カコン。ゴロゴロゴロゴロ。
球がまばらに散る音が静かに響く。
話が終わると、前のめりに聞いていたマリアンヌが背もたれに身体を預けると、椅子が鈍く鳴る。彼女は目を大きく開き、おもむろに口を開いた。
「前に似たセリフを聞いたわ」
✴︎
もう三年ぐらい前のことで、秋だと言うのにまだ残暑が強く残る日だった。王都に用事があったマリアンヌが王都屋敷に訪ねた際、中等学園にいるはずのイーサンが制服姿のままソファで寝そべっていた。
彼は暑さにやられて学園で倒れかけ、早退したのだ。
料理人たちが急いで拵えた飲み物と、身体を冷やし、医者が来るまでゆっくり過ごしている所だった。疲れた色を浮かべているが、顔色は良い。
思いの外元気そうな甥は、症状が酷くならなかったのはアナベルが気づいてくれたからだと、小さな口で彼は話す。
体も強くなりつつあり、同級生とようやく外で活動できるようになっていたイーサン。他の生徒たちと課外活動に精を出しているところにアナベルがやって来た。イーサンを見るや少し険しい表情を浮かべた彼女は、彼の手首を掴むと木陰まで連行した。言われるまま腰を下ろすと彼女は早速駆けて行き、飲み物と保険医を連れて戻ってきた。イーサンが立ち上がろうとしたら、ふらついた。
ようやく自分の具合が良くないことに気づいたイーサンは、彼女たちが持って来てくれた飲み物や氷で身体を冷やす。アナベルは迎えの馬車までイーサンを支えてくれた。
『彼女は本当に人を見ています。そして対処方法をよく知っている。だからでしょう。先輩方も後輩たちも、皆彼女を頼るのは』
『アナベルは頼りになるだけでなく、尊敬する女性です』
「イーサンがそんなことを……」
後ろを振り返れば、彼と目が合った。耳まで赤く染めている。イーサンが本気で照れている姿に、アナベルは驚いた。驚きのあまり胸がドキドキと激しく鼓動する。
「信頼関係は、積み重ねだって言うことがよくわかったわ。アナベルは…友人としてイーサンを慕ってくれていたのでしょう?突然告白されてびっくりしたでしょうに。ぎこちないのかなって勝手に想像してたわ」
レティシアから貰った手紙を振り返る。アナベルが悩んでいると綴られていた。てっきりイーサンを婚約相手として見えない、といった悩みかと思っていたが次元は違うようだ。
「……正直驚きました。マリアンヌ様は…その、ご存知で?」
マリアンヌは頷いた。
「別にイーサンの想い人だからって理由で、皆んな貴女に優しくしてるわけじゃないわよ。義姉様も兄さんも。皆んなひたむきな貴女が好きになったの。メロメロよ」
「好き……」
彼女は椅子から勢いよく立ち上がると、ダーツの矢を投げた。矢は勢いよく飛んでいき、的に当たる。
「イーサンが貴女にどれほど惚れていたか知りたい?いつでも話すわ。色々あるわよ〜」
「マリアンヌ叔母さん。あまり困らせるようなことを吹き込まないでくださいよ」
二人を静観していたイーサンだったが、これ以上は何を話されるかわからない。マリアンヌを制止する。
「良いじゃなぁい。こう言う時は語らせなさいな。今後何かの基準になるかもしれないでしょ?」
「基準ってなんですか……?」
「はい、イーサン」
パトリスが打った球が、ガコンと入った音がする。「あっ」とイーサンは声を上げた。どうやらイーサンは負けてしまったらしい。
「ほら集中してないから」とマリアンヌに言われ、不服そうに唇を尖らせている。
「けど二人の話を聞いて良かったわ。貴女たち、結構良いパートナーよ」
(本当に?)
