アナベルの起床時間が伸びた。朝の7時に目覚めた彼女は、ゆっくり身体を起こし、深呼吸をする。
(ほんとうにいい香り)
部屋に広がる香りが、毎朝アナベルの心を穏やかにしてくれる。今週はホワイトリリーのフレグランスだ。朝起きれば爽快、昼は気分を整え、夜は落ち着かせてくれる、1日どんな時も寄り添ってくれる。イーサンが立ち上げたブランドのオリジナル商品だ。彼の身に着けている香水も、このフレグランスもアナベルにはとても好ましい。
アナベルはベッドから降りると、カーテンを開けた。差し込む光が眩しい。朝の景色を眺めるのが、最近のルーティン。光を受けて輝く中庭から森林へと続く、青々とした自然。空は明るい水色が溶け、真っ白な綿を思わせる雲が浮かんでいる。その光景は、サッシのデザインと合わさって1枚の絵画のよう。
「今日は美術館に行こうか」
「…嬉しい、けどイーサン、その。体調は大丈夫なの?」
朝食で、美しい景色について話せばイーサンはそう提案してくれた。
寄り添ってくれる彼の心遣いは嬉しいが、連日外出が続き、日中の暑さもだいぶ重くなっている。毎日入浴時にマッサージしてもらっているため、疲れが翌日に持ち越すことはないが知らないうちに疲れは溜まっているものだ。慣れているアナベルはなにも感じないが、イーサンの体調は大丈夫だろうか。
心配を口にすれば、彼は「すこぶる具合がいい」と言い切った。
「おかげで本当に丈夫になってるから安心して。最近は滅多に身体を壊さないし。無理な時は、きちんと伝えるようにしているから」
レティシアもアナベルにしっかりと応える。周囲の使用人も大きく頷き、安心したアナベルは胸を撫で下ろした。
「こうやって君と出かけられるんだ。楽しくてしょうがないよ」
イーサンが柔らかく微笑んだ。アナベルは照れ臭さのあまり、頬を真っ赤に染めた。
今日はクラシックデザインで、少しフォーマルに決めた2人。準備を整え、早速美術館に向かった。
保養地区と隣地区との間に、大きな美術館がある。常設展と企画展がある。企画展では俳優の人体を構成する優美な線と情緒的な背景が織りなす美しい作風は、誰もを虜にしている、有名なポスター画家の展示が今季注目をかっさらっている。今人気を博している劇のポスターも彼が手掛けているため、話題絶好調の人気の画家の展示に、夏休みも相まって美術館はひどく混雑していた。
「ごめん。ゆっくり見られなかったね」
1時間ほどで展示場内を見終わってしまい、イーサンは肩を落とす。想像以上の人混みに絵をじっくり見ることはできなかったのだ。人波に沿って、流れるように鑑賞するのが精一杯。期待していた分、落ち込みも大きかったようだ。
「貴方が謝ることではないわ。人気がある画家の作品を見れたのだし、満足している」
「それでもなぁ…」
それでも納得のいかないイーサンは、腕を組み首を傾げる。確かに作品を観れたとはいえ、気持ち的には不完全燃焼だ。せっかく今朝アナベルが話題に上げてくれたのだから、もっと存分に絵に浸かりたい。
「うん。街の画廊はどうかな?」
保養地区北側には、画廊が集まっている通りがある。イーサンの友人が経営している画廊で、イーサンの友人の画家の個展が丁度開かれている。
「それってキャンベル家に作品の貸し出しをしているって言う画廊?」
「そう」
キャンベル家に飾られている絵画は、その画廊から季節や催しに合った作品を借りている。サイドハウス・ノアでは、夏を迎えてから海や湖といった水辺の絵を専門に描く画家の作品を飾っている。秋を迎えたら、管理人であるポーラが画廊のオーナーと相談し、作品を変えるのだ。
「お世話になってる画廊だし、紹介したい友人たちもいる。癖は強いけどね。アナベルも彼らとすぐ打ち解けると思う」
「ぜひ行ってみたいわ」
アナベルが賛同し、イーサンは明るい笑顔を取り戻した。
本当は別日にゆっくりと時間を設け、友人たちとアナベルを引き合わせる予定だった。画家の彼からはほぼ毎日催促の手紙が届いていたので、友人らの仕事を十分に魅せる事ができる今日、会えるのは僥倖と言っていい。
新たな目的を決めた2人。先にランチを摂ることにしたが、美術館に併設されているレストランやカフェにも人は集まり、行列ができていた。
街で店を探すことにしたアナベルとイーサンは、意気揚々と馬車へ乗り込んだのだった。
✴︎
料理人から勧められていた、香辛料をふんだんに使ったレストランでランチタイム。香りと食材が織りなす刺激に、脳が体のあちこちに反応を示させた。新しい感覚を楽しんだアナベルとイーサンは、メイン通りから少し奥まった路地へ入る。一転、濃い影に覆われた狭い路地が現れた。壁の窓からポツポツと部屋からの明かりが漏れ、星が瞬く夜空のようだが、見上げると夏空が広がっている。まるで夜と昼に世界が分たれたよう。
イーサンと出かけると、普段の街が未知の世界へ様変わりする。アナベルは導かれるまま、歩む。
「1人ではこないでね。まあ護衛もいるし、基本的に安全なエリアだけど客を狙う輩もいないわけじゃないから」
アナベルは大きく頷く。流石にそこまで無謀ではない。イーサンが隣にいるからこそ、アナベルは安心して新しい場所へ繰り出せるのだから。それにどこかから見守ってくれている影の護衛も、心強い。
進んでいくと、ぽつり、ぽつりと大きな扉が現れた。全て画廊だとイーサンが説明する。下げられている看板から、真っ当な店だと察することができるがどこか妖しさが漂う。好奇心に一抹の恐怖が入り混じり、胸がドキドキする。
イーサンは数ある扉から、銅板の看板が掛かった木の扉を開けた。
暗い路地に、明かりが差す。
アナベルは眩しさに目を細めた。
目を開けるとそこには、鮮やかな色彩が並ぶアート作品が展示されていた。目が慣れずチカチカと痛むが、同時に綺麗で美しく感じる。
夏にふさわしい柔らかな生地のスーツがよく似合っているメガネをかけた30半ばの男性が現れ、アナベルとイーサンを出迎えた。
「こんにちは、マンフレッド」
「やぁイーサン。よく来てくれたね」
