夏休み二十九日目は、よく晴れており、空には夏の、厚みで膨らんだ雲が浮かんでいる。
湿度は低いため日陰に入れば十分に涼しく感じられる今日は、レティシアの親友である夫人と彼女のご令嬢との茶話会の日。
サイドハウス・ノアに一台の馬車が到着した。
シックな装いでローズ色のロングヘアをゆったりと結いあげた年配の女性と、可愛らしいピンク色のドレスワンピースに夏の日差しに負けない黄金色の髪を2つ結びにした女の子が、馬車から降りる。2人ともこぼれ落ちそうな大きな瞳を持ち、物語の挿絵に描かれるお姫様を彷彿させる。
「ごきげんようレティシア!」
「ごきげんよう! 良く来てくれたわね」
厳かな瞬間も束の間、ドレスのシワも気にしない夫人たちは豪快に抱きしめ合う。なかなか新鮮な光景だが、慣れきったキャンベル家の使用人とアナベルは微笑ましく見つめていた。
少し跳ねながら年ぶりの再会を喜び合った2人は、抱擁を解くと夫人はイーサンへと笑顔を向ける。
「イーサンも久しぶりね。あとこの度はおめでとう」
「お久しぶりです。ありがとうございます」
「アナベル! こちら私の親友ベアトリス・メルシエ子爵夫人。そして娘のビジューよ」
レティシアに紹介されたアナベルは、スカイブルーのドレススカートを摘み、軽く持ち上げた。
「はじめてお会いいたします。ベアトリス様、ビジュー様。アナベル・バーンズと申します」
ベアトリスの知的な眼差しが、アナベルを優しく優しく包み込み微笑んだ。
「はじめまして。ようやくお会いできたわ。よくレティシアやイーサンから話を聞いていたの。これからよろしくね」
王都の同じ学園に通っていたレティシアの幼馴染でもある、ベアトリスは夫と娘と暮らす保養地区で仕事に励んでいるため、王都には滅多に足を運ばない。そのためレティシアから彼女の思い出話を聞くことはあっても、こうして顔を合わすのは初めてであった。
優しい夫人の笑みに、アナベルの緊張はほんの少しだけ和らぐも、気を抜いてはいけないと腹に力を入れ直す。
「急にごめんなさいね。娘がどうしてもすぐに『会いたい』って言うものだから…」
ベアトリスは隣に佇む娘に目を向ける。金髪を輝かせる彼女はサイドハウス・ノアに着いてから、一言も発さない。クリクリと可愛らしい大きな青い瞳が、アナベルを捉える。
「はじめましてビジュー様」
アナベルはビジューと向き合うと、改めて挨拶を重ねる。それでも年下の彼女に、じっと見つめられたままだ。
「こらビジュー。ご挨拶なさい」
眉をひそめる母親に促されても、じっと、じっとじっとじっとアナベルを見つめている。その内アナベルの体に穴が空くかもしれない、そんな強い圧。
「…ビジュー様、何か?」
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク。
心臓が大きく打つ。なんだ、もう戦争は始まっているのか。姿勢を正すと、アナベルの高く纏められた髪が揺れる。それは陽を浴びて、美しく揺れる。
途端。
「うっつくしいしいわ! 聞いていた通り! 本当に、輝かしいポニーヘアーね!」
敷地中に響き渡るほどの声が飛び出した。ビジューは目をさらに大きく開き、陽光に輝いて宝石にも負けない。
ポニーヘアー、とは。元婚約者のロベールに言われたのだ。『お前の髪はまるでポニーの尾だ』と。アナベルは褒め言葉だと本気で思っていた。馬のしなやかな尻尾。しかし後から貶しているのだと教えられ、地味に落ち込んだ微妙な思い出である。アナベルにとっては、だが。
ビジューはガツガツと颯爽と彼女に歩み寄ると、アナベルの周りを巡り始める。
「光に輝いて…天使の輪だわ!」「綺麗なチョコレート色」「すごくさらさらしてる……ヘアケアに何を使っているの?」「お髪に触っても良い?」
アナベルは呆気に取られて、すんなりビジューを受け入れた。
ビジューはアナベルの優しく髪に触れると、感嘆の言葉を漏らし、讃える。それは心からの純粋な賞賛。