『…そんなわけないだろ?…寄生虫みたいに頼って、力があるやつに媚びるんだ。一人じゃ何もできないくせに』
目の前にロベールが現れた。三人は姿を消し、アナベルと彼だけ。一体何が起こっている?なぜここに彼が。
『お前、頭が弱すぎる。やっぱりなにか欠けてるんじゃないか?』
アナベルは目を開け、身体を起こす。
夢だ。当たり前の事。ロベールがアナベルの目の前にいる訳がないし、ここはマリアンヌたち夫妻が暮らす屋敷だ。彼は絶対にいない。
寝る前に抱いた安堵も楽しい思いも、今は冷たく重い。現実と記憶が混じり合った、苦い夢だった。
いつも頭を抱えて悩む元婚約者に言われた台詞。侯爵家や騎士団、国の第2王子などといった交友関係に苦言を呈された。
『いい加減、虎の威を借りるのは辞めろ。浅ましい』
そんなくだらない虚栄に彼らと共にいる訳ではないと抗議したが、ロベールは鼻で笑った。
『普段周囲がどれだけお前に気を遣っていると思っているんだ。たかが伯爵家の令嬢であるお前に?そんなわけないだろ?父上が後ろにいるから優しくしているんだ。ベルナルド侯爵家の家長の後ろ盾があるからこそ。寄生虫みたいに頼って、力があるやつに媚びるんだ。1人じゃないもできないくせに』
アナベルは口を噤む。頭を抱える。なんてことだ。いくら不仲であっても自分は婚約者ではなく、男友達を優先したのだ。元婚約のことを悪く言えない。
(私は彼からの好意を利用している。自分の楽な方向にいくために。その身勝手さ。また、同じことをしようとしているの?)
変わらなければ。変えなければならない。
今度こそ自分の行いのせいで、イーサンを傷つけてしまう。
『友人として接して来た相手に想いを抱けなんて。身勝手で怖い話じゃないか。君の感情を動かせるかは私の努力次第。アナベルは気にしないで今まで通りに接してよ。なにより夏休みを楽しもうじゃないか』
(ダメ、ダメよ、ダメ。甘えては。だって私は……私は……?)
頭が痛い。嫌になる。こんな時にさえ自分が何を思っているのかわからない。だが、アナベルは理解した。いや、紛れもない事実。
アナベルにとって、イーサンはかけがえのない存在だということだ。
✴︎
翌日。サイドハウス・ノアに戻る前に、アナベルとイーサンは、マリアンヌたちの仕事場を見学させてもらった
マリアンヌたちが造っているのは発泡酒と果実酒。屋敷近くにはホップ畑が、少し山を登った先に葡萄やりんごが実る畑が広がっている。
仕事の邪魔にならないように、建物や畑、室内窓の入り口から見渡す。
まだ青い実をつける木々。甘みの強い酵母の香りが充満する工場。小窓から怖い眼差しで内部を伺う職人。年月を感じさせる色深い樽の列。手早くボトルにラベルを貼り、積んでいく作業員。
工房見学は、どんな年でも胸を躍らせる。季節で稼働していない所もあったが、興味津々に最後にワインの保管蔵に足を踏み入れた。
種類によって室内気温が違う。熱が滞った身体と衣服では寒いぐらいだ。
彼女は婚約祝いにワインと、ジュースを贈ってくれた。しかし2人は未成年。ワインだけは成人を迎える誕生日に届くよう手配された。
「折角だものね。記念にラベルをデザインしない?」
まだボトルに貼る前の紙を渡されたアナベル。イーサンの分も任されてしまい、慎重にデザインを考える。折角贈って貰えるもの、さらに人の物を手掛けるのだ。下手なデザインでがっかりさせたくはない。
アナベルが己のセンスと向き合っている間、イーサンはワイン樽を1つ予約した。それもまだ仕込みすらされていない、今年のもの。何を企んでいるのかとマリアンヌが問えばイーサンは何やら含みがあるように笑った。
「折角ですから」
「あら。やり口やら顔つきが兄さんに似てきたわねぇ」
叔母の言葉に怪訝にイーサンは首を傾げる。
