彼の名前はイーサン・キャンベル。
夜会の主催者であるキャンベル侯爵夫妻の一人息子だ。
アナベルとイーサンは同い年であり、通っている学園の生徒会仲間。
なにより、アナベルにとって大切な友人である。
アナベルが10歳の時、彼の両親が企画した催しに招待された。赤子の頃からイーサンは非常に体が弱く、寝たきりで友達がほとんどいなかった。そんな彼の友達づくりを目的に開かれた茶話会に、同い年のアナベルが呼ばれたのは必然と言えた。
そこでちょっとしたハプニングが起こり、落ち込んでいたアナベルを元気付けようとイーサンが持ってきた本は、偶然にも彼女が1番好きな作家のものだった。
語り合う内にアナベルとイーサンはすっかり打ち解けた。
そこから親交が始まり、同じ学園へ通うようになってからは、さらに付き合いは増えていった。
気がつけばアナベルにとって、イーサンは個人的な相談をするほど信頼の置ける相手になった。
今では爵位の壁を越えて、家族ぐるみで交流したり、彼の父親の仕事場で学ばせてもらうほど、深い仲になっている。
そんな大事な友人とは、夜会や舞踏会などの招待先が重なると、一緒に食事を摂るのが恒例となっていた。
出会った最初の茶話会で、アナベルが隠れて食事を楽しんでいるところが見つかってから、彼はアナベルの食事タイムには必ず現れるようになったのだ。
時間を決めていないにも関わらず、いくら気配を消しても、なぜかイーサンにだけはすぐに見つかってしまう。
最初は企んでいるのかと勘ぐったが、彼は誰にも言いふらさずーーアナベルの意向でキャンベル夫妻や使用人たちは知っているーーダンスにも誘わず、ただアナベルと雑談を交わしながら共に食事をするだけ。
また、その背の高さでアナベルをさりげなく周囲から隠してくれる。
アナベルはイーサンのおかげで、安心して穏やかな時間を得る事ができた。
彼には未だ婚約者も恋人もいないため、アナベルが特別配慮する相手がいなかったのも大きい。
長年の習慣と信頼から、賑やかな会の中で短くも静かな時間を共有している。
「で、君のパートナーはまたどこかの物陰かい?相変わらず華やか場が好きな割に、かくれんぼがお好みのようだね」
早速切り込まれた話題とイーサンの辛辣な物言いに、アナベルはむせかけた。
✴︎
ロベール・ベルナルドは、アナベルが8歳の時に決められた婚約者だ。
国の南に領土を持つ、国王との親交も深いベルナルド侯爵家。その侯爵夫妻の次男で、アナベルの3つ年上である。
頭の回転が早く、運動神経も良い。魔術も使えれば、手先も器用。婚約者は周囲から天才と持て囃された。いつも彼を慕う人たちに囲まれ、ロベールも華やかで楽しいことを好む。
一方アナベルは、真面目で堅実。頭の要領は悪くないが、日々時間を費やして勉学に励まなければ、ロベールには近づけなかった。彼はアナベルを堅苦しく感じ、努力しなければ追いつけないを嘲笑うようになった。次第にアナベルを遠ざけ、友人たちと過ごす時間が増えた。
そしてアナベルが15歳の時、ロベールが高等部最高学年生として学園にいた頃、ミシェルとまるで恋人のように触れ合う姿を目撃した。
アナベルはロベールに対して、恋や愛といった甘い感情は抱いていなかったが、憧れてもいたし尊敬もしていた。彼女が日々励んできたのは、彼にとって少しでも相応しい人間になりたい想いもあったからだ。しかし婚約者に強いるのは間違っているし、愛情のない女性と一緒にいるのも辛いだろう。ロベールとミシェルは幸せそうであったし、アナベルに他人の幸福を壊す気もなかった。
しかし目の前で婚約者が他の女性と寄り添っている所を見るのは、気持ちのいいものではない。
せめて自分の目につかないようにしてくれないか、そう懇願したが、ロベールはその願いを鼻で笑うばかりか、必要以上にアナベルをなじるようになった。日に日に彼の態度は悪化していく。彼はミシェルこそ彼女だと友人たちには公言し、最愛の彼女を誰よりも気にかけて、アナベルの前であろうと堂々とミシェルと過ごしている。
そんな2人の逢瀬を、イーサンは目撃した。