自慢の髪ではあるが、特に家族やキャンベル家以外には褒められたことがなかったためむず痒くてしょうがない。思わず顔を伏せて照れ臭さに耐えている。
始まった乙女たちの交友を、レティシアもベアトリスも微笑ましく見つめている。
「ビジュー、そこまでに」
いつまでもアナベルの髪に触れるビジューに、止めるようイーサンは声をかけた。放置すれば一日が終える気配がしたからだ。
すると彼女は眉を顰め、イーサンに厳しい目を向ける。アナベルの肩をサッと抱きしめた。
「やだイーサン。自分が触れられないからと言ってこちらを責めないでくれる? どうせこの人、まだ腕を組むか手に触れるかしかしないのでしょう? 愛を語るならもっと表現しないと。嫌だわ」
意図せず痛いところを突かれたイーサンは、思わず狼狽えてしまった。
ビジューはイーサンに舌を出した。
彼女に抱きしめられているアナベルは呆気にとられ過ぎ、緊張もどこかに消えてしまっていた。自由だ。そして強い。想像以上に元気な娘。心のままに動き、話す。今まで関わっていないタイプではあるが、心地よさを感じる。もし計算された行動ならば相当手強い相手である。
「はいはいそこまで! さ、お茶にしましょ」
レティシアの掛け声に、待機していたソフィアが案内をする。一同茶話会の準備が成されたガゼボに移動した。
✴︎
お茶会は和やかに行われている。ベアトリスとビジュー、アナベルが改めて自己紹介をしながら、共通であるキャンベル家族との思い出を軸に話を展開していく。お茶やお菓子を楽しみながら、実に平和な時間が流れている。
アナベルとイーサンの婚約について、ビジューや夫人が切り出すような雰囲気もない。とにかく楽しく場が終えれるなら万々歳。
『相手はあのベルナルド家次男の元婚約者だろ?予定びっしりミス・クロック。物好きな』
『他にも条件の良い令嬢や未亡人はいただろうに』
『それこそビジュー嬢とって話が出てたからな』
「どうかしたのアナベル?」
レティシアがアナベルの顔を心配そうに覗き込む。
(こら、アナベル、集中しなさい!)
うっかり夜会での会話を思い返し、ぼんやりとしてしまった。
「どこかで私がイーサンと婚約するバズだった、なんて聞いたんじゃない?」
「大丈夫です」と言おうとしたアナベルよりも先に、ビジューが口を開いた。
アナベルはビジューを、イーサンはアナベルを、それぞれ驚いたように見つめた。レティシアとベアトリスも口を閉じ、三人を静観する。
爆弾発言をしたビジューは、ゆっくりとアナベルの方に顔を向けた。
「ねぇ知りたい?アナベル様。私が貴女達の婚約に、どう思っているのか」
ビジューは目を細め、口を弧のように歪める。年に似合わない妖しげな笑み。
(こんな表情もできるのね)
ビジューは食わせ者だ。
しかしわざわざ話を向けてくれた。今ここで聞かなければならない。アナベルはビジューに問う。
「えぇビジュー様。伺いたいわ。私とイーサンとの婚約、どう思っていらっしゃるの?」
ビジューは口元の歪みを深め、一瞬にして豪華な笑顔に戻った。
「まっっったく! 何も思ってないわ!あ、おめでたいっていう気持ちはもちろんあるわよ。アナベル様、イーサン。結婚おめでとう!」
彼女は白ブドウのスパークリングウォーターの入ったグラスを持つと、アナベルとイーサンのものに触れた。チン! 軽快な音が鳴る。ビジューは一口大にちぎっていたクロワッサンを口に放り込んだ。バターが香り幾重にも重なった食感は、頬が落ちそうだ。
「そもそも、イーサンと婚約なんて話なかったし」
「え」
思わず声を出して驚いてしまった。ベアトリスが娘に代わりに、話を続ける。
「昔から、時間があったらお互いの家を行き来してたの。ただ親友のお家に遊びにきてただけなんだけど他の人たちが勝手に勘違いして……。あちこちで否定して回ったんだけど。まだ言ってる人がいるのね、嫌だわ。ごめんなさい。不安な気持ちにさせてしまったわね」
「私も気づかなかったわ。アナベルが悩んでることに気づけないなんて」
頭を下げるベアトリスとビジュー。レティシアも苦悶に耐え、イーサンの顔は青を通り越して、白に変わってしまっている。
