アナベルとイーサンが森林で元気に駆け回り、夕方サイドハウス・ノアに戻ると、レティシアが使用人たちと組んだ予定が出来上がっていた。
まさに”動と静”。まずは心までリフレッシュしてから、体を動かするスケジュールである。
アクティブウィーク1日目。
3人は保養地区最北にあるスパにやってきた。雄大な自然を眺めながら温泉やマッサージでリラックスでき、とても人気の施設である。レティシアが一緒に来たいと、夏休み初めに予約していたのだ。
男女で施術部屋は分かれているためイーサンとは別れ、アナベルはレティシアとの行動になる。
「では、始めさせていただきます」
2人は問診を受けた後、それぞれ悩みに合った温泉を案内される。温泉や岩盤浴で汗を流し、身体を温めた後にマッサージや美容ケアを受ける。髪先からつま先まで。キャンベル家でも日頃から手厚くケアを受けているが、さらに芯からほぐれていく感覚にアナベルとレティシアは堪らず息が漏れる。
「これは、きもち、いいわ…!」
「はい…」
初めての経験に、好奇心は止まらないのに徐々に瞼が重くなっていく。すると隣から心地よい寝息が聞こえてきた。すでにレティシアは夢の世界へ。アナベルは必死に力を入れようとするも抗えない。
(まって、まって…あと、どんなことするのか)
しりたい。
願いは叶わず、アナベルは夢の世界に飛び立った。
数十分後目が覚めたアナベルの体は、羽のように軽くなっていた。髪も肌も爪も艶がかかり、ハリが出ている。心なしか顔は小さく、ウエストや太ももが細くなったようだ。数歳若返ったようだと、レティシアと会話を弾ませる。
休憩を挟み、待ち合わせ室でイーサンと合流した。彼もまた、白い肌や黒髪の艶が段違いに輝き、リフレッシュした雰囲気を纏っている。これがスパ効果か。家族にも是非体験してほしい。確認すれば、子供向けの施術もある。絶対に家族を連れてこようと、アナベルは決意した。
サイドハウス・ノアに戻ると、ツヤツヤとした3人を見た浴室係が拳を強く握りしめた。
「あぁ!負けていられません。明日からはさらなる境地に至らせましょう!」
興味が湧いたアナベルは、翌日彼女たちの仕事場にお邪魔することにした。
✴︎
キャンベル家の浴室は、使用人たちが沸いた沸かしたお湯を運ばずに済むよう、水道が完備されている。お湯の調整もレバーで火を調節できる優れもの。整った環境で自由に仕事ができるのは最高だと語る。
「こちらが入浴剤に使用する道具やハーブなどです」
2つ分の棚にぎっしりと並ぶそれらは、他の屋敷では見たことがない種類の量。
「こんなに?」
「ええ!いくつかお屋敷を転々としましたが、キャンベル家ぐらいですよ。気分転換になりますし、イーサン様は合成効力ではお身体に合いませんから。奥様ともお話が弾みますし、天国ですよ!」
彼女は柔らかそうな頬を揺らす。砂漠が広がる大陸の西南国出身のヨンジャは、子供の頃から風呂好きであった。大衆浴場に通い、好きが高じて専門的に学び、仕事にした。国を渡った彼女は幾つか職場を転々とし、数年前からキャンベル家で働いている。
男性浴室担当のイシカワも似たような境遇で、大陸東地方出身にある宿屋の末っ子に生まれた彼は温泉が身近にあった。外国への興味もあった彼は、各国の温泉やお風呂事情の調査をしている内に国を飛び出し、世界中を巡っていた。途中資金に困った彼はたまたま見つけたキャンベル家の商人募集に応募したところ受かり、そのまま働き続けているという。
「賃金もお休みも満足以上。仕事への理解も深く、好きにやらせていただいていますからねぇ」
事前に許可を取れば、休みをまとめて取る長期休暇も可能だ。彼たちはその休みを活かし変わらず各国を巡り、知識を深めるのだと言う。
「…すごい。飽く無き探究心ね」
「アナベル様もとことんお調べになると伺ってますよ。キャンベル家の使用人は1つに夢中になるタイプが多いだけです。ほら料理人連中なんか良い例ですよ」
