レディ・クロックの夏休み〜働き者の令嬢は、婚約破棄により「お休み」いたします?!〜

『こんなこともできないのか』『できて当たり前だろ』『情けない』『これも出来ない…か』『貴女本当に可愛いわね』

『お前って何も出来ないんだな』

 幼いアナベルは顔を上げることが出来ずにいた。

『ごめんなさい。もっと頑張ります』

 この家では"できることは当たり前"。
 "できて当たり前"は"当然"だ。
 足らない事も、わからない事もたくさんある。訳がわからなくなって、泣きたくなることも多い。
 それでも、心を奮い立たせて進んできた。ここでめげてはいけない。もっと、もっと頑張らないと。

 アナベルは精一杯、走り出す。両手に教科書や課題、資料などを抱えて。

(もっと、もっと、もっと)
(あれができなきゃ、これもできなきゃ)
(はやく、もっと、たくさん)

 時間が足らない。もっと1日が欲しい。あっという間に過ぎていく。

 アナベルは立ち止まった。息を切らしながら、小さな身体は震えている。いつの間にか、両手で抱えているものは増えている。立ち止まっている間にも、だ。

(ダメだわ。どれか選ばないと)

 ただがむしゃらに毎日を過ごしてはダメだ。1日にできることは限られている。

 アナベルは、腕に抱えているものを広げた。そして選ぶ。1つずつ見極める。
 やるべきこと、必要なこと、すべきこと、出来ないといけないこと。家族のこと、友人のこと、学園のこと、先輩や後輩のこと。

 選んで、分けた。時計板と、パズルのように組み合わせながら。
 重要なことと、それら以外。
 予定に組み込まないといけないことと、それ以外。
 時間の区切りも明確にした。筋道は立てた。
 完璧だ。

 必要なものだけを抱え、アナベルは再び走り出す。

『アナベル!1位だ。優勝だよ!すごいすごい、すごいすごいすごい!』

 突然、イーサンが現れた。目をキラキラと輝かせ、彼の手の中にはアナベルが取った大会の優勝トロフィーが、大切に大切に抱きしめられている。
置いて行ったものなのに、どうしてイーサンが持っているのだろう。いや、そんなことより。アナベルは慌てて否定しようとした。ニコルとは僅差で勝っただけ。誰でも獲れる物だ。アナベルでなくても。

『勝ったんだから堂々としろ!私にも、馬にも失礼だ!』

 不意にニコルの声がした。真っ赤に顔を染め、怒る友の声だ。アナベルは慌てて口を閉じる。

『ねぇアナベル。私は"得意"や"出来ること"は言ったほうが嬉しいと考えているんだ』

 すこし低い男性の声が聞こえてきた。初めて聞くが、何故かイーサンの声だと分かる。

『歳を重ねると『できて当たり前』って考えがちだし、他の人と比べがちだけどさ。何かできるようになるとさ、心がワクワクする。口に出せば、本当なんだって実感できて嬉しくなるじゃないか』

『これはわがままだけど、アナベルからもっと『できた』って言葉が聞きたいな』

 気がつけば、目の前のイーサンは随分と背が高くなっていた。声も低い。知らない大人の姿だが、喜びに満ちた笑顔は変わらない。彼はトロフィーだけでなく、馬の小さなぬいぐるみも抱えていた。
 彼は何も言わず、ただアナベルを見つめていた。
 アナベルは何度も口を開けては、閉じた。足元を見つめ、スカートをキツく握りしめる。胸が苦しく、溺れそうな感覚に逃げ出したくなる。

 するとキラキラと胸元に光る物があった。
 ブローチであった。イーサンの瞳によく似た、美しい緑の宝石飾りに、アナベルの決意は固まった。

「そう、1位を獲ったの。好きな乗馬で、初めての大会で」

「私でも、できたの。できたのよ」


「私ね。すごく、すごく、嬉しかったの」







「ぽーら…?」

「はい、わたくしですよ」

 頬に何か温かいものが伝う感覚に、アナベルの意識は浮上した。重たい瞼を開けると、ぼやけた視界に誰かがいた。見慣れた髪型に、背丈からポーラだと思い名前を呼べば、のんびりとした声で返される。
 アナベルは身体を起こそうとしたが、とても重い。ベッドの上で四苦八苦していると、指先に何か硬いものが触れた。目を凝らして見えたのは、ブローチが入っている箱だ。

「いい子、いい子」

 ポーラの手がアナベルの頭に触れると、ゆっくり、丁寧に頭を撫でられる。
 アナベルは心地良さに、目を瞑った。優しい陽光の中、気持ちよさそうに眠る猫になった気分だ。微睡みに引っ張られていく。