彼女たちが悪いのではない。事前に確認すればよかったことなのだ。慌ててアナベルは、まずは頭を下げる親子に上げるようお願いする。
「もう! 私たち全っったく意識したことなかったのに勝手にあちこちで言われるの! 私には素敵な婚約者がいるのによ? あ、今度紹介するわね! 筋肉ムキムキで、笑顔が爽やかで、かけてくれる言葉の一つひとつがロマンチックなの。ちょっと頼りないところも、また可愛い人なの! この人!」
姿勢を戻したビジューは胸元のペンダントを裏返すと、アナベルによく見えるよう差し出した。中には小さな写真が入っており、イーサンよりも背が高く、体格が優れた男性とビジューの姿が写っている。照れ臭そうにはにかみながらもピッタリと身体を寄せ合い、腕を組む2人の姿は仲の良さを物語っている。
「ね? ね? ね! 素敵な方でしょ?」
今も滔々と語る彼女の頬は薄く桃色に染まり、全身から愛おしさに嬉しさが溢れている。
ああ、これは。間違いなく、相思相愛のカップルだ。知らなかったとはいえ、アナベルが想像で勝手に関係を邪推してしまった。謝るべきはアナベルの方だ。
「ごめんなさい。私ったら」
今度はアナベルが頭を下げようとすれば、颯爽と肩に手を置かれて顔が近づく。コツンとアナベルのおでこに、ビジューのおでこがぶつかった。
美しい令嬢と、愛らしい令嬢が身を寄せ合う姿は、それこそ劇のポスターを彷彿させる可憐さを醸し出している。
「突然聞いたら誰でも動揺するわ。私だったら絶対嫉妬する。知らない女性だと変に想像膨らませちゃうし。だから今日は貴女と仲良くなりに来たの。さあもっとアナベル・バーンズのことを教えてちょうだい!」
「ビジュー様……」
アナベルの心に、ビジューの純真さと明るさが染み渡る。
乙女の仲が深まっていく様子に、行先をじっと見据えていたレティシアが身を乗り出す。
「あら、それって私もアナベル語りしていいのかしら?!」
「もちろんよ。ついでにビジュー語りもお願いね、おば様」
「もうこの子ったら…」
「もちろんよ! やだ今日止まれないかも」
心の壁が打ち壊され、交流を深めることになれば、話題は静かな水面に投げられた石が大きな波紋となり、他と共鳴してさらに大きく振動する。深まっていく。
家族のこと、婚約者のこと、学園のこと。住んでいる街や王都のこと。特にビジューはアナベルたちが通う学園に興味があるようで、より話を深掘りする。
アナベルもさりげなく、婚約者との交流について伺う。日頃強く婚約者とのなれそめや、デート、彼がどう愛をつぶやき、自分が返すのかを語り尽くしたいビジューは、先ほど以上に熱を込めて語り明かした。恋愛初心者以前のアナベルには少しばかり刺激が強いが、これも学びである。興味深く前のめりに聞くアナベルに対し、イーサンは知り合いの娘の恋路話を聞いて若干気まずさを抱いていた。彼女の婚約者とは深くはないが知らない仲ではない。
色々な話を五人は交わした。
すっかり打ち解けたアナベルとビジュー。座っているのも飽きたビジューに誘われてアナベルは彼女と中庭を散歩することにした。
ビジューが先を、アナベルが後ろから着いて歩く。ビジューが小声で口ずさむ歌が、耳に馴染む。夕方に差し掛かり、暑さが少し落ち着き、風も心地よく吹き始めた。
「ねぇお昼の話だけど。嘘なしよ。本っ当におめでとう! 心の底から、思ってるわ思ってるわ」
ビジューが二人の婚約を知ったのは、夏の始まり。レティシアから送られた母親宛の手紙でだ。
初恋相手と婚約を結んだ、と教えてもらった時は屋敷の外にまで響き渡る声が出た。
ビジューにとってイーサンは、母親の親友の子、どうにか生きながらえた子息程度の認識だ。確かに遊びに来るが常に家族と、それも一年の内片手の指で数えれるほど。確かに噂で評価される紳士であるが、特別意識を向ける相手ではなかった。
貴族らしい浮ついた話もない、つまんない。と、思っていたら。
初恋相手。片想い。婚約相手はレティシアがよく語るアナベル・バーンズ!