「日に日に似てきてる。樽は空じゃ意味ないんでしょ?ワインを仕込むのは兄さんたち名義にしないといけないから。あと、悪いけどこれも開けるのは成人後よ?」
「分かってます。ではまずは樽だけ。帰ってから父たちにお願いします」
二人の雑談に耳を澄ませながら、用意してもらった用紙にデザイン案をせっせと描き出していた。
1時間かかってしまったが、満足のいくデザインを描きあげた。マリアンヌは早速ーーイーサンには当日の楽しみとあえて見せなかったーーボトルを予約棚へ移した。
これでボトルの予約完了だ。当日までの楽しみができた。今から誕生日を迎えるのが楽しみだ。
昼食を摂ってから、アナベルとイーサンはサイドハウス・ノアへ戻る馬車に乗り込む。向かい合わせに座り、窓からマリアンヌとパトリスに別れを告げる。
「今度は義姉様のお誕生日会ね。また!」
2人は再び馬車に揺れる。ラベルの制作に時間がかかったことを謝ると、夢中な姿を見ることができて全く気にならなかったと笑って答える。
「何か気になることがあれば言ってね?貴方ったら大抵受け入れるのだもの」
「いやいや。嫌ならちゃんと態度に出すし、断るよ」
二人は窓の外に目をやる。しばらく落ちる静かな時。車輪が回る音と、馬の蹄の音が聞こえてくる。
「……隣に座っても良いかな?」
イーサンはアナベルの隣に手のひらを向けた。
断る理由もないため、アナベルが頷くと彼は慎重に立ち上がり、アナベルの隣に腰を下ろす。すると、彼女の手へ自らの手を重ねた。珍しい。今日の彼は積極的だ。
「昨晩きちんと伝えていなかったね。君の頼りになっていたならとても嬉しい。よかった」
少し頬を赤く染めて、はにかむイーサン。アナベルの胸はぎゅうっと密かに締め付けられる。
「私の方こそ。いつも話を聞いてくれてありがとう」
「好きな人のためになったなら、尚更嬉しいよ」
(あぁ、イーサン)
迷惑になってなかった?
貴方の事情も知らないのに。
甘えてしまったから。
いつも頼ってしまって。
嫌なら、嫌だとって言って欲しい。
その心に直接触れられたら。それでもアナベルはぐっと飲み込んだ。問えば間違いなくイーサンは、優しくアナベルを肯定するに違いない。
しかしそれはあまりにも都合が良すぎる。
うまく切り返しができず、アナベルは口をつぐむ。再び馬車の中に沈黙が降りた。
「私はそばにいるから」
彼の声は、澄み切った空気のよう。冬の凍える冷たいものでなく、それこそ夏の、陽が上がったばかりの森林の中で、肺から頭の芯まで満たされる静けさと微かに温かみを感じるような。
「常にじゃないし、世間知らずなところもある。本や劇のようにカッコ良くできないと思うけど。それでも必ず、駆けつける。最後は君のそばにいる。それだけは……忘れないで欲しい」
「……えぇありがとうイーサン」
横へ目線を移せば、柔らかく微笑む彼の顔が、途端に崩れて照れ臭そうに笑う。
「この流れでなんだけど…お願いしてもいい?肩を貸してもらってもいいかな」
どうやら夜うまく寝付くことができず、馬車の揺れに誘発され眠気に襲われていると言う。サイドハウス・ノアに帰るまで。少し寝たいが、以前馬車でうたた寝をした際つよく頭を打った苦い記憶があると。思うだけで、確かに痛そうだ。覚えがある人もいるだろう。
「もちろん。カーテンを引く?」
「いや、大丈夫だよ。それでは失礼して……」
イーサンはハンカチをアナベルの肩にかけると、頭を乗せる。重みがかかり、彼がつけている香水がほんのり香ってくる。胸の内まで気持ち良く爽やかながら、微かに甘い。
ガタンと馬車は揺れ、身体が少し揺らめいた。ずっと昔。それこそ大陸移動前の超科学文明時代に開発された車やバスがあれば、静かに寝ることはできたのだろうか。
「さいきん…ひこうきを作ろうと、かくさくしているひとたちがいるらしいよ。しきんをつのったり、なかまをさがしていると。かぜのうわさできいたんだ」
