レディ・クロックの夏休み〜働き者の令嬢は、婚約破棄により「お休み」いたします?!〜

 アナベルと友人となり、付き合いが始まるとイーサンはますます彼女に惹かれた。
 思った以上に彼女は感情が豊か。人前では抑えることはあるが、屈託なく笑い、少し涙を浮かべて悔しがり、頬を大きく膨らませて怒る。
 負けず嫌いな性格で、出来ない事は目標を達成するまでとことん取り組む。同じく負けん気の強いポーラとは馬が合い、よく楽しそうに対決を繰り広げていた。
 周囲によくよく目を配り、困っている人には手を差し伸べ、相談事には自分ごとのように真摯に向き合う。底なしの優しさを持ち合わせながらも、他を虐げる者には守るため毅然としてはねつけ、困らせる者にはきっぱり意見を主張する強さもある。ただ断るだけでなく、きちんと代案も提案するところが流石である。
 家族を尊敬し、特に年の離れた妹2人は目に入れても痛くないと豪語するほど可愛がっている。あまり姉らしいことをしてあげていないと、悩みもしていたが、家にいる時はできるだけの時間を彼女たちと過ごすことに費やしていた。
 運動のセンスが抜群に良く、陸であろうと水中であろうと、どんな競技も上位の成績を収めていた。今は遠のいてしまったが昔習っていた馬術で金賞を取ったことも。
 凛としたその姿は、本当に頼もしく、また溢れる元気さに記憶が輝きを増す。

((かっこいい、かわいい、逞しい、美しいな))

 特別なことはない。思い返しても、1つ1つは当たり前の場面。それでも、積み重なっていく『好き』は止められない。
 日々元気に過ごせるばかりか、好きな人の隣で過ごせるありがたさ。両親が、お互いに隣に並ぶとふわふわと花を纏わせる理由がわかった。難しい道をわがままで一緒に歩ませてしまっているが、心から家族と使用人たちに感謝を送る。イーサンは当たり前の日々を、しみじみと噛み締める。

しかし。世の中は優しい世界ばかりではない。

 イーサンの世界がさらに広がったのは、中等3年生。まだアナベルの元婚約者であるロベールが、高等学校に在籍していた頃のこと。
 3階の教室から生徒会へと向かう最中で、中庭にロベールの姿を見つけた。誰かもう1人の影も見つけ、『アナベルもいるのか?』と目線をその横にいた人物に向けたイーサンは、我が目を疑った。
 ラッセル宰相の末娘。隣同士に座る距離、手の置かれた場所、囁き合う表情。友人のそれではない。
 ぞくり。イーサンの体は急に冷えていくのに、背中は滝のように変な汗が流れ止まらない。
 するとアナベルが現れた。待ち合わせしていたようで、ロベールは『遅いぞ!のろま』と彼女に詰め寄る。そしてアナベルを罵倒し始めた。令嬢も止めようとせず、後ろでぼんやりと眺めている。

 この世で最もおぞましい出来事が眼下で繰り広げられている。

 イーサンは駆け出した。本当からその場で名を呼びたかったが、大声を出せば誰か駆けつけるかもしれない。周囲にいる人が注目する。そうすれば、アナベルは明日から無駄に好機な目にさらされる。侯爵家と伯爵家。どうしても埋まらない身分の差が根付いている。

((それとも私は逃げたのか?))

 侯爵ならば、自分が間に入るならば。

((いや、いや、いや!))

 イーサンは被りを振る。今の自分の立場で関われば、もっとアナベルの立場を危うくさせるだけだ。
 1階に降り、迂回して中庭へ。古風な造りが好きな学園だが、この時はやけに鬱陶しく感じた。アナベルはすでにロベールとの会話を終わらせていた。俯きながら歩く彼女の前に滑り込んだ。彼女はぽかんとイーサンを見つめる。ここでイーサンは、自分の理由を全く考えていないことに頭がいく。どうしようかと考えあぐねていると、先にアナベルが『あ』と声を漏らした。
 そして口角を上げた。