『こんなに面白い話を隠し持っていたなんて!』
ビジューはすぐにでも話を聞きにサイドハウス・ノアに突撃したかった。それを我慢したのは、ようやく好きな人と一緒の時間を過ごせる権利を得たイーサンを気づかってのもの。夏休み、どこかで絶対に会うのだから、2人の邪魔をしない。必死にはしゃぐ心に鎖を巻いた。
しかし。父親の取引先の夜会に出席した際、イーサンとビジューの婚約というふざけた噂が流れていた。
ビジューの婚約者は、彼女とイーサンの仲の微妙さを知ってるため一切気にしてはいなかった。『君の愛を疑ったことはないよ』と照れ臭そうに囁かれもした。普段ならば安堵とともに盛大に顔を緩ませるところであったが、彼女は1人の女性が気になった。
アナベルは、大丈夫だろうか。噂が耳に入っていないといい。もしかして、気にしているかもしれない。
仲が良いと聞いているアナベルとイーサンを、自分が原因で拗れさせることは許さない。
そこでベアトリスに駄々を捏ねて、甘えて。今日の茶話会の予定を取り付けてもらったのだ。
ちなみに同じパーティーに参加していたベアトリスは噂を聞いていなかった。アナベルが気にしていないなら、楽しい茶話会のまま終わらせたかったビジューは、あえて何も伝えていなかった。じっくりアナベルの様子を観察しようと、ビジューは今日大人しく過ごす予定だったがアナベルの美しい髪を前に全て壊してしまったのであった。
「嫌よねー暇な貴族の噂話って!色々狂ったけど、やっぱり会えてよかった」
面白おかしくビジューは話すが、彼女はアナベルを思って行動してくれた。その思いにアナベルの胸は温かくなる。
「ビジュー様、お気遣いありがとうございます」
ビジューはアナベルに振り返った。彼女のワンピースドレスの裾が少し広がり、一輪の花を思わせた。
「これは私が潰さないといけないから良いのよ。それよりも、固い。年下相手にはもっと気軽でいいんじゃない?名前で呼んで。私もアナベルって呼びたいから。イーサンだけずるいもの」
期待に満ちた瞳に見つめられる。
本人からの申し出だ。なによりアナベルも、敬称付きではビジューを遠くに感じる。普段なら絶対に思わない感覚であるが、今の彼女はそう強く思った。
一度咳払いをし、アナベルは彼女の名を呼んだ。
「ビジュー」
「はあい。アナベル」
お互いの名前を呼んだだけなのに。なんだか妙におかしくて。乙女たちはケラケラと笑い合った。
さっと風が吹き、頬を撫でる。
アナベルはつん、と肩をつつかれた。
「悩んでいるのね」
アナベルは息を呑む。年下の女の子は短時間でアナベルの全てを見通しているようだ。
「何を悩んでいるのかわからなけど。貴女は今飲み込んでいるの。噛んで、食べてない。飲み込むだけ。悩みを必死に受け入れようとしてるだけに見えるわ」
ビジューは俯くアナベルの頬に触れる。
「悩みってそんなお手軽なもの?ちゃんと、噛み締めて、休んで、ゆっくり消化するのが大切じゃないかしら」
透き通る風のようにビジューは紡いだ虚を突かれ空いた隙間から、アナベルの心に染み透る。
「恋って愛って何かしら? 私もね、わからないの。特に貴族はわからないんじゃないかな。ねぇアナベル。まだわかっていないだけ。大切にしていることは、誰にだってあるはずよ? 多分人はそれを、愛って呼ぶのだわ」
「貴女は色んなことをわかってるのね」
ビジューは短く笑い「斜に構えてるだけよ」と答えた。格好つけて言うものだから。再び、二人は笑い合った。
二人が短い散歩から戻ると、ちょうど時間は17時を迎えた。ベアトリスとビジューが帰る時間だ。
「ねぇビジュー」
年下の令嬢が馬車に乗る直前。アナベルは勇気を持って呼び止め、彼女は振り向いた。
「また、会いましょう? お話できなかったこともあるし……私の家族を紹介したいわ」
アナベルからの誘いに、ビジューは心の底から嬉しさが込み上げる。その勢いのまま、アナベルに抱きついた。
「えぇまた会いましょう! 可愛らしい妹ちゃんたちにも会ってみたい! たっくさんお話ししましょうね、約束よ」
ウィンクを飛ばし、元気よく馬車に乗り込んだ。
ベアトリスはそんな娘を嗜める。「はぁい」と気の抜けた返事が聞こえる。親子は窓から顔を出し、手を振る。
「ではまたね、皆さん」
「またね! おばさま、アナベル、イーサン!」