前々からアナベルから男性との付き合い方の相談を受けたり、ずっと彼女が1人で食事をとっていることに思うところがあったようだ。今まで見たことない複雑な表情を浮かべた彼に『あぁついに知ったのか』と、まるで他人事のように思った。その時アナベルは、自分の中に婚約者への感情が一切残っていないことを自覚した。
それからイーサンは、ロベールの話になると剣呑とした雰囲気を漂わせ、口調がすこし乱雑になる。
なぜロベールに対して当たりが強くなるか、正直アナベルは困惑しているが、友達として、または侯爵家同士知らない因縁があるのかもしれない、と密かに考えていた。
とにかくアナベルと婚約者の間に、圧倒的溝があることを既に知っていながら、わざわざ聞いてくるのは意地が悪い。確かに公の場、さらに友人の屋敷では自重すべきだろうが、ロベールに注意したところで聞いるはずもない。
アナベルはすこし唇を尖らせて「もう、分かりきったことを」と返せば、イーサンは目を俯せた。ライトグリーンの瞳に影が落ちる。
「…ごめん。そもそもラッセル家を招待したのはこちらなのに」
ロベールの恋人、ミュセルの父親は国の宰相だ。
キャンベル家は、王が困ったことがあれば呼び出しがかかるため登城の機会も多く、自然と宰相であるラッセルと顔を合わすことも多くなる。普段はあまり付き合いがない家同士だが、夏1番に開かれるこの夜会に国の重鎮でもあるラッセル家を呼ばない訳にはいかないのだ。
アナベルとて重々承知しているし、友人の家の都合に口を出すほど身の程知らずではないし、ラッセル家が居ようと全く気にしていない。
それでも、のっぽの背中が縮んで見えるほどイーサンは落ち込んでいる。
「まっっったく気にしていないわ。むしろ気を使わせてしまってごめんなさい。私は、私で楽しんでいることを知っているでしょう?」
アナベルは彼が好む果実や野菜の使われた料理を彼の皿に乗せながら話を続ける。
「美味しい食事を前になんて顔をしているの。顔を歪ませるほど嫌な相手の話なんてするものじゃないわ。それに今夜は夏の訪れを喜ぶのが主題。楽しまなければ、もったいないわ。」
ね?と首を傾げる。楽しい話題を振るが、彼はしつこく食い下がった。
「"恵まれた生活を与えられている"から?」
彼の言葉に、思わずアナベルは瞳を細めた。浮かぶ笑みには、妖しさが滲んでいる。やはり婚約者よりも、後に出会ったイーサンの方がよくよく自分のことを分かっている。
「そう、私は恵まれた生活を与えられているの」
ベルナルド家との婚約は、家のため。そうアナベルは祖父に言い聞かされた。
バーンズ伯爵家は1度落ちぶれている。バーンズ家初代当主は金融関係を生業としていたが、身を粉にして国益となる小さな成果を上げ続け爵位を賜った成り上がりの貴族だ。その活躍を快く思わない他貴族に唆され、慣れぬ事業に手を出したのが運の尽き。借金を負ってからは早々と身を崩した。全財産を失う一歩手前まで追い詰められたが、若かりし頃のアナベルの祖父が、苦労を一身に背負い、たった半世紀にも満たずに再興した。
『バーンズ家の栄誉のため、復興のため、発展のため』
夢に出てくるほど、祖父に言われた言葉。父も母も、腹の中が読めない貴族社会を家のために奮闘している。娘であるアナベルも義務を果たさなければならないが、ベルナルド家と付き合っていくにはアナベルの基礎能力は大分不足していた。ゆえに休日も勉学に励み、ベルナルド家の付き合いや仕事、些細な手伝いにも時間を費やしてきたのだ。
何年も、何年も。
寒さに苦しまない。食に困らない。金が底をつく恐怖も、明日が来ることに不安がない。かつて祖父が苦しんできた経験を、アナベルは知らない。今後もその予定であるし、家族にもそんな経験をさせるつもりはない。
「彼は、私の家に益をもたらす価値がある。代わりに私は、彼の家にも返すの。それが婚約時に決められた約束。与えられた幸せの分、きちんと返すのが筋よ」
「…だからといって、君が貶められる言われはない」
アナベルの言い分もわかるが、イーサンの意見も尤もである。どんな理由があろうと、他を貶めるのは次元が変わる。
しかし慣れきってしまったアナベルには到底理解できるものではない。友人や家族であれば憤ったのだが、自分自身のことになると疎かになるのは彼女の悪い癖の1つである。