『もしかして、見た?気分を害したでしょう?』

 その表情には精気が感じられなかった。真っ白な肌は青く見え、空よりも澄んだ色の瞳に暗闇が落ちている。

『あんなにイーサンに相談に乗ってもらったのに無駄にしちゃったわ。ごめんなさい』

 ようやくイーサンは合点がいった。アナベルがいつまでもパーティーで1人で食事を摂る理由。足早にどこかへ消える訳を。
 いや、すぐに分かったはずだ。ただ、都合よく考えていただけ。彼女と少しでも同じ時間を過ごせると、浮かれた自分が心底恨めしい。
 いつの間にか全てを感じないような表情を、恋焦がれる女性はするようになった。
 背筋からシクシクと冷たさは増し、脚が震えそうになる。イーサンは彼女に掛ける言葉が分からない。

『もう。なんで顔をしているの。私は大丈夫だから、生徒会室へ行きましょう』

 アナベルは横を通った。すれ違い様に彼女の腕を掴む。細い腕だ、あまりにも。思わず力が入ってしまい、慌てて手を離す。

『すまない…!痛かったね!』

『全然。痛くなかったわよ。結構力が強いのね。良かった』

 健康的になっている証拠ね、と。ゆるりと表情が緩んだ。
 あぁ。ロベール。ロベール、ロベール・ベルナルド!こんな優しい娘を、努力弛まぬ女性の何が不服だというのか。いや、違う。今はそうではない。イーサンは必死に何をすべきか考えて。

『ド、ドーナツ!』

 飛び出たのはターニャに渡された、新作のこと。沢山感想がほしいからと大量に渡されたお菓子。
 思っていなかった言葉に、アナベルは目を丸くしていた。

『生徒会メンバーで食べよう?久しぶりにゆっくりお茶してないし。今日は少し時間に余裕があるんじゃなかったかな?』

『…そうね。ニコルが息抜きしたいって話してたわね。教室にあるの?』

『…え?あ。3階の廊下だ』

 しまった。イーサンは持ってきていたはずの荷物を、全て置いてきたのを思い出した。己の失態に顔を覆う。ドーナツは無事だろうか。あぁ一体何をやっているのか。

『じゃあ生徒会までの途中にあるわね。一緒に行きましょう』

 肩を落とすイーサンを励まし、アナベルは歩き出す。イーサンはその横に並び、4階の生徒会室と、ドーナツを目指して歩く。
 幸いドーナツが入った箱は、すべての荷物の上に綺麗に乗っていた。形も崩れいない。よく箱を確認すれば形状維持と保冷の魔術が仕込まれていた。日頃世話になっている使用人たちの優秀さに、改めて舌を巻いた。



 ドーナツはとても美味しかった。
 生徒会メンバーにも大好評で。他の人には食事が大好きであることを伝えていないアナベルも、澄ましながら目を輝かせていた。
 アレキサンダーが持って来た茶葉で、甘味を楽しむ。
 渋みの薄い水色。仕事終わりのひと時。何て、充実した時間か。

(よかった。帰ったら、みんなにお礼と感想を伝えよう)

 笑顔と幸せをもたらしたドーナッツは、1つ残らず食べられ空っぽになった箱。これが何よりの答えになるに違いない。

(………あぁ、なんだ?)

 嬉しいのに。楽しいのに。
 お腹の辺りがジリジリと痛む。

 生徒会では普段通りに振る舞ったが、イーサンは迎えに来た馬車に乗った途端、頭から巨石で抑えられた感覚に襲われ全身が震える。脳裏にアナベルとロベールの場面が思い出されれば、胸を激しく掻きむしりたくなる衝動にかられ、己の体を抱きしめて防ぐしか方法が思いつかなかった。世界が揺れ始め、口の中に苦味が広がり気持ちが悪い。扱いきれない重たいものを抱いたまま屋敷に到着する頃にはすっかり疲れ果て、しかし頭はやけに冴えている。
 心配する使用人たちに強がる力はなく、イーサンは『少し休む』とだけ伝えると自室のベッドに倒れ込んだ。頭が、いや。

 体も心もバラバラだ。


✴︎


 夜が訪れ、明かりを付けていない部屋は暗闇に包まれる。静かに呼吸を繰り返すイーサンの耳に、扉をノックする音が届いた。
 蠢きながら、なんとか適当に応答すれば、父親のデービッドが緊張した面持ちで部屋に入っていた。