「えぇまたね!来てくれてありがとう!」
馬車は走り出し、門を通って姿が見えなくなった。
(嵐のようだったな……)
イーサンはそっと安堵の息を吐いた。
豪快ではあるが、思いやりがあり明るいビジュー。前からアナベルは馬が合うと思っていたが、すっかり仲良くなっていた。正直嫉妬してしまう。彼女もそれを感じたようで、時折イーサンに勝ち誇ったような顔を向けた。思い出すと少し腹が立ってくるが、今日は完全に救われた。
まさかビジューとの関係を誤解させていたなんて。この2日アナベルが思い悩んでいたことはわかっていたのに考えが至らなかった。
ようやく隣に立てるようになったのに、心の距離は以前よりも遠い。
「アナベル」
馬車が遠ざかるのを見つめたまま動かないアナベルに、イーサンは声をかけた。
「どうかしたかい?」
「いえ、なんでもないわ。なんでも」
湿度は低いため日陰に入れば十分に涼しく感じられる今日は、レティシアの親友である夫人と彼女のご令嬢との茶話会の日。
サイドハウス・ノアに一台の馬車が到着した。
シックな装いでローズ色のロングヘアをゆったりと結いあげた年配の女性と、可愛らしいピンク色のドレスワンピースに夏の日差しに負けない黄金色の髪を2つ結びにした女の子が、馬車から降りる。2人ともこぼれ落ちそうな大きな瞳を持ち、物語の挿絵に描かれるお姫様を彷彿させる。
「ごきげんようレティシア!」
「ごきげんよう! 良く来てくれたわね」
厳かな瞬間も束の間、ドレスのシワも気にしない夫人たちは豪快に抱きしめ合う。なかなか新鮮な光景だが、慣れきったキャンベル家の使用人とアナベルは微笑ましく見つめていた。
少し跳ねながら年ぶりの再会を喜び合った2人は、抱擁を解くと夫人はイーサンへと笑顔を向ける。
「イーサンも久しぶりね。あとこの度はおめでとう」
「お久しぶりです。ありがとうございます」
「アナベル! こちら私の親友ベアトリス・メルシエ子爵夫人。そして娘のビジューよ」
レティシアに紹介されたアナベルは、スカイブルーのドレススカートを摘み、軽く持ち上げた。
「はじめてお会いいたします。ベアトリス様、ビジュー様。アナベル・バーンズと申します」
ベアトリスの知的な眼差しが、アナベルを優しく優しく包み込み微笑んだ。
「はじめまして。ようやくお会いできたわ。よくレティシアやイーサンから話を聞いていたの。これからよろしくね」
王都の同じ学園に通っていたレティシアの幼馴染でもある、ベアトリスは夫と娘と暮らす保養地区で仕事に励んでいるため、王都には滅多に足を運ばない。そのためレティシアから彼女の思い出話を聞くことはあっても、こうして顔を合わすのは初めてであった。
優しい夫人の笑みに、アナベルの緊張はほんの少しだけ和らぐも、気を抜いてはいけないと腹に力を入れ直す。
「急にごめんなさいね。娘がどうしてもすぐに『会いたい』って言うものだから…」
ベアトリスは隣に佇む娘に目を向ける。金髪を輝かせる彼女はサイドハウス・ノアに着いてから、一言も発さない。クリクリと可愛らしい大きな青い瞳が、アナベルを捉える。
「はじめましてビジュー様」
アナベルはビジューと向き合うと、改めて挨拶を重ねる。それでも年下の彼女に、じっと見つめられたままだ。
「こらビジュー。ご挨拶なさい」
眉をひそめる母親に促されても、じっと、じっとじっとじっとアナベルを見つめている。その内アナベルの体に穴が空くかもしれない、そんな強い圧。
「…ビジュー様、何か?」
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、ドク。
心臓が大きく打つ。なんだ、もう戦争は始まっているのか。姿勢を正すと、アナベルの高く纏められた髪が揺れる。それは陽を浴びて、美しく揺れる。
途端。
「うっつくしいしいわ! 聞いていた通り! 本当に、輝かしいポニーヘアーね!」
敷地中に響き渡るほどの声が飛び出した。ビジューは目をさらに大きく開き、陽光に輝いて宝石にも負けない。
ポニーヘアー、とは。元婚約者のロベールに言われたのだ。『お前の髪はまるでポニーの尾だ』と。アナベルは褒め言葉だと本気で思っていた。馬のしなやかな尻尾。しかし後から貶しているのだと教えられ、地味に落ち込んだ微妙な思い出である。アナベルにとっては、だが。