挨拶を交わすと、イーサンはアナベルと男性を引き合わせる。男性こそ画廊のオーナーであり、イーサンと10年以上の付き合いがある友人の1人であった。
「イーサンからお話は伺っていました。お屋敷に伺うたび、違う絵画を見ることができ、いつも楽しみにしています」
アナベルの言葉に、マンフレッドは柔らかく微笑んだ。キャンベル家に飾られる作品は、彼が要望に沿う作家を提案している。
「そう!理解のある友人とご家族に、多くの者たちが救われているのです」
突然、声が響き渡る。
2階から悠々と降りてくる青年がいた。さながら主役を演じる舞台役者のように、自信に満ち溢れた笑顔を浮かべ階段を降りてくる。「あまり大きな声をださないように」とオーナーから注意を受け、大袈裟に肩をすくめた。
「いたんだ」
「誰の展示会だと思ってる。知ってるくせにお前は」
不敵に笑い、イーサンの肩を抱く青年。「また変な絡み方をする…」とマンフレッドは眉間を抑えているが、イーサンはコロコロと笑っている。
青年はアナベルの前に立つと、恭しく頭を下げた。
「彼がこの個展の作家、フローリスだ。アナベル」
「はじめまして。これからはどうぞよろしくお願いします”レディ・クロック"」
アナベルは目を丸くした。フローリスはいたずらが成功した猫のように目を細める。
「私のことをご存知で?」
「たまに中央の皆様にお呼ばれされる時もありますから」
(なるほど)
才能あふれる若者を集め、サロンを開く貴族や資産家がいる。
アナベルもベルナルド侯爵やロベールの兄夫妻に付き添い、何度か参加したことがある。
新しい才能に出会える貴重な場ではあるが、妙な熱っぽさもありアナベルには苦手な催しの1つだ。それでも、一度でも会ったことがあれば見覚えがあるはずだが、記憶にはない。
つまりどこかで”レディ・クロック"の話を聞いたということだ。あだ名で呼んだと言うことは『あちらこちらで色んな話を聞いている』と暗に伝えている訳である。自分のあだ名は気に入っているが、悪い意味で話が上がっていることもアナベルはよくよく知っていた。
すると、フローリスは表情を和らげた。
「だが…やはりイーサンから聞いていた話が正しい。美しく、逞しい女性のようだ。お会いできて光栄です。是非ともイーサンだけでなく、私ともご贔屓に…」
「こら。人の婚約者を口説かないでくれ」
「んふふふふふ。これは首っ丈だなぁ。えぇ?安心しろ、俺は人の婚約者を取る下衆じゃない」
アナベルは思わず苦笑を浮かべる。イーサンがアナベルについてどう紹介したのか気になる上、誰かを指し示す物言いに上手な反応ができない。
なかなか肝が据わった画家だ。イーサンに『癖が強い』と紹介されるだけはある。画廊のオーナーが大袈裟に咳払いをした。眼鏡の奥から鋭く睨まれ、若き画家は姿勢を正した。
「ま、雑談はこれぐらいに。それではご自由にご覧ください」
厳しい視線を送られ肩を竦めると、フローリスは改めて頭を下げ、踵を返し階段を上っていく。
「折角なら説明とかしないのかい?」
「しないしない。好きに見て、感じてくれ。絵を通して自分と向き合ってくれ」
「だが!」と踊り場で振り返る。天井高い空間でその声が大きく響き渡り、舞台のワンシーンのようだ。
「イーサン、お前は後で絶対に来いよ!アナベル嬢もよろしければ是非3階にお越しください。絵を描いておりますので」
アナベルに笑顔を向けつつ、イーサンに「絶対だからな!」と強く念を押したフローリスは、2階に消えていった。
すかさず、建物の3階からは作家たちのアトリエになっており、今はそこで絵を描いている、とマンフレッドが説明を加えた。
「本当に強い方ね、色々と」
「………気に障った?」
「まさか!はっきり言ってくれる分、気が楽だわ。それに貴方が紹介する人だもの。いい人なのでしょう?」
長年の付き合いの中でアナベルが嫌がることをイーサンにされたことがない。アナベルが不快に感じる相手ならば、友人であっても会わせないだろう。つまり、今まで紹介してくれた人達はイーサン太鼓判の良い人達と言う訳だ。
アナベルの評価に、マンフレッドはイーサンに温かい笑みを向ける。
「仲が良さそうで安心したよ」
「…うん。おかげさまで」
イーサンは天井を見上げた。その目線の先には、おそらく友人のアトリエがあるに違いない。
「呼び出されちゃったから後で行かないと。拗ねるといつまでも引きずるから。アナベルは?」
「あとで是非」
まずは作品を堪能したい。レティシアがアナベルによく語っていた画家である。王都の屋敷に飾られていたこともあり、ポストカードや画集には目を通していたが、画廊で観る実物はまた貴重な経験だ。アナベルは1点ずつ、ゆっくり作品を見て回ることにした。
作品を一巡りしたイーサンは、先にフローリスの元へ行った。アナベルは作品の中でも背丈ほどある大きな絵を、椅子に座りながら眺める。
『画面いっぱいに繰り広げられる鮮やかな色彩が特徴的で、見ていて元気が出るのよ』
レティシアの言葉が思い出される。
実物が沢山並ぶ展示場ではまた印象が違う。美しいだけでなく、より強く、輝きが増している。
「綺麗…」
有名な画家の作品にももちろん興味はそそられるが、新しい作家や作品との出会いも得難い。イーサンの誘いに乗って良かったと、アナベルは充実感を抱いていた。
心が満たされたアナベルは、3階のアトリエに向かうことにした。マンフレッドに部屋までの行き方を尋ねれば、彼は案内を申し出た。アナベルは後をついていきながら、気になっていたことを質問する。
「フローリスさんが先程『イーサンから聞いた通り』と話をしていましたが、イーサンは私について何か話されていたのですか?」
「…あぁ!手紙や会った時に伺っていましたよ」
『乗馬がすごく得意で騎士団長の娘に勝ったことがある』『いつでも人当たりが良い』『周りをよく見ている』『上の立場であろうと、臆せず意見を言える』『家族想い』『負けず嫌い』
『まっすぐで、できることさえも努力を怠らない。尊敬できる女性なんだ』