イシカワが厨房のある方角を指差す。毎日素晴らしく美味しい食事を振る舞う料理人たちは、昼食後も各々研究に勤しんでいる。
「おかげで、学び方や取り組み方はよく理解できたよ」
隣に座るイーサンは肩を揺らした。
なるほど。目の前にいる彼女たちは、イーサンを作った起源の1つという訳だ。アナベルは何度も頷く。
「よりよく私たちの技術を振るう為にも…もっとアナベル様のことも教えてくださいな」
ヨンジャがオイルや入浴剤を、イシカワが浴室道具をテーブルに並べる。彼女たちは1つずつ手に取り、
その内に仕事を終えたメイドたちも集まりアナベルへの質問時間になった。「好きなお湯の温度は?」「嫌いな匂いは?」と、使用人たちに囲まれ、答えに詰まりながらもアナベルは真剣に質問に答えていく。
その様子をイーサンはニコニコと見ていた。
すると使用人たちからじっとり湿度の高い目線が向けられる。お?これはなんだ?
「イーサン様がアナベル様を独占するからですよ」
「バーベキューでは時間が足らないのです!」
「ありがとう。私ももっと皆のことを知りたいわ」
イーサンに詰め寄っていた彼女たちの顔が一斉に緩む。
「…なら、1週間ぐらいアナベル様と我々の時間をつくるのはどうでしょう」
「えっ?」
イーサンは冷や汗をかく。キャンベル家で働く使用人たちは意志が固い。やると決めたらあっという間に段取りを組み、実行する。アナベルと似ているが、チームで組む分強固で頑丈だ。一度決まってしまったら崩せなくなる。まだアナベルを独占しておきたいイーサンは、慌てて「せめて夏休みが過ぎてから…!」と嘆願すれば、彼女たちは「承知しております」と答えた。
「それでは、夏休み後はお時間頂戴しますので」
「え…あ、はい」
もう決定事項だ。強い眼差しと、ひしひしと感じる圧、にイーサンはただただ頷くことしかできなかった。
✴︎
その後3日間はあらゆる運動に勤しんだ。
イーサンの家庭教師にヨガを教えてもらい、その次の日はテニスやバトミントンといった球技を、さらに次の日は湖で水遊び。
ヨガでイーサンの身体の柔らかさに驚き、レティシアとテニスで接戦を繰り広げたアナベル。湖では水泳可能エリアで遊具を使い水面に漂ったり、メイドたちと距離を競ったりして水と戯れる。
涼しい室内でゆっくり筋肉を伸ばす。
たっぷり汗を流しながらボールを追う、肌を焼くような熱。
冷たい水に、髪が揺れる感覚。
外出と運動では、疲れ方は違ってくる。連日十二分過ぎるぐらいに動かし、アナベルは心地よい疲労感で満たされていた。
レティシアが計画した夏休みスケジュールは見事効果を発揮した。
その日は勉強会と昼食、さらにダンス練習を経て、2人は休息を取っていた。
北の庭にガーデンチェアを出しての休息。アイザックが作ってくれた夏のフルーツを使った、氷一杯の紅茶。屋敷の影が覆う北庭はひんやりと冷たい。青空には分厚い雲。庭師たちが育てた花々を蝶や鳥が羽ばたき渡り、虫除け香の煙が揺らめいている様は、まさに夏の景色と言える。
柔らかく、包み込むように湧いてくる眠気。隣でイーサンが本を読んでいる。ペラ、ペラと紙を捲る軽快な音が心地よい。
アナベルは夏の風景を眺めていた。読みかけの本を膝に起き、落ち掛ける瞼を何度も持ち上げる。
彼女の耳に、ヨガの先生の声が聞こえてくる。次第に男性の声は遠ざかり、ボールが弾いたり、さざめき流れる水音へ変わっていく。
こぽり、こぽり。水底へ沈んでいくように意識は落ちていった。
隣から小さな物音が聞こえたイーサンは、アナベルの方に顔を向けると、彼女は穏やかな寝息を立てていた。アナベルはぐっすり眠っている。母親の立てた作戦は成功したと言える。周辺の観光地を改めて調べ上げてくれた使用人たちにも、お礼を言わなければ。
イーサンは立ち上がり彼女のそばに歩み寄ると、膝の本をサイドテーブルに移した。