貴重な話を聞かせてくれるイーサンだが、今にも瞼は閉じそうだ。とろりと紡がれる言葉も辿々しい。妹のミラやエメも眠気と戦っている時も似たような表情をしていた。アナベルは顔をほころばせる。
「また後でお話を聞かせてちょうだい。さ、寝ましょう?あまり夜更かしは良くないわよ」
「うぅん。うれしすぎてねつけなくて」
「えっ」
彼の瞼は固く閉じられた。車内には、聞いているだけでも心地良い寝息が微かに響く。
寝る前の一言で心見出されたアナベルは、イーサンの寝顔を軽く睨む。力の入っていない綺麗な顔は、肩と触れている頬は少し盛り上がっている。とても柔らかそうだ。アナベルはそっと人差し指を伸ばす。その頬に触れようと思ったが、イーサンを起こしてしまうかもしれない。気持ちよさそうに寝ている邪魔はしたくない。以前、寝顔を晒して忘れて欲しいと願ったが「勿体無い」と頑なに拒まれたことを彼女は思い出した。確かに貴重である。忘れてしまうのは勿体無い。これでおあいこだ。
アナベルは再び外に目をやる。ゆっくりと流れていく景色。宇宙にまで届いていそうな分厚い入道雲。これぞ夏景色。優雅に見えるが、窓の外は暑そうだ。屋根と空調が備わっているため御者はさほど暑くはないだろうが、馬たちは違う。もう四十分走った所に休ませる場所がある。そこで一度休憩を挟む予定だ。
『私はそばにいるから』
(貴方は気づいているのでしょうね)
悩んでいることを。彼が気づいているならばキャンベル家の人々は全員察している。だが彼は問わない。いつもならば何かアドバイスを送りそうだが、口を閉ざしている。
ふとレティシアたちが脳裏に浮かんだ。もしかしたら、助言したのかも、と。流石、長い付き合いだ。アナベルもよくよく義理の家族になる彼女たちのことを分かっている。まあここにはその答えを伝える者はいないけれど。
(そうよ。これは私自身で答えを出さないといけないの)
迷ってばかりの現段階で、イーサンを頼るのは取り返しがつかない気がしてならない。夏休みの日々を過ごしながら、少しずつ自分の中のパーツを集めていかなければ。
横から与えられる温もりを感じながら、アナベルはサイドハウス・ノアまでの道をまっすぐ眺めていた。
球がまばらに散る音が静かに響く。
話が終わると、前のめりに聞いていたマリアンヌが背もたれに身体を預けると、椅子が鈍く鳴る。彼女は目を大きく開き、おもむろに口を開いた。
「前に似たセリフを聞いたわ」
✴︎
もう三年ぐらい前のことで、秋だと言うのにまだ残暑が強く残る日だった。王都に用事があったマリアンヌが王都屋敷に訪ねた際、中等学園にいるはずのイーサンが制服姿のままソファで寝そべっていた。
彼は暑さにやられて学園で倒れかけ、早退したのだ。
料理人たちが急いで拵えた飲み物と、身体を冷やし、医者が来るまでゆっくり過ごしている所だった。疲れた色を浮かべているが、顔色は良い。
思いの外元気そうな甥は、症状が酷くならなかったのはアナベルが気づいてくれたからだと、小さな口で彼は話す。
体も強くなりつつあり、同級生とようやく外で活動できるようになっていたイーサン。他の生徒たちと課外活動に精を出しているところにアナベルがやって来た。イーサンを見るや少し険しい表情を浮かべた彼女は、彼の手首を掴むと木陰まで連行した。言われるまま腰を下ろすと彼女は早速駆けて行き、飲み物と保険医を連れて戻ってきた。イーサンが立ち上がろうとしたら、ふらついた。
ようやく自分の具合が良くないことに気づいたイーサンは、彼女たちが持って来てくれた飲み物や氷で身体を冷やす。アナベルは迎えの馬車までイーサンを支えてくれた。
『彼女は本当に人を見ています。そして対処方法をよく知っている。だからでしょう。先輩方も後輩たちも、皆彼女を頼るのは』
『アナベルは頼りになるだけでなく、尊敬する女性です』