「…イーサンったら」
今まで語られたアナベルについて、マンフレッドが振り返る。アナベルはその過大評価に顔を赤くした。イーサンが言うほどではない。後で間違いを伝えないよう念押ししなければ。
「大したことありません」
「僕はそう思いません。なにより、イーサンこそ思っていない」
マンフレッドの返答に、アナベルは思わず足を止めた。立ち止まったマンフレッドは、曇りのない笑顔を浮かべている。
「思えば沢山お話は伺っていましたね。それでも彼が貴女に恋慕を抱いていたことは存じ上げませんでしたが。婚約を結んだと手紙で知らされた時は、驚きのあまり思考が止まりました」
アナベルは黙って頷いた。アナベル自身、告白された時は思考が止まった。しかしこの数日間、一緒に過ごす間にイーサンの気持ちが嘘でないことは痛感している。幼少期から交流があるマンフレッドたちにすら気づかせなかったのだから、日頃から徹底して気を付けていたのだろう。
「婚約相手がアナベル様だと知り、イーサンが今まで沈黙を貫いた理由が分かりました。好きな人であろうと、相手がいる以上迷惑になるだけです。あいつは想いをそのまま墓場まで持っていったでしょう」
(…ぁ)
「今頃、フローリスから根掘り葉掘り聞かれているでしょうね。手紙が届いてから落ち着かなくて…アナベル様?」
「あ、いえ。何でもありません」
首を振るも、アナベルは当たり前の事実を忘れかけていたことに内心動揺していた。
婚約解消がされなければ、イーサンはアナベルに告白すらしなかった。
『なによりね、アナベル。息子が幼い頃から慕っていた貴女だから。一途に想い続けて、他の令嬢とは結婚はしない、とまで決めた息子の想いを叶えたいの。申し訳ないけど、貴女の不幸を利用しようとね』
レティシア夫人の言葉が思い返される。イーサンは独身を貫くつもりだった。1人息子にも関わらず、侯爵夫妻も、彼の祖父母も使用人たちも。キャンベル家、さらには関わっていた者たち全てが容認していたことになる。背中に冷たい汗が流れる。
(もし)
アナベルとロベールが婚約解消しなければ、彼らの未来はどうなっていたのだろうか。
「さすがに執念がすぎる!家族ぐるみって…末代までストーカー一家だと言われても文句言えないぞ!!!」
またもや突然声が響き渡り、アナベルは我に帰った。反論するイーサンの声も聞こえてくる。
マンフレッドが手招く部屋に入る。画材の匂いが充満し、床や壁には顔料がこびり付いている。あちらこちらに道具やパネル、異国の雑貨類が沢山置かれているが、想像よりも広々とした部屋だ。
その真ん中で、イーサンは両頬を指で摘まれていた。
「アナベル嬢、よく重い男の求婚をよく受け入れましたね!」
フローリスの声が部屋中に響き渡る。マンフレッドに落ち着くよう注意されるも興奮が止む気配はない。むしろ話の主役が2人揃った事で、ますます高揚している。
「お前な…容姿、家柄、性格、能力。ほとんど叶っている侯爵家の子息だぞ。僕だって選ぶさ。足りないのは筋肉ぐらいさ」
「確かに筋肉は足らん。そんな事より、そうなるよう努めてきたのが狂気なんだって!そもそもコイツ…!10年近くアナベル嬢を思い続けてるくせにおくびにもださず、友人として接してきたんだぞ!怖過ぎじゃないか?」
「そう言ってやるな。元々、気づいたら仲良くなってる系青年だろ?それでも他の貴族に比べれば最強格だ」
「まぁ成人過ぎて未婚、または後妻を求める貴族なんて大抵訳ありだ。それでもまさかお前が…あぁ!なぜ気づかなかったのか!惜しい!酷くいじれただろうに…」
「君たち散々言うね!!」
イーサンは叫ぶように声をあげた。自分のことではあるが、改めて突かれれば心中は複雑な模様。涼しい顔を浮かべる友人が、羞恥に耐える姿にマンフレッドもいたずら心が沸く。
「うーん…。今日は自重しようと思ってたんだが。色々と聞きたくなってきた」
「後で共有してやるさ!図説もしてやろう!!」
「本人の口から聞くのが1番面白いんだ。お前では誇張しかねないし」
「劇語りにしてやるよ。なら役者もつけるか」
「もう!アナベルが来たんだから画材とか見せてあげてよ」
次々と軽口を交わす3人の様子に、アナベルは珍獣を発見した研究者の気持ちになっていた。イーサンが感情のままに接する姿も貴重だが、特にフローリス。勢いが人間の姿で歩いていると言われた方が納得できる。マンフレッドも静かな方だと思っていたが、フローリスに引けを取らない。『癖が強い』とイーサンは紹介したが、かなりオブラートに包んだ表現である。
そんな彼らを見ていると、アナベルは自然と笑顔が浮かぶ。
3人の勢いに吹き飛ばされ、心のモヤは少し薄くなった。
その後、仕事があるマンフレッドが画廊に戻ると、画家の興味はアナベルにも向けられた。騒々しさは落ち着かなかったが、それでもフローリスは画材の使い方や、絵の描き方などをしっかり教えてくれた。絶えず話し続ける彼の肺活量と興味関心に感服する。
気がつけば窓から差し込む陽光が、影の色を濃く染め始めていた。
そろそろサイドハウス・ノアに戻る時間だ。
3人はギャラリーに戻る。最後にもう一度絵を鑑賞しようと、アナベルは部屋を見渡す。
「あら?」
「どうかした?」
「なんだか…3階の部屋と広さが違うように感じて」
「よくお気づきで」
マンフレッドは声を潜める。3人は体を少し寄せて、耳を澄ませる。
「実は隠し通路がありまして。3階以上はアトリエ部屋へ造り替えた際に、隠し通路は壊してしまったのですが。戦時中、地下防へ室内から逃げれるように作られたのが始まりなのですが、用途は地下への逃げ道や、財貨を運び出す隠し通路。ここ一帯は全て隠し通路有りの造りになっています。開発が進んでいる商業地区。戦後に建てられた建築物には備えられていないものが増えていますね」
やけに部屋に広さを感じた原因が判明した
アナベルはこくこくと顔を縦に振る。隠し通路。推理小説や冒険譚でしか馴染みのない単語に、心が沸き立つ。サイドハウス・ノアはどうだろう。ちらりとイーサンを見れば、天井を仰ぎ見ながら考えている。アナベルと目が合い、首を傾げた。