「もう少し、おやすみなさいな。まだ起きるには早いですからね」

 優しい声に、アナベルは頷いた。箱を抱き、再びベッドに横になる。

「起きたら、むかーし食べてみたいと言っていた絵本のパンケーキでも焼いてもらいましょう」

すると寝具はパンケーキに変わった。ふかふかとした生地に挟まれ、甘い香りが漂う。

「おやすみなさい、アナベルおひいさま」


✴︎


「夢を見たんだけどね、貴方が出てきたの」

 アナベルとイーサンは、夏季休暇の課題に取り組んでいた。

 2日に1度の屋敷の日に加え、バーベキューや夜会への参加もあり、3日間は屋敷で過ごすことになった。

 朝食と身支度を済ませたアナベルとイーサンは、図書室の机に教材や書籍を広げ、黙々と課題に励んでいた。2人の付き添いにはポーラがおり、入り口に備えてある椅子に座り本を読み耽っている。
 紙に書く。ページを捲る。時々、小さな声で話が交わされるぐらいで、図書室は静かであったが、呟かれたアナベルの言葉によって静寂は破られることになった。

「……ぇ?」

「ちょっと…なんて声を出してるの」

 返ってきたイーサンの声がなんだか気が抜けて可愛らしく、アナベルはくすくすと笑う。

「いや、びっくりして。君の夢に、私が」

「そうなの。本当におかしな夢だったわ」

 彼女は覚えていることを話し始めた。

 幼い自分が大きい何かに潰されそうになったこと。
 必死に荷物を抱え、大きな時計に追われていたこと。
 途中、多すぎる荷物から必要な物を厳選すると、突然子供のイーサンが姿を現したこと。
 さらに子供時代のニコルや、成長したイーサンの声が聞こえてくること。
 ブローチに勇気をもらったこと。
 できたと話せたこと。
 へんてこな空間から部屋に戻ったと思えば、一面パンケーキへと変わり、カラスや子馬と跳ね回ってたこと。

 話せば話すほど、可笑しな夢だ。アナベルは笑いが止まらない。夢は過去の出来事を整理していると聞くが、どんな経験を出力したというのか。アナベルは不思議でたまらない。
 いつもなら6時半には目が覚めるアナベルだったが、今日は9時半までぐっすり熟睡した。寝過ぎたのか、夢のせいか。はたまたまだ眠いせいか、朝食にたくさんパンケーキを食べて糖分を摂取しても、勉強をしていても夢現な気分が抜けないでいた。
 おかげで夢の内容にも自信がない。
 しかしイーサンが現れた部分からはよく覚えている。夢の中、アナベルの『できた』に、イーサンは自分自身のことのように顔を輝かせた。

「嬉しかった。貴方が笑ったこともそうだけど、やっぱり自分にとっても。言う通り、もっと話した方がいいのね。気づかせてくれてありがとう、イーサン」

「君のためになったなら嬉しいよ。心の底から」

「ふふふ」

 またアナベルは笑いを漏らす。「あぁ、そういえば」とアナベルは話を続けた。

「ポーラに頭を撫でられたのよね」

「え」

「それは現実ですよ」

 ポーラは本を閉じ、アナベルと向き合う。

「メイドでも年寄りですからね。良い子がいれば頭を撫でますよ」

「ふふふ。ありがとう。あと起きたら腕の中にぬいぐるみがいたんだけど、もしかして貴女?」

「そうですとも。宝物いっぱい。ブローチにぬいぐるみ、朝のパンケーキも。おかげで良い1日を迎えましたでしょう?さすが私」

 腰に手を添え、ポーラは堂々と胸を張った。
 机に置いていたカラスと小馬のぬいぐるみが、ブローチの箱と共には腕の中にあった。寝ぼけて自ら取ったのかと思っていたが、ポーラの仕業だと分かり、アナベルはますます肩を揺らした。

 楽しげに話すアナベルとポーラ。その隣に座るイーサンは、衝撃に動けずにいた。いつも7時に起きるアナベルが、珍しく9時半まで寝、朝食にパンケーキを沢山頬張っている時からずっと上の空であった。いつもハツラツと動く姿も今日はゆったりとしている。様子の違いに使用人の中には「体調が悪いのではないか」と心配する声が上がったが、ポーラが諌めた。

『夢を引きずり寝ぼけて過ごすぐらい誰にでもあります。今は大丈夫。過度の心配はかえって毒になるから落ち着きなさい』

 魔術の才を持ち合わせているポーラは、中でも第六感が優れている。目に見えない問題にも真っ先に気が付いてきた。今は一線を退いているが、長年メイド長を努めていた彼女が言うならと、一同見守ることに場は収まった。

 イーサンには『本人が話すまでじっくりお待ちなさい』ともう1つアドバイスがあったため、彼はぐっと聞くのを我慢していたのだ。
 おかげでアナベルは包み隠さず夢の話をしてくれた。
 アナベルを捉えて離さない重みが、彼女をせき立てる夢。ポーラが、アナベルが喜びそうな事を行う必要性を感じた夢。
 まさか自分も登場するとは思っていなかった。どうやら夢の中の自分は、アナベルの気持ちを軽くしたようだが、今は素直に喜べない。そもそも夢を見た原因は、昨日の会話のせいかもしれないからだ。
 イーサンはキツく拳を握る。長く願ったアナベルと婚約できた今、自分が負担になることは絶対に避けたいのに。

 午後の練習の件も相まって、現実の自分の頼りなさにイーサンはひっそり項垂れた。