがノエの元を訪れるのも当たり前と言える。
ノエは中庭に立てられたパラソルの下、上着を脱ぎ、藤で造られた長椅子でのんびり寝転んでいた。
イーサンはデービッドに呼ばれたため、アナベルだけ彼の元に向かい声をかければ、彼は目を閉じたまま手を軽く振ると反応の困る言葉をアナベルは投げられたのだ。うまい切り返しが思いつかず、たとたどしくアナベルは、イーサンと婚約した旨を伝えれば、うっすらと隈の浮かぶノエは頷いた。
「デービッドから聞いた。君には少し複雑かもしれないが、私からしてもイーサンは誰よりもピカイチだ。だと思っていたら君の浮かない顔。アイツ本番には弱いタイプだったか」
「いえ!」
全てを見通しているような彼の発言に、アナベルは強く否定の言葉で反応してしまった。声を荒げてしまった事にアナベルは顔を伏せたが、ノエは気にした様子はなく、また彼女を咎めることもしない。短く整えた髪を風に任せている。
勝手に色々と悩んでいるのを話すわけにも行かず、アナベルは言葉に詰まってしまい口を閉ざす。
「アナベル・バーンズ」
それは森の朝の静寂を思わせる声であった。
「誰かの善意は有り難いが、それを返す決まりはない。誰かの愛は温かいものだが、同等のものを与える義務はない。誰かの言葉は真実で、事実かもしれないが、それで君が正しくある理由にならない」
ノエはゆっくりと瞼を上げた。グレーの瞳は目の前の輝かしい夏の景色を映す。
「惑わされるなよ。理解しようとしなくていい。破棄したっていい。家も、建前も全て捨てて良いんだ。逆に優先しても良い」
「それは」
どう言う意味か。
アナベルが問う前に彼は再び目を閉じると、横に置かれた空いた椅子に手のひらを向ける。
アナベルは彼の手と椅子を交互に見やり……。座れ、と言う意味かと考えた彼女は、静かに腰を下ろした。
ノエは何も話さない。
アナベルも、何を話していいか分からず座り続けた。
アイザックが持って来てくれた、細かな氷がたくさん入った、ミントとライムの炭酸水を飲みながら、夏の雲が青い空を流れて行く様を、光を反射する青々とした森林をじっと眺める。
ただぼんやりと、時間が過ぎていく。
沈黙が破られたのは、父親と話を終えた黒い影こと、イーサンが2人の元にやって来たからだ。
「ノエおじさん、お久しぶりです」
「久しぶりイーサン。とりあえず婚約おめでとう」
とりあえず。その単語にイーサンは苦笑する他に反応ができなかった。
ノエの単語にアナベルが固まったため、彼は話題を変える。
イーサンが「今日は何か特別なご用があるのですか?」とノエに聞けば、彼は釣られてしまうような気持ちの良い、大きなあくびを一つ溢した。
「ノープランさ。働きすぎは毒だ。休みの日はゴロゴロするのが至福でね」
イーサンは、普段変わらないノエの答えに笑って返す。
ノエは、今日のようにキャンベル家の庭やバルコニーでゴロゴロするのが至福だ。元は伯爵家の長男であったが十七歳の時に勘当されたノエは、日々がむしゃらに働いて身を立ててきた。二十代半ばで事業を立ち上げてからさらに躍進し、国内外での支援活動も熱心だったために、その功績が王の目に止まり、任された仕事を成功させた彼は男爵の地位を与えられた。貴族の中でも稀有な経歴の持ち主である。
幼少期から長い付き合いのあるキャンベル家は、ノエを勝手放っておいている。または、全力で関わってくるため、ノエにとって借りている部屋よりも過ごしやすい環境だ。四十歳も過ぎて甘えていると思いつつ、こればかりは生きる上で失えないオアシスだと、彼は強い意志でキャンベル家にのんびりしにきている。
昔からすっかり見慣れた姿を見下ろすイーサンの裾を、アナベルは引っ張る。アナベルに目を向けた彼に、隣の空いている場所を軽く叩けば、意図を汲み取ったイーサンは礼を言いながらそのスペースに座った。