ビジューはガツガツと颯爽と彼女に歩み寄ると、アナベルの周りを巡り始める。
「光に輝いて…天使の輪だわ!」「綺麗なチョコレート色」「すごくさらさらしてる……ヘアケアに何を使っているの?」「お髪に触っても良い?」
アナベルは呆気に取られて、すんなりビジューを受け入れた。
ビジューはアナベルの優しく髪に触れると、感嘆の言葉を漏らし、讃える。それは心からの純粋な賞賛。
自慢の髪ではあるが、特に家族やキャンベル家以外には褒められたことがなかったためむず痒くてしょうがない。思わず顔を伏せて照れ臭さに耐えている。
始まった乙女たちの交友を、レティシアもベアトリスも微笑ましく見つめている。
「ビジュー、そこまでに」
いつまでもアナベルの髪に触れるビジューに、止めるようイーサンは声をかけた。放置すれば一日が終える気配がしたからだ。
すると彼女は眉を顰め、イーサンに厳しい目を向ける。アナベルの肩をサッと抱きしめた。
「やだイーサン。自分が触れられないからと言ってこちらを責めないでくれる? どうせこの人、まだ腕を組むか手に触れるかしかしないのでしょう? 愛を語るならもっと表現しないと。嫌だわ」
意図せず痛いところを突かれたイーサンは、思わず狼狽えてしまった。
ビジューはイーサンに舌を出した。
彼女に抱きしめられているアナベルは呆気にとられ過ぎ、緊張もどこかに消えてしまっていた。自由だ。そして強い。想像以上に元気な娘。心のままに動き、話す。今まで関わっていないタイプではあるが、心地よさを感じる。もし計算された行動ならば相当手強い相手である。
「はいはいそこまで! さ、お茶にしましょ」
レティシアの掛け声に、待機していたソフィアが案内をする。一同茶話会の準備が成されたガゼボに移動した。
✴︎
お茶会は和やかに行われている。ベアトリスとビジュー、アナベルが改めて自己紹介をしながら、共通であるキャンベル家族との思い出を軸に話を展開していく。お茶やお菓子を楽しみながら、実に平和な時間が流れている。
アナベルとイーサンの婚約について、ビジューや夫人が切り出すような雰囲気もない。とにかく楽しく場が終えれるなら万々歳。
『相手はあのベルナルド家次男の元婚約者だろ?予定びっしりミス・クロック。物好きな』
『他にも条件の良い令嬢や未亡人はいただろうに』
『それこそビジュー嬢とって話が出てたからな』
「どうかしたのアナベル?」
レティシアがアナベルの顔を心配そうに覗き込む。
(こら、アナベル、集中しなさい!)
うっかり夜会での会話を思い返し、ぼんやりとしてしまった。
「どこかで私がイーサンと婚約するバズだった、なんて聞いたんじゃない?」
「大丈夫です」と言おうとしたアナベルよりも先に、ビジューが口を開いた。
アナベルはビジューを、イーサンはアナベルを、それぞれ驚いたように見つめた。レティシアとベアトリスも口を閉じ、三人を静観する。
爆弾発言をしたビジューは、ゆっくりとアナベルの方に顔を向けた。
「ねぇ知りたい?アナベル様。私が貴女達の婚約に、どう思っているのか」
ビジューは目を細め、口を弧のように歪める。年に似合わない妖しげな笑み。
(こんな表情もできるのね)
ビジューは食わせ者だ。
しかしわざわざ話を向けてくれた。今ここで聞かなければならない。アナベルはビジューに問う。
「えぇビジュー様。伺いたいわ。私とイーサンとの婚約、どう思っていらっしゃるの?」
ビジューは口元の歪みを深め、一瞬にして豪華な笑顔に戻った。
「まっっったく! 何も思ってないわ!あ、おめでたいっていう気持ちはもちろんあるわよ。アナベル様、イーサン。結婚おめでとう!」
彼女は白ブドウのスパークリングウォーターの入ったグラスを持つと、アナベルとイーサンのものに触れた。チン! 軽快な音が鳴る。ビジューは一口大にちぎっていたクロワッサンを口に放り込んだ。バターが香り幾重にも重なった食感は、頬が落ちそうだ。
「そもそも、イーサンと婚約なんて話なかったし」
「え」
思わず声を出して驚いてしまった。ベアトリスが娘に代わりに、話を続ける。
「昔から、時間があったらお互いの家を行き来してたの。ただ親友のお家に遊びにきてただけなんだけど他の人たちが勝手に勘違いして……。あちこちで否定して回ったんだけど。まだ言ってる人がいるのね、嫌だわ。ごめんなさい。不安な気持ちにさせてしまったわね」