「…具合は悪いが、体調とは別みたいだな」

 もしや死にかけているのではないか。その不安があったデービッドであったが、昔に比べればまだ生きた顔色の息子に、懸念を払拭できたため安堵で息を吐いた。
 つい先ほど帰ってきたばかりであるが、屋敷中が落ち着かないでいる。部屋に篭り、ただならぬ様子のイーサンを心配してのことだ。

『干渉すぎるのも良くないでしょう?体の問題じゃなさそうだったから。だから、声をかけれなくて…。けど少し話をしてあげて。父親なら、話せることもあるかもしれないから』

 1番心配して、今にもドアを破って聞き出したいだろうに。本当に他人への慮りが絶妙だと、デービッドは己の伴侶へ何度目かの敬愛を抱いた。

「すみません…」

 イーサンは頭を下げたが、うな垂れるようになってしまった。父親が部屋に訪れたという事は、母や使用人たちは優しく見守ることにした証だ。また色んな人に心配をかけてしまった。後悔にも苛まれながら、イーサンは億劫に体を起こす。ベッドに座り、未だ思い胃の辺りを手で撫でる。
 細く長く息を吐く息子。デービッドはじっと見つめ、考えた。息子の様子がおかしくなること。学園、学友、アナベル。もしかして。

「ロベールとラッセル家の末娘のことかな」

 イーサンは、はっと顔を上げる。その顔は、驚愕と嫌悪で歪んでいる。
 予測が当たったデービッドは、静かに息子の隣に腰を下ろした。父親の温もりを感じ、少し落ち着きを取り戻したイーサンは、ぽつりぽつり、何があったのか話す。途中言葉に詰まり、苦しみながら。

「また1つ世界を知ったね。イーサン」

 父の静かな言葉には嫌味はない。確かに新しい世界を知った。だが、知りたくなかった。

「愛があるから。伴侶が許してくれるから。自分が満足できるから。寂しさを埋められるから。動物世界では良くある種を多く残したい欲求。それが浮気」

 貴族社会では普通らしい、と言って退ける父親にイーサンは絶句する。キャンベル家ではそんな話聞いたこともない。訴えれば、もちろん全ての家ではないよ、と訂正が入る。

「ロベールは、運命だと言ってましたが」

 喧しい大声で、そう宣っていた。ミシェルこそ、本当に結ばれる女神だと。思わず鼻で笑いたくなり、褒められた行為ではないとなんとか寸前で耐える。思えばロベールは、馬鹿にしたようによく鼻で笑っていた。

「いや愛人だよ。綺麗に表現しても浮気相手。悪くいえば発散相手、身代わり、都合のいい相手。愛の有無なんて関係ない。パートナーがいる身なら、どんな恋人も、愛人さ」

 ふつり。再びイーサンは熱で身体中が泡立つ感覚に襲われる。光が反射したように視界が爛々と白くなり目を擦ったが、視界が暗くなっても気持ち悪さで吐き気がする。
 デービッドも普段と違う息子の様子が気になる。どんな調子だと聞かれ、イーサンは体と心に起こっていることを話せば、デービッドは今度こそ確信を持って頷いた。

「怒っているんじゃないか?」

 そう言われ、イーサンは理解できず瞬きを繰り返した。

「怒りだな。………あぁ、そうか、初めてか。分からなくてしょうがない」

 怒り。まさか、これが。皆、こんなに大きく、持て余す感情を抱いているのか。
 デービッドは息子の背中を撫でる。振り回されている感情に、どう向き合うか。彼はその方法のアイデアを教えていく。

「恐れることはない。大切な、お前の姿の1つだ。まだ扱いが分からないだけ。そうだな…喚いても良いし、大きな声を出しても良いんだ」

「それは…嫌です」

 イーサンはすぐさま脳裏に、アナベルに詰め寄る彼の姿が。ああはなりたく無い。
 イーサンの思った考えを読み取った父親は、落ち着かせるよう何度も撫で、次の提案を出す。