「帰ったら母さんに聞いてみようか」
「そうね」
イーサンがひっそり聞くので、アナベルも囁き返す。
「いや、何でつぶやくんだよ?」
そう言うフローリスの声も小さい。4人は肩を揺らした。
レティシア夫人への土産だ、と薄く大きな箱を渡された。大きなリボンが掛けられた贈り物を脇に抱えて、別れの挨拶を交わす。マンフレッドとフローリスは姿勢を正すと、軽く頭を下げた。
「アナベル嬢、イーサン。この度はご婚姻おめでとうございます」
「ぜひまたお会いいたしましょう」
「ありがとうございます。こちらこそ、これからよろしくお願いします」
2人に見送られ、アナベルとイーサンは画廊を後にした。
「画廊のオーナーと…マンフレッドと何を話したの?」
帰りの馬車の中、イーサンは友人の発言が気になっていた。
『足らないのは筋肉ぐらいさ』
イーサンは同世代と比べると背は高いが、筋肉が足りない、また付きにくい体質であった。さらに運動センスは良くない。時にフローリスすら口をつぐむレベルである。イーサン自身いっそ笑って欲しい話題で、親しい人たちには自虐ネタに上げることがある。「反応がしづらい」と言われるが、長く付き合いのある彼らは状況によって乗る場合がある。
マンフレッドはノリは良いが、いたずらに他人をいじる発言をする性格ではない。何かアナベルと話したのではないかと思ったのだ。
「フローリスさんがイーサンから私のことを聞いたって話をしていたから。そうだ貴方ってば私のこと盛って話して……」
「盛って?嘘を言ったことはない」
イーサンは頑として撤回せず、アナベルは口を尖らせた。
『いつでも人当たりが良い』『周りをよく見ている』『上の立場であろうと、臆せず意見を言える』『家族になって想い』『負けず嫌い』『空色の瞳と、髪が美しい』
「別に言うほどのことじゃないわ。誰もがやる…大したことないもの。特に最後」
(なんてことか)
イーサンは頭を抱えたくなったが、アナベルの前だ。グッと我慢する。
アナベルは謙遜が過ぎる一面がある。ベルナルド家の完璧・完全主義はアナベルの自己肯定感に大きく影響しているのだ。長く器用な元婚約者とその一家の中で過ごす内、努力しなければいけない自分を下に見るようになってしまった。自分ができるなら、他の人もできて当たり前だと、強く強く思い込んでいる。
個人的な相談をするほど信頼しているイーサンの言葉すら、受け付けなくなるほどに。
「そんなことないよ。私はきちんとアナベルを正確に現した。だからフローリスだって私の言う通りだと。…それに、君の美しい髪は令嬢たちの間では羨ましがられているんだよ?」
「…聞いたことありません」
アナベルは姿勢を正し、イーサンをまっすぐ見据えている。彼女も頑として認めようとしない。
イーサンは頬を少し膨らませた。実際、アナベルには令嬢ファンがいる。イーサンの友人の妹もその1人だ。だが陰ながら応援する令嬢たちばかりで、アナベルは気づいていない。
「君のファンは奥ゆかしい人たちが多いんだ。それに、君が大したことないなんて言ったらニコルはどんな顔をするのか」
「うっ」
生徒会長であるニコルとアナベルが出会ったのは、12歳の時。彼女が参加した馬の障害物競技会。子供部門で参加し、僅差でアナベルが1位を獲得した。アナベルは当時から謙遜していたが、敗れ悔しさに泣いていたニコルに怒られたことがあった。
『勝ったんだから堂々としろ!私にも、馬にも失礼だ!』
今でもアナベルの自己評価を下げるような態度は改めるよう言う時があるぐらいだ。そんなニコルが、先程のアナベルの発言を聞けば烈火の如く怒り出したに違いない。
ニコルの名を出せば、案の定アナベルは呻いた。
「それはまた話が違うわ…」
「違わないよ」
アナベルはモゴモゴと口ごもる。勢いが削がれ、明るい青色の瞳は自信なげに伏せてしまった。
(やり過ぎた)
イーサンはアナベルの顔を覗き込む。手元を見ていた瞳はゆっくりと上がり、イーサンに向けられた。
「ねぇアナベル。私は"得意"や"出来ること"は言ったほうが嬉しいと考えているんだ」
「嬉しい…?」
「歳を重ねると『できて当たり前』って考えがちだし、他の人と比べがちだけどさ。何かできるようになるとさ、心がワクワクする。口に出せば、本当なんだって実感できて嬉しくなるじゃないか」
イーサンはにっこり笑う。
「これはわがままだけど、アナベルからもっと『できた』っ言葉が聞きたいな」
「…子供みたい」
唇を尖らせ拗ねる想い人に、イーサンは言葉を重ねる。
「歴史から見れば誰だって赤ん坊だよ。私なんていまだに朝きちんと起きれて褒められる時あるからね」
「…反応に困るわ、その例は」
「……笑い話なんだけどなぁ」
上手く話を締めることができなかった。
イーサンは頬を掻く。車内の雰囲気が一気に和らぎ、アナベルはたまらずといった風に息を吐き出す。彼女はそのまま窓に目を向けた。外は日が傾き、黄金の空と青々とした森が広がっている。強い日差しが差し込み、イーサンは目を細めた。
「…けど、そうね。そっちの方が、楽しいかも」
アナベルがポツリと呟いた。まだ完全に腑に落ちていないのがありありと見て取れるが、彼女自身、今の話に思うところがあったよう。ムキになり過ぎたとイーサンは反省する。今後はもっと慎重に、言葉と状況を判断しようと心に決める。
「うん。楽しいよ」
イーサンの返答に、彼女はようやく微笑んだ。
フローリスより渡されたレティシア夫人へのプレゼントは、アナベルとイーサンの絵であった。横に並ぶ2人は、満面な笑みを浮かべ、見ている者を自然と笑顔にさせる力があった。
確かに部屋の中は絵の具と油の匂いがしたが…いつの間に描いていたのか。全く見当がつかず、絵の主役になった2人は顔を見合わせた。
「サイコーォ!」
推しの画家が描いた、愛する息子と義理娘。サイドハウス・ノア中にレティシアの声は響き渡り、祝い事かと勘違いした料理人たちが張り切った夕食はまた豪勢なものであった。
