今日は久しぶりに二人きりの外出だ。
保養地区の博物館にて、夏秋の大企画展『星の軌跡』が開催されていた。珍しい人類誕生以前の生命体の骨格標本から、貴重な超科学文明期の物や資料など。本来なら貴重な文化的遺産として国立博物館で厳重に保管されているような物が展示されている。かつて人々に愛された絵画、微笑の婦人も特別に並べられている。保養地区領主に協力を仰いだ、博物館スタッフ渾身の企画展だ。
しかしアナベルは、目白押しの展示物を前にしてもスカイブルーの瞳を向けるだけで、呆けていた。心ここに在らずといった様子の彼女は、気がつけば博物館出口に辿り着いていた。
「……アナベル、少し休もうか」
「いいえ、大丈夫よ」
そう答えてから彼女は後悔した。少し間をおいて答えるべきだった。こんな態度だから元婚約者に、ロベールに『可愛げがない』と言われたのだ。
「ごめんなさい、やっぱり休んでもいい?」
「もちろん」
二人は腰を下ろせるベンチがある場所まで移動すると、イーサンは飲み物を買いに彼女の元を一時的に離れた。アナベルは腰を下ろすと、紅の引いた唇から大きなため息を吐き出した。
気まずい雰囲気になってしまった。イーサンが一瞬、困ったような顔をした気がしたのだ。今はアナベルに気を使って、一人にしてくれた。
しかし、どうしても昨晩の会話が耳から離れない。
もし本当にイーサンとビジューとの婚約があったとして。明日の茶話会の目的は一体何かと考えてしまう。相手から会いたいと突然連絡が来たのだ。それもすぐに会いたいと。
どう考えてもイーサンとの婚約についてのことに違いない。
明日は波乱の展開になる可能性にアナベルは恐ろしくなった。久しぶりに親友に会えるためレティシアはとても楽しみにしているし、使用人たちもお菓子や飾り付けに精を出している。彼女たちの楽しみを壊したくない。
ビジューとの婚約話はあったのか。
イーサンに聞けば良いのだが、いざ彼を前にするとアナベルは何も行動できずにいた。肯定されてしまったら。そう考えると何故か苦しいのだ。
(ショック……なの? なんで? 嫌だなんて思う資格はないでしょう?)
イーサンの気持ちを利用して楽をしようとした身。彼にかつて婚約者がいたとしても、自分が気にすべきことではない。今ですら自分の感情を優先している。何に苦しんでいるのだろうか。
(どうしましょう)
アナベルが悶々と悩んでいると、突然頬に冷たいものが触れた。振り返れば、イーサンが何かを差し出していた。細かく刻まれた山のような黄色い塊、横には果実の皮の砂糖漬けと木製のスプーンとストローが刺さっている。
見るからにスイーツだが、一体何か。
「食べてみて」
促されるまま受け取ると、手が冷たくなる。塊は氷の粒であった。アナベルは一口食べる。あっという間に口の中が冷たく、すっぱく、苦く、甘い波でいっぱいになる。レモンの味だ。
「おいしい」
目が大きく開かれるほど、味覚は刺激された。ひんやり冷たく、甘いのも疲れが溜まりやすい身体にはたまらなく嬉しい。
「こっちはまた別の味。食べてみて」
差し出されたのはルビー色のシロップがかかっており、たっぷり生クリームがかかっている。わざわざ食べずに待っていてくれたらしい。好意を無碍にしては行けないと思い、スプーンですくって食べれば瞬く間にベリーの甘さに塗りかえられる。
「かき氷だって。最近はオシャレなのが流行っているみたいだ。削った氷に味のついたシロップや果物、お菓子が乗っているんだ。それで下の部分はドリンクになっているんだ」
コップの下部を見てみ、飲み物らしい液体は見えない。ささっているストローから中身を吸い上げると、上部分よりもさらに細かな氷粒が口の中に入ってきた。苦味が少し強い紅茶のシャーベットに、レモン氷が溶けてフルーツティーな味になっている。
「行商の市で売られててね? ちょうど人がはけたところだったから買ってきちゃった。気に入ってくれてよかった」
スイーツ巡りの時にジャックが話してくれた市のことだ。かき氷を食べ終え、二人は市をぶらつくことにした。
市が開かれている広場には、暑い昼間であるにもかかわらず多くの人が詰めかけていた。
行商の市とは夏を祝う祭りの一つ。保養地区では秋の風が吹くまで、市は開催され続け、メインとなる催しは隔週で変わるとイーサンが説明する。彼が指差す方には、広く大きなテントが張られていた。
「サーカス?」
「やった! 目玉のイベントだよ。見に行こう」
道中異国からの露店も出ており非常に興味がそそられたが、それ以上に珍しいまずはサーカスに向かう。