いつもの彼なら、寝ているアナベルの邪魔にならない…いや就寝中の令嬢の顔を見ないように自分の場所へと戻るところだが、少しだけ婚約者の特権を使うことにした。彼はガーデンチェアの空いているスペースに、起こさないように静かに腰を下ろす。
ゆっくり過ごせるよう、今日は髪を低い位置で結い、真っ白なオーバーサイズのワンピースを着ているアナベルの姿は、挿絵に描かれる姫そのものだ。真っ白な肌も連日日差しの強い中外で遊びまわり、肌は少し焼けている。『久しぶりに焼けたわ…』と感慨深そうに、自分の腕をアナベルは何度も眺めていた。茶色くなった肌と陽の光を集め輝く空色の瞳も相まってより健康的に見え、イーサンは好きだ。アナベルの美しい瞳は、当たり前だが今は瞼の裏に隠されている。一抹の寂しさを感じるのは流石に強欲がすぎると、イーサンは苦笑する。
「イー…サン」
唇がかすかに動き、彼女は名前を呼んだ。
カラン。
氷が崩れる音が鳴る。イーサンは己のグラスを取り、濃い甘みのアイスティーを口に含む。
(ほんと…君は私を翻弄させる天才だよ)
冷たい紅茶で浮かれそうになった思考を落ち着かせたいが、じわじわと照れ臭さが増してくる。惚れた弱みだ。言動に逐一翻弄されてしまう。
イーサンは天を仰いだ。影が落ち暗い北庭と外壁と打って変わり、空はどこまでも青く真っ白な雲は呑気に流れていく。
目が覚めたアナベルは腕を上げ、身体を大きく伸ばす。昼寝なんていつぶりだろうか。まだ少し気だるいが、大分意識がすっきりした。身体も軽い。右に身体を捻り、続いて左へ。パッと勢いよく向いた先でライトグリーンの瞳とかち合った。
「…」
「おはようアナベル」
今どこにいるのか、誰といたのか思い出したアナベルは血管が噴火する勢いで顔を真っ赤に染めた。
「わ、忘れて!見なかったことにしてちょうだい!」
なんて失態か。まさか令嬢らしくない、雑な動作をイーサンに目撃されてしまうなんて。気が抜け過ぎている。
「なんで?可愛かったのに…」
「っか、可愛くなんかないわ!」
「忘れて」「勿体無いから嫌だ」などと2人の元気な声が北庭から屋敷へこだまする。それを合図に使用人たちは、新しい飲み物の準備を始めた。
散々「お願い」してもイーサンは頑なに忘れようとせず、恥ずかしさのあまり臍を曲げたアナベルは新しいドリンクを持ち、イーサンに背を向けてしまった。
1時間眠りすっかり元気を取り戻したアナベルの機嫌を戻すために、彼は奮闘することになったのだった。
「…もう、ここで過ごしてたら骨が抜けてしまうわ」
「良いじゃないか骨抜きでも。言っただろう?『夏休みを楽しもう』って。誰よりもはっちゃけて、飽きるほどだらけようよ」
「貴方の囁きは悪魔よりタチが悪いわ、きっと」
「あ、待って。顔を逸らさないでアナベル」
度々そっぽを向く抵抗をしながらも、イーサンの粘り強さと、アイザック手製の豪快パフェにより少し機嫌を直したアナベル。
その後も。アナベルはしっかり夕食を食べ、お風呂を堪能し、気持ちの良い空間で熟睡した。
どうにかしないといけないと思いつつ。
ゆったり時間を過ごしたのだった。
それではおやすみなさい。
良い夢を。
まさに”動と静”。まずは心までリフレッシュしてから、体を動かするスケジュールである。
アクティブウィーク1日目。
3人は保養地区最北にあるスパにやってきた。雄大な自然を眺めながら温泉やマッサージでリラックスでき、とても人気の施設である。レティシアが一緒に来たいと、夏休み初めに予約していたのだ。
男女で施術部屋は分かれているためイーサンとは別れ、アナベルはレティシアとの行動になる。
「では、始めさせていただきます」
2人は問診を受けた後、それぞれ悩みに合った温泉を案内される。温泉や岩盤浴で汗を流し、身体を温めた後にマッサージや美容ケアを受ける。髪先からつま先まで。キャンベル家でも日頃から手厚くケアを受けているが、さらに芯からほぐれていく感覚にアナベルとレティシアは堪らず息が漏れる。