(ほんとうにいい香り)
部屋に広がる香りが、毎朝アナベルの心を穏やかにしてくれる。今週はホワイトリリーのフレグランスだ。朝起きれば爽快、昼は気分を整え、夜は落ち着かせてくれる、1日どんな時も寄り添ってくれる。イーサンが立ち上げたブランドのオリジナル商品だ。彼の身に着けている香水も、このフレグランスもアナベルにはとても好ましい。
アナベルはベッドから降りると、カーテンを開けた。差し込む光が眩しい。朝の景色を眺めるのが、最近のルーティン。光を受けて輝く中庭から森林へと続く、青々とした自然。空は明るい水色が溶け、真っ白な綿を思わせる雲が浮かんでいる。その光景は、サッシのデザインと合わさって1枚の絵画のよう。
「今日は美術館に行こうか」
「…嬉しい、けどイーサン、その。体調は大丈夫なの?」
朝食で、美しい景色について話せばイーサンはそう提案してくれた。
寄り添ってくれる彼の心遣いは嬉しいが、連日外出が続き、日中の暑さもだいぶ重くなっている。毎日入浴時にマッサージしてもらっているため、疲れが翌日に持ち越すことはないが知らないうちに疲れは溜まっているものだ。慣れているアナベルはなにも感じないが、イーサンの体調は大丈夫だろうか。
心配を口にすれば、彼は「すこぶる具合がいい」と言い切った。
「おかげで本当に丈夫になってるから安心して。最近は滅多に身体を壊さないし。無理な時は、きちんと伝えるようにしているから」
レティシアもアナベルにしっかりと応える。周囲の使用人も大きく頷き、安心したアナベルは胸を撫で下ろした。
「こうやって君と出かけられるんだ。楽しくてしょうがないよ」
イーサンが柔らかく微笑んだ。アナベルは照れ臭さのあまり、頬を真っ赤に染めた。
今日はクラシックデザインで、少しフォーマルに決めた2人。準備を整え、早速美術館に向かった。
保養地区と隣地区との間に、大きな美術館がある。常設展と企画展がある。企画展では俳優の人体を構成する優美な線と情緒的な背景が織りなす美しい作風は、誰もを虜にしている、有名なポスター画家の展示が今季注目をかっさらっている。今人気を博している劇のポスターも彼が手掛けているため、話題絶好調の人気の画家の展示に、夏休みも相まって美術館はひどく混雑していた。
「ごめん。ゆっくり見られなかったね」
1時間ほどで展示場内を見終わってしまい、イーサンは肩を落とす。想像以上の人混みに絵をじっくり見ることはできなかったのだ。人波に沿って、流れるように鑑賞するのが精一杯。期待していた分、落ち込みも大きかったようだ。
「貴方が謝ることではないわ。人気がある画家の作品を見れたのだし、満足している」
「それでもなぁ…」
それでも納得のいかないイーサンは、腕を組み首を傾げる。確かに作品を観れたとはいえ、気持ち的には不完全燃焼だ。せっかく今朝アナベルが話題に上げてくれたのだから、もっと存分に絵に浸かりたい。
「うん。街の画廊はどうかな?」
保養地区北側には、画廊が集まっている通りがある。イーサンの友人が経営している画廊で、イーサンの友人の画家の個展が丁度開かれている。
「それってキャンベル家に作品の貸し出しをしているって言う画廊?」
「そう」
キャンベル家に飾られている絵画は、その画廊から季節や催しに合った作品を借りている。サイドハウス・ノアでは、夏を迎えてから海や湖といった水辺の絵を専門に描く画家の作品を飾っている。秋を迎えたら、管理人であるポーラが画廊のオーナーと相談し、作品を変えるのだ。
「お世話になってる画廊だし、紹介したい友人たちもいる。癖は強いけどね。アナベルも彼らとすぐ打ち解けると思う」
「ぜひ行ってみたいわ」
アナベルが賛同し、イーサンは明るい笑顔を取り戻した。
本当は別日にゆっくりと時間を設け、友人たちとアナベルを引き合わせる予定だった。画家の彼からはほぼ毎日催促の手紙が届いていたので、友人らの仕事を十分に魅せる事ができる今日、会えるのは僥倖と言っていい。
新たな目的を決めた2人。先にランチを摂ることにしたが、美術館に併設されているレストランやカフェにも人は集まり、行列ができていた。
街で店を探すことにしたアナベルとイーサンは、意気揚々と馬車へ乗り込んだのだった。
✴︎
料理人から勧められていた、香辛料をふんだんに使ったレストランでランチタイム。香りと食材が織りなす刺激に、脳が体のあちこちに反応を示させた。新しい感覚を楽しんだアナベルとイーサンは、メイン通りから少し奥まった路地へ入る。一転、濃い影に覆われた狭い路地が現れた。壁の窓からポツポツと部屋からの明かりが漏れ、星が瞬く夜空のようだが、見上げると夏空が広がっている。まるで夜と昼に世界が分たれたよう。
イーサンと出かけると、普段の街が未知の世界へ様変わりする。アナベルは導かれるまま、歩む。
「1人ではこないでね。まあ護衛もいるし、基本的に安全なエリアだけど客を狙う輩もいないわけじゃないから」
アナベルは大きく頷く。流石にそこまで無謀ではない。イーサンが隣にいるからこそ、アナベルは安心して新しい場所へ繰り出せるのだから。それにどこかから見守ってくれている影の護衛も、心強い。
進んでいくと、ぽつり、ぽつりと大きな扉が現れた。全て画廊だとイーサンが説明する。下げられている看板から、真っ当な店だと察することができるがどこか妖しさが漂う。好奇心に一抹の恐怖が入り混じり、胸がドキドキする。
イーサンは数ある扉から、銅板の看板が掛かった木の扉を開けた。
暗い路地に、明かりが差す。
アナベルは眩しさに目を細めた。
目を開けるとそこには、鮮やかな色彩が並ぶアート作品が展示されていた。目が慣れずチカチカと痛むが、同時に綺麗で美しく感じる。
夏にふさわしい柔らかな生地のスーツがよく似合っているメガネをかけた30半ばの男性が現れ、アナベルとイーサンを出迎えた。
「こんにちは、マンフレッド」
「やぁイーサン。よく来てくれたね」