入り口の道化師に案内され、サーカスのチケット売り場に。席の空きを確認すると今日のチケットは完売していた。よほど残念そうな顔をしていたのか、団員は明日の夜の分なら数席残っていると教えてくれた。
「しかし若干見にくい場所でね…あまりお勧めできないんだが、君たちが良ければ」
久しぶりにサーカスを観たい。珍しくイーサンが強く願い、2人は案内してもらった席エリアのチケットを購入。
その日はサイドハウス・ノアへ戻った。
✴︎
翌日は嬉しい気分が空に現れたような輝かしい青空が広がっていた。2人は改めて市へ出向く。
動きやすさと、汚れても目立たず、かつ体内に溜まる熱を出しやすくするため通気性の良い生地で作られた紺色のベルテッドワンピース。腰には貝の柄が彫られている細めのベルトに、ツバが広い帽子を被れば、強い日差しも和らげてくれる。
ジャックが教えてくれた氷飴を食べながら、催しや出店を見て回っているとすぐに時間は経った。
入場可能時間を迎え、二人はテントの中へ。
残りの席で見にくいかもしれないと道化師は心配してくれたが、十分にステージは見えた。後でお礼を伝えにいこうとイーサンと話していると照明が徐々に落ちていく。
開始まであと五分あるが、すでにテント内は真っ暗だ。入り口部分から微かに外光が入るのみ。観覧者も自然と口数が減り、会場は静かになる。
(いつぶりかしら)
他国も巡回しているため、いつどこにサーカスが現れるかはわからない。風の噂を頼りに目処を立てるのが精一杯だ。
年齢、季節関係なく室内で楽しめる演舞は、夏でも体調を気にせず楽しめる娯楽だと、イーサンは昨日話していた。
アナベルもサーカスは一度見たことがあった。王都の国立広場にテントが張られ、キラキラとした空間を飛び回る人々に驚嘆した記憶がある。幼いアナベルの隣に祖母がいた。アナベルが五歳の時に亡くなってしまった彼女と、父と母とで移動遊園地に遊びに行った際に見たのが最後だ。しわくちゃな手が優しく髪を撫でる感覚が大好きだったとアナベルは思い出した。
チカッ!
視界が真っ白に支配される。目が慣れた頃にステージに照明が集まっており、中央に道化師が立っていた。彼は帽子を脱ぎ一礼する。
途端に世界は一変した。
めくるめく幻想的な明かり。目が痛くなる奇抜な衣装。躍動する動物たち。驚異的な身体能力と技術で魅せるサーカス団。
「……すごい」
スカイブルーの瞳にあらゆる色の明かりを浴びながらステージに目を向けるアナベルの横顔を、イーサンは静かに見つめるのだった。
保養地区の博物館にて、夏秋の大企画展『星の軌跡』が開催されていた。珍しい人類誕生以前の生命体の骨格標本から、貴重な超科学文明期の物や資料など。本来なら貴重な文化的遺産として国立博物館で厳重に保管されているような物が展示されている。かつて人々に愛された絵画、微笑の婦人も特別に並べられている。保養地区領主に協力を仰いだ、博物館スタッフ渾身の企画展だ。
しかしアナベルは、目白押しの展示物を前にしてもスカイブルーの瞳を向けるだけで、呆けていた。心ここに在らずといった様子の彼女は、気がつけば博物館出口に辿り着いていた。
「……アナベル、少し休もうか」
「いいえ、大丈夫よ」
そう答えてから彼女は後悔した。少し間をおいて答えるべきだった。こんな態度だから元婚約者に、ロベールに『可愛げがない』と言われたのだ。
「ごめんなさい、やっぱり休んでもいい?」
「もちろん」
二人は腰を下ろせるベンチがある場所まで移動すると、イーサンは飲み物を買いに彼女の元を一時的に離れた。アナベルは腰を下ろすと、紅の引いた唇から大きなため息を吐き出した。
気まずい雰囲気になってしまった。イーサンが一瞬、困ったような顔をした気がしたのだ。今はアナベルに気を使って、一人にしてくれた。
しかし、どうしても昨晩の会話が耳から離れない。
もし本当にイーサンとビジューとの婚約があったとして。明日の茶話会の目的は一体何かと考えてしまう。相手から会いたいと突然連絡が来たのだ。それもすぐに会いたいと。
どう考えてもイーサンとの婚約についてのことに違いない。
明日は波乱の展開になる可能性にアナベルは恐ろしくなった。久しぶりに親友に会えるためレティシアはとても楽しみにしているし、使用人たちもお菓子や飾り付けに精を出している。彼女たちの楽しみを壊したくない。
ビジューとの婚約話はあったのか。
イーサンに聞けば良いのだが、いざ彼を前にするとアナベルは何も行動できずにいた。肯定されてしまったら。そう考えると何故か苦しいのだ。
(ショック……なの? なんで? 嫌だなんて思う資格はないでしょう?)