「これは、きもち、いいわ…!」
「はい…」
初めての経験に、好奇心は止まらないのに徐々に瞼が重くなっていく。すると隣から心地よい寝息が聞こえてきた。すでにレティシアは夢の世界へ。アナベルは必死に力を入れようとするも抗えない。
(まって、まって…あと、どんなことするのか)
しりたい。
願いは叶わず、アナベルは夢の世界に飛び立った。
数十分後目が覚めたアナベルの体は、羽のように軽くなっていた。髪も肌も爪も艶がかかり、ハリが出ている。心なしか顔は小さく、ウエストや太ももが細くなったようだ。数歳若返ったようだと、レティシアと会話を弾ませる。
休憩を挟み、待ち合わせ室でイーサンと合流した。彼もまた、白い肌や黒髪の艶が段違いに輝き、リフレッシュした雰囲気を纏っている。これがスパ効果か。家族にも是非体験してほしい。確認すれば、子供向けの施術もある。絶対に家族を連れてこようと、アナベルは決意した。
サイドハウス・ノアに戻ると、ツヤツヤとした3人を見た浴室係が拳を強く握りしめた。
「あぁ!負けていられません。明日からはさらなる境地に至らせましょう!」
興味が湧いたアナベルは、翌日彼女たちの仕事場にお邪魔することにした。
✴︎
キャンベル家の浴室は、使用人たちが沸いた沸かしたお湯を運ばずに済むよう、水道が完備されている。お湯の調整もレバーで火を調節できる優れもの。整った環境で自由に仕事ができるのは最高だと語る。
「こちらが入浴剤に使用する道具やハーブなどです」
2つ分の棚にぎっしりと並ぶそれらは、他の屋敷では見たことがない種類の量。
「こんなに?」
「ええ!いくつかお屋敷を転々としましたが、キャンベル家ぐらいですよ。気分転換になりますし、イーサン様は合成効力ではお身体に合いませんから。奥様ともお話が弾みますし、天国ですよ!」
彼女は柔らかそうな頬を揺らす。砂漠が広がる大陸の西南国出身のヨンジャは、子供の頃から風呂好きであった。大衆浴場に通い、好きが高じて専門的に学び、仕事にした。国を渡った彼女は幾つか職場を転々とし、数年前からキャンベル家で働いている。
男性浴室担当のイシカワも似たような境遇で、大陸東地方出身にある宿屋の末っ子に生まれた彼は温泉が身近にあった。外国への興味もあった彼は、各国の温泉やお風呂事情の調査をしている内に国を飛び出し、世界中を巡っていた。途中資金に困った彼はたまたま見つけたキャンベル家の商人募集に応募したところ受かり、そのまま働き続けているという。
「賃金もお休みも満足以上。仕事への理解も深く、好きにやらせていただいていますからねぇ」
事前に許可を取れば、休みをまとめて取る長期休暇も可能だ。彼たちはその休みを活かし変わらず各国を巡り、知識を深めるのだと言う。
「…すごい。飽く無き探究心ね」
「アナベル様もとことんお調べになると伺ってますよ。キャンベル家の使用人は1つに夢中になるタイプが多いだけです。ほら料理人連中なんか良い例ですよ」
イシカワが厨房のある方角を指差す。毎日素晴らしく美味しい食事を振る舞う料理人たちは、昼食後も各々研究に勤しんでいる。
「おかげで、学び方や取り組み方はよく理解できたよ」
隣に座るイーサンは肩を揺らした。
なるほど。目の前にいる彼女たちは、イーサンを作った起源の1つという訳だ。アナベルは何度も頷く。
「よりよく私たちの技術を振るう為にも…もっとアナベル様のことも教えてくださいな」
ヨンジャがオイルや入浴剤を、イシカワが浴室道具をテーブルに並べる。彼女たちは1つずつ手に取り、
その内に仕事を終えたメイドたちも集まりアナベルへの質問時間になった。「好きなお湯の温度は?」「嫌いな匂いは?」と、使用人たちに囲まれ、答えに詰まりながらもアナベルは真剣に質問に答えていく。
その様子をイーサンはニコニコと見ていた。
すると使用人たちからじっとり湿度の高い目線が向けられる。お?これはなんだ?