「君たちって面白いね。本当に」
ノエの呟きに首を傾げた二人にだったが、彼はそれ以上触れず話を続けた。
「人が多いのは疲れる。こうやってのんびりしている方が、整理される時もある」
「一人では悩みすぎませんか?」
悶々と悩むばかりで前に進まずにいるアナベルの疑問に、ノエは「体を動かせばいい」と言い切った。
「散歩でも指運動でも。どちらかばかり使っているから、疲れすぎるんだよ」
そんな働き疲れのノエは3本指を立てると、急に自論を語り始めた。この世の新三大欲求は、食欲、睡眠欲、休息欲、であると。
「睡眠も休息に含まれるのでは」という若者2人の質問に、彼はゆるゆると首を振る。寝るは休むとイコールではない。ここで言う休息は、自己整理と解放だと。
「社会の枠の中、どうしても自己を裁断し、圧縮しないといけない時がある。己の回復をしないと、元に戻らなくないのさ。自宅も仕事場も、休息室を設けるべきよ。性欲?捨てておけばよろしい」
あくまでノエの自論であるが、よく見れば数本生えている白髪が輝く様子は、なんとなくその強さを感じる。9割が屁理屈であっても、である。
「すみません。お邪魔してしまって」
彼の休みの邪魔をしてしまったと気にしたアナベルが萎縮すると、ノエはヒラヒラと手を振った。
「それは気にしてないさ。若い者に説教を垂れるのも年寄りの趣味だしね。語り過ぎるのもうざいが、社会貢献だと思って聞いておくれよ」
「あまり年寄り年寄り言っていると母様に怒られますよ」
するとノエは顔を歪ませた。悪友の隣で、元気いっぱいに笑う、十代からほとんど変わらないレティシアの姿が脳裏で駆け巡ったからだ。
「全く気にしなくて良いと、よくよく伝えてくれ。数年前から変わってないんだから彼女は」
ノエの言葉に、一斉に若者たちは頷いた。
するとナルシスがイーサンの分の長椅子を持って来てくれた。
元々屋敷で過ごす予定だった2人は、今日ノエの横に並び似たようにダラけることにした。勉強会もダンスの練習もしない。目を瞑り周囲の音に耳を澄ませたり。変わって行く空の様を眺めたり。本を読んだり、眠ったり。各々時間を潰す。
昼にはデービッドとレティシアも三人の元に集まった。広げた大きなパラソルの下で、とりとめのない雑談を交わしながら、ゆっくりと昼食を摂った。
そして午後から、ダラダラ、ゴロゴロ、ぐうぐう。
アナベルはまた、ぼんやり景色を眺めていた。
サイドハウス・ノアで、時間の限り周辺をただ眺めるのは初めのこと。
何もしないと時間が長く感じる。最初は落ち着かず身体がむず痒くなっていたが、何も考えないようにする内に治まった。
『人が多いのは疲れる。こうやって1人でのんびりしている方が整理される時もある』
(…………)
厚く重い夏の雲が悠々と流れて行く。風の好きなように、チョコレート色の髪を自由にさせている。
アナベルはパラソルの下、いつまでも輝かしい風景を見上げていた。
ノエは言った通り、夕方まで過ごすと王都へ帰ったのだった。
✴︎
その夜。アナベルはイーサンと侯爵夫妻に、少し躊躇いながらも真っ直ぐに願い出た。
「三日間、一人で過ごさせていただけませんか」
子供達が夏休みに入り随分と経った今日、ようやく諸々にひと段落付けたイーサンの父、デービッドがサイドハウス・ノアに来た。
馬車からはデービットとナルシス、そして気だるけなスーツ姿の男性も降りてきた。
客の名前はノエ・ルメール男爵。夏休み前、イーサンに誘われたカフェで顔を合わせた男性客だ。デービッドとは腐れ縁である一歳年上のノエは、お互いが予定が合えば外でお茶をしばきながら雑談し、男爵がお土産を持って気ままにキャンベル家に来ることも、さらに家族ぐるみで遊ぶこともある。