「うーん。彼以外のご家族とは仲良くさせていただいているし…。外に想い人がいるなんて、他のお家にもあるって話だし、結構普通なんじゃないかしら」
「…それはどうかと思う」
アナベルの言葉に、イーサンは微妙な面持ちで返答する。心底わからない、という様子だ。
キャンベル夫妻は恋愛結婚で有名であり、今も最低週に1度は必ずデートに出掛けるほど相思相愛だ。
元々キャンベル家は代々夫婦仲、家族中が非常に良い。彼らの元で働く使用人達もそういった話で揉めたことが一切ないと、とかなり珍しい家だ。
アナベルの両親も家の都合が大きく影響したが、仲は良い方だ。むしろ年々深まっているようにも感じる。
アナベルだって、出来れば夫婦仲良くありたかったが、無理な場合だってある。ギクシャクするよりも、お互いが苦なく過ごせるならば、別れて行動することが1番。
「…君の考えをまとめるとさ。価値のある男ならば彼でなくてもいいんだよね?」
一瞬、それは人が瞬きをするぐらい短い間彼女は動きを止めたが、すぐに食事を再開した。
「ところで、今夜の料理は一段と美味しいわね。なんで料理なの?」
本日2度目。アナベルはあまりにもワザとらしくアナベルが話題を変え、ここで話を打ち切りという合図をイーサンに示す。残りの時間も残り少ない。あと7分ほどだ。楽しい思い出で終わりたい。
元より、この質問にアナベルは答えないと踏んでいたイーサン。彼女の合図に、少し間を置いた後料理人から聞いていた内容をアナベルに説明を始めた。
2人は雑談を交えながら、ひとときを楽しんだ。
テーブルに並べられた食事をひと通り食べ終えたアナベル。腹も心も充分満たされた。本当はもっと堪能したいが、今夜はすこし時間をかけすぎた。予定の1分も長く過ごしてしまった。再び壁際に戻ることにしたアナベルは、イーサンに別れを告げる。
「ありがとうイーサン。楽しかったわ。皆さんに、今夜も素晴らしかったです、とお伝えして。それではまた学園で」
「あぁ、伝えておくよ。また」
アナベルは静かにイーサンの元を離れた。背中に彼の視線を感じたが、アナベルはそのまま歩み進める。来た時同様、人の合間を静かに滑って行く。
王都で楽しげに踊る男女の様子は、夜会の熱はまだまだ冷めないと伺える。
ロベールと踊ったのはいつだったかと、アナベルは記憶を振り返るも、思い出せなかった。
『…君の考えをまとめるとさ。価値のある男ならば彼でなくてもいいんだよね?』
ふと、先程のイーサンの言葉が思い返された。どんな時でも柔和な物腰を崩さないイーサンらしくない、なかなか過激的な発言だ。
だが、確かに。アナベルの言い分を踏まえるならば、彼の言い分は尤もだ。
(ロベール…いやベルナルド家よりも、財があって、力になってくれて、尊敬できて、それで…。それで?)
アナベルは何か言葉を紡ごうとしたが、うまく表す事ができなかった。だが些細なことの様に感じ、気にする事なく結論を出す。
(ま、そんな人いないけど)
アナベルが前に目を向けると、見覚えのある男がいた。灰色の燕尾に、金色の飾りを身につけたその姿は、婚約者であるロベールであった。アナベルを見つけると盛大にため息をつき、つかつかと大股で歩み寄ると彼女の細い腕を乱暴に掴む。
「何をしていた。帰るぞ」
(何をしていたなんて)
逆に問いただしたくなったが、無駄な問答をする羽目になる。先程までの楽しい時間が台無しになってしまうため、アナベルは口を閉ざした。
その反応にロベールは周囲に聞こえないほど小さく舌打ちをした。
アナベルは心の中でため息を付き、ロベールの手を振り払うと婚約者腕に少し触れ、横に並び歩く。
すると甘い香りがした。アナベルが選ばない、果物よりも花よりも、甘い甘い香水の匂いにアナベルは思わず眉を寄せたが、ロベールは彼女の様子に目もくれず、引っ張るように早足で会場を離れていく。
2人が馬車に乗り込めば、ゆっくりと走り出した。
アナベルもロベールも何も話さない。ロベールは何を急いでいるのか落ち着かない様子。アナベルは目を窓に向けて外を見つめる。
これからますますパーティーの熱で盛り上がるであろうキャンベル家を、後にしたのだった。