イーサンの気持ちを利用して楽をしようとした身。彼にかつて婚約者がいたとしても、自分が気にすべきことではない。今ですら自分の感情を優先している。何に苦しんでいるのだろうか。
(どうしましょう)
アナベルが悶々と悩んでいると、突然頬に冷たいものが触れた。振り返れば、イーサンが何かを差し出していた。細かく刻まれた山のような黄色い塊、横には果実の皮の砂糖漬けと木製のスプーンとストローが刺さっている。
見るからにスイーツだが、一体何か。
「食べてみて」
促されるまま受け取ると、手が冷たくなる。塊は氷の粒であった。アナベルは一口食べる。あっという間に口の中が冷たく、すっぱく、苦く、甘い波でいっぱいになる。レモンの味だ。
「おいしい」
目が大きく開かれるほど、味覚は刺激された。ひんやり冷たく、甘いのも疲れが溜まりやすい身体にはたまらなく嬉しい。
「こっちはまた別の味。食べてみて」
差し出されたのはルビー色のシロップがかかっており、たっぷり生クリームがかかっている。わざわざ食べずに待っていてくれたらしい。好意を無碍にしては行けないと思い、スプーンですくって食べれば瞬く間にベリーの甘さに塗りかえられる。
「かき氷だって。最近はオシャレなのが流行っているみたいだ。削った氷に味のついたシロップや果物、お菓子が乗っているんだ。それで下の部分はドリンクになっているんだ」
コップの下部を見てみ、飲み物らしい液体は見えない。ささっているストローから中身を吸い上げると、上部分よりもさらに細かな氷粒が口の中に入ってきた。苦味が少し強い紅茶のシャーベットに、レモン氷が溶けてフルーツティーな味になっている。
「行商の市で売られててね? ちょうど人がはけたところだったから買ってきちゃった。気に入ってくれてよかった」
スイーツ巡りの時にジャックが話してくれた市のことだ。かき氷を食べ終え、二人は市をぶらつくことにした。
市が開かれている広場には、暑い昼間であるにもかかわらず多くの人が詰めかけていた。
行商の市とは夏を祝う祭りの一つ。保養地区では秋の風が吹くまで、市は開催され続け、メインとなる催しは隔週で変わるとイーサンが説明する。彼が指差す方には、広く大きなテントが張られていた。
「サーカス?」
「やった! 目玉のイベントだよ。見に行こう」
道中異国からの露店も出ており非常に興味がそそられたが、それ以上に珍しいまずはサーカスに向かう。
入り口の道化師に案内され、サーカスのチケット売り場に。席の空きを確認すると今日のチケットは完売していた。よほど残念そうな顔をしていたのか、団員は明日の夜の分なら数席残っていると教えてくれた。
「しかし若干見にくい場所でね…あまりお勧めできないんだが、君たちが良ければ」
久しぶりにサーカスを観たい。珍しくイーサンが強く願い、2人は案内してもらった席エリアのチケットを購入。
その日はサイドハウス・ノアへ戻った。
✴︎
翌日は嬉しい気分が空に現れたような輝かしい青空が広がっていた。2人は改めて市へ出向く。
動きやすさと、汚れても目立たず、かつ体内に溜まる熱を出しやすくするため通気性の良い生地で作られた紺色のベルテッドワンピース。腰には貝の柄が彫られている細めのベルトに、ツバが広い帽子を被れば、強い日差しも和らげてくれる。
ジャックが教えてくれた氷飴を食べながら、催しや出店を見て回っているとすぐに時間は経った。
入場可能時間を迎え、二人はテントの中へ。
残りの席で見にくいかもしれないと道化師は心配してくれたが、十分にステージは見えた。後でお礼を伝えにいこうとイーサンと話していると照明が徐々に落ちていく。
開始まであと五分あるが、すでにテント内は真っ暗だ。入り口部分から微かに外光が入るのみ。観覧者も自然と口数が減り、会場は静かになる。
(いつぶりかしら)
他国も巡回しているため、いつどこにサーカスが現れるかはわからない。風の噂を頼りに目処を立てるのが精一杯だ。
年齢、季節関係なく室内で楽しめる演舞は、夏でも体調を気にせず楽しめる娯楽だと、イーサンは昨日話していた。
アナベルもサーカスは一度見たことがあった。王都の国立広場にテントが張られ、キラキラとした空間を飛び回る人々に驚嘆した記憶がある。幼いアナベルの隣に祖母がいた。アナベルが五歳の時に亡くなってしまった彼女と、父と母とで移動遊園地に遊びに行った際に見たのが最後だ。しわくちゃな手が優しく髪を撫でる感覚が大好きだったとアナベルは思い出した。
チカッ!
視界が真っ白に支配される。目が慣れた頃にステージに照明が集まっており、中央に道化師が立っていた。彼は帽子を脱ぎ一礼する。
途端に世界は一変した。
めくるめく幻想的な明かり。目が痛くなる奇抜な衣装。躍動する動物たち。驚異的な身体能力と技術で魅せるサーカス団。
「……すごい」
スカイブルーの瞳にあらゆる色の明かりを浴びながらステージに目を向けるアナベルの横顔を、イーサンは静かに見つめるのだった。