挨拶を交わすと、イーサンはアナベルと男性を引き合わせる。男性こそ画廊のオーナーであり、イーサンと10年以上の付き合いがある友人の1人であった。
「イーサンからお話は伺っていました。お屋敷に伺うたび、違う絵画を見ることができ、いつも楽しみにしています」
アナベルの言葉に、マンフレッドは柔らかく微笑んだ。キャンベル家に飾られる作品は、彼が要望に沿う作家を提案している。
「そう!理解のある友人とご家族に、多くの者たちが救われているのです」
突然、声が響き渡る。
2階から悠々と降りてくる青年がいた。さながら主役を演じる舞台役者のように、自信に満ち溢れた笑顔を浮かべ階段を降りてくる。「あまり大きな声をださないように」とオーナーから注意を受け、大袈裟に肩をすくめた。
「いたんだ」
「誰の展示会だと思ってる。知ってるくせにお前は」
不敵に笑い、イーサンの肩を抱く青年。「また変な絡み方をする…」とマンフレッドは眉間を抑えているが、イーサンはコロコロと笑っている。
青年はアナベルの前に立つと、恭しく頭を下げた。
「彼がこの個展の作家、フローリスだ。アナベル」
「はじめまして。これからはどうぞよろしくお願いします”レディ・クロック"」
アナベルは目を丸くした。フローリスはいたずらが成功した猫のように目を細める。
「私のことをご存知で?」
「たまに中央の皆様にお呼ばれされる時もありますから」
(なるほど)
才能あふれる若者を集め、サロンを開く貴族や資産家がいる。
アナベルもベルナルド侯爵やロベールの兄夫妻に付き添い、何度か参加したことがある。
新しい才能に出会える貴重な場ではあるが、妙な熱っぽさもありアナベルには苦手な催しの1つだ。それでも、一度でも会ったことがあれば見覚えがあるはずだが、記憶にはない。
つまりどこかで”レディ・クロック"の話を聞いたということだ。あだ名で呼んだと言うことは『あちらこちらで色んな話を聞いている』と暗に伝えている訳である。自分のあだ名は気に入っているが、悪い意味で話が上がっていることもアナベルはよくよく知っていた。
すると、フローリスは表情を和らげた。
「だが…やはりイーサンから聞いていた話が正しい。美しく、逞しい女性のようだ。お会いできて光栄です。是非ともイーサンだけでなく、私ともご贔屓に…」
「こら。人の婚約者を口説かないでくれ」
「んふふふふふ。これは首っ丈だなぁ。えぇ?安心しろ、俺は人の婚約者を取る下衆じゃない」
アナベルは思わず苦笑を浮かべる。イーサンがアナベルについてどう紹介したのか気になる上、誰かを指し示す物言いに上手な反応ができない。
なかなか肝が据わった画家だ。イーサンに『癖が強い』と紹介されるだけはある。画廊のオーナーが大袈裟に咳払いをした。眼鏡の奥から鋭く睨まれ、若き画家は姿勢を正した。
「ま、雑談はこれぐらいに。それではご自由にご覧ください」
厳しい視線を送られ肩を竦めると、フローリスは改めて頭を下げ、踵を返し階段を上っていく。
「折角なら説明とかしないのかい?」
「しないしない。好きに見て、感じてくれ。絵を通して自分と向き合ってくれ」
「だが!」と踊り場で振り返る。天井高い空間でその声が大きく響き渡り、舞台のワンシーンのようだ。
「イーサン、お前は後で絶対に来いよ!アナベル嬢もよろしければ是非3階にお越しください。絵を描いておりますので」
アナベルに笑顔を向けつつ、イーサンに「絶対だからな!」と強く念を押したフローリスは、2階に消えていった。
すかさず、建物の3階からは作家たちのアトリエになっており、今はそこで絵を描いている、とマンフレッドが説明を加えた。
「本当に強い方ね、色々と」
「………気に障った?」
「まさか!はっきり言ってくれる分、気が楽だわ。それに貴方が紹介する人だもの。いい人なのでしょう?」
長年の付き合いの中でアナベルが嫌がることをイーサンにされたことがない。アナベルが不快に感じる相手ならば、友人であっても会わせないだろう。つまり、今まで紹介してくれた人達はイーサン太鼓判の良い人達と言う訳だ。
アナベルの評価に、マンフレッドはイーサンに温かい笑みを向ける。
「仲が良さそうで安心したよ」
「…うん。おかげさまで」
イーサンは天井を見上げた。その目線の先には、おそらく友人のアトリエがあるに違いない。
「呼び出されちゃったから後で行かないと。拗ねるといつまでも引きずるから。アナベルは?」
「あとで是非」
まずは作品を堪能したい。レティシアがアナベルによく語っていた画家である。王都の屋敷に飾られていたこともあり、ポストカードや画集には目を通していたが、画廊で観る実物はまた貴重な経験だ。アナベルは1点ずつ、ゆっくり作品を見て回ることにした。
作品を一巡りしたイーサンは、先にフローリスの元へ行った。アナベルは作品の中でも背丈ほどある大きな絵を、椅子に座りながら眺める。
『画面いっぱいに繰り広げられる鮮やかな色彩が特徴的で、見ていて元気が出るのよ』
レティシアの言葉が思い出される。
実物が沢山並ぶ展示場ではまた印象が違う。美しいだけでなく、より強く、輝きが増している。
「綺麗…」
有名な画家の作品にももちろん興味はそそられるが、新しい作家や作品との出会いも得難い。イーサンの誘いに乗って良かったと、アナベルは充実感を抱いていた。
心が満たされたアナベルは、3階のアトリエに向かうことにした。マンフレッドに部屋までの行き方を尋ねれば、彼は案内を申し出た。アナベルは後をついていきながら、気になっていたことを質問する。
「フローリスさんが先程『イーサンから聞いた通り』と話をしていましたが、イーサンは私について何か話されていたのですか?」
「…あぁ!手紙や会った時に伺っていましたよ」
『乗馬がすごく得意で騎士団長の娘に勝ったことがある』『いつでも人当たりが良い』『周りをよく見ている』『上の立場であろうと、臆せず意見を言える』『家族想い』『負けず嫌い』
『まっすぐで、できることさえも努力を怠らない。尊敬できる女性なんだ』
「…イーサンったら」