「イーサン様がアナベル様を独占するからですよ」
「バーベキューでは時間が足らないのです!」
「ありがとう。私ももっと皆のことを知りたいわ」
イーサンに詰め寄っていた彼女たちの顔が一斉に緩む。
「…なら、1週間ぐらいアナベル様と我々の時間をつくるのはどうでしょう」
「えっ?」
イーサンは冷や汗をかく。キャンベル家で働く使用人たちは意志が固い。やると決めたらあっという間に段取りを組み、実行する。アナベルと似ているが、チームで組む分強固で頑丈だ。一度決まってしまったら崩せなくなる。まだアナベルを独占しておきたいイーサンは、慌てて「せめて夏休みが過ぎてから…!」と嘆願すれば、彼女たちは「承知しております」と答えた。
「それでは、夏休み後はお時間頂戴しますので」
「え…あ、はい」
もう決定事項だ。強い眼差しと、ひしひしと感じる圧、にイーサンはただただ頷くことしかできなかった。
✴︎
その後3日間はあらゆる運動に勤しんだ。
イーサンの家庭教師にヨガを教えてもらい、その次の日はテニスやバトミントンといった球技を、さらに次の日は湖で水遊び。
ヨガでイーサンの身体の柔らかさに驚き、レティシアとテニスで接戦を繰り広げたアナベル。湖では水泳可能エリアで遊具を使い水面に漂ったり、メイドたちと距離を競ったりして水と戯れる。
涼しい室内でゆっくり筋肉を伸ばす。
たっぷり汗を流しながらボールを追う、肌を焼くような熱。
冷たい水に、髪が揺れる感覚。
外出と運動では、疲れ方は違ってくる。連日十二分過ぎるぐらいに動かし、アナベルは心地よい疲労感で満たされていた。
レティシアが計画した夏休みスケジュールは見事効果を発揮した。
その日は勉強会と昼食、さらにダンス練習を経て、2人は休息を取っていた。
北の庭にガーデンチェアを出しての休息。アイザックが作ってくれた夏のフルーツを使った、氷一杯の紅茶。屋敷の影が覆う北庭はひんやりと冷たい。青空には分厚い雲。庭師たちが育てた花々を蝶や鳥が羽ばたき渡り、虫除け香の煙が揺らめいている様は、まさに夏の景色と言える。
柔らかく、包み込むように湧いてくる眠気。隣でイーサンが本を読んでいる。ペラ、ペラと紙を捲る軽快な音が心地よい。
アナベルは夏の風景を眺めていた。読みかけの本を膝に起き、落ち掛ける瞼を何度も持ち上げる。
彼女の耳に、ヨガの先生の声が聞こえてくる。次第に男性の声は遠ざかり、ボールが弾いたり、さざめき流れる水音へ変わっていく。
こぽり、こぽり。水底へ沈んでいくように意識は落ちていった。
隣から小さな物音が聞こえたイーサンは、アナベルの方に顔を向けると、彼女は穏やかな寝息を立てていた。アナベルはぐっすり眠っている。母親の立てた作戦は成功したと言える。周辺の観光地を改めて調べ上げてくれた使用人たちにも、お礼を言わなければ。
イーサンは立ち上がり彼女のそばに歩み寄ると、膝の本をサイドテーブルに移した。