「私も気づかなかったわ。アナベルが悩んでることに気づけないなんて」
頭を下げるベアトリスとビジュー。レティシアも苦悶に耐え、イーサンの顔は青を通り越して、白に変わってしまっている。
彼女たちが悪いのではない。事前に確認すればよかったことなのだ。慌ててアナベルは、まずは頭を下げる親子に上げるようお願いする。
「もう! 私たち全っったく意識したことなかったのに勝手にあちこちで言われるの! 私には素敵な婚約者がいるのによ? あ、今度紹介するわね! 筋肉ムキムキで、笑顔が爽やかで、かけてくれる言葉の一つひとつがロマンチックなの。ちょっと頼りないところも、また可愛い人なの! この人!」
姿勢を戻したビジューは胸元のペンダントを裏返すと、アナベルによく見えるよう差し出した。中には小さな写真が入っており、イーサンよりも背が高く、体格が優れた男性とビジューの姿が写っている。照れ臭そうにはにかみながらもピッタリと身体を寄せ合い、腕を組む2人の姿は仲の良さを物語っている。
「ね? ね? ね! 素敵な方でしょ?」
今も滔々と語る彼女の頬は薄く桃色に染まり、全身から愛おしさに嬉しさが溢れている。
ああ、これは。間違いなく、相思相愛のカップルだ。知らなかったとはいえ、アナベルが想像で勝手に関係を邪推してしまった。謝るべきはアナベルの方だ。
「ごめんなさい。私ったら」
今度はアナベルが頭を下げようとすれば、颯爽と肩に手を置かれて顔が近づく。コツンとアナベルのおでこに、ビジューのおでこがぶつかった。
美しい令嬢と、愛らしい令嬢が身を寄せ合う姿は、それこそ劇のポスターを彷彿させる可憐さを醸し出している。
「突然聞いたら誰でも動揺するわ。私だったら絶対嫉妬する。知らない女性だと変に想像膨らませちゃうし。だから今日は貴女と仲良くなりに来たの。さあもっとアナベル・バーンズのことを教えてちょうだい!」
「ビジュー様……」
アナベルの心に、ビジューの純真さと明るさが染み渡る。
乙女の仲が深まっていく様子に、行先をじっと見据えていたレティシアが身を乗り出す。
「あら、それって私もアナベル語りしていいのかしら?!」
「もちろんよ。ついでにビジュー語りもお願いね、おば様」
「もうこの子ったら…」
「もちろんよ! やだ今日止まれないかも」
心の壁が打ち壊され、交流を深めることになれば、話題は静かな水面に投げられた石が大きな波紋となり、他と共鳴してさらに大きく振動する。深まっていく。
家族のこと、婚約者のこと、学園のこと。住んでいる街や王都のこと。特にビジューはアナベルたちが通う学園に興味があるようで、より話を深掘りする。
アナベルもさりげなく、婚約者との交流について伺う。日頃強く婚約者とのなれそめや、デート、彼がどう愛をつぶやき、自分が返すのかを語り尽くしたいビジューは、先ほど以上に熱を込めて語り明かした。恋愛初心者以前のアナベルには少しばかり刺激が強いが、これも学びである。興味深く前のめりに聞くアナベルに対し、イーサンは知り合いの娘の恋路話を聞いて若干気まずさを抱いていた。彼女の婚約者とは深くはないが知らない仲ではない。
色々な話を五人は交わした。
すっかり打ち解けたアナベルとビジュー。座っているのも飽きたビジューに誘われてアナベルは彼女と中庭を散歩することにした。
ビジューが先を、アナベルが後ろから着いて歩く。ビジューが小声で口ずさむ歌が、耳に馴染む。夕方に差し掛かり、暑さが少し落ち着き、風も心地よく吹き始めた。
「ねぇお昼の話だけど。嘘なしよ。本っ当におめでとう! 心の底から、思ってるわ思ってるわ」
ビジューが二人の婚約を知ったのは、夏の始まり。レティシアから送られた母親宛の手紙でだ。
初恋相手と婚約を結んだ、と教えてもらった時は屋敷の外にまで響き渡る声が出た。
ビジューにとってイーサンは、母親の親友の子、どうにか生きながらえた子息程度の認識だ。確かに遊びに来るが常に家族と、それも一年の内片手の指で数えれるほど。確かに噂で評価される紳士であるが、特別意識を向ける相手ではなかった。
貴族らしい浮ついた話もない、つまんない。と、思っていたら。
初恋相手。片想い。婚約相手はレティシアがよく語るアナベル・バーンズ!