夜会の主催者であるキャンベル侯爵夫妻の一人息子だ。
アナベルとイーサンは同い年であり、通っている学園の生徒会仲間。
なにより、アナベルにとって大切な友人である。
アナベルが10歳の時、彼の両親が企画した催しに招待された。赤子の頃からイーサンは非常に体が弱く、寝たきりで友達がほとんどいなかった。そんな彼の友達づくりを目的に開かれた茶話会に、同い年のアナベルが呼ばれたのは必然と言えた。
そこでちょっとしたハプニングが起こり、落ち込んでいたアナベルを元気付けようとイーサンが持ってきた本は、偶然にも彼女が1番好きな作家のものだった。
語り合う内にアナベルとイーサンはすっかり打ち解けた。
そこから親交が始まり、同じ学園へ通うようになってからは、さらに付き合いは増えていった。
気がつけばアナベルにとって、イーサンは個人的な相談をするほど信頼の置ける相手になった。
今では爵位の壁を越えて、家族ぐるみで交流したり、彼の父親の仕事場で学ばせてもらうほど、深い仲になっている。
そんな大事な友人とは、夜会や舞踏会などの招待先が重なると、一緒に食事を摂るのが恒例となっていた。
出会った最初の茶話会で、アナベルが隠れて食事を楽しんでいるところが見つかってから、彼はアナベルの食事タイムには必ず現れるようになったのだ。
時間を決めていないにも関わらず、いくら気配を消しても、なぜかイーサンにだけはすぐに見つかってしまう。
最初は企んでいるのかと勘ぐったが、彼は誰にも言いふらさずーーアナベルの意向でキャンベル夫妻や使用人たちは知っているーーダンスにも誘わず、ただアナベルと雑談を交わしながら共に食事をするだけ。
また、その背の高さでアナベルをさりげなく周囲から隠してくれる。
アナベルはイーサンのおかげで、安心して穏やかな時間を得る事ができた。
彼には未だ婚約者も恋人もいないため、アナベルが特別配慮する相手がいなかったのも大きい。
長年の習慣と信頼から、賑やかな会の中で短くも静かな時間を共有している。
「で、君のパートナーはまたどこかの物陰かい?相変わらず華やか場が好きな割に、かくれんぼがお好みのようだね」
早速切り込まれた話題とイーサンの辛辣な物言いに、アナベルはむせかけた。
✴︎
ロベール・ベルナルドは、アナベルが8歳の時に決められた婚約者だ。
国の南に領土を持つ、国王との親交も深いベルナルド侯爵家。その侯爵夫妻の次男で、アナベルの3つ年上である。
頭の回転が早く、運動神経も良い。魔術も使えれば、手先も器用。婚約者は周囲から天才と持て囃された。いつも彼を慕う人たちに囲まれ、ロベールも華やかで楽しいことを好む。
一方アナベルは、真面目で堅実。頭の要領は悪くないが、日々時間を費やして勉学に励まなければ、ロベールには近づけなかった。彼はアナベルを堅苦しく感じ、努力しなければ追いつけないを嘲笑うようになった。次第にアナベルを遠ざけ、友人たちと過ごす時間が増えた。
そしてアナベルが15歳の時、ロベールが高等部最高学年生として学園にいた頃、ミシェルとまるで恋人のように触れ合う姿を目撃した。
アナベルはロベールに対して、恋や愛といった甘い感情は抱いていなかったが、憧れてもいたし尊敬もしていた。彼女が日々励んできたのは、彼にとって少しでも相応しい人間になりたい想いもあったからだ。しかし婚約者に強いるのは間違っているし、愛情のない女性と一緒にいるのも辛いだろう。ロベールとミシェルは幸せそうであったし、アナベルに他人の幸福を壊す気もなかった。
しかし目の前で婚約者が他の女性と寄り添っている所を見るのは、気持ちのいいものではない。
せめて自分の目につかないようにしてくれないか、そう懇願したが、ロベールはその願いを鼻で笑うばかりか、必要以上にアナベルをなじるようになった。日に日に彼の態度は悪化していく。彼はミシェルこそ彼女だと友人たちには公言し、最愛の彼女を誰よりも気にかけて、アナベルの前であろうと堂々とミシェルと過ごしている。
そんな2人の逢瀬を、イーサンは目撃した。