いつもの彼なら、寝ているアナベルの邪魔にならない…いや就寝中の令嬢の顔を見ないように自分の場所へと戻るところだが、少しだけ婚約者の特権を使うことにした。彼はガーデンチェアの空いているスペースに、起こさないように静かに腰を下ろす。
ゆっくり過ごせるよう、今日は髪を低い位置で結い、真っ白なオーバーサイズのワンピースを着ているアナベルの姿は、挿絵に描かれる姫そのものだ。真っ白な肌も連日日差しの強い中外で遊びまわり、肌は少し焼けている。『久しぶりに焼けたわ…』と感慨深そうに、自分の腕をアナベルは何度も眺めていた。茶色くなった肌と陽の光を集め輝く空色の瞳も相まってより健康的に見え、イーサンは好きだ。アナベルの美しい瞳は、当たり前だが今は瞼の裏に隠されている。一抹の寂しさを感じるのは流石に強欲がすぎると、イーサンは苦笑する。
「イー…サン」
唇がかすかに動き、彼女は名前を呼んだ。
カラン。
氷が崩れる音が鳴る。イーサンは己のグラスを取り、濃い甘みのアイスティーを口に含む。
(ほんと…君は私を翻弄させる天才だよ)
冷たい紅茶で浮かれそうになった思考を落ち着かせたいが、じわじわと照れ臭さが増してくる。惚れた弱みだ。言動に逐一翻弄されてしまう。
イーサンは天を仰いだ。影が落ち暗い北庭と外壁と打って変わり、空はどこまでも青く真っ白な雲は呑気に流れていく。
目が覚めたアナベルは腕を上げ、身体を大きく伸ばす。昼寝なんていつぶりだろうか。まだ少し気だるいが、大分意識がすっきりした。身体も軽い。右に身体を捻り、続いて左へ。パッと勢いよく向いた先でライトグリーンの瞳とかち合った。
「…」
「おはようアナベル」
今どこにいるのか、誰といたのか思い出したアナベルは血管が噴火する勢いで顔を真っ赤に染めた。
「わ、忘れて!見なかったことにしてちょうだい!」
なんて失態か。まさか令嬢らしくない、雑な動作をイーサンに目撃されてしまうなんて。気が抜け過ぎている。
「なんで?可愛かったのに…」
「っか、可愛くなんかないわ!」
「忘れて」「勿体無いから嫌だ」などと2人の元気な声が北庭から屋敷へこだまする。それを合図に使用人たちは、新しい飲み物の準備を始めた。
散々「お願い」してもイーサンは頑なに忘れようとせず、恥ずかしさのあまり臍を曲げたアナベルは新しいドリンクを持ち、イーサンに背を向けてしまった。
1時間眠りすっかり元気を取り戻したアナベルの機嫌を戻すために、彼は奮闘することになったのだった。
「…もう、ここで過ごしてたら骨が抜けてしまうわ」
「良いじゃないか骨抜きでも。言っただろう?『夏休みを楽しもう』って。誰よりもはっちゃけて、飽きるほどだらけようよ」
「貴方の囁きは悪魔よりタチが悪いわ、きっと」
「あ、待って。顔を逸らさないでアナベル」
度々そっぽを向く抵抗をしながらも、イーサンの粘り強さと、アイザック手製の豪快パフェにより少し機嫌を直したアナベル。
その後も。アナベルはしっかり夕食を食べ、お風呂を堪能し、気持ちの良い空間で熟睡した。
どうにかしないといけないと思いつつ。
ゆったり時間を過ごしたのだった。
それではおやすみなさい。
良い夢を。