「イーサンがそんなことを……」
後ろを振り返れば、彼と目が合った。耳まで赤く染めている。イーサンが本気で照れている姿に、アナベルは驚いた。驚きのあまり胸がドキドキと激しく鼓動する。
「信頼関係は、積み重ねだって言うことがよくわかったわ。アナベルは…友人としてイーサンを慕ってくれていたのでしょう?突然告白されてびっくりしたでしょうに。ぎこちないのかなって勝手に想像してたわ」
レティシアから貰った手紙を振り返る。アナベルが悩んでいると綴られていた。てっきりイーサンを婚約相手として見えない、といった悩みかと思っていたが次元は違うようだ。
「……正直驚きました。マリアンヌ様は…その、ご存知で?」
マリアンヌは頷いた。
「別にイーサンの想い人だからって理由で、皆んな貴女に優しくしてるわけじゃないわよ。義姉様も兄さんも。皆んなひたむきな貴女が好きになったの。メロメロよ」
「好き……」
彼女は椅子から勢いよく立ち上がると、ダーツの矢を投げた。矢は勢いよく飛んでいき、的に当たる。
「イーサンが貴女にどれほど惚れていたか知りたい?いつでも話すわ。色々あるわよ〜」
「マリアンヌ叔母さん。あまり困らせるようなことを吹き込まないでくださいよ」
二人を静観していたイーサンだったが、これ以上は何を話されるかわからない。マリアンヌを制止する。
「良いじゃなぁい。こう言う時は語らせなさいな。今後何かの基準になるかもしれないでしょ?」
「基準ってなんですか……?」
「はい、イーサン」
パトリスが打った球が、ガコンと入った音がする。「あっ」とイーサンは声を上げた。どうやらイーサンは負けてしまったらしい。
「ほら集中してないから」とマリアンヌに言われ、不服そうに唇を尖らせている。
「けど二人の話を聞いて良かったわ。貴女たち、結構良いパートナーよ」
(本当に?)
『…そんなわけないだろ?…寄生虫みたいに頼って、力があるやつに媚びるんだ。一人じゃ何もできないくせに』
目の前にロベールが現れた。三人は姿を消し、アナベルと彼だけ。一体何が起こっている?なぜここに彼が。
『お前、頭が弱すぎる。やっぱりなにか欠けてるんじゃないか?』
アナベルは目を開け、身体を起こす。
夢だ。当たり前の事。ロベールがアナベルの目の前にいる訳がないし、ここはマリアンヌたち夫妻が暮らす屋敷だ。彼は絶対にいない。
寝る前に抱いた安堵も楽しい思いも、今は冷たく重い。現実と記憶が混じり合った、苦い夢だった。
いつも頭を抱えて悩む元婚約者に言われた台詞。侯爵家や騎士団、国の第2王子などといった交友関係に苦言を呈された。
『いい加減、虎の威を借りるのは辞めろ。浅ましい』
そんなくだらない虚栄に彼らと共にいる訳ではないと抗議したが、ロベールは鼻で笑った。
『普段周囲がどれだけお前に気を遣っていると思っているんだ。たかが伯爵家の令嬢であるお前に?そんなわけないだろ?父上が後ろにいるから優しくしているんだ。ベルナルド侯爵家の家長の後ろ盾があるからこそ。寄生虫みたいに頼って、力があるやつに媚びるんだ。1人じゃないもできないくせに』
アナベルは口を噤む。頭を抱える。なんてことだ。いくら不仲であっても自分は婚約者ではなく、男友達を優先したのだ。元婚約のことを悪く言えない。
(私は彼からの好意を利用している。自分の楽な方向にいくために。その身勝手さ。また、同じことをしようとしているの?)
変わらなければ。変えなければならない。
今度こそ自分の行いのせいで、イーサンを傷つけてしまう。
『友人として接して来た相手に想いを抱けなんて。身勝手で怖い話じゃないか。君の感情を動かせるかは私の努力次第。アナベルは気にしないで今まで通りに接してよ。なにより夏休みを楽しもうじゃないか』
(ダメ、ダメよ、ダメ。甘えては。だって私は……私は……?)