今まで語られたアナベルについて、マンフレッドが振り返る。アナベルはその過大評価に顔を赤くした。イーサンが言うほどではない。後で間違いを伝えないよう念押ししなければ。
「大したことありません」
「僕はそう思いません。なにより、イーサンこそ思っていない」
マンフレッドの返答に、アナベルは思わず足を止めた。立ち止まったマンフレッドは、曇りのない笑顔を浮かべている。
「思えば沢山お話は伺っていましたね。それでも彼が貴女に恋慕を抱いていたことは存じ上げませんでしたが。婚約を結んだと手紙で知らされた時は、驚きのあまり思考が止まりました」
アナベルは黙って頷いた。アナベル自身、告白された時は思考が止まった。しかしこの数日間、一緒に過ごす間にイーサンの気持ちが嘘でないことは痛感している。幼少期から交流があるマンフレッドたちにすら気づかせなかったのだから、日頃から徹底して気を付けていたのだろう。
「婚約相手がアナベル様だと知り、イーサンが今まで沈黙を貫いた理由が分かりました。好きな人であろうと、相手がいる以上迷惑になるだけです。あいつは想いをそのまま墓場まで持っていったでしょう」
(…ぁ)
「今頃、フローリスから根掘り葉掘り聞かれているでしょうね。手紙が届いてから落ち着かなくて…アナベル様?」
「あ、いえ。何でもありません」
首を振るも、アナベルは当たり前の事実を忘れかけていたことに内心動揺していた。
婚約解消がされなければ、イーサンはアナベルに告白すらしなかった。
『なによりね、アナベル。息子が幼い頃から慕っていた貴女だから。一途に想い続けて、他の令嬢とは結婚はしない、とまで決めた息子の想いを叶えたいの。申し訳ないけど、貴女の不幸を利用しようとね』
レティシア夫人の言葉が思い返される。イーサンは独身を貫くつもりだった。1人息子にも関わらず、侯爵夫妻も、彼の祖父母も使用人たちも。キャンベル家、さらには関わっていた者たち全てが容認していたことになる。背中に冷たい汗が流れる。
(もし)
アナベルとロベールが婚約解消しなければ、彼らの未来はどうなっていたのだろうか。
「さすがに執念がすぎる!家族ぐるみって…末代までストーカー一家だと言われても文句言えないぞ!!!」
またもや突然声が響き渡り、アナベルは我に帰った。反論するイーサンの声も聞こえてくる。
マンフレッドが手招く部屋に入る。画材の匂いが充満し、床や壁には顔料がこびり付いている。あちらこちらに道具やパネル、異国の雑貨類が沢山置かれているが、想像よりも広々とした部屋だ。
その真ん中で、イーサンは両頬を指で摘まれていた。
「アナベル嬢、よく重い男の求婚をよく受け入れましたね!」
フローリスの声が部屋中に響き渡る。マンフレッドに落ち着くよう注意されるも興奮が止む気配はない。むしろ話の主役が2人揃った事で、ますます高揚している。
「お前な…容姿、家柄、性格、能力。ほとんど叶っている侯爵家の子息だぞ。僕だって選ぶさ。足りないのは筋肉ぐらいさ」
「確かに筋肉は足らん。そんな事より、そうなるよう努めてきたのが狂気なんだって!そもそもコイツ…!10年近くアナベル嬢を思い続けてるくせにおくびにもださず、友人として接してきたんだぞ!怖過ぎじゃないか?」
「そう言ってやるな。元々、気づいたら仲良くなってる系青年だろ?それでも他の貴族に比べれば最強格だ」
「まぁ成人過ぎて未婚、または後妻を求める貴族なんて大抵訳ありだ。それでもまさかお前が…あぁ!なぜ気づかなかったのか!惜しい!酷くいじれただろうに…」
「君たち散々言うね!!」
イーサンは叫ぶように声をあげた。自分のことではあるが、改めて突かれれば心中は複雑な模様。涼しい顔を浮かべる友人が、羞恥に耐える姿にマンフレッドもいたずら心が沸く。
「うーん…。今日は自重しようと思ってたんだが。色々と聞きたくなってきた」
「後で共有してやるさ!図説もしてやろう!!」
「本人の口から聞くのが1番面白いんだ。お前では誇張しかねないし」
「劇語りにしてやるよ。なら役者もつけるか」
「もう!アナベルが来たんだから画材とか見せてあげてよ」
次々と軽口を交わす3人の様子に、アナベルは珍獣を発見した研究者の気持ちになっていた。イーサンが感情のままに接する姿も貴重だが、特にフローリス。勢いが人間の姿で歩いていると言われた方が納得できる。マンフレッドも静かな方だと思っていたが、フローリスに引けを取らない。『癖が強い』とイーサンは紹介したが、かなりオブラートに包んだ表現である。
そんな彼らを見ていると、アナベルは自然と笑顔が浮かぶ。
3人の勢いに吹き飛ばされ、心のモヤは少し薄くなった。
その後、仕事があるマンフレッドが画廊に戻ると、画家の興味はアナベルにも向けられた。騒々しさは落ち着かなかったが、それでもフローリスは画材の使い方や、絵の描き方などをしっかり教えてくれた。絶えず話し続ける彼の肺活量と興味関心に感服する。
気がつけば窓から差し込む陽光が、影の色を濃く染め始めていた。
そろそろサイドハウス・ノアに戻る時間だ。
3人はギャラリーに戻る。最後にもう一度絵を鑑賞しようと、アナベルは部屋を見渡す。
「あら?」
「どうかした?」
「なんだか…3階の部屋と広さが違うように感じて」
「よくお気づきで」
マンフレッドは声を潜める。3人は体を少し寄せて、耳を澄ませる。
「実は隠し通路がありまして。3階以上はアトリエ部屋へ造り替えた際に、隠し通路は壊してしまったのですが。戦時中、地下防へ室内から逃げれるように作られたのが始まりなのですが、用途は地下への逃げ道や、財貨を運び出す隠し通路。ここ一帯は全て隠し通路有りの造りになっています。開発が進んでいる商業地区。戦後に建てられた建築物には備えられていないものが増えていますね」
やけに部屋に広さを感じた原因が判明した
アナベルはこくこくと顔を縦に振る。隠し通路。推理小説や冒険譚でしか馴染みのない単語に、心が沸き立つ。サイドハウス・ノアはどうだろう。ちらりとイーサンを見れば、天井を仰ぎ見ながら考えている。アナベルと目が合い、首を傾げた。