前々からアナベルから男性との付き合い方の相談を受けたり、ずっと彼女が1人で食事をとっていることに思うところがあったようだ。今まで見たことない複雑な表情を浮かべた彼に『あぁついに知ったのか』と、まるで他人事のように思った。その時アナベルは、自分の中に婚約者への感情が一切残っていないことを自覚した。
それからイーサンは、ロベールの話になると剣呑とした雰囲気を漂わせ、口調がすこし乱雑になる。
なぜロベールに対して当たりが強くなるか、正直アナベルは困惑しているが、友達として、または侯爵家同士知らない因縁があるのかもしれない、と密かに考えていた。
とにかくアナベルと婚約者の間に、圧倒的溝があることを既に知っていながら、わざわざ聞いてくるのは意地が悪い。確かに公の場、さらに友人の屋敷では自重すべきだろうが、ロベールに注意したところで聞いるはずもない。
アナベルはすこし唇を尖らせて「もう、分かりきったことを」と返せば、イーサンは目を俯せた。ライトグリーンの瞳に影が落ちる。
「…ごめん。そもそもラッセル家を招待したのはこちらなのに」
ロベールの恋人、ミュセルの父親は国の宰相だ。
キャンベル家は、王が困ったことがあれば呼び出しがかかるため登城の機会も多く、自然と宰相であるラッセルと顔を合わすことも多くなる。普段はあまり付き合いがない家同士だが、夏1番に開かれるこの夜会に国の重鎮でもあるラッセル家を呼ばない訳にはいかないのだ。
アナベルとて重々承知しているし、友人の家の都合に口を出すほど身の程知らずではないし、ラッセル家が居ようと全く気にしていない。
それでも、のっぽの背中が縮んで見えるほどイーサンは落ち込んでいる。
「まっっったく気にしていないわ。むしろ気を使わせてしまってごめんなさい。私は、私で楽しんでいることを知っているでしょう?」
アナベルは彼が好む果実や野菜の使われた料理を彼の皿に乗せながら話を続ける。
「美味しい食事を前になんて顔をしているの。顔を歪ませるほど嫌な相手の話なんてするものじゃないわ。それに今夜は夏の訪れを喜ぶのが主題。楽しまなければ、もったいないわ。」
ね?と首を傾げる。楽しい話題を振るが、彼はしつこく食い下がった。
「"恵まれた生活を与えられている"から?」
彼の言葉に、思わずアナベルは瞳を細めた。浮かぶ笑みには、妖しさが滲んでいる。やはり婚約者よりも、後に出会ったイーサンの方がよくよく自分のことを分かっている。
「そう、私は恵まれた生活を与えられているの」
ベルナルド家との婚約は、家のため。そうアナベルは祖父に言い聞かされた。
バーンズ伯爵家は1度落ちぶれている。バーンズ家初代当主は金融関係を生業としていたが、身を粉にして国益となる小さな成果を上げ続け爵位を賜った成り上がりの貴族だ。その活躍を快く思わない他貴族に唆され、慣れぬ事業に手を出したのが運の尽き。借金を負ってからは早々と身を崩した。全財産を失う一歩手前まで追い詰められたが、若かりし頃のアナベルの祖父が、苦労を一身に背負い、たった半世紀にも満たずに再興した。
『バーンズ家の栄誉のため、復興のため、発展のため』
夢に出てくるほど、祖父に言われた言葉。父も母も、腹の中が読めない貴族社会を家のために奮闘している。娘であるアナベルも義務を果たさなければならないが、ベルナルド家と付き合っていくにはアナベルの基礎能力は大分不足していた。ゆえに休日も勉学に励み、ベルナルド家の付き合いや仕事、些細な手伝いにも時間を費やしてきたのだ。
何年も、何年も。
寒さに苦しまない。食に困らない。金が底をつく恐怖も、明日が来ることに不安がない。かつて祖父が苦しんできた経験を、アナベルは知らない。今後もその予定であるし、家族にもそんな経験をさせるつもりはない。
「彼は、私の家に益をもたらす価値がある。代わりに私は、彼の家にも返すの。それが婚約時に決められた約束。与えられた幸せの分、きちんと返すのが筋よ」
「…だからといって、君が貶められる言われはない」
アナベルの言い分もわかるが、イーサンの意見も尤もである。どんな理由があろうと、他を貶めるのは次元が変わる。
しかし慣れきってしまったアナベルには到底理解できるものではない。友人や家族であれば憤ったのだが、自分自身のことになると疎かになるのは彼女の悪い癖の1つである。