頭が痛い。嫌になる。こんな時にさえ自分が何を思っているのかわからない。だが、アナベルは理解した。いや、紛れもない事実。
アナベルにとって、イーサンはかけがえのない存在だということだ。
✴︎
翌日。サイドハウス・ノアに戻る前に、アナベルとイーサンは、マリアンヌたちの仕事場を見学させてもらった
マリアンヌたちが造っているのは発泡酒と果実酒。屋敷近くにはホップ畑が、少し山を登った先に葡萄やりんごが実る畑が広がっている。
仕事の邪魔にならないように、建物や畑、室内窓の入り口から見渡す。
まだ青い実をつける木々。甘みの強い酵母の香りが充満する工場。小窓から怖い眼差しで内部を伺う職人。年月を感じさせる色深い樽の列。手早くボトルにラベルを貼り、積んでいく作業員。
工房見学は、どんな年でも胸を躍らせる。季節で稼働していない所もあったが、興味津々に最後にワインの保管蔵に足を踏み入れた。
種類によって室内気温が違う。熱が滞った身体と衣服では寒いぐらいだ。
彼女は婚約祝いにワインと、ジュースを贈ってくれた。しかし2人は未成年。ワインだけは成人を迎える誕生日に届くよう手配された。
「折角だものね。記念にラベルをデザインしない?」
まだボトルに貼る前の紙を渡されたアナベル。イーサンの分も任されてしまい、慎重にデザインを考える。折角贈って貰えるもの、さらに人の物を手掛けるのだ。下手なデザインでがっかりさせたくはない。
アナベルが己のセンスと向き合っている間、イーサンはワイン樽を1つ予約した。それもまだ仕込みすらされていない、今年のもの。何を企んでいるのかとマリアンヌが問えばイーサンは何やら含みがあるように笑った。
「折角ですから」
「あら。やり口やら顔つきが兄さんに似てきたわねぇ」
叔母の言葉に怪訝にイーサンは首を傾げる。
「日に日に似てきてる。樽は空じゃ意味ないんでしょ?ワインを仕込むのは兄さんたち名義にしないといけないから。あと、悪いけどこれも開けるのは成人後よ?」
「分かってます。ではまずは樽だけ。帰ってから父たちにお願いします」
二人の雑談に耳を澄ませながら、用意してもらった用紙にデザイン案をせっせと描き出していた。
1時間かかってしまったが、満足のいくデザインを描きあげた。マリアンヌは早速ーーイーサンには当日の楽しみとあえて見せなかったーーボトルを予約棚へ移した。
これでボトルの予約完了だ。当日までの楽しみができた。今から誕生日を迎えるのが楽しみだ。
昼食を摂ってから、アナベルとイーサンはサイドハウス・ノアへ戻る馬車に乗り込む。向かい合わせに座り、窓からマリアンヌとパトリスに別れを告げる。
「今度は義姉様のお誕生日会ね。また!」
2人は再び馬車に揺れる。ラベルの制作に時間がかかったことを謝ると、夢中な姿を見ることができて全く気にならなかったと笑って答える。
「何か気になることがあれば言ってね?貴方ったら大抵受け入れるのだもの」
「いやいや。嫌ならちゃんと態度に出すし、断るよ」
二人は窓の外に目をやる。しばらく落ちる静かな時。車輪が回る音と、馬の蹄の音が聞こえてくる。
「……隣に座っても良いかな?」
イーサンはアナベルの隣に手のひらを向けた。
断る理由もないため、アナベルが頷くと彼は慎重に立ち上がり、アナベルの隣に腰を下ろす。すると、彼女の手へ自らの手を重ねた。珍しい。今日の彼は積極的だ。
「昨晩きちんと伝えていなかったね。君の頼りになっていたならとても嬉しい。よかった」
少し頬を赤く染めて、はにかむイーサン。アナベルの胸はぎゅうっと密かに締め付けられる。
「私の方こそ。いつも話を聞いてくれてありがとう」
「好きな人のためになったなら、尚更嬉しいよ」
(あぁ、イーサン)
迷惑になってなかった?