イーサンにとっても、彼は生まれてから面倒を良く見てくれた。彼が聞かせてくれた、ノエとの思い出話は優しさが溢れるエピソードばかり。聞く側も幸せになってくるものであった。
アナベルもよくキャンベル家で彼と会い、パーティーでもよくキャンベル家族と過ごす姿を目撃しているため、イーサンのおじさん、としての印象が強い。
故にイーサンと婚約してからは初めて顔を合わす彼に、挨拶をしようとアナベルがノエの元を訪れるのも当たり前と言える。
ノエは中庭に立てられたパラソルの下、上着を脱ぎ、藤で造られた長椅子でのんびり寝転んでいた。
イーサンはデービッドに呼ばれたため、アナベルだけ彼の元に向かい声をかければ、彼は目を閉じたまま手を軽く振ると反応の困る言葉をアナベルは投げられたのだ。うまい切り返しが思いつかず、たとたどしくアナベルは、イーサンと婚約した旨を伝えれば、うっすらと隈の浮かぶノエは頷いた。
「デービッドから聞いた。君には少し複雑かもしれないが、私からしてもイーサンは誰よりもピカイチだ。だと思っていたら君の浮かない顔。アイツ本番には弱いタイプだったか」
「いえ!」
全てを見通しているような彼の発言に、アナベルは強く否定の言葉で反応してしまった。声を荒げてしまった事にアナベルは顔を伏せたが、ノエは気にした様子はなく、また彼女を咎めることもしない。短く整えた髪を風に任せている。
勝手に色々と悩んでいるのを話すわけにも行かず、アナベルは言葉に詰まってしまい口を閉ざす。
「アナベル・バーンズ」
それは森の朝の静寂を思わせる声であった。
「誰かの善意は有り難いが、それを返す決まりはない。誰かの愛は温かいものだが、同等のものを与える義務はない。誰かの言葉は真実で、事実かもしれないが、それで君が正しくある理由にならない」
ノエはゆっくりと瞼を上げた。グレーの瞳は目の前の輝かしい夏の景色を映す。
「惑わされるなよ。理解しようとしなくていい。破棄したっていい。家も、建前も全て捨てて良いんだ。逆に優先しても良い」
「それは」
どう言う意味か。
アナベルが問う前に彼は再び目を閉じると、横に置かれた空いた椅子に手のひらを向ける。
アナベルは彼の手と椅子を交互に見やり……。座れ、と言う意味かと考えた彼女は、静かに腰を下ろした。
ノエは何も話さない。
アナベルも、何を話していいか分からず座り続けた。
アイザックが持って来てくれた、細かな氷がたくさん入った、ミントとライムの炭酸水を飲みながら、夏の雲が青い空を流れて行く様を、光を反射する青々とした森林をじっと眺める。
ただぼんやりと、時間が過ぎていく。
沈黙が破られたのは、父親と話を終えた黒い影こと、イーサンが2人の元にやって来たからだ。
「ノエおじさん、お久しぶりです」
「久しぶりイーサン。とりあえず婚約おめでとう」
とりあえず。その単語にイーサンは苦笑する他に反応ができなかった。
ノエの単語にアナベルが固まったため、彼は話題を変える。
イーサンが「今日は何か特別なご用があるのですか?」とノエに聞けば、彼は釣られてしまうような気持ちの良い、大きなあくびを一つ溢した。
「ノープランさ。働きすぎは毒だ。休みの日はゴロゴロするのが至福でね」
イーサンは、普段変わらないノエの答えに笑って返す。
ノエは、今日のようにキャンベル家の庭やバルコニーでゴロゴロするのが至福だ。元は伯爵家の長男であったが十七歳の時に勘当されたノエは、日々がむしゃらに働いて身を立ててきた。二十代半ばで事業を立ち上げてからさらに躍進し、国内外での支援活動も熱心だったために、その功績が王の目に止まり、任された仕事を成功させた彼は男爵の地位を与えられた。貴族の中でも稀有な経歴の持ち主である。