「それを強みに変えて、目標に向かう力に変えてもいい。本当に持て余すなら、手放すのも、諦観するのも1つさ」

「てい、かん?」

 デービッドはゆっくり頷いた。

「怒るのは疲れる。だから人は怒り続けられない。どうしようもなければ、途中で放り出す」

「そして…どうなるのです?」

「なにも。表面上は何もないからね。穏やかな水面と変わらないよ」

たちまち想い人を思い出す。あの時、彼女の態度。
 
あれは、諦めていた。諦めて、どうでもよくなって、己も顧みていなかった。

 あぁ、どうすればよかったのだろう。彼女は諦めてしまった。感情の1つを、大切らしい怒りを、己自身を諦めた。声を上げれば良かったか。それともロベールに詰め寄るべきだったのか。
 イーサンは途方に暮れる。
 父の手の温もりが、遠い記憶を呼び起こしてくる。懐かしさで、ポロリと涙がこぼれた。
 温もりと、涙。繰り返しているうちに、怒りは大分小さくなったが、今度は情けなさと不甲斐なさとで項垂れてしまう。

「ゆっくり向き合っていけばいい。アナベルのことも」

「…はい」

 落ち着け、落ち着け。イーサンはアナベルから教えてもらった、深呼吸を繰り返す。先に息を吐く、そうすればより多く息を吸うことができる。
 父が話を聞いてくれたおかげで、気持ちも整ってきた。
 己の立場を冷静に見つめ直せる。イーサン・キャンベルは、アナベル・バーンズの友人だ。悔しくても、ロベールの婚約者である以上、その事実は変わらない。アナベルの邪魔をするのだけは、最も避けたい。
 だが、彼女がこのまま、自分をないがしろにし続けるのは間違っている。
 自分ができることはないか。お門違いであろうと、傲慢と言われようと、このまま放置していれば取り返しのつかないことになる。たとえ寄り添うばかりになろうと、考え続けようと心に決めた。

「…ありがとうございます。すみません。頼ってばかりで。おかげで、落ち着きました」

「気を使うんじゃない。それに年を食ったとて、出来ないことはあるし、無理なことはある。恥じることじゃない」

「はい…」

「明日から休みで良かった。寝れないなら、起きてていい。できれば夕食を食べた方がいいが…どうだ?」

 親愛なる料理人、アイザックが、さっぱり食べれる素麺を用意しているという。夏に落ちがちなイーサンの食欲を救ってくれた、古来極東の島で生まれた麺の一種。
 イーサンは、つるりとした喉越しと質感、冷涼感を思い出し、くすぶる感情が残る今、重くなく食べれるだろうと判断した。

「いただきます」

 寝れるか分からない。少しでも食べれば、気持ちはさらに落ち着くかもしれないとイーサンは夕食を摂ることにした。
 心配させた分、安心もさせたい。
 部屋に篭った原因について、母親には自分から説明するとイーサンが伝えると、デービッドは間を少し置いた後に何とも言えない表情を浮かべた。

「うんまぁ…今は刺激強いかもしれないが、いつ話しても同じだし。うん、一度噴火の怒りを見るのもいいか。あと、分かってると思うが我が家以外で話を広めないようにね」

 不思議なことを言い残して部屋を去ろうとした父に、イーサンは最後に気になっていることを問いかける。

「あの、アナベルとロベールの関係が改善することは」

「ないよ、ない。傲慢にも他が手を貸そうと、そんな未来は絶対にない」

 その断言はひどく冷たく、絶対的な実感があった。



 ラフな格好に着替えて、食堂に赴く。
 不安な色を浮かべた使用人らとレティシアに姿を見せれば、彼らは安堵の色を浮かべる。
 甘えているて分かっていても、彼らがいてくれてイーサンは幸せものだとしみじみ思う。恵まれている。愛されている。

 用意してくれた素麺は、つるりと胃に落ちていった。お気に入りのトマトと出汁の合わせで、きちんと1食分食べきった。

「ありがとう、今夜も美味しかったよ」

「もちろんですとも」

 アイザックの変わらない笑顔に、イーサンはまた1つ、気持ちが整った。




 その後。何があったかレティシアに伝えたところ。
 怒りが大噴火し、衝動のまま彼女は手の中にあった扇子を綺麗に折った。母の怒りにイーサンは度肝を抜かれ、父親が言う通り彼には刺激が強すぎたために朝まで寝ることができず、人生で初めて徹夜も経験した。そして母親が怒りを鎮めるために敷地内を何周も走り込む姿に、色んな怒り方があるのだとイーサンは学んだのだった。