貴方の事情も知らないのに。
甘えてしまったから。
いつも頼ってしまって。
嫌なら、嫌だとって言って欲しい。
その心に直接触れられたら。それでもアナベルはぐっと飲み込んだ。問えば間違いなくイーサンは、優しくアナベルを肯定するに違いない。
しかしそれはあまりにも都合が良すぎる。
うまく切り返しができず、アナベルは口をつぐむ。再び馬車の中に沈黙が降りた。
「私はそばにいるから」
彼の声は、澄み切った空気のよう。冬の凍える冷たいものでなく、それこそ夏の、陽が上がったばかりの森林の中で、肺から頭の芯まで満たされる静けさと微かに温かみを感じるような。
「常にじゃないし、世間知らずなところもある。本や劇のようにカッコ良くできないと思うけど。それでも必ず、駆けつける。最後は君のそばにいる。それだけは……忘れないで欲しい」
「……えぇありがとうイーサン」
横へ目線を移せば、柔らかく微笑む彼の顔が、途端に崩れて照れ臭そうに笑う。
「この流れでなんだけど…お願いしてもいい?肩を貸してもらってもいいかな」
どうやら夜うまく寝付くことができず、馬車の揺れに誘発され眠気に襲われていると言う。サイドハウス・ノアに帰るまで。少し寝たいが、以前馬車でうたた寝をした際つよく頭を打った苦い記憶があると。思うだけで、確かに痛そうだ。覚えがある人もいるだろう。
「もちろん。カーテンを引く?」
「いや、大丈夫だよ。それでは失礼して……」
イーサンはハンカチをアナベルの肩にかけると、頭を乗せる。重みがかかり、彼がつけている香水がほんのり香ってくる。胸の内まで気持ち良く爽やかながら、微かに甘い。
ガタンと馬車は揺れ、身体が少し揺らめいた。ずっと昔。それこそ大陸移動前の超科学文明時代に開発された車やバスがあれば、静かに寝ることはできたのだろうか。
「さいきん…ひこうきを作ろうと、かくさくしているひとたちがいるらしいよ。しきんをつのったり、なかまをさがしていると。かぜのうわさできいたんだ」
貴重な話を聞かせてくれるイーサンだが、今にも瞼は閉じそうだ。とろりと紡がれる言葉も辿々しい。妹のミラやエメも眠気と戦っている時も似たような表情をしていた。アナベルは顔をほころばせる。
「また後でお話を聞かせてちょうだい。さ、寝ましょう?あまり夜更かしは良くないわよ」
「うぅん。うれしすぎてねつけなくて」
「えっ」
彼の瞼は固く閉じられた。車内には、聞いているだけでも心地良い寝息が微かに響く。
寝る前の一言で心見出されたアナベルは、イーサンの寝顔を軽く睨む。力の入っていない綺麗な顔は、肩と触れている頬は少し盛り上がっている。とても柔らかそうだ。アナベルはそっと人差し指を伸ばす。その頬に触れようと思ったが、イーサンを起こしてしまうかもしれない。気持ちよさそうに寝ている邪魔はしたくない。以前、寝顔を晒して忘れて欲しいと願ったが「勿体無い」と頑なに拒まれたことを彼女は思い出した。確かに貴重である。忘れてしまうのは勿体無い。これでおあいこだ。
アナベルは再び外に目をやる。ゆっくりと流れていく景色。宇宙にまで届いていそうな分厚い入道雲。これぞ夏景色。優雅に見えるが、窓の外は暑そうだ。屋根と空調が備わっているため御者はさほど暑くはないだろうが、馬たちは違う。もう四十分走った所に休ませる場所がある。そこで一度休憩を挟む予定だ。
『私はそばにいるから』
(貴方は気づいているのでしょうね)
悩んでいることを。彼が気づいているならばキャンベル家の人々は全員察している。だが彼は問わない。いつもならば何かアドバイスを送りそうだが、口を閉ざしている。
ふとレティシアたちが脳裏に浮かんだ。もしかしたら、助言したのかも、と。流石、長い付き合いだ。アナベルもよくよく義理の家族になる彼女たちのことを分かっている。まあここにはその答えを伝える者はいないけれど。
(そうよ。これは私自身で答えを出さないといけないの)
迷ってばかりの現段階で、イーサンを頼るのは取り返しがつかない気がしてならない。夏休みの日々を過ごしながら、少しずつ自分の中のパーツを集めていかなければ。
横から与えられる温もりを感じながら、アナベルはサイドハウス・ノアまでの道をまっすぐ眺めていた。