幼少期から長い付き合いのあるキャンベル家は、ノエを勝手放っておいている。または、全力で関わってくるため、ノエにとって借りている部屋よりも過ごしやすい環境だ。四十歳も過ぎて甘えていると思いつつ、こればかりは生きる上で失えないオアシスだと、彼は強い意志でキャンベル家にのんびりしにきている。
昔からすっかり見慣れた姿を見下ろすイーサンの裾を、アナベルは引っ張る。アナベルに目を向けた彼に、隣の空いている場所を軽く叩けば、意図を汲み取ったイーサンは礼を言いながらそのスペースに座った。
「君たちって面白いね。本当に」
ノエの呟きに首を傾げた二人にだったが、彼はそれ以上触れず話を続けた。
「人が多いのは疲れる。こうやってのんびりしている方が、整理される時もある」
「一人では悩みすぎませんか?」
悶々と悩むばかりで前に進まずにいるアナベルの疑問に、ノエは「体を動かせばいい」と言い切った。
「散歩でも指運動でも。どちらかばかり使っているから、疲れすぎるんだよ」
そんな働き疲れのノエは3本指を立てると、急に自論を語り始めた。この世の新三大欲求は、食欲、睡眠欲、休息欲、であると。
「睡眠も休息に含まれるのでは」という若者2人の質問に、彼はゆるゆると首を振る。寝るは休むとイコールではない。ここで言う休息は、自己整理と解放だと。
「社会の枠の中、どうしても自己を裁断し、圧縮しないといけない時がある。己の回復をしないと、元に戻らなくないのさ。自宅も仕事場も、休息室を設けるべきよ。性欲?捨てておけばよろしい」
あくまでノエの自論であるが、よく見れば数本生えている白髪が輝く様子は、なんとなくその強さを感じる。9割が屁理屈であっても、である。
「すみません。お邪魔してしまって」
彼の休みの邪魔をしてしまったと気にしたアナベルが萎縮すると、ノエはヒラヒラと手を振った。
「それは気にしてないさ。若い者に説教を垂れるのも年寄りの趣味だしね。語り過ぎるのもうざいが、社会貢献だと思って聞いておくれよ」
「あまり年寄り年寄り言っていると母様に怒られますよ」
するとノエは顔を歪ませた。悪友の隣で、元気いっぱいに笑う、十代からほとんど変わらないレティシアの姿が脳裏で駆け巡ったからだ。
「全く気にしなくて良いと、よくよく伝えてくれ。数年前から変わってないんだから彼女は」
ノエの言葉に、一斉に若者たちは頷いた。
するとナルシスがイーサンの分の長椅子を持って来てくれた。
元々屋敷で過ごす予定だった2人は、今日ノエの横に並び似たようにダラけることにした。勉強会もダンスの練習もしない。目を瞑り周囲の音に耳を澄ませたり。変わって行く空の様を眺めたり。本を読んだり、眠ったり。各々時間を潰す。
昼にはデービッドとレティシアも三人の元に集まった。広げた大きなパラソルの下で、とりとめのない雑談を交わしながら、ゆっくりと昼食を摂った。
そして午後から、ダラダラ、ゴロゴロ、ぐうぐう。
アナベルはまた、ぼんやり景色を眺めていた。
サイドハウス・ノアで、時間の限り周辺をただ眺めるのは初めのこと。
何もしないと時間が長く感じる。最初は落ち着かず身体がむず痒くなっていたが、何も考えないようにする内に治まった。
『人が多いのは疲れる。こうやって1人でのんびりしている方が整理される時もある』
(…………)
厚く重い夏の雲が悠々と流れて行く。風の好きなように、チョコレート色の髪を自由にさせている。
アナベルはパラソルの下、いつまでも輝かしい風景を見上げていた。
ノエは言った通り、夕方まで過ごすと王都へ帰ったのだった。
✴︎
その夜。アナベルはイーサンと侯爵夫妻に、少し躊躇いながらも真っ直ぐに願い出た。
「三日間、一人で過ごさせていただけませんか」