「うーん。彼以外のご家族とは仲良くさせていただいているし…。外に想い人がいるなんて、他のお家にもあるって話だし、結構普通なんじゃないかしら」
「…それはどうかと思う」
アナベルの言葉に、イーサンは微妙な面持ちで返答する。心底わからない、という様子だ。
キャンベル夫妻は恋愛結婚で有名であり、今も最低週に1度は必ずデートに出掛けるほど相思相愛だ。
元々キャンベル家は代々夫婦仲、家族中が非常に良い。彼らの元で働く使用人達もそういった話で揉めたことが一切ないと、とかなり珍しい家だ。
アナベルの両親も家の都合が大きく影響したが、仲は良い方だ。むしろ年々深まっているようにも感じる。
アナベルだって、出来れば夫婦仲良くありたかったが、無理な場合だってある。ギクシャクするよりも、お互いが苦なく過ごせるならば、別れて行動することが1番。
「…君の考えをまとめるとさ。価値のある男ならば彼でなくてもいいんだよね?」
一瞬、それは人が瞬きをするぐらい短い間彼女は動きを止めたが、すぐに食事を再開した。
「ところで、今夜の料理は一段と美味しいわね。なんで料理なの?」
本日2度目。アナベルはあまりにもワザとらしくアナベルが話題を変え、ここで話を打ち切りという合図をイーサンに示す。残りの時間も残り少ない。あと7分ほどだ。楽しい思い出で終わりたい。
元より、この質問にアナベルは答えないと踏んでいたイーサン。彼女の合図に、少し間を置いた後料理人から聞いていた内容をアナベルに説明を始めた。
2人は雑談を交えながら、ひとときを楽しんだ。
テーブルに並べられた食事をひと通り食べ終えたアナベル。腹も心も充分満たされた。本当はもっと堪能したいが、今夜はすこし時間をかけすぎた。予定の1分も長く過ごしてしまった。再び壁際に戻ることにしたアナベルは、イーサンに別れを告げる。
「ありがとうイーサン。楽しかったわ。皆さんに、今夜も素晴らしかったです、とお伝えして。それではまた学園で」
「あぁ、伝えておくよ。また」
アナベルは静かにイーサンの元を離れた。背中に彼の視線を感じたが、アナベルはそのまま歩み進める。来た時同様、人の合間を静かに滑って行く。
王都で楽しげに踊る男女の様子は、夜会の熱はまだまだ冷めないと伺える。
ロベールと踊ったのはいつだったかと、アナベルは記憶を振り返るも、思い出せなかった。
『…君の考えをまとめるとさ。価値のある男ならば彼でなくてもいいんだよね?』
ふと、先程のイーサンの言葉が思い返された。どんな時でも柔和な物腰を崩さないイーサンらしくない、なかなか過激的な発言だ。
だが、確かに。アナベルの言い分を踏まえるならば、彼の言い分は尤もだ。
(ロベール…いやベルナルド家よりも、財があって、力になってくれて、尊敬できて、それで…。それで?)
アナベルは何か言葉を紡ごうとしたが、うまく表す事ができなかった。だが些細なことの様に感じ、気にする事なく結論を出す。
(ま、そんな人いないけど)
アナベルが前に目を向けると、見覚えのある男がいた。灰色の燕尾に、金色の飾りを身につけたその姿は、婚約者であるロベールであった。アナベルを見つけると盛大にため息をつき、つかつかと大股で歩み寄ると彼女の細い腕を乱暴に掴む。
「何をしていた。帰るぞ」
(何をしていたなんて)
逆に問いただしたくなったが、無駄な問答をする羽目になる。先程までの楽しい時間が台無しになってしまうため、アナベルは口を閉ざした。
その反応にロベールは周囲に聞こえないほど小さく舌打ちをした。
アナベルは心の中でため息を付き、ロベールの手を振り払うと婚約者腕に少し触れ、横に並び歩く。
すると甘い香りがした。アナベルが選ばない、果物よりも花よりも、甘い甘い香水の匂いにアナベルは思わず眉を寄せたが、ロベールは彼女の様子に目もくれず、引っ張るように早足で会場を離れていく。
2人が馬車に乗り込めば、ゆっくりと走り出した。
アナベルもロベールも何も話さない。ロベールは何を急いでいるのか落ち着かない様子。アナベルは目を窓に向けて外を見つめる。
これからますますパーティーの熱で盛り上がるであろうキャンベル家を、後にしたのだった。