『こんなに面白い話を隠し持っていたなんて!』
ビジューはすぐにでも話を聞きにサイドハウス・ノアに突撃したかった。それを我慢したのは、ようやく好きな人と一緒の時間を過ごせる権利を得たイーサンを気づかってのもの。夏休み、どこかで絶対に会うのだから、2人の邪魔をしない。必死にはしゃぐ心に鎖を巻いた。
しかし。父親の取引先の夜会に出席した際、イーサンとビジューの婚約というふざけた噂が流れていた。
ビジューの婚約者は、彼女とイーサンの仲の微妙さを知ってるため一切気にしてはいなかった。『君の愛を疑ったことはないよ』と照れ臭そうに囁かれもした。普段ならば安堵とともに盛大に顔を緩ませるところであったが、彼女は1人の女性が気になった。
アナベルは、大丈夫だろうか。噂が耳に入っていないといい。もしかして、気にしているかもしれない。
仲が良いと聞いているアナベルとイーサンを、自分が原因で拗れさせることは許さない。
そこでベアトリスに駄々を捏ねて、甘えて。今日の茶話会の予定を取り付けてもらったのだ。
ちなみに同じパーティーに参加していたベアトリスは噂を聞いていなかった。アナベルが気にしていないなら、楽しい茶話会のまま終わらせたかったビジューは、あえて何も伝えていなかった。じっくりアナベルの様子を観察しようと、ビジューは今日大人しく過ごす予定だったがアナベルの美しい髪を前に全て壊してしまったのであった。
「嫌よねー暇な貴族の噂話って!色々狂ったけど、やっぱり会えてよかった」
面白おかしくビジューは話すが、彼女はアナベルを思って行動してくれた。その思いにアナベルの胸は温かくなる。
「ビジュー様、お気遣いありがとうございます」
ビジューはアナベルに振り返った。彼女のワンピースドレスの裾が少し広がり、一輪の花を思わせた。
「これは私が潰さないといけないから良いのよ。それよりも、固い。年下相手にはもっと気軽でいいんじゃない?名前で呼んで。私もアナベルって呼びたいから。イーサンだけずるいもの」
期待に満ちた瞳に見つめられる。
本人からの申し出だ。なによりアナベルも、敬称付きではビジューを遠くに感じる。普段なら絶対に思わない感覚であるが、今の彼女はそう強く思った。
一度咳払いをし、アナベルは彼女の名を呼んだ。
「ビジュー」
「はあい。アナベル」
お互いの名前を呼んだだけなのに。なんだか妙におかしくて。乙女たちはケラケラと笑い合った。
さっと風が吹き、頬を撫でる。
アナベルはつん、と肩をつつかれた。
「悩んでいるのね」
アナベルは息を呑む。年下の女の子は短時間でアナベルの全てを見通しているようだ。
「何を悩んでいるのかわからなけど。貴女は今飲み込んでいるの。噛んで、食べてない。飲み込むだけ。悩みを必死に受け入れようとしてるだけに見えるわ」
ビジューは俯くアナベルの頬に触れる。
「悩みってそんなお手軽なもの?ちゃんと、噛み締めて、休んで、ゆっくり消化するのが大切じゃないかしら」
透き通る風のようにビジューは紡いだ虚を突かれ空いた隙間から、アナベルの心に染み透る。
「恋って愛って何かしら? 私もね、わからないの。特に貴族はわからないんじゃないかな。ねぇアナベル。まだわかっていないだけ。大切にしていることは、誰にだってあるはずよ? 多分人はそれを、愛って呼ぶのだわ」
「貴女は色んなことをわかってるのね」
ビジューは短く笑い「斜に構えてるだけよ」と答えた。格好つけて言うものだから。再び、二人は笑い合った。
二人が短い散歩から戻ると、ちょうど時間は17時を迎えた。ベアトリスとビジューが帰る時間だ。
「ねぇビジュー」
年下の令嬢が馬車に乗る直前。アナベルは勇気を持って呼び止め、彼女は振り向いた。
「また、会いましょう? お話できなかったこともあるし……私の家族を紹介したいわ」
アナベルからの誘いに、ビジューは心の底から嬉しさが込み上げる。その勢いのまま、アナベルに抱きついた。
「えぇまた会いましょう! 可愛らしい妹ちゃんたちにも会ってみたい! たっくさんお話ししましょうね、約束よ」
ウィンクを飛ばし、元気よく馬車に乗り込んだ。
ベアトリスはそんな娘を嗜める。「はぁい」と気の抜けた返事が聞こえる。親子は窓から顔を出し、手を振る。
「ではまたね、皆さん」
「またね! おばさま、アナベル、イーサン!」
「えぇまたね!来てくれてありがとう!」
馬車は走り出し、門を通って姿が見えなくなった。
(嵐のようだったな……)
イーサンはそっと安堵の息を吐いた。
豪快ではあるが、思いやりがあり明るいビジュー。前からアナベルは馬が合うと思っていたが、すっかり仲良くなっていた。正直嫉妬してしまう。彼女もそれを感じたようで、時折イーサンに勝ち誇ったような顔を向けた。思い出すと少し腹が立ってくるが、今日は完全に救われた。
まさかビジューとの関係を誤解させていたなんて。この2日アナベルが思い悩んでいたことはわかっていたのに考えが至らなかった。
ようやく隣に立てるようになったのに、心の距離は以前よりも遠い。
「アナベル」
馬車が遠ざかるのを見つめたまま動かないアナベルに、イーサンは声をかけた。
「どうかしたかい?」
「いえ、なんでもないわ。なんでも」