「帰ったら母さんに聞いてみようか」
「そうね」
イーサンがひっそり聞くので、アナベルも囁き返す。
「いや、何でつぶやくんだよ?」
そう言うフローリスの声も小さい。4人は肩を揺らした。
レティシア夫人への土産だ、と薄く大きな箱を渡された。大きなリボンが掛けられた贈り物を脇に抱えて、別れの挨拶を交わす。マンフレッドとフローリスは姿勢を正すと、軽く頭を下げた。
「アナベル嬢、イーサン。この度はご婚姻おめでとうございます」
「ぜひまたお会いいたしましょう」
「ありがとうございます。こちらこそ、これからよろしくお願いします」
2人に見送られ、アナベルとイーサンは画廊を後にした。
「画廊のオーナーと…マンフレッドと何を話したの?」
帰りの馬車の中、イーサンは友人の発言が気になっていた。
『足らないのは筋肉ぐらいさ』
イーサンは同世代と比べると背は高いが、筋肉が足りない、また付きにくい体質であった。さらに運動センスは良くない。時にフローリスすら口をつぐむレベルである。イーサン自身いっそ笑って欲しい話題で、親しい人たちには自虐ネタに上げることがある。「反応がしづらい」と言われるが、長く付き合いのある彼らは状況によって乗る場合がある。
マンフレッドはノリは良いが、いたずらに他人をいじる発言をする性格ではない。何かアナベルと話したのではないかと思ったのだ。
「フローリスさんがイーサンから私のことを聞いたって話をしていたから。そうだ貴方ってば私のこと盛って話して……」
「盛って?嘘を言ったことはない」
イーサンは頑として撤回せず、アナベルは口を尖らせた。
『いつでも人当たりが良い』『周りをよく見ている』『上の立場であろうと、臆せず意見を言える』『家族になって想い』『負けず嫌い』『空色の瞳と、髪が美しい』
「別に言うほどのことじゃないわ。誰もがやる…大したことないもの。特に最後」
(なんてことか)
イーサンは頭を抱えたくなったが、アナベルの前だ。グッと我慢する。
アナベルは謙遜が過ぎる一面がある。ベルナルド家の完璧・完全主義はアナベルの自己肯定感に大きく影響しているのだ。長く器用な元婚約者とその一家の中で過ごす内、努力しなければいけない自分を下に見るようになってしまった。自分ができるなら、他の人もできて当たり前だと、強く強く思い込んでいる。
個人的な相談をするほど信頼しているイーサンの言葉すら、受け付けなくなるほどに。
「そんなことないよ。私はきちんとアナベルを正確に現した。だからフローリスだって私の言う通りだと。…それに、君の美しい髪は令嬢たちの間では羨ましがられているんだよ?」
「…聞いたことありません」
アナベルは姿勢を正し、イーサンをまっすぐ見据えている。彼女も頑として認めようとしない。
イーサンは頬を少し膨らませた。実際、アナベルには令嬢ファンがいる。イーサンの友人の妹もその1人だ。だが陰ながら応援する令嬢たちばかりで、アナベルは気づいていない。
「君のファンは奥ゆかしい人たちが多いんだ。それに、君が大したことないなんて言ったらニコルはどんな顔をするのか」
「うっ」
生徒会長であるニコルとアナベルが出会ったのは、12歳の時。彼女が参加した馬の障害物競技会。子供部門で参加し、僅差でアナベルが1位を獲得した。アナベルは当時から謙遜していたが、敗れ悔しさに泣いていたニコルに怒られたことがあった。
『勝ったんだから堂々としろ!私にも、馬にも失礼だ!』
今でもアナベルの自己評価を下げるような態度は改めるよう言う時があるぐらいだ。そんなニコルが、先程のアナベルの発言を聞けば烈火の如く怒り出したに違いない。
ニコルの名を出せば、案の定アナベルは呻いた。
「それはまた話が違うわ…」
「違わないよ」
アナベルはモゴモゴと口ごもる。勢いが削がれ、明るい青色の瞳は自信なげに伏せてしまった。
(やり過ぎた)
イーサンはアナベルの顔を覗き込む。手元を見ていた瞳はゆっくりと上がり、イーサンに向けられた。
「ねぇアナベル。私は"得意"や"出来ること"は言ったほうが嬉しいと考えているんだ」
「嬉しい…?」
「歳を重ねると『できて当たり前』って考えがちだし、他の人と比べがちだけどさ。何かできるようになるとさ、心がワクワクする。口に出せば、本当なんだって実感できて嬉しくなるじゃないか」
イーサンはにっこり笑う。
「これはわがままだけど、アナベルからもっと『できた』っ言葉が聞きたいな」
「…子供みたい」
唇を尖らせ拗ねる想い人に、イーサンは言葉を重ねる。
「歴史から見れば誰だって赤ん坊だよ。私なんていまだに朝きちんと起きれて褒められる時あるからね」
「…反応に困るわ、その例は」
「……笑い話なんだけどなぁ」
上手く話を締めることができなかった。
イーサンは頬を掻く。車内の雰囲気が一気に和らぎ、アナベルはたまらずといった風に息を吐き出す。彼女はそのまま窓に目を向けた。外は日が傾き、黄金の空と青々とした森が広がっている。強い日差しが差し込み、イーサンは目を細めた。
「…けど、そうね。そっちの方が、楽しいかも」
アナベルがポツリと呟いた。まだ完全に腑に落ちていないのがありありと見て取れるが、彼女自身、今の話に思うところがあったよう。ムキになり過ぎたとイーサンは反省する。今後はもっと慎重に、言葉と状況を判断しようと心に決める。
「うん。楽しいよ」
イーサンの返答に、彼女はようやく微笑んだ。
フローリスより渡されたレティシア夫人へのプレゼントは、アナベルとイーサンの絵であった。横に並ぶ2人は、満面な笑みを浮かべ、見ている者を自然と笑顔にさせる力があった。
確かに部屋の中は絵の具と油の匂いがしたが…いつの間に描いていたのか。全く見当がつかず、絵の主役になった2人は顔を見合わせた。
「サイコーォ!」
推しの画家が描いた、愛する息子と義理娘。サイドハウス・ノア中にレティシアの声は響き渡り、祝い事かと勘違いした料理人たちが張り切った夕食はまた豪勢なものであった。